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敵は自分であり有難い存在となる

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

これは古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの言葉。
風呂場の日めくりカレンダーで目にしました。

この世界は自分の鏡と言います。

敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです。
敵と向き合うことは己と向き合うことになり、
そのためそこから多くの学びを得ることが出来るのでしょう。



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上記は昨年の3月に書いた言葉ですが、この言葉を見た時、「敵も自分だよな」ということを思いました。大きな視点で見たら、この世界は天の意向によって動いていて、自分も相手も役割を果たしているだけで、奥を辿ればすべては一つなのです。だからこの人生で出会うものはすべて自分と言えるのです。

そして「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

ということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということですと書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。

そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。

このようにみんなで成長を続けていたら、みんながみんなの好敵手となり成長し合い不毛な争いはなくなっていくのでしょう。敵の存在を認め尊重すること。その心が平和への第一歩となり人類の目覚めへと繋がります。それは暗闇の中に立ち上がる光の柱となっていくでしょう(^-^)



積極的に自分を探求するために夢を描く

1月2日スーパームーンと富士山(ちなっぴ撮影)です。

2018年の振り返って書く2018年の目標という記事を読みました。この記事では今年1年を通して引き寄せたい、現実化させたい未来の出来事を手帳に書くことを勧めています。以下、一部引用します。

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過去形で未来のことを書くことに違和感を感じる人もいるかもしれませんが、なかなか集中できない人へのオススメの書き方は、自分が未来にタイムスリップしていて、2018年の目標を書くなら、2019年のお正月に2018年の振り返り日記をつけている感覚で書くと良いかもしれません。

1年後の自分が、この1年間を振り返った状態。

1年後の自分はどんな自分となっているのか。

やりたかった、あの夢は叶っているのか。

どんな人が身の回りにいるのか。誰が一番近くにいるのか・・・。

「冬はこんなことがあったなぁ・・・」

「秋にはこんなことも始まって・・・」

2018年も半分が過ぎた頃には、予定通り目標も半分達成して・・・」

すべて、妄想で良いので、とにかく書くときだけでもいいから、意識を未来にタイムスリップし、過去を振り返りながら2018年に実現したいことを過去形で書きます。

自分の過去の経験上、何でもかんでも願望が実現するわけでもなく、それでも70%くらいは実現します。

実現しなかった目標は、ちょっと早すぎて、その翌年に実現したり、また頭で考えた願望は実現しにく、心がワクワクと踊る中でインスピレーションで降りてきた目標や数字は、現実化しやすいです。

だから、なるべく目標を書くときは、自分の心がリラックスしていて、頭ではなくハートに意識を持っていきながら、思いのまま浮かんだことを過去日記を書くようにすると良いと思います。

はたから見たらバカみたいなことですが、どれだけバカになって自分自身を信じれるか・・・信じるといえば綺麗ですが、自分を騙せるか、自分を洗脳できるかがポイントです。

潜在意識や脳は、一度設定したら、それを実現するために、フル回転で起きている時も眠っている時も稼働しています。

「そんなこと自分には無理」

いつも伝えていますが、自分に自信がない人、自分を否定する人は、一体どの自分を自分と思っているのでしょうか。

顕在意識、人間の脳、DNAにしても、使われているのは数%程度。

未知なる可能性が無限に近いほど誰にでも残されているのに、僅かに知っている自分をすべての自分と思い込み、自分で自分を制限してしまっています。

90%以上の、まだ見ぬ自分。


自分が知らない自分があることを認識するだけで、無限の可能性の扉が開かれます。

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この記事を読んで自分も実践してみることにしましたが、これは願いを叶えること、思い通りにすることが目的なのではなく、天との対話なのだと思いました。目標という形で想いを天に投げてみる。そしてそれがどのように展開するかによって自分を知っていくのです。

今、世界は様々な分野で行き詰まりを迎えていますが、それは人間が思い通りの世の中を生み出そうとしてきた結果です。自らを分けると書く自分。そこから生まれる自我は世界から自分を切り離し際立たせます。その動きが行き過ぎたものとなり人々に分断や対立が生まれているのです。

大切なのは、自我の動きを超えることです。目標や願いを書く時、自我の想いを叶えようとするならば、叶ったとしても、それは社会や自分の混乱を深めていくだけとなります。だから実現不能に思えるようなことを思い切り書くといいのだと思いました。その後はそれを手放し日常をただ真剣に送るのです。そしてそれがどのように展開するかで自分の心を知っていくのです。積極的に自分を探求する姿勢として夢を描き天に投げてみるのです。こんなふうにしてただ受け身で天からの意向を待つのではなく天を主役としながらも現実を共に創り上げていこうと思いました。それが個としての存在する人間の役割なのだと思っています。

銀河の夜明けを経て、今、時代は真の女性性が蘇り統合する時代へと向かっています。ここでその意味が明確に表現されている文章を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

 ~ 中略 ~


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。

無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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自我は波のようなものでその奥には海である自分がいます。海の表面に波があるように心の表面にも自我があり、そこでは常に感情の浮き沈みを繰り返しています。人はそこに目を奪われ感情の波に飲み込まれていきますが、真の自分、海であることに気づくためには波の奥へと潜っていく必要があります。

日々湧き上がる感情。その奥に潜っていくことで本当の想い、愛と繋がることが出来ます。それは毎日地道に続ける実践です。僕は思い切り夢を描き、感情を離れ日々の出来事をそのままいただいていきます。そして、それがどのように展開するかを楽しもうと思っています(^-^)





