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正義のメッキを剥がして本当の姿を見ていく

4月16日の10時56分に牡羊座新月となりました。今回の新月は天王星と並んで起きています。天王星は2011年3月12日、東北大震災の翌日に牡羊座へと移動し、今年の5月16日には牡牛座へと移動します。そのことについて、かとうゆかさんは以下のように表現しています。

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天王星と牡羊座の新月。

天王星といえば、7年間牡羊座にあったわけですが、来月の中頃に牡牛座に移行し、ここから7年間牡牛座にとどまります。

この新月は、天王星の7年間のサイクルの総仕上げ。私たちは7年間かけて、「自分」というものに革命を起こしてきました。

「自分」の本来の持ち味や、情熱を阻害する全てから脱却しようと取り組んできた7年ではないでしょうか?

何のために生きているのか?

という問いから、

人間関係のリセットを行い、属する分野やカテゴリー、環境などから脱出する決意を持った人も多かったのではないかと思います。

「自分」を偽ったり誤魔化したり制限したりする、あらゆるものを取り壊していく革命を起こすような7年間。

ある人にとっては、間違ったルールで縛りを設ける古い体制の会社や環境に対して、No!を突きつけた実機もあるかもしれません。

しかし、壊すべきは自分。

古い体制の物を壊すのではなく、古い体制のものの中にいとどまり、自ら自由に生きる世界をクリエイションするためのチャレンジができない自分を壊していくことが重要です。

革命という言葉を聞くと、他者や社会に向けて改革を起こしていくイメージを持ちがちですが、自分の生き方が革新的であることでしか、社会を変えることはできません。社会を変えたり、誰かを救うことができる人は、自分を変え、自分を救った人だけです。手を差し伸べ誰かを救うために立ち止まり取り組むのではなく自分が率先して自己改革を進めることによって、同じように自分を救う自立した人への刺激を与えることでしか、人を本当の意味で救うことはできません。

自分でしか自分を救うことはできません。

自分が誰かを救うことはできない。

自分が自分を救う方法を体現して見せることならできる。

そこから目を背け、自分の人生へのチャレンジよりも、誰かの人生に意識が向いてしまうことを本気でリセットし、潔く、言い訳も、回り道もせず、自分の人生に本気で取り組むための決意を固めるのが、今回の天王星と重なる、牡羊座の新月です。

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そんな牡羊座新月の夜、木の花ファミリーではいさどんからここで暮らす意味を再確認する話がされました。その話から僕が感じたエッセンスは以下の通りです。

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生きることの目的は変化変容を繰り返すこの宇宙の流れに沿って生きること。木の花ファミリーの暮らしはその先駆け。一人ひとりの人生の意味は、流れに沿う中で明らかになっていく。そのために出会う出来事に心を開き、今までの自分が生み出したものとしていただいていくこと。環境と響き合って変化していく。そういう心を一人ひとりが創り上げて、みんなでひとつの世界を表現していく。

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変化変容を繰り返すことは今の自分を壊し続けることです。

ちなみに2010年12月、天王星が牡羊座に移動する少し前、僕は以下のような状態にありました。

☆彡 ☆彡 ☆彡 (2010年12月7日に書いた言葉)

メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。
自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。
そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。
結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。
剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。
そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。
僕の心はもうすでに僕だけのものではない。
はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。
ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

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メッキの奥にある本当の自分にメスを入れ始めた瞬間です。そしてそれが出来たのは木の花のみんながいたから。みんながいたから自分の責任に気づくことが出来ました。みんながいなければ僕は自分が生み出す苦しみに埋没し投げ出していたと思います。

人は出会う出来事を通して自分を知り、出会う出来事を通して変化していきます。

それは自分の思考や思惑、想像を超えたもので、世界が人を生かし、世界が人を変えていくのです。大切なのはその流れに沿っていく意志を持つことです。

あれからほぼ7年。天王星が牡羊座にいる間にそんな意志を育んできました。その意志は生きる上での根本姿勢と言えます。

そして一昨日、陶芸小屋に行った時、興福寺の阿修羅像のチラシを見たことから阿修羅について知りたくなり以下のような文章に出会いました。

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古代インドの神々を統率していた神は帝釈天といい、阿修羅(あしゅら)は統率されていた一神格です。

