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人生とは場創りである(3)

射手座の満月です(^-^)

  • 自分は基本的に場を創りたくない人。みんなの前で話をしようとするとただの事務連絡だけでも心臓がバクバクする。この場をよくしていこうという提案に乗れない自分がいる。そのため「こんな自分はここにいてはいけないのではないか?」という考えが浮かんでくる。そして、実際に出ていくことをシミュレーションしてみる。「自分が出ていくならば、引継ぎとして最低でも1ヶ月は必要だよな~」とか「ここを出て行った場合、道義として同じような暮らしは出来ないよな~。そうすると、生きていくために適当な仕事を探して無気力で生きていくのかな~。」なんて考えて、「こんなことを考えても仕方がないので、ダメかもしれないけどやれるだけやろう」と言い聞かせて過ごしている。

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4年前の5月、僕はこんなことをみんなの前で話しました。そしてそんな僕に対してみんなが見える視点を伝えてくれました。

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  • こんなふうに言うことでなかのんは失敗した時のための予防線を張っている。本当は良くしていきたい気持ちがあるのに、それを推し進める力がない。ならば人に心を開いて頼ればよいのに、それもプライドが高いために出来ずにいる。なかのんは無駄な思考、エネルギーを使っている。ここを出ていくことに良いイメージがないのに、そんな考えにエネルギーを使っている。湧いてきた無駄な想いを手放していくということをしているようだが、本当に高い視点を持って、その位置にい続けたら、そんな想いは湧いてくることがなくなる。そこまで自分を高めることが大切。


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当時の僕は肯定出来ない自分をそのままにして、その上、「僕は一生懸命に考えているんだよ」というアピールまでしていました。まさに予防線を張っていたのですが、それが自分や世界に何をもたらすかには想いが至っていませんでした。

肯定出来ない自分をそのままにして保身に走る。

そんな姿は至るところにあるのかもしれません。

例えば、安倍首相は加計学園や森友学園の問題について国会で追及されていますが、そんな自分を肯定出来るとは思えません。ですが、安倍首相がやっていることは自らの保身のための行動であり真相を闇へと葬りさろうとしています。例えば、その姿はテレビを見ている子どもたちにどのように映って、どのような影響を与えていくのか、そういうことには想いが至っていないのです。

今、アメリカと北朝鮮とで米朝首脳会談に向けてのせめぎ合いが行われていますが、その背後にも金正恩体制の維持やトランプ大統領の支持率などの保身が見え隠れしています。

政治家にとって支持率はとても重要です。それを重視するあまり、自分自身が肯定出来る(誇れる)かどうかは蔑ろにされていきます。肯定出来ない自分であっても周りに受け入れられればそれでいいのです。そしてそれは今の世の中全般に言えることだと思います。

例えば松岡正剛さんは千夜千冊1604夜『勝手に選別される世界』の中で、「評判の社会」から「評価の社会」へと変わっていくことが大切だと述べていますが、この文章も上記の傾向がある社会に対する提言と言えます。以下、松岡さんの文章を引用します。

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むろん評判がいいのは悪いことじゃない。視聴率がいいのもベストセラーが出るのも結構だ。けれども21世紀の現在社会はついつい「評判の社会」になりすぎてきた。芸能界を筆頭に、評判で人気とりをするポビュリズムは政治家たちを含めてずっと以前からあったけれど、アクセス数に溺れまくるネット社会になって、その傾向が極端に増大した。増大しただけではなく、それが止まらなくなった。

   ~ 中略 ~

われわれが望むべきは評判ではない。今後の社会に示されていくべきは評判のランキングではない。ましてその集計結果ではない。「評価」(evaluation)の内実であるべきである。「いいね」のヒット数などではなく、「いい」をめぐる対話を交わすことなのだ。


だから「評判の社会」から「評価の社会」へであり、「レピュテーションからエヴァリエーションへ」なのだ。「レピュ」から「エヴァ」へ。これがぼくの注文なのだ。

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今、人々は評判を求めるあまり内実は置き去りにされています。今の状態は一人ひとりが生きてきた結果であり、それぞれに理由があるのは当然ですが、その理由を使って肯定出来ない自分であってもそのままにしていきます。そして人々に受け入れられることは求めるから表面だけを取り繕うことになります。みんなで表面上だけで受け入れあって大切なものは蔑ろにされていく。評判だけを過度に求める今の社会は人々をそんな状態にしていくのです。