思い通りにならないことに向き合うことで心が育まれる

思い通りにならないことは向き合うことで心を育んでくれます。そして心が育まれると思いもよらない出来事に出会い感動します。感動し嬉しくなると気が緩むものです。ですがこの時、気が緩んでしまうと思い通りにならないことに苛立ち心が貧しくなっていきます。そうするとせっかく積み上げたものが一気に崩れてしまいます。これでは元の木阿弥で人生は同じことの繰り返しとなっていきます。

思いもよらない出来事に出会うということはそれだけ価値のあるものになれというメッセージで、より責任が大きくなり心を引き締める必要があります。心を引き締めることで何が起きても心は育まれ続け価値を高めていけるのです。

クリスマスの日、木の花ファミリーでも12月のお誕生日会を兼ねてクリスマス会が行われ、みんなで楽しい時間を過ごしました。クリスマス会ではサンタさんから子どもたちにプレゼントが贈られますが、今年は僕にもプレゼントがありました。思いがけないことに胸が温かくなりましたが、翌日、子どもたちがプレゼントのおもちゃに使う電池を求めて僕のところに来て、数が足りなくなったけれども注文してある分がなかなか届かなくて何度も何度も確認に来る子どもたちがいたり、プレゼントのオーディオプレイヤーの使い方を調べて欲しいと言ってくる子の対応をしたりでペースが乱されました。

忙しいところ時間を取られてしまった。これはまずい!

という思いが浮かびましたが、冷静に観れば、多少仕事に遅れが出ただけのこと。大騒ぎをするようなことではありません。それでも、まずい!という思いが浮かんでくるのは自己主張で、その奥にはペースを乱されていることに対する負担感、もっとよく見れば苛立ちがあります。それを認識すれば、その感情を超えていくだけなのです。

子どもたちはただ喜んでいるだけだから、その喜びには気持ちよく応じたいものです。

仕事が進まない。まずい!

というのは責任感がある言葉のようにも聴こえますが、心の奥を観ればペースを乱されることに対する苛立ちがあり、それをきれいにカモフラージュしているだけです。

自らを分けると書く自分、そこから生まれる自我は自らを際立たせます。それは刺激に対する反応なようなもので、多くの場合、そこには冷静な判断は含まれていません。押されたら引きたくなるし、引かれると押したくなる。目的は自らを際立たせることあるから言うことがコロコロ変わるのです。人はそんな自我の動きをきれいごとでカモフラージュします。先に挙げた、仕事が進まない。まずい!というものもそんな心の動きの一つです。

自らの価値を高めることは自我から自由となることであり、だからこそ思い通りにならないことは向き合うことで価値を高めてくれます。思いもよらない出来事はそんな中与えられるご褒美のようなものですが、そこで自我が疼いたらまた元の木阿弥となるのです。

だから常に心を観察し続けることが大切です。

そんなことを思っていると、静岡新聞の社説が目に入りました。

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素手に棒を握り、はいつくばって砂浜をつついて進む。手応えがあると慎重に砂をのける。現れるのは円形の地雷。信管の抜き取りをわずかでも誤れば目の前で爆発。死と隣り合わせの作業に幼い面立ちのナチス・ドイツの敗残兵が当たる

ちょうど1年前に公開された映画「ヒトラーの忘れもの」。第2次大戦後のデンマークを舞台にナチスが海岸線に埋設した地雷の除去に駆り出された少年兵と、指揮するデンマーク軍の軍曹との葛藤を描いた。史実に基づくリアルな場面が胸に迫った

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ナチス・ドイツの敗残兵に地雷処理をさせる。それを命令する側には当然の報いという理屈があるのでしょうが、その奥にある心を見て超えていく必要があります。そうでないとお互いの正当性を主張しながらの悲劇が繰り返されていきます。先の記事はこんなふうに続きます。

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残念ながら、その悲劇は今も終わらない現実でもある。先日、非政府組織の連合体、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)が発表した報告によると地雷や不発弾による2016年の死傷者は世界全体で8605人。うち8割は子どもを含む一般市民だった

地雷の中でも対人地雷は命でなくけがを狙って設計される。恐怖心をあおり救護に要するコストで敵を消耗させる。安価で大量に装備でき、いったん埋設されれば半永久的に作動し無差別に殺傷する。「悪魔の兵器」といわれるゆえんだ

廃絶を目指した対人地雷禁止条約(オタワ条約)ができて20年。130以上あった地雷保有国は半分以下まで減ったものの、なお地球上に残る地雷は数千万とも1億とも推計される


条約に米国、ロシア、中国などが背を向ける中、日本は地雷を廃棄し除去へ資金や技術的支援にも積極的に取り組む。道のりは長いが、まずは地雷全廃。そして核という非人道兵器も“人類の忘れ物”にしてはならない。



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人生は思い通りにならず人類は数々の悲劇を経験してきました。それに向き合う時、人類の心が育まれ、思いもよらない出来事、実現不能にも思える平和が訪れるのだと思います。地雷にしろ原爆にしろ自分の思い通りにしようとする心から生まれています。その思いにはそれぞれ正当性があるのでしょうが、軍拡競争となり歯止めが利かなくなっています。思い通りにしようとすると心が貧しくなっていきます。平和運動が対立に繋がるのも思い通りにしようとする心の表れです。だから自分の正当性の奥にある心を見て、それを超えていく必要があるのです。それはきっと日々の生活の中でみんながする必要がある実践で、その積み重ねが本当の平和へと繋がっていくのでしょう。

思い通りにならないことに向き合うことで思いもよらない出来事に出会い感動するのです(^-^)