阿修羅には舎脂(しゃし)という娘があり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていましたが、そうとは知らない帝釈天は舎脂を力ずくで奪い、凌辱しました。怒った阿修羅は帝釈天に戦いを挑みました。

一方、舎脂は、戦の最中にも関わらず、逆に帝釈天を愛してしまい、阿修羅はそのため更に逆上し、争いは天界全体を巻き込む大戦乱となりました。

このため阿修羅は復讐に燃える悪鬼とされてしまい、勝てる筈もなく敗れた阿修羅は天界から追放されてしまったのです。

ところで、阿修羅と帝釈天はどちらが正で、どちらが悪でしょうか。

阿修羅は我が娘を陵辱した相手を懲らしめようとしたのであり、帝釈天は他神の娘を陵辱したのですから、阿修羅は正しく、帝釈天は悪であるはずです。

しかし、阿修羅の娘である舎脂は帝釈天の正式な夫人となっていたにも関わらず、戦いに目を奪われた阿修羅は相手を赦す心を失ってしまったのです。

つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となってしまうという教えを読み取ることができましょう。

仏教では死後に生まれかわる世界を六道世界(天界・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)と説きますが、天界を追われた阿修羅は、正義を振りかざす妄執の悪鬼として人間界と餓鬼界の間に置かれたとされています。

地獄・餓鬼・畜生よりはましだが、復讐の鬼となっている姿は人間以下だという意味が込められているのでしょう。

興福寺の国宝・阿修羅像は有名ですが、あのお顔はどこか神経質そうな顔をしています。


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たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる

これはとても大切なメッセージだなと思いました。人は正義に側に立つとそれで「善し」にして自分を見なくなります。ですが、その正義は絶対的なものではなくあくまで自分の視点から見た正義です。先日、アメリカ、イギリス、フランスが正義を主張しシリアを攻撃しましたが、ロシアは別の正義を主張しています。お互いが正義を主張した結果争いへと至っています。正義はメッキのようなものです。その奥には汚い心があるため争いへと至るのです。

今、世界は正義のメッキを剥がし本当の姿を見ていく必要があります。そしてそのためには出会う出来事と謙虚と向き合う必要があります。だから僕は一人分その実践をし続けます。それはきっと本当の幸せへと至る道となっていくことでしょう(^-^)

木の花ファミリーの暮らし(ウェルカムコンサート)です。


響きを感じるようになれば・・・

生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。




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この世界で出会う出来事は自分に相応しく与えられていて、そしてそれを生み出しているのは自らの「思い」が持つ響きです。響きは思考や理屈を超えたものです。だから時に頭では理解出来ないことが起きるのですが、自分の響きを感じることが出来れば、それは相応しく与えられていることが分かります。

こんなはずではない。これは○○のせいだ。

こんなふうに思うこともあるかもしれませんが、それは出来事を、思考の枠から理屈で見ているからで、世界は常に思考の枠を壊してくるのです。

昨晩の大人ミーティングでは、いさどんカタカムナで「国(クニ)」を読み解き、それは「自由(ク)が定着した(二)場所。つまり至るところで変化変容が起き続ける場所」と語りました。そして概ね以下のように語り続けました。

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自由であることが生きることの本質です。そしてその後に「自在」という言葉が続きます。自由であるとは、好き勝手に出来るということではなく、変化変容するこの世界に合わせて自分を変えていけるということなのです。

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そんないさどんの言葉を受けて、以下の文章を思い出しました。

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宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。

けれども、人間が自分を手放し、自由にしてあげると、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神です。宇宙は、この世界をどんどん変化させています。それは、無限の宇宙の中で、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。


波動が高いということは、壊れるということ」より


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「いただく」とは古いものを捨てること、つまりは壊れ続けることなのだと思いました。生きるとは自らの思いを表現し、その響きを発することです。すると世界はその響きに相応しい響きを返します。それが僕らの出会う出来事です。僕らと世界は響き合っています。出会う響きに心を開くことで今の自分の響きが壊れ、新しい響きが生まれます。こんなふうに常に新しい響きを生み出すこと、それが自由自在ということです。この時、自分の思惑や思考に囚われていると響きを感じることが出来なくなります。そして思わぬ出来事に苦しむようになるのです。