だから僕は自分の肯定出来ない部分と向き合ってきました。場を創りたくないと表明した僕は、人生とは場創りと語るようになりました。その言葉には以下のような気持ちが込められています。

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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。


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保身に走るのも評判を求めるのも意識が自分にいっているからであり、その結果、大切なものが蔑ろにされて自分の価値を落とすことになります。ですが、意識を場にもっていけば、場創りを通して自分が癒されると同時に自分の価値を上げていけるのです。

昨日、5月29日23時20分、射手座の満月です。

射手座の支配星は発展と成長、コミュニティを司る星、木星です。今は自分の可能性を思いきり広げるトキです。僕はこのトキを迎えて自分自身の肯定出来ない部分に徹底的に向き合います。そして、それを解き放ち自他の区別を超えた場へと意識を広げます。

人生とは場創り。

それは自他の区別を超えてすべての存在を幸せにしていくということです(^-^)





泥の中から美しい蓮の花が咲くように。


521日、24節気では小満、西洋占星術ではふたご座が始まる日でしたが、この日、太陽の周りに日輪が見えました。Facebookで日輪の写真を上げている人が多く、いろいろな場所から見ることが出来たのだなと思いました。そして僕はこの日輪が鏡のように見えて、「ALOHA=Face with Breath(呼吸と共にいる)」にてジイジ(当時はいさどん)が以前に語った以下の文章を引用しました。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


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この世界は鏡なのです。ここで話しは変わって。

先日、クローズアップ現代の「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」を観たジイジは以下のように語っていました。

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今の社会では人付き合いが表面的になっていて、番組に出ている人たちはそれでよい評価を得たりしている。だけれども実体、人としての成長は伴っていないから、実体を表すように部屋がゴミ屋敷になっていく。今の社会ではお酒や性に溺れる人たちがいるが、それも同じこと。表面を取り繕ってもどうにもならない実際の人間性がゴミ屋敷やお酒に表されている。社会、人間性の崩壊は潜在的にはここまで進んでいるということでこれは深刻な問題。番組では孤立をクローズアップしていてコミュニケーションの大切さを訴えているけれども、孤立の奥には人間性の未熟があってこれは小手先でどうこうなる問題ではない。一人ひとりが自分の人間性に向き合い向上していくことが大切で、その方法がみんなで共に暮らすこの暮らしの中にある。だから本当にこの暮らしはこれから必要になってくる。

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ゴミ屋敷もその人にとっての鏡でありその人自身を表しています。そしてこの世界で起きることは大きな視点で見ればすべて自分自身の表れだから僕自身の表れとも言えます。それはみんなで創った社会構造が生み出したひずみです。

それで自分のことを思います。自分は、11年前はこんな感じでした。

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中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。




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完全に壊れていたと言ってもいいと思います。

この状態、今は完全に超えたということが出来ます。ですが、この状態なくして今の自分を語ることは出来ないとも思っています。

僕の混乱と僕の狂気と僕の妄執。

それは上記の番組のゴミ屋敷とも重なるものでしょうが、それと向き合う過程で僕は自分自身を育んできました。だから、混乱や狂気なくして自分を語ることは出来ません。と同時に、それらは超えてきたものだから、僕の中では癒され消え去っているのです。

泥の中から美しい蓮の花が咲くように。

混乱や狂気は「自分自身を手放すように」と僕を導いてくれました。狂った反応パターンを抱えてまま生きることは出来ないから。だから長い時間が掛かったけれども、僕はひっくり返ることが出来ました。

自分の側から世界を観て、自分の想いを実現しようとして僕は狂っていきました。自分の想いを追求すると僕は狂っていくのです。だから今の僕は世界の側から自分を観て、自分の想いを修正し続けています。そうすると人生は思いもよらないものとなり、思いもよらない感動に出会うようになりました。

今、社会は大きな混乱の中にあります。それはネガティブなことのようにも思えますが、エゴを手放すようにと人を導いてくれているのです。これは銀河の夜明けを超えた天体の動きとも呼応しています。