12月お誕生日会&クリスマス会の様子です。


カタカムナを生きる ~「ズレ」から「スレ」へ~

追い求める人生ではなくいただく人生を生きることを決めている僕ですが、いただく人生とは決して受け身なものではなく、積極的な行動を取ることもあります。どんな時に積極的な行動を取るかと言ったら、それが流れと感じた時。流れとは何かと言ったら、必然性だと思っています。その行動を取ることが必然であること。この必然性とはあらゆる立場を含んで超えた視点からのものです。行動を取ることが必然である時、未知なる未来へ向けて行動し結果をいただいていくのです。

ここ一年ぐらい自分の中に想いが生じた時、必然とは言えない想いは手放して来ましたが、一つ自分の想いを手放すと、その想いの奥に行く感覚があります。自分自身のより深い部分に入っていく感じがするのです。そして思ったことは、自分の思考や感情、情動の奥に本当の自分がいて、その自分は常に全宇宙と響き合っているということです。そして、その自分は宇宙時間を生きているのです。宇宙時間については以下の文章に分かりやすく書かれています。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。

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悠久に流れる宇宙時間、そこから生まれる流れはすべての存在にとって必然性を持つものです。常にそこを意識して生きていこうと思っています。とはいえ生きているということは人間(物質)時間も生きているわけで、その自分の想いと宇宙時間との間にはズレがあるものです。ズレがあるというとネガティブな印象ともなっていくものですが、そのズレこそが世界に彩りと豊かさを与えているのだと思います。自分の想いと宇宙時間という必然性とのズレ。それがそれぞれの人の物語を生み出していきます。ズレを放置し、そのズレが拡大していけば、人生は混乱したものとなりますが、ズレを認識し、そのズレを埋め合わせようと努力することで人は成長していきます。ズレは人を混乱へと導くこともあれば、成長へと導くこともあるのです。

先月、いさどんからカタカムナプレゼンがメンバーに対して行われましたが、プレゼンには以下のような記述があります。

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個々の生命は自らに偏っている。現象界では、偏った現象に出会うことにより、個々が偏りの実態(自らの姿)を学べるようになっている。さらに、偏りから、つながることの大切さ(宿命)を学ぶようになっている。

相反する二つが存在することによって、世界を認識することができ、それが仕組みと成った。=宇宙を生命として活性させ循環させるメカニズム。

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自らの偏り、これはズレと同じことを言っているのだと思います。ちなみにズレをカタカムナで読み解くと以下のようになります。

ス:・・・する。極限までの進行
レ:エネルギーが過剰の状態。九つを超え、限りなく十に近い9.999・・の思念。

「スレ」は、10(統合)直前まで限りなく進行している思念と言えます。統合とはすべてと一つになること、まさに宇宙そのものとなることで、そこに限りなく近づくけれども、そこに至っていない状態が「スレ」です。そして、「スレ」に濁点(余分なもの、個人的なもの)が加わると「ズレ」となっていきます。自らの「ズレ」から濁点(余分なもの)をなくし「スレ」となることで偏りから調和が生まれる豊かな世界が表現出来るのだと思います。

個々の生命は偏りを持つ以上、完全に一つとなることはありません。そして、認識があるのは相反する二つが存在することによります。ということは、統合に至り宇宙そのものとなった時、認識は消滅します。統合(10)は無(0)へと至るのです。ですが、無(0)へ至ったその瞬間に新たな「ヒ」(1)が動き出します。そして再び、ヒフミヨイムナヤコ(1・2・3・4・5・6・7・8・9)と進み、「スレ」を経て統合(10)、宇宙そのものへと至り、無(0)となっていく。そしてまた・・・・というように個々の生命は本来、全宇宙とダイナミックに響きあっているのです。ですが、自我を持つ人間は、「スレ」に濁点がつけ「ズレ」としその動きに停滞を起こします。個人の想いが強まると、「スレ」は「ズレ」となり、統合(10)へとは進まずに分断が生まれ、人間は自我の世界に埋没していくのです。だから僕は自分の生み出す思考や感情、情動の奥を見ていくのです。その先に待っているのは、全宇宙と響き合って進化していく自分です(^-^)






カタカムナを生きる ~自分のヒビキを究める~

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。

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上記は、「カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~」に書いた文章です。ここに出て来る「生きている意味も価値もない」という言葉、これは僕の自我が生み出した言葉ですが、こういう言葉は嘘なのだと思っています。最も、自我は自らを暗示に掛けているような状態なので、嘘をついている自覚はなく、本気でそう思っているのですが、この言葉はやはり嘘なのだと思います。意味も価値もないならば、今、生きているという現実を説明することが出来ません。意味があるからこそ生かされているわけで、そういうことを本当は分かっているのです。当時、自我は思うように行かない現実にぶち当たっていました。思うように行かない現実に苦しみ、落ち込み、駄々っ子になっていたのです。だから、そういう気持ちをアピール出来れば、どんな言葉でも信じ込み、採用していくのです。僕の自我はこのような反応を起こすということです。それを常に見通し続けていこうと思っています。

この世界はヒビキで出来ている。

それがカタカムナが教えてくれる世界の真実です。僕の持つヒビキが出会う現実を生み出していて、そして、その現実に対する反応があらたなヒビキを生み出していきます。思うようにしようとして駄々っ子でもなる自我のヒビキ。そんなヒビキが生み出す現実はいらないから、だから僕は自我を超えていくのです。

とにかく出会う出来事がすべてです。それが自分の今まで生に対する答えであり、それにどう反応するかでこれからの未来が決まっていきます。だから思惑や感情を手放し、出会う出来事をそのままいただいていこうと思っています。