ということで、ここで2014年の年末に書いた文章を紹介します。

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僕はこれまでずっと自分の物語を生きて来ました。


それは「世界が僕を変える」や「世界と一緒に変化を楽しむ」に書いた英雄物語だったり、「僕といさどんと木の花ファミリー」に書いた「虐げられた状況から逆転する物語」だったりします。その自覚はずっとあって、それを意識的に変えようと努力を重ねてきました。ですが、それらの努力は功を奏しませんでした。僕は変わりませんでした。

そんな中、今年の9月24日、このBLOGを立ち上げました。タイトルは「木の花ファミリーの経済から世界を見る」。「世界を見る」とタイトルをつけたからには、そこに書かれるものは、世界を意識したものでなければならない。そんなふうに思いました。そして普段から世界で起きていることと木の花ファミリーの暮らしを繋げて考えるようになりました。そうすることで、この暮らしの意味をあらためて感じることになりました。そして、その意識を保つために一定のペースでこのBLOGを書き続けました。

すると大人ミーティングが今まで以上に面白い場となってきました。そこから世界が見えるのです。そんな大人ミーティングの場で、12月の初め不思議な体験をしました。その時、いさどんがみんなに向って語っていたのですが、僕は天から暖かいエネルギーが降り注ぐのを感じたのです。いさどんの話が天の扉を開き、そして、天からエネルギーが降り注いでいたのです。そのエネルギーはとても大きく暖かいものでした。僕はこの時、初めて天の存在を感じました。ずっとあることを知っていた天の存在をリアルに感じたのです。この日から僕は天に意識を向けるようになりました。

天に意識を向けると、自分の感情や枠を超えることが出来ます。自分から自由になって、天の温かさを感じることが出来ます。それがとても心地よく毎日がとても幸せなのです。そんなふうに過ごしていると、周りから「変わった」と言われるようになりました。

このBLOGを立ち上げた時、僕は別に「変わろう」とは思っていませんでした。ただ広い視点を持つことを心掛けて毎日を過ごしていました。その結果、僕はとても幸せになりみんなに変わったと言われます。一方、僕が意識的に変わろうと努力した時、僕は変われなかったし、あまり幸せにもなれませんでした。

その違いは何か?

僕が意識的に変わろうとした時、僕は自分の変わる姿をイメージしていました。評価される自分、出来る自分をイメージしていました。要は自分がかわいかったのです。そして、自分に囚われていました。その囚われが僕の変化を邪魔していたのでしょう。

今は自分に対するイメージは持っていません。「どうなりたい」という思いもありません。ただ、天を意識し感じ続けること。それが僕の一番の望みで、それだけ出来ればよいのです。だから僕はこれから何があってもずっと幸せだろうなと思います。

僕を変えて幸せにしてくれたのは世界であり、天です。自分では幸せになれませんでした。だから、これからは天の物語を生きていきます。それは僕を幸せにし、そしてみんなを幸せにする物語になるのだろうなと思っています(^-^)



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人が本当の意味で変わるということは、表面的な行動を変えることではなくて、「思い」の響きが変化するということです。そして、それは変化変容を繰り返す世界に心を開き響き合うことで変化していくもので思惑や思考を超えたものです。未来は常に未知なるものでどうなるかは分かりませんが、響きが変化すれば、思考や行動もおのずと変化していきます。そして、だからこそ未来に希望があるのです。

世界各地で続く紛争や戦争、大気汚染や海洋汚染、そして気候変動など。今の世界には、人智では解決不可能と思えることは多々ありますが、響きは人智を超えてこの世界に影響を及ぼし思いもよらない出来事が生まれます。だから何が起きても常に希望はあり続けるのです。

思惑をもって暮らしていると、人は思わぬ出来事に出会い苦しむようになります。ですが、思惑を手放し思考の枠を壊し続けると、人は思わぬ出来事を楽しむようになります。

響きを感じるようになれば、この世界は常に希望に満ちています(^-^)

僕の響きで出会った木の花ファミリーの子どもたち、今、共に響きを生み出しています。

「後ろめたさ」をきれいにすると・・・




4月9日の夜、大人ミーティングで「21世紀の死生観・序章~魂のランキング」をみんなで共有しました。一人の人間の人生は母親のお腹の中から始まりますが、その始まりについて上記の文章では以下のように表現されています。