自分と向き合い自分を手放すこと。

今、天体の動きも社会の動きもそのことを後押ししてくれています。



人生とは場創りである(2)

今日、5月20日で木の花ファミリーに移住して丸9年となりました。これから10年目の日々を送ります。「10」はカタカムナで統合・悟り、そして「10」は「1+0=1」で新たなる旅の始まりでもあります。木の花ファミリーで暮らした9年間を一つの気づきとして昇華させ、これから一つ次元の上がった旅が始まります。

木の花ファミリーに移住して丸5年となった2014年5月20日、僕はみんなに対して「場創りをしたくない」と宣言をしました(「まなこいから11ヶ月」を参照)。そんな僕が今年の2月、「人生とは場創りである」と語るようになりました。場創りをしなければ生きる意味がないのです。

自分の希望や願望で動くのではなく、場を大切にすることで自分の価値を高めること。そうすると思いもよらない出来事に出会い感動し、当初の願望はどうでもよくなっていきます。それがこの9年で僕が得た気づきです。

これから新たな旅が始まりますが、その前日の夜、木の花ファミリーのみんなと「モアナと伝説の海」を観ました。この映画については以前、「天下泰平ブログ/モアナと伝説の海、そしてスサノヲ」で読んでいて心に残っていました。以下、少し文章を引用します。

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「モアナと伝説の海」は、もともとはポリネシアに伝わる神話をモチーフにしたようですが、その内容はいくつも日本の神話を感じさせる物語であり、特にメインに感じた神様は「スサノヲ」でした。

荒ぶる神、スサノヲ。

国生み神話の神である父神イザナギと母神イザナミ。

イザナギから生まれた三神のうち、アマテラスは高天原を、ツキヨミは滄海原を、そしてスサノヲは大海原を治めることを任されました。

スサノヲ=海の神=ポセイドンでもあり、日本神話にしろギリシャ神話にしろ、インドの神からユダヤの神に至るまで、世界神話には何かしらの共通性があります。

モアナでは、風と海を治める半神半人として「マウイ」という人物が出てきますが、彼はおそらくスサノヲがモデルだと思います。

荒ぶる神であるマウイは、この世界を作った女神の心を盗み、無人島へと1000年間も幽閉されていました。

女神の心がなくなった世界は、闇に覆われ、世界が破滅する危機を迎えます。

この辺りは、アマテラスの岩戸隠れを連想をさせる展開です。

またマウイが神であるためのアイテムとして「釣り針」が登場しますが、これもまたスサノヲの象徴である「剣」を連想させるものであり、やはりマウイ=スサノヲを強く感じさせます。

物語の中で最重要人物(神)となっているのが、この世界を創った女神テ・フィティ

本来の姿は、横たわった女性の島ですが、心をマウイ(スサノヲ)に盗まれたことで、悪魔の神テ・カァへと変貌し、心を探し求めて荒れ狂っています。

まるで、地から溢れるマグマの神。それこそ、ハワイ島のキラウエア火山に鎮座する火の女神ペレそのものであり、おそらくは悪魔の神テ・カァのモデルはペレかと思います。

火の悪魔、火の女神に挑むのが、水の神に選ばれた主人公のモアナ。

クライマックスでは、モアナが海を割るシーンがあり、海の底を歩いていきますが、これは完全に旧約聖書に登場するユダヤ人モーセの姿そのもの。

最終的に水の神と火の神の陰陽統合によって、心を取り戻して本来の創造の女神テ・フィティに戻り、世界も平和を取り戻しますが、水の神セオリツヒメの時代や陰陽統合の時代背景も考えると、かなり奥が深い映画のように感じます。

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5月3日、いさどんがジイジとなった時にハワイ島のキラウエア火山の噴火が始まりました。5月17日にも爆発的噴火が起き、今も被害が広がっています。そのタイミングでこの映画を観ることに意味をみかちゃんの言葉で確認しました。