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。

ところで今日から水星が逆行するようです。そのことについて天下泰平ブログ「今年最後の水星逆行」には以下のように書かれています。

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12月のラストの水星逆行期間は、

12
31634分から12231050分まで

124日の満月、1218日の新月、1222日の冬至などのすべての宇宙のイベントも含んで天皇の誕生日に終わります。


個人的にオススメなのは、この12月の水星逆行中の3週間は、これまでのことを振り返るにはぴったりの時期。

2017年を振り返って、どうだったか。あっという間に過ぎ去った1年だったかもしれませんが、このタイミングに見直すと多くの気づきがあると思います。


余裕があれば、これまでの人生を長く深く振り返っても良いタイミングかもしれません。

そして逆行中は、普段うまくいかないこと、挫折したことに再チャレンジするタイミングにも向くといいます。

うまくいかなかったことも振り返り、それまでとは違ったやり方、違った意識状態で取り組むと思わぬ良い結果につながるかもしれません。

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振り返りにぴったりのこの期間。今までの自分が発していたヒビキを見通していこうと思っています。そして、これから自分の持つヒビキを究めていきます。


カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~

先月、いさどんから木の花ファミリーのみんなにカタカムナプレゼンが4回に分けて行われました。それを受けて、今思うところを書いておきます。プレゼンの中には以下のような記述がありました。

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原始の脳も神経も持たない単細胞の生物は、外界の物質が我が身にとって有害か有益かを直観して、「有害な物は避け、有益なものは細胞内に取り込む」という働きを営んできた。

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これは単細胞生物が環境と響き合っているからであり、思考や感情を超えたところに「生命カン」というものがあることを表しています。現代の人々は日々、前頭葉を使い思惑を巡らせていますが、カタカムナの実践はその状態を超えて、松果体を震わすことです。そうすることで目の前の現実、環境と響き合って生きていく。そして究極的には、大宇宙生命のヒビキを直接感受していくのです。

環境と響き合って適応、そして進化していく「生命カン」

それは現代人が退化させてきているものです。例えば、よくいさどんの話に出てくるのですが、今の社会では子育て本が沢山出版されています。ですが、他の動物でそのようなものに頼って子育てをしているものはいません。動物たちは、本能的に子どもに必要な関わりを察知しているのです。多くの現代人は、目の前の出来事を感じて動くよりも、頭で正解を求めそれに基づいて行動しようとしています。そのような中で失われている「生命カン」。それを取り戻すことがカタカムナの実践と言えます。

その方法は端的に言って、自己否定にあると思っています。自己否定というと「自分は駄目だ」、「自分は出来ない」などの言葉を連想する人が多いと思いますが、ここで言う自己否定とはそのようなものではありません。善悪や能力のあるなしなど、あらゆる価値判断を超えて自分の反応パターンそのものを超えていくのです。

人は日頃、自我に基づいてこの世界を認識し行動していますが、その状態では今の世界の混乱を超えることは出来ません。人間の自我が今の社会を生み出しました。だから今の社会に適応することは出来ますが、その社会は環境破壊や貧困や飢餓、そして戦争や紛争を生み出しているのです。その先に未来を見通すことは出来ません。だから自我に基づいて思考し、この世界に反応している自分を否定し超えていく必要があるのです。自己否定とはそういうことで、自己否定をした先に、奥に眠っている生命カンが働き本当の意味で自分から自由となれるのです。そのことを今年の7月、僕は以下のように書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は人々の意識の総和となっています。多くの人が自らの想いに翻弄されているからこそ、世界全体も混乱の極みにあるのです。

自己否定をし自分の反応パターンを手放し、ただ出会う出来事と響き合っていく。思考や感情を超えたところで直観に従い行動し生命カンを磨いていく。それがカタカムナの実践であり、みんながそのようになった時、みんなで環境と響き合ってこの世界に美しいハーモニーが生まれてことでしょう。ここで2015年7月にいさどんが語ってくれた言葉を紹介したいと思います。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。


他者のために自分を表現していく(2)

・・・人には好きなモノとキライなモノがある。それは自然なことだと思う。人間として。私は以前、「キライなモノは、生きていく上で少ない方がいい。」という考えを持っていた。だから、キライなモノをあまり作らないようにしよう、と思った。ムリしてそうしていたわけではなくて、ごく自然に、そうしていた。

中学生になって、人間関係のはばが広がった。すると、私の考えに一つの影がかかった。

「人をキライになるのはいけないコト??」

私はある人がキライになってしまった。本当に、純粋に。一緒にいると、泣きたくなってくる。私はびっくりしてしまった。・・・人をキライになるのって、こんなに悲しくて苦しくてイヤなことなの?・・・と。なんだか自分が悪いことをしているような、そんな気がしてならない。

「人をキライになるのはよくない?」

「自分の心に正直に、あるがままにしたら?」

2つの心の声が、私の中でグルグル回る。よく分からないのです・・・。どうすればいいのでしょう???人をきらうのは、悪いコトですか?