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女性は、自らの体の中にもうひとつ、神殿を持っています。それは子宮です。子宮とは、「子の宮」と書きます。そこに魂が宿り、御神体として、産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、生まれてくるのです。それはとても美しい、神聖な物語です。
ところが現代の人々は、間違った認識の性により、その神殿を汚しています。神殿とは、人生そのものを表現する場です。そこにどのようなものを迎え入れて、何を育んでこの世界へ送り出すのか。それによってこの世界が創られていくのです。
性の交わりは、私たちが神社へ行ってお参りをするのと同じ、神聖なるものです。愚かな精神によって営まれる行いは、その神殿へ、汚物を迎え入れることにもなります。子宮という、命を生み出す神殿へ、どのようなものを迎え入れるのか。その神殿の管理人は、女性たち一人ひとりです。ですから女性は、とても重要な役割を担っているのです。

その神殿に宿った命は、十月十日(280日)の細胞分裂を経て、人として社会に生まれ出てきます。始めの細胞は、単細胞です。そこから複雑な細胞へと分裂し、やがて海に生息する魚類に進化します。ですから子宮の羊水は、古代海水と成分が同じと言われています。やがて魚類から陸へ上がって両生類となり、爬虫類へと進化します。爬虫類は鳥類と哺乳類へ分かれ、哺乳類の進化は猿へとつながっていきます。そして猿は猿人へ進化し、人類の祖先であるホモサピエンスとなっていくのです。
この受精から猿へ、猿から人へと変化していく過程は、約30億年の生命の進化の上に成り立っています。子宮の中でその進化の過程をたどり、人となった私たちは、最初に通った産道(=参道)を通り、鳥居をくぐって、人間社会へと旅立っていくのです。そして人生という世界の鏡を通して、自分自身を悟りながら、学び、成長していく旅が始まるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

母親の胎内で30億年の生命の進化を辿った後、人は産道(=参道)を通り、この世界に誕生します。そして、この世界で出会う出来事を通して自分を知っていきます。上記の文章ではそのことを以下のように表現されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

 ~ 中略 ~

神社へ行くと、御神体として、鏡があります。鏡には、自分の姿が映ります。しかしそれは、神の姿ではありません。それは自分が映ったのです。

人生という旅の中では、常に、自らが発したものが自らに返ってくるようになっています。自らが注文したものが、あなたに届けられるのです。神社へ行って御神体と対面しても、そこで自分自身を見ることになります。鏡に映った自分自身の顔を見てください。どんな顔をしていますか?しかめっ面でしょうか。ニコニコしているでしょうか。そこに映った姿から、いろいろなものを感じるでしょう?私たちにとって人生とは、この世界という鏡に自らの姿を映し、それを観て、自らを悟るということなのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界で出会うことはすべて自分自身の顕れです。では遠くの国で起きている戦争などはどうなのか?自分の責任と言えるのだろうか?大人ミーティングでいさどんからそんな問い掛けもされ、みんなで「そうだ」と確認をしました。

それでこの問い掛けから今あらためて思うことを書いてみようと思いました。

ヒトが誕生する時、胎内で30億年の進化を辿るという事実は凄いコトだなと思っています。十月十日(280日)に生命30億年の歴史が凝縮されているのです。ヒトはみんな、その進化を経験して誕生してきます。ということは、今という瞬間に生命のすべての歴史が凝縮されている。そんなふうに感じました。

ヒトは生まれることを意識的に選択することは出来ません。気づいたら生まれています。それは世界に生み出されたともいえ、僕らが生きているのはこの世界に生かされているからです。そしてその背後には生命の全歴史があります。自分自身も遠い国の戦争も生命の全歴史の中から、今、生み出されているものであり、だから同じものを共有しているのだと思いました。

今、多くの人にとって人生の始まりは穢れたものとなってしまっています。そのことについて「正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理~性と宇宙」では以下のように書かれています。

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「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。

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近代以降、人々は社会を発展させ自我の欲望を満たしてきました。自分の我欲を満たすことをお互いに認め合ってきたのですが、心のどこかにそれは悪いことという意識も生まれ、性を穢し、自らも穢してきたのではないかと思います。

人々が物質的豊かさを求めた結果、空気汚染や海洋汚染が広がり住み難い世の中になろうとしています。それと同じことが人間にも起きていて、自らの我欲を追い求めた結果、自分自身の尊厳を穢し、生きることが後ろめたく辛いものとなっていくのではないでしょうか?