この物語では、マウイが女神の心を盗むことからこの世の闇が始まりますが、マウイは人間に火を与えた存在でもあり、女神の心も人間の欲望を満たすために盗んだのです。つまり人間が自らの我欲を追い求めることが女神から「心」を奪うこととなり、結果、この世界に闇が広がっているのです。それは現代社会の姿と重なります。

闇が広がる中、モアナは海から選ばれます。それはモアナという存在を超えた大いなる流れ、意志の導きです。モアナは一度、それを放棄しますが、自らの意志で再びそれを選びます。それはマウイも同様で、大いなる意志の導きを自らの意志で選ぶこと。そこに生きることの意味があるように感じました。

この映画を観た後、ジイジは、男神アマテラスやセオリツヒメの復活について語りましたが、それは宇宙の大いなる流れの中にあります。その流れの中でそれぞれに与えられた使命、それを感じ、自らの意志でそれを選ぶことで未来の扉は開かれます。

自らの使命。それはきっと、自らの希望や願望ではなく、場を大切にし自らの価値を高めることで自ずから見えてきます。だから僕は、これからも場創りを大切にしていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんな@田楽祭田植え祭り


みんなの真ん中で溶けていく

5月20日、僕が木の花ファミリーに移住して丸9年となります。最近、「9」は面白い数字だなと思っています。「369(みろく)」「567」「432」「333」、これらすべて「9」の倍数ですが、これらの数字はすべての位を足すと、「3+6+9=18」のように「9」の倍数となります。これはすべての「9」の倍数に当て嵌まるようです。

そして「9」はカタカムナで「コ」、転がり出る。それは以下の文章が示すように変化変容を生み出し「ト(10)」、統合・悟りの一歩手前のものです。

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カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。だからさっきの話でも、「そうか、こういうふうになっているんだ」と理解したところで終わるんだよ。それが悟りだ。


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昔、小学校を卒業する際、校長先生が一人ひとりに色紙を書いてくれたのですが、そこには「苦(9)を超えなければ、充(10)の喜びは得られない」と書かれていました。「9」で転がり出ることで世界に理解が生まれ統合・悟り(10)へと至るわけで、喜びも「苦(9)」がなければ「無(6)」に帰するのだと思います。

5月20日、僕の木の花ファミリーでの暮らしは丸9年を迎えます。そして10年目の統合、一つの理解へと繋がっていきます。10→1+0=1。「10」は「1」でもあり新たな始まりでもあります。

話しは変わって。

2016年の2月、僕の下に天から以下の言葉が降りてきました。

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この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。
3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。
それは正解でした。

善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。
そのことを心に留めておくことです。

そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。
真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」

みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。

中(なか)を守るのです。

でも目立つ必要はないのです。
目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

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その言葉を受けて当時、僕以下の文章を書いています。

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僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。
あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。
その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。
その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、
そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。
※僕は卯年生まれです。

これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、
「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。

僕はみんなの真ん中を生きる。

でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、

みんなの中に溶けていくことなのだと思います。
目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。



☆彡 ☆彡 ☆彡

みんなの中で溶(ト)けていく。

溶ける(トケル)

「ト」はトキ・トコロの統合であり悟り(10)。「ケ」は、存在は感じられるが見えない状態。「ル」は継続。トキ・トコロの統合によりすべては融合され潜象界「ない世界」へと溶けだし還っていく、その状態が絶え間なく続いているのです。

木の花ファミリーで10年目を迎える僕はこれからそんな存在となります。

またまた話は変わって。

最近、僕の周りでは呼吸の大切が語られるようになっています。そんな中、昔、ハワイ島の小田まゆみさんが語ってくれた以下の話を思い出しました。

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ハワイの言葉で「ALOHA(アロハ)」という言葉がありますが、これは英語で言うと「Face with Breath」、呼吸と共にいることです。呼吸と共にいること、それが「こんにちは」という意味となり「愛している」という意味にもなるのです。多くの人は呼吸を意識せずに暮らしていますが、もしすべての人が呼吸を意識して暮らすようになれば、この世界の争いの90%はなくなると言われています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

呼吸をしなければ、人は生きることが出来ません。人は呼吸に生かされています。ですが、多くの人がそのことを意識していません。呼吸に意識を向けること。それは自分を生かしてくれているものへと意識を向けることとなります。そして、呼吸では特に吐くことが重視されますが、吐き出されたものはこの世界に溶け込んでいきます。そして自分自身は空っぽになります。そこに新しいものをいただいて生きているのです。