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この文章は僕が公立中学校で相談員をしていた頃、生徒から貰った匿名の投書です。当時、僕は相談室前に《私はこれが言いたい》と題した紙と投書箱を置いていました。生徒たちは自由に書きたいことを書いて投書箱に投函していました。多い時は1日20通ぐらいの投書が来ていましたが、僕はそのうちの一部を相談室便り『兎の眼』に掲載し紙面上で返事をしていました。その『兎の眼』は全校生徒や教職員に配布され、みんなが心について語り合うきっかけとなっていました。ちなみに当時の僕はこの投書に対して、以下のように返事をしています。

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あなたの言うように、人には好きなものと嫌いなものがあります。そして、それは自然なことです。そういう意味では、人を嫌いになるのは、悪いことではないでしょう。ですが、誰かを嫌いになると、その相手を傷つける恐れがあります。悪口を言ってしまったり、無視してしまったり・・・。もし、そういうことをしないとしても、気づかぬうちに冷たくしてしまうこともありえるでしょう。人を傷つけることは悪いことだと思います。多分、あなたもそう思っているから苦しんでいるのではないでしょうか?本当に難しい問題ですよね。あなたに呼びかけている2つの声は両方とも正しくて間違っているのです。(ややこしい言い方をしてすみません)2つの声、両方とも大切にして下さい。もし、「人を嫌いになるのはよくない」と言う声だけを大切にしていたら、自分の素直な気持ちを失ってしまいます。もし、「自分の心に正直に・・・」という声だけを大切にしたら、むやみに人を傷つけてしまいます。だから、両方の声を大切にして、バランスを取りながら生きていくしかないのです。僕はそうやって生きています。多分、皆もそうだと思うのですが・・・

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今だったらもう少し違う回答をしていますが、これは当時のベストを尽くした回答となっています。『兎の眼』は月に1~2回発行していましたが、毎回、上記のようなやり取りを掲載していました。紹介した投書の数は年間100を下らないと思います。『兎の眼』を発行する際は教育相談主任や管理職のチェックを受け、発行後は全校生徒とその保護者、そして教職員の眼に触れます。それらすべての人を意識して文章を作成することは自分自身を鍛えてくれたと思っています。

今、僕はこうしてブログを書いていますが、その原点はこの『兎の眼』にあると思っています。心理療法の世界では、最初に出会ったクライアントをイニシャルケースと呼び、そこでの経験がその人の心理療法家としての人生に大きな影響を持つと言われていますが(河合隼雄さんの言葉です)、僕にとって『兎の眼』はこのイニシャルケースとなっています。公立中学校での相談員は僕の最初の仕事です。働くことは傍(はた)楽(らく)こと。傍(はた)を楽(らく)にするための最初の一歩となっているのです。

当時、『兎の眼』は自分の想像を超えたものへと育っていきましたが、それは僕の力ではなく生徒からの投書が持つエネルギーによります。投書の持つエネルギー、そして生徒や保護者、教職員の視点が『兎の眼』を育ててくれました。それは、このブログも同じで、これは僕の力で書いているのではなく、いさどんの言葉、そして木の花ファミリーでの生活によって生み出され、育てられているのです。

そして書く目的は、一人の心をみんなで共有することで、共に学び合うきっかけを生み出すことです。『兎の眼』は普段語られない中学生の言葉を紹介することで生徒同士が深いところで語り合うきっかけを作りました。そして、このブログは木の花ファミリーでの暮らしを通した学びを共有することで、読者の学びのきっかけとなるよう心掛けています。

他者のために自分を表現していく

2011年1月にいさどんから貰った言葉。それがこのブログを書く目的であり、僕の人生だと思っています。

今、多くの人が自分のために自分を表現しているのではないかと思います。自分を知って貰いたい。自分の願いや希望を叶えたい。みんなから評価されたい。だから、理解されないと思った時、願いが叶わないと思った時、評価が落ちると思った時は内緒にします。思惑に基づいて表現したりしなかったりで、その結果、人びとは人の心を探り合うようになります。アメリカのトランプ大統領の過激な発言も北朝鮮によるミサイル発射も思惑に基づいた表現であり、世界を危険に晒していますが、それは人々の日常の鏡とも言えます。

だから自分のためではなく他者のために自分を表現していく。

それは何も「他人のためになろう」と意気込むことではなく、客観的視点に立って、そこから見える自分の姿を表現していくのです。客観的視点から見えてくるこの世界の法則性と自分の姿。善悪などの価値判断を超えプロセスを辿ったその姿が他者の学びとなります。この世界の法則は一つ。だけれども、その法則性の上でそれぞれが個性的な道を歩んでいます。それを共有することはとても豊かなことであり、深い学びともなるのです。ここでいさどんが2年前の7月に語ってくれた言葉を思い出したので引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

個人的願望がなくなったら自分のために表現する必要がなくなります。他者のために自分を表現していく。それはきっといらなくなった状態でみんなで共通の世界を極めていくことです。みんながそんなふうに自分を表現しみんなで世界を極めていく時、この世界の実相が明らかとなり真の平和が訪れることでしょう。

そんな世界を目指して。

他者のために自分を表現していきます(^-^)



『兎の眼』平成12年11月8日発行(表)



カタカムナを生きる ~天が与えた僕の物語~



昨晩、いさどんによるカタカムナプレゼン第4弾が行われました。プレゼンの冒頭で語られたことは、今の人たちは表面上の出来事に反応しているということ。そのため立場が変わればば意見も変わり、一つの出来事に対して様々な見解が生じることとなっているのです。それが現代社会の混乱となって表れています。

カタカムナを学ぶということは、表面上の出来事の奥に流れる法則性を理解するということ。そして、カタカムナを生きるとは、この世界の法則性、天の意志に基づいて生きていくということです。

ヒフミヨイムナヤコト

プレゼンで世界の始まりから語りだすいさどんの言葉に木の花ファミリー憲章世界観「概要」を思い出しました。以下、引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙の成り立ちや生命の神秘は、いまのところ科学で完全には解き明かされていません。したがって、それは心を通して認識することになります。