加計学園、森友学園、自衛隊の日報。今、ニュースでは政府の信頼を揺るがすような事件が報道されていますが、そこには人間の我欲と後ろめたさを感じさせます。

我欲と後ろめたさ。

そこから歯車は狂い、いろいろな問題が発生する。それは個々人の人生にもあり得ることで、そういう心をきれいにしていくことで、自らの人生に誇りを取り戻し、結果、世界も変えていくのだと思っています。

遠い国の戦争も。

その奥には人間の我欲、そして後ろめたさがあるのではないかと思います。原因はそれだけとは言いませんが、きっとそういう要素もあって、だから自分一人分そういう心をきれいにしていこうと思っています。

そして、後ろめたくない健全な欲というものもあって、それらはきっと出会う出来事をいただくことでおのずと満たされていくものです。一人ひとりがそんなふうに生きていく時、きっとこの世界は天の流れの下、調和していく、そんな未来へ向けて自分を知る旅を続けていこうと思っています。

鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)

1月27日に行われた富士浅間木の花祭りは鬼が主役の祭りであり、鬼の舞を柱として人々は様々な舞を神々に捧げます。そしてその中心となる物語は二つの問答に表現されています。まず一つ目は「榊鬼(さかきおに)と翁」との問答です。


榊鬼(左)と翁

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【榊鬼と翁の問答

   
やいやい 伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。ところは当所の氏大神。神の稚児(わかご)の舞遊ばし給う木の花の御庭を。事どもしき姿(なり)をして舞荒らすは何たら何者にてさむらう。

榊鬼  
吾が身が事にてさむらう

翁   
なかなか、汝が事にてさむらう

榊鬼  
此れさかきと申するは、比叡の山の大天狗。愛宕山の小天狗。
山々嶽だけを渡る荒みさき荒天狗とは 吾等がことにてさむらう。

   
事にて さむらうは何万歳をへたるとや

榊鬼  
八万歳をへたるとや。そう云う者は何万歳をへたるとや

翁   
法は九善 神は十善 神の位をもって十二万歳をへたるとや。
神行の為には榊を引いて帰れ。為でなくば引かれまい。

榊鬼  
まことか

翁   
まことに

※榊鬼と翁は榊を引き合う

榊鬼  
この榊と申するは 山の神は三千宮。一本は千本。千本は万本と。
千枝(ちえだ)百枝(ももえだ)までも惜しみ給うこの榊を、だれが許しを得て切り迎えとったるとや。

   
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間。
所は当所の稚児のさくやの御為として切り迎え取ったとや。神行の為には榊を引いて帰れ。この榊を引き取ったならば、是より艮、木の花の富士の山が立ってまします
それを汝の褒美にとらす。

榊鬼  
まことか

  
まことに

※両者にて榊の枝を引きながら
ありがたや まことの神行か
扱いても扱かれぬ 引いても引かれぬこの榊

※二人で榊を引き合い翁が勝ち、取った榊を窯の湯に投げ入れる
負けた榊鬼は、再び丑寅の富士の山の奥に隠れる

☆彡 ☆彡 ☆彡


この問答についていさどんは以下のように語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

鬼は本来、道理を伝える天の存在であり、忌み嫌われているのはその厳しさからです。


榊鬼は、天の代表。翁は、人間の代表です。
人間はとても優れている。だから榊鬼は八万歳で、人間は十二万歳だと言っています。
そして翁は、地上の支配権を人間に明け渡せと言うのです。
そこで翁と榊鬼が榊の枝を引き合い、人間が勝ちます。

富士の山を褒美にとらすとは、その方角に引き下がれということであり、
つまり封印されたということです。

しかし、封印された後も、榊鬼は人間がどうするかをずっとみていました。


ずっとみておったぞ。しかし、変わらぬではないか。
変わらないどころか、ひどい有り様ではないか。

そこで榊鬼が、艮(うしとら)の金神となり、世に現れるのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ということで二つ目が「金神様と翁の問答」となります。