同じように僕もこの世界という大海(タイカイ)の中に溶け込んでいきます。

僕は「なかのん」と呼ばれています。

宇宙最極小微粒子「カ」が質的転換「ナ」をし、トコロ軸へと広がっていく「ノ」。その動きが強まっていくのです「ン」。それは一滴として生を受けた僕が自らの立脚点をひっくり返し大海(タイカイ)へと広がっていくことを示しています。

僕はこの世界と共にあります。

この世界を感じ味わい認識を深めていく。そこに評価は挟みません。この世界のすべての出来事を自分自身の表れとして感じて味わっていく。そんなふうにこの世界に溶けだし空っぽになっていこうと思っています(^-^)




価値あるものとして自分の想いを表現する

昨日、5152049分に牡牛座新月となり、そして今日、516020分に天王星が牡牛座に移動しました。2011312日から続いた天王星牡羊座時代が今日終わりました。牡羊座は12星座の始まり、自分自身の原点を表す星座です。そこに革命の星、天王星が7年間働き掛けていました。その最終日の昨日は新月、新月はリセットを表します。そのタイミングで僕は自分自身の原点の革命、リセットの確認をしました。それは2015102日の大人ミーティングです。この時の僕は人生最大の課題に翻弄され壊れかけていました。そして疲れて投げやりになり大人ミーティングでコメントを求められてもそれを断っていました。そんな僕に対してジイジ(当時はいさどん)は以下のように語りました。

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話すことがないというのはあなたの都合であって、そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。

今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、それをやらないといつまでも超えることは出来ません。今、何をやれという具体的なことは何も言いません。ですが、あなたのその姿勢では問題です。きちんと向き合い超えていく。それが覚悟というものです。一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。ですが、それは本当は逆なのです。日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。このあなたの本質が変わっていないのは、覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。

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こんな話がされている時、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。


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今思うのは、やる気がなくなった時というのは、自分にとって都合の悪いことが浮上している時であり、そこに向き合うことが変革へと繋がるのです。壊れていく自分を見ていく。そして向き合っていくことで自分の原点にメスを入れ自分を変えていけるのです。

ですが僕はなかなかその作業をすることが出来ませんでした。そんな僕についてジイジは「往生際が悪い、覚悟が出来ていない、自分に執着している」と表現していましたが、まさにその通りで、僕はずっと自分の感情に執着をしていたのです。自分の奥から湧き上がる情動、自分と向き合いながらも最後の最後でそれに従うことを選んできました。ですが、本当の自分は情動の奥にいるのです。情動は自分から自由を奪うものでありその奥へ行くことで初めて目覚めることが出来ます。自分の感情に執着していた当時の僕はそのことに気づいていませんでした。だから努力をしていても最後の最後でその努力をぶち壊してきたのです。今はその構造が見えています。

2015102日、僕は自分自身の感情に翻弄されることで自分の努力をぶち壊しました。それは本当にひどい状態でした。そんな僕にジイジが語る言葉により僕は自らの愚かさに気づきました。それから僕はやる気がなくなった時、壊れていく自分を見てきました。それは自分の原点にメスを入れる作業であり、これからもずっと続けていくことです。

そして天王星は牡牛座に移動しました。牡牛座は五感の美しさ、豊かさを表現する星座です。これからそこに革命を起こしていきます。それは高い志の下、価値あるものとして自分のいろいろな想いを表現することできっと実現します。「みんなで」という気持ちで豊かさを表現していこうと思っています(^-^)


木の花ファミリーのみんな@田楽祭田植え祭り

大海として生きる

2013年12月、天から僕の下に「海(カイ)」という名前が降りて来ました。この名前、それ以来ずっと意識にありましたが、特に使うということはありませんでした。

それから4年後。

2017年の立春正月、僕はひっくり返ったのですが、それ以降、僕はブログで自分のことを海と表現するようになりました。例えば、以下のような感じです。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。




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そして昨日書いたブログでも自分を海と表現しています。

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世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。