現在、過去、未来、そして全宇宙へと、心はどこまでも思いを馳せることが出来ます。

人間が自らの視点を離れ、この世界をありのままに眺めたときに、一つの大きな法則が見えてきます。また五感を超えた感覚、すなわち直観を通して見出すことが出来る宇宙や生命の姿もあります。私たちがこの憲章で語る宇宙や生命は、こうした方法で導き出したものです。

私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。

相反する存在により、比較が可能となり価値判断が生まれます。光と闇、善と悪、美と醜、大と小などは比べることによって生まれた価値判断です。

この世界で生かされている人間は「自分」という意識、すなわち自我を持ち、自他を区別するようになりました。それによって所有の概念や欠乏感、そして欲が生まれます。そうした欲にもとづいて、人々が自分に都合の良い世界を作ろうとしてきた結果、人々は病み、争い、自然を壊してきたのです。

自我を通して物事を認識する人間は、こうした現象を「問題事」としてとらえます。それを解決しようと目の前の現象を深く見つめた者は、ある事実に気付いていきます。それは、すべての存在が「想い」から創られているということです。

「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

私たちは目の前の「問題事」を通して、この世界を創っている「想い」を認識する道を与えられています。「想い」を認識した時、人は善意と愛と調和に目覚めます。これは心磨きの道です。より多くの人が心を磨くようになれば、世界は善意と愛と調和で満たされていくでしょう。それが、私たちの生きている世界なのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで語られている「想い」の圧縮とは「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。

すべての存在が「想い」から創られている。この「想い」とは元の「想い」であり、天の意志とも言えます。個々の人間はそこから分かたれ、自分の「想い」を持つようになります。この自分の「想い」が人との差を強調し「問題事」を生み出してきました。ですが、「問題事」の奥を見通せば、元の「想い」へと至り、そこから世界や自分を見通せば、人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現出来るようになるのです。

僕が持っている自分の想い。そこには感情や情動、思考などが含まれ、一つの視点、一つの世界を生み出します。それに囚われず、かと言ってそれを否定するわけでもなく、天の視点に立って、それが何を生み出していくのか、そしてどのように変化していくのかを見ていこうと思っています。その変化変容こそが天が与えた僕の物語。人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現する物語です(^-^)



カタカムナを生きる ~心を美しくすればいい~

一昨日の晩、大人ミーティングにていさどんによるカタカムナプレゼン第3弾が行われました。この時、「いさどんによるプレゼンを聴く → 何か大事な話を聴く」というように心が動いたのですが、気づかぬうちに受け身の姿勢になっていました。場創りをするという意識が薄れ、そのためか途中で10分ぐらいウトウトしてしまいました。

それで何のためにこの場に参加しているのか?とあらためて自分自身に問うてみました。僕は最初からこのプレゼンを、ブログを書く機会にしようと思っていました。ですが、ただそこで話された内容を知識のように発信してもあまり意味はありません。ここ最近、カタカムナプレゼンをきっかけに2つの記事を書きましたが、どちらもプレゼンの内容よりむしろそれをきっかけとして自分に湧き上がったことを書いています。いさどん自身、プレゼンの際、パワーポイントの内容を語るのではなく、それをきっかけに浮かぶことを自由に語っています。そして、以下のようにも語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今、何回かに分けてこのプレゼンを行っていますが、終わった時、「結局、こんなことどうでもいいんだよ」と言うことになる。それは今から分かっているのです。大事を共有する過程として、こういうプレゼンを行っていますが、大切なのは、心をきれいにすることです。日々の暮らしを通して、心を美しくし、そして世界を美しくしていく。それが出来れば、知識は大切ではないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

そう、だからプレゼンでいさどんが語っていることを知識として発信してもあまり意味はなく、こういう話で大切なのは揺さぶりとなることです。人は放っておくと自分の思考で凝り固まる傾向があるので、揺さぶりをかけ、常に進化し続ける真実へと人々が目を向けるきっかけとなることが大切なのです。真実は知識として誰かから教わることではなく自分で探求し続けるものです。その際、木の花ファミリーでは語り合うことを大切にしています。

プレゼンの最中、いさどんは何度も日馬富士の話題を取り上げていました。

日馬富士と貴ノ岩との間に起きたことは一つ出来事です。ですが、立場の違いによって様々な異なる見解が語られ、騒ぎが大きくなり収拾がつかなくなっています。一部報道ではモンゴル大統領が安倍首相との面会を希望しているとも報じられています。ただ2人の力士の間で起きたことがここまでの大騒ぎとなっています。これは様々な思惑を持った人たちの言葉をそのまま紹介し注目を集めようとしているマスコミの姿勢から生じています。前頭葉で思惑をぐるぐる回す人間が集まるとこのような混乱へと発展する恐れがあるのです。カタカムナで語られていることは、松果体を震わすことです。そこには思惑はなくただ出会ったことを感知していくことで、直観を磨き、現象そのものを捉えて人それぞれの立場を超えていきます。そうすることで一つの事実に基づいてみんなで認識を共有し気持ちよく生きていくことが出来るのです。