金神様(左)と翁

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金神様と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。


☆彡 ☆彡 ☆彡

この問答についてはいさどんは以下のように語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

金神様は、逆さまの世をひっくり返すぞ、と言っています。
そして、人間である翁との問答が行われ、地上の支配権が天に返されるのです。

この時に翁は、根付きの榊を金神様に渡します。
それはつまり、根っこから、心の底から、
この世界を天に明け渡します、ということです。


明け渡すというのは、ただ単に返すのではなく、
これからは神人一体、天地一体となって
この世界をつくっていくということです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花祭りではみんなが空っぽになって舞い踊ることにより、人々は神の依り代となり穢れを祓い清め新しい生命として再生していきます。それは、自らを明け渡すことにより自らを生み出している大いなる存在と一体となる瞬間と言えます。

ところで、2月3日は節分、そして2月4日は立春正月です。節分と立春について杉山開知くんは以下のように書いています。

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春のはじまりであると同時に、春夏秋冬の「四季 Season」のはじまりでもあります。もともと節分は立春・立夏・立秋・立冬のそれぞれ前日で、四季の分かれ目を意味する日でした。なかでも立春の前日は春夏秋冬の終わりとなる特別な日であるため、1年の最後に邪気を払い、願掛けをする行事が盛大に行われ、年4回の節分は薄れて、次第に立春前日を節分とするようになったようです。

立春前後のこの時期は、旧暦を使っていた明治以前は、特に新年という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年の節目として大きな意味を持っていました。


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節分は邪気を祓う時。木の花祭りがこの時期に行われるのはまさにそのためです。邪気を祓う際、世間一般では「鬼は外、福は内」と言いますが、これは「榊鬼と翁の問答」で表現されている人間と神の関係と言えます。人間は鬼を封印し、地上の支配権という福を手に入れました。人々は自分たちの都合の良い社会、そして規則を生み出し暮らしていますが、その結果が分断や対立の広がる社会となっています。2年前のこの時期、元プロ野球選手の清原が逮捕されましたが、そのニュースを受けていさどんは以下のように語っています。

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鬼は外、福は内。

これはご利益を求める気持ちから出る言葉で、人々は自分に都合の良い福を求めます。ですが、福を求めても大抵は叶いません。それは自分を顧みることがないからです。それでも都合の良い福を求め続けることが、この世界に混乱をもたらしているのではないでしょうか?

昨日、プロ野球選手の清原和博が覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕されました。多くの人々があこがれる野球のスター選手だった清原。それは求める福が叶った状態とも言えます。ですが、内面は苦しみを抱えていたことが伺えます。そして、スター選手の陰には多くの挫折した人々の存在があるのです。

人間性の伴わない幸運。それが人々や社会に何をもたらすのか?スターを求める人々の心理が清原の状態を生み出したとも言えるのです。清原の存在はまさに時代を象徴しているように思えます。

鬼を内にいれて、自らを正し、その結果、福が来る。

そんなふうに生きる時、ずっと幸せに過ごすこと出来るのです。

鬼は外、福は内。

それは大切なものが逆さまになった言葉です。

だから苦しみが生まれ続けます。

今、世の中がひっくり返る時が来ているのです。


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鬼は内、すると心がきれいになって福が来る。

この言葉は「金神様と翁の問答」で表されている世界です。根っこから、心の底からこの世界を天に明け渡す。それは何が起きてもいただく心を育むことであり、その時、思いもかけない出来事に出会い、世界は無限に広がっていくのです。

だから空っぽになってこの世界で舞い踊りましょう。

そして、神人一体、天地一体となって、この世界を創っていきましょう(^-^)

木の花祭り「四つ舞」、みんなで舞い踊っています。

人生とは場創りである

大切なのは場創り。富士浅間木の花祭りには外からもお客様が訪れます。その人たちに来て良かったなと思って貰えるように、何かを感じて貰えるようにすることが大切です。そのために僕たちは極めていくのですが、それは単純に技術的なことを究めていくのではなく、心を究めていくのです。

「大切なのは心だね」

そのことが伝わるように日常をしっかりと送り魂を込めていくのです。

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これは木の花祭り開催前のいさどんの言葉ですが、この言葉を聴いて、場創りとは他者のために生きることであり、人生とは場創りなのだと思いました。