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2018年5月4日の朝日です。

僕は海。2013年に天から頂きそのままになっていた名前を身近に感じるようになっていました。そして、昨日の朝、昇ってくる朝日を前にして新たな名前が天から降りてきました。その名前は「大海(タイカイ)」。大きな海。

僕は今年の2月、祖母が亡くなった時、「自分自身が大海の表れであるように」という文章を書いています。大海という言葉を使った趣旨は以下の通りです。

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人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

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大海として生きる。それはずっと心磨きを続けるということです。

話しは変わって。

最近、僕のまわりで「自立」や「自分の足で立つ」という言葉が聞かれるようになっています。それで思うのは、こういう時、波としての自分が立つことをイメージすると、世界から際立ち離れていくのではないかということです。そもそも波は浮かんでは消えるもの。それをずっと保とうとするのは不自然な努力となります。

大海とはこの世界そのもの。大海として生きればすべてが自分だから、自分という波が立つ必要はなくなります。大いなる流れに合わせて浮かんでは消える、ただそれを繰り返すだけ。大いなる流れを柱とし、自分に芯を通し、出会う出来事を通して変化変容を繰り返すだけなのです。

海(カイ)から大海(タイカイ)へ

カタカムナでは、「カ」は無限絶対空間に於いて普遍的に存在する極微小の最小単位、その「位置(イ)」が定まった状態が「カイ」です。2013年、「カイ」という名前が降りてきたのは、自分があるべき位置に収まった証と言えます。そして、昨日の朝、「タイカイ」という名前が降りてきました。「タ」は分離独立。すべてのものは、エネルギーの蓄積が高まると、二つに分かれて独立する性質があると言います。大海(タイカイ)とはこの世界そのもの。この世界そのものでありながら分離独立した位置に立つ。それはこの世界の中で自分独自の役割を担うことであり、それこそが真の自立です。

この世界そのものでありながら分離独立した存在、大海(タイカイ)。

僕はこれから大海として生きます。


自我を天へと導く

5月3日はいさどんの67歳の誕生日。この誕生日を機に『いさどん』は『ジイジ』となりました(「いさどん」から「ジイジ」へ参照)。この大きなターニングポイントの前日の夜、みんなで「八番目の聖者 ~道はひとつ、心はひとつ」を読みました。この話は瞑想中のいさどん(当時)の前に7人の聖者が現れたお話、そして席が一つ空いていて、そこにいさどんが立つように言われたお話です。以下、少し文章を引用します。

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八番目に立つ聖者が、その七人の聖者のようにひとりひとりじゃないんだと。それは、19931228日に小包でいただいた言葉、「尊きものを見つけて、そこに行き、救われることよりも、自らが尊きものとなって、他を救えるものとなれ。これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」その言葉につながっている。

お釈迦様が、「ガンジスの川の砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり」と言われた。「どんな人間の中にも、仏になる種が入っておるぞ」というふうに言われた。それはよくあるお釈迦様の言葉として、世の中にもそれを知っている人は沢山いると思う。

しかし、僕にお釈迦様は、そのあとの言葉を言われた。「ただし、その道を歩んだものにだけな」と。「すべてのものの中に真実の種があり、すべてのものに悟りへ行く道があるんだけれど、その道を歩まないものにはないぞ」と言われた。

そして、「これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」ひとりびとりが自分の中にある、宇宙の中心からくる神性、真理の種を開花させて、自分の中から光を外にほとばしらせる。そして、人に救われることばかりのもの、亡者として生きるのではなく、自分の中から光を出して他を救えるようなものになる。自分で自分を救えるもの。それが連鎖していけば、誰も救われる必要がない。ひとりひとりが目覚めて、キリストとしてブッダとして人々があったならば、この世界は救うものも救われるものもなく、それこそが理想の世界。地上天国になる。

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この文章はみかちゃんの提案によりみんなにシェアされましたが、提案した理由についてみかちゃんは以下のように語りました。