それで話しを戻して場創りです。プレゼンの時間、どのように場創りをしようかと考えました。それで思い浮かんだのが、部屋の前の方に行って、いさどんと同じようにみんなの方を向いてみることでした。そんなふうにして見ると、いさどんの能動的なエネルギーが感じられ、このエネルギーで場に臨むことが大切だよなとあらためて思いました。受け身の姿勢から発せられるエネルギーとは明らかに違うものです。それで、そんなふうに過ごしていると部屋の後ろの方からエネルギーを感じて、そちらを見てみると、しゅうくんが立ち上がって身体を揺すっていました。しゅくんといさどん、そして僕で三角形を作るイメージで部屋にエネルギーの空間をイメージしてみました。その後、みかちゃんが立ち上がりホワイトボードにカタカムナ文字を書き出しました。これで四角形になる。そんなふうにエネルギーの場をイメージして過ごしました。それが場にとってどんな効果があったかは分かりませんが、僕自身は能動的エネルギーでとても元気になっていきました。

話しをしなくても場創りは出来る。そんなことも心掛けたいと思っています。

僕は今、経理の仕事が忙しくなっているので、大人ミーティングに出ないで、帳簿の打ち込みなどをして過ごすことが多くなっています。一人でパソコンの前にいる時間が多くなっているので、自分自身の精神の健全さを保つことに細心の注意を払う必要性を感じています。だから大人ミーティングに出ている時は、最大限に場創りに努め、自分の状態をクリアにしていこうと思いました。

すべてはプロセスの中にあることでよいも悪いもなくて、ただただいただいていくだけなのです。要は自分から離れていられたら、どんなふうに物事が動いてもそこから天の意向を感じ学びを深め未来に活かせていけるのです。

そんなふうに日々楽しんで暮らしています。

11月お誕生日会の様子です。

円が縁を紡ぎ、宇宙の中心へと繋がっていく

自分がここにいる理由を考えていた時、「結局、縁なんだよな」という言葉が浮かんで来ました。そして、その言葉をきっかけにいさどんブログ「円が縁を紡ぐ~人間からヒトへ~」を思い出しました。そこにはこんなことが書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

トキは一方通行に、コッ、コッ、コッ、コッ、と確実に刻まれてゆく。それが昨日から今日、明日へと進むのを一直線に見ているのは、思考の幅が狭いからだ。単純な発想で見ていると左から右に動くように見えるが、ものが動くということは、そこに必ず中心となる一点がある。そして縁のあるものがその周りに集い、回転するという形になって初めて、ものが動くことが持続する。直線ではなく、円運動をしているのだ。
それは「縁」というもので紡がれる。「円運動」とは、「縁運動」でもあるのだ。縁とは、約束事。縁という見えない糸があり、それがバラバラであったものを約束のようにつないで、全体が回り、巻き込んでいく。それはあたかも銀河のようだ。
円の中心の一点は、止まっているかのように見える。しかしその一点も、さらに大きな役割のもとに何かの周りを回っている。中心が止まっている状態になったら、外の円運動も起きない。すべてが連動して動いているからこそ、個々の円も成り立つのだ。

~ 中略 ~

この世界の成り立ちは円運動から成り、それは秩序のもとに、約束通りに動いている。約束通り動くには、軸が必要だ。すべてのものの中心には軸があり、それがもう一つ大きな軸の周りを回っている。地軸があるから地球は自転し、振動し、歳差運動をしながら、太陽の軸のもとにその周りを回っている。そして太陽もまた同じように自転しながらセントラルサン(銀河の中心)の周りを回り、銀河も同じように、さらに大きなものの周りを回っている。単独で存在しているものは何ひとつない。すべてが無限に連鎖して、その関係の中で互いの存在を成り立たせている。ということは、世界がひとつだということだ。

~ 中略 ~


すべての現象は、円運動をしている。その円運動の関係の中で出会う現象に自らがどのような縁を持っているのか ――― 近いのか遠いのか――― それによってトコロが移り変わり、互いに対向発生をしながら円運動を続けていく。それが人生だ。
円(縁)は無限にあり、そのすべての中心をトキ軸が貫いている。つまり、この世界はいたるところがトキ軸だらけだ。我々の体はおよそ60兆個の細胞から成っているが、その細胞の一つひとつをトキ軸が貫いている。なんという宇宙ロマンだろうか。

~ 中略 ~

縁は、意図が働くことで生まれる。意図とは、糸だ。縁という見えない糸がバラバラのものをつなぎ、回転が起きて、現象(形)が生まれる。
人間には、自らが認識している自分と、認識できていない自分とがある。それはどういうことかと言うと、人間はある段階に至ると、それまで認識せずにいた新たな自分を発見する。しかしその自分とは、認識する以前からずっとあり続けたものだ。
現在の自分が成立する以前から、自分というものはある。過去の自分がつくったものが因となり、その結果として現象が現れる。それを因縁という。この世界は、因縁にふさわしく現象が起きる因果応報の仕組みで成り立っている。遠い過去からずっと続いてきた物語として現在があり、今この瞬間も紡いでいる縁が次の出来事につながり、そこからまた新たな縁が生まれて次の出来事へとつながって、物語は未来へと続いていく。因縁の始まりは宇宙の始まりであり、因縁の終わりは宇宙の終わりだ。それは永遠に続くということ。すべての存在は、宇宙の始まりから終わりまでをつないでいるひとコマだ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙と自分は一つ。その中で過去から続く因縁によって今この場にいて、そして今の自分の言動が新たな縁を生み出していきます。それは円運動によって究極的には宇宙の中心と繋がっていきます。日々出会う出来事は、視点を高くすれば、無限なる宇宙の円運動のひとコマとして出会っているものであり、それは自らの生の結果でもあります。

何かに出会った時、自分の中にはいろいろな反応が芽生えますが、それは今までの生の結果であり多様な因縁があるからこそ、多様な反応をしているということです。その中で何を選ぶかで解消される因縁もあれば強まる因縁もあります。そして、それは無限に連なる宇宙の中心へと繋がっているのです。