「場が人を癒す」ことがあります。そんな場所についてカタカムナでは「イヤシロチ」と呼ばれていて、船井幸雄さんの著書『イヤシロチ-万物が蘇生する場所がある』では以下のように説明されています。

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「イヤシロチ」というコトバを御存知ですか。「イヤシロチ」に対するコトバを「ケガレチ」といいます。この二つのコトバは、これから流行語になりそうに思います。
 イヤシロチというのは、ほとんどの人や動物、そして植物がそこにいると気分のよくなる土地、いわゆる癒される土地のことなのです。
 ケガレチは、その逆の土地のことで、ともに語源は古代日本人(カタカムナ人)が使っていたコトバから出てきた…といわれています。(転載終了)


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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。

そんなことを確認し臨んだ木の花祭りが1月27日に開催され、みんなで一つのうねりを生み出しました。このお祭りには世界各地(海外21ヵ所、国内79ヵ所)からご清水を送っていただいていますが、祭事の前にはそれらを釜戸の中で融合させます。今回その儀式を行った後、ひろっちは以下のような想いを発信しています。

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先程、かまちゃんサポートの元、世界各地、日本全国から届けられた清水を、釜にて融合させていただき、ただ今火にかけて温めています。
 
いつもの事ですが、この瞬間は、何とも言葉で言い表し難いものがあります。
 
世界中、日本中の神々様、精霊様達がここ富士の麓にお集まりになり、一つに融合していくのです。

空を飛び海を渡り、陸を通って、遥か遠くの精霊が集まっておられるのです。
 
釜の中の水は、何処からどう見ても一つです。

そこには堺も何もありません。完全に一つに解け合い混ざり合っているのです。

まさに世界が一つになっていく弥勒の世界を完璧に表現しています。

そしてそこにはそれを届けてくださった沢山の皆様の想いも入っています。

この祭りの意味に賛同する人の想いが祈りが願いが集まり、そして一つになっていきます。

手に取り、釜に注いでいく一つ一つの水がとっても重いです。
その様を目の当たりにしてシビレます。あまりに尊くて、そして有り難くて涙が出ます。
 
本当に痺れます。
何とも大切な事をさせられていると実感します。
 
ありがとうございます。
ありがとうございます。
勿体のうございます。
 
惟神(かんながら)たまちはえませ

でわ舞庭で会いましょう。



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釜戸で融合され「弥勒の世界」を表現するご清水は、祭りのクライマックス「湯ばやし」の舞で湯だわしを使い一斉に振りまかれ場を清めていきました。そして、祭り終了後には湯だわしを絞ったご清水を川に流しましたが、それによりご清水は「調和の響き」を持って地球と一つになっていきました。

祭りでは様々な個性、役割の人がご清水のように一つに溶け合ってうねりを生み出しますが、それがこの空間をイヤシロチにしていきます。場創りということに関して言えば、個人的には至らないところはありましたが、みんなが生み出したうねりがそれを洗い流し大きな動きを生み出していきました。みんなで一人一人の未熟を超えていく。それは世を治めるマツリゴト(政)にも求められることであり、毎年のことながらこのような場を生み出し続けること、そして広げていくことの大切さを改めて感じました。

木の花祭りは年の一度の晴れの舞台ですが、晴れの舞台を生み出しているのはその準備であり、そして日々の日常です。日常が晴れの舞台に奥行を与えているのです。だから毎日、何でもないように思える日でも場創りを意識することが大切なのです。それは今、自分がいる場に何をもたらしているかを自覚することから始まります。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

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上記は昨年の収穫感謝祭にていさどんが語った言葉ですが、木の花祭りも同じ目的の下に行われています。毎日を健全に生きて、この場に美しい響きを生み出し、それを社会に広げていくのです。祭りの場で一つに融合し、そして世界に還っていくご清水はその象徴と言えます。

だからこそ日常から魂を込めて生きること。そしてみんなと一つになっていくこと。そのことを忘れずに成長し続けて、それが更なるうねりへと繋がっていくように。心掛けて生きていこうと思っています。

人生とは場創りである。

それは今この場に一人一人が美しい響きを響かせることです(^-^)

「湯ばやし」です。



融合したご清水が場に振りまかれ場を清めました。

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