今年の3月21日、太陽が春分点を通過した最初の朝にカフェ&ショップ ロータスランドがオープンしました。そして、5月26日、蟹座新月の日に合同会社ロータスランドが設立されました。この新しい動きを受けて、木の花ファミリーの経理の質と量は変化し、自分にとってはチャレンジの時を迎えています。そして、自分の心の中には様々な感情が芽生えます。自分の今までの生、因縁によって芽生える様々な感情。その中で自分が選んだ感情が波動となって宇宙の中心へと繋がり、この世界の一翼を担っていく。それは本当に些細なものであっても自分一人分、この世界に対する責任です。

僕は毎朝散歩をしていますが、最近は空を羽ばたく鳥がよく目に止まります。鳥瞰図。鳥の視点で自分や周りを常に眺めていること、それは感情に囚われず、ただただ流れのままに展開を見届けいただくこと。それはきっと自分の中の因縁をきれいにしていくことになると思っています。

円が縁を紡ぎ出会った木の花ファミリーの仲間たち。みんなと一緒にたんたんと日々を過ごして、自分の因縁をきれいにして、その波動を宇宙の中心に伝えて、僕は生きていく。

それは宇宙の歴史のひとコマであり宇宙そのものなのだと思っています(^-^)

木の花ファミリーのみんな、玉ねぎの苗取りをしています。

ドキドキからワクワクへ

瞬間瞬間の選択の連続によって「道」ができる人生ですが、その選択が「愛(ワクワク)の選択」「怖れ(ドキドキ)の選択」によって、進む方向性、待ち受ける結果は180度変わってきます。

何事に対してもできない理由を考えるよりも先にできる方法を考える人は、人生の選択においても愛の選択をする人。

自分はもちろん、誰かや全体もすべてが調和する選択であり、その根底には「自己愛」が満たされており、自分のことよりも全体をバランス良く見れる視点があります。

逆にできる方法を考えるよりも先にできない理由を考える人は、どちらかといえば怖れの選択をする人。

常に「うまくいくはずがない」「失敗するのではないか?」という不安や恐怖の感情にとらわれており、自分自身にも自信がなく、深い部分で自己愛にも欠けている部分があったりもします。

自分に方向性が向いている限りは、自分以外との調和を図ろうにも、潜在意識は常に自分の欲、不足している愛を満たそうと動き、やることなすことすべてが自分のため、エゴの選択へと進むこともあります。


☆彡 ☆彡 ☆彡

これは今年の3月に読んだ記事からの引用ですが、「愛の選択=ワクワク」「恐れの選択=ドキドキ」という言葉がとても印象に残っていました。僕は新しい行動をする時、ドキドキすることの方が多かったのですそのドキドキが恐れの選択と表現されているのを見て、自分自身の振り返りをしていました。それで確かに僕の中には「恐れ」の感情があったのですただそれは「うまくいかない」とか「失敗する」とかそういう思考から来る恐れではなく、変化を促されることに対する抵抗のようなものでした。そして、それがどこから来ていたかと言ったら、立脚点の違いから来ていたのだと気づきました。

新しいことを始めようとする時には想いが湧いてくるのですが、その想いの側に立つと「湧く湧く(ワクワク)」した気持ちとなります。そうではなく、思考(今の自分)の位置に立つとその想いは自分の変化を促すものとなり、自分は変化を促される対象、受け身となっていくのです。そんな時、僕はドキドキし、その奥には確かに変化に対する恐怖があったのです。僕は恐怖をコントロールしてきたので、そんな時も行動し結果を楽しんできたのですが、エネルギー的には自分に大きな負担を掛けてきました。そして、「今を生きる」で紹介した状態へと至ったわけです。

自分自身の立ち位置によって湧いてくる想いがワクワクにもなりドキドキにもなるのです。ということは、ワクワク、ドキドキをきっかけに自分自身の立ち位置のチェックが出来ます。そんなふうに自分を見ていきます。そして、僕は今、ドキドキからワクワクへとどんどん移行しているのです。それは新しい体験に常に開かれていくということですね。

そして大切なのは、想いを実現させることではなく想いに心を開くことです。湧いてくる想いから行動する時、いつも思い通りになるわけではありません。予期せぬ出来事に出会うこともあります。そのような時、出会う出来事に心を開いていれば、当初の想いは変化していくものです。当初の想いが自分をどこに導くかは先に行ってみなければ分からないものです。湧いてくる想いの奥には天からのメッセージがあります。それを探り感じることが人生に奥行を与え豊かにしてくれるのです。そんな生き方についていさどんはこんなふうに語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。

出会うことに反応することで人は一喜一憂する。それが人間で一喜一憂しなければ生きている意味がない。一喜一憂しながらも、出来事の奥にある意志を感じて、一喜一憂している自分を離れて観る。そして流れをいただいていく。それが生きていることの醍醐味で、人生に翻弄されずに楽しむことが出来るようになる。
☆彡 ☆彡 ☆彡

現象の奥に流れている意味を感じ探ること。それが人生を立体的にし、この世界の本質探求にも繋がります。そして、それはそのまま自分自身に対する理解ともなっていきます。ここでまたいさどんの言葉を紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら
人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。
物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、
そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

 ~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


☆彡 ☆彡 ☆彡

現象の奥に流れているメッセージから自分がどう生きるべきかが見えてきます。そして、そのような心で生きることがそのまま世直しへと繋がります。そんな世直しに向けて。今、僕はワクワクしています(^-^)

木の花ファミリーの子どもたち(なんとなくこの写真を使いたくなりました)





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