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八鏡文字

カタカムナで8(ヤ)は飽和安定、ヒフミヨイムナヤ(1・2・3・4・5・6・7・8)まで来て八鏡文字が完成します。八方ふさがりや闇(ヤミ)(8・3)という言葉がありますが、「8」まで来ると安定しますが、それは動きのない状態とも言えます。ですが、それは動き出す準備とも言えて、「9(コ)」で転がり出ることで「10(ト)」の統合、悟りへと至ります。これはヒトの歩む道を示しています。

過去の聖者が7つの席を埋めています。そして8番目の席、そこに一切衆生が座ることにより八鏡文字は完成し、世界は統合、悟り、コミュニティの仏陀へと転(コ)がり出ていきます。その時、人々は個(コ)の花を生き生きと咲かせています。7年前、いさどんの生前葬ではそのことを表現しましたが、現状は不十分です。そこから7年が経った今、本当にこの場でそのことを実現する時が来ています。

みかちゃんによる「八番目の聖者」の説明

冥王星の周期、庶民の目覚め、白陽期の開始は八鏡文字の「8」の場所になっています。

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『いさどん」が『ジイジ』となった大きなターニングポイントを迎え、時代はさらに目覚めへと進んでいます。その時代の流れの中で自分は以下のように思っています。

世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。

そう、僕は愚かで未熟な自我を抱えていますが本当の自分に目覚めています。それは木の花ファミリーの暮らしの中でいさどんをはじめとするみんなに育まれたから。上記の文章に続いていさどんは以下のように語っています。

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僕は、この世界を救うものとして、この世界に派遣されるような立派なものではない。この世界を救うようなもの、イエスやブッダや他の聖者のような立場に立てるのだろうか。僕の中から、そんなおこがましいと自分をへりくだる心が湧いてきて、どうもしっくりいかない。それをずっと考えてきた。

富士山の頂上で、「その心、これからは、日の本の国全体に説くがよい」と言われた時も、「そんな、私にそんな大それたことができるわけがありません。
私にどうして、そんな能力がありましょうか」と、そうやって言われるたびに、
ずっとその言葉を否定してきた。

でも、最近になって思うのは、人間いさどんがひとりでそれをすることはできない。けれど、このいただいた心を自分の隣の人に伝えることはできる。ちょうど、自然の仕組みが利他であるように、自然は自らが存在することによって、自分が関わる両隣のために生きている。その仕組みが、いのちの仕組みとして、この世界すべてをつなげている。それが、いのちの仕組みであり、神様がこの世界をそれで治めておられる。

そして、この尊い仕組み、尊い心を自分が今もっている。それを両隣の人に伝えることができる。そして、この精神、想いは、人と人、いのちといのちのつながり、ネットワークにひとたび解き放たれれば、それが連鎖して、この世界にすべて行き渡る。そうなった時に、この世界が理想の世界になる。

「その心を日の本の国全体に説け」と言われたこと。そして、「尊きものを見つけ、そこに行き、救われることよりも」という言葉からくる、ひとりびとりがイエスやブッダ、すべての衆生に仏性がある、ということ。それは、この宇宙のもとにある一番のエッセンス。その心にひとりひとりがなれる。

そうして、八番目の聖者というのは、ひとりの人間ではなく、すべての人々の中にある仏性、神としての心。宇宙の根源から分かれてきて今がある。それを思い出した時に、すべての人の中に八番目の聖者たる資格がある。

それに皆が目覚める時代、それが今の時代。自分も八番目の聖者だけれど、すべての人が八番目の聖者である。そういう時代が幕を開けようとしている。そういう時代がこれからの時代なんだ、ということがわかってきた。

その見本とする生活が今ここにある。ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンが言った言葉、「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。それは他者を理解しようと努め、互いを慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大切なことではないだろうか」という言葉にもつながる。

僕は、瞑想の時代にお釈迦様に問うた。「こうやって私もいつか人々の心の問題に答えながら、人々が集まり、組織ができ、新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」そうしたら、お釈迦さまが言葉を返されて、「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。人々が集え。集い語り合え。語り合う中から真理が生まれる時代である。そういった中から世は開かれる」と言われた。

「そのひとりひとりはすべて今の仲間、そして地球にいる仲間たち」、そこに気づくことができた。

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いさどんが尊い心を両隣の人に伝えてきたように、そしてこれからも『ジイジ』としてその実践を続けるように、僕も自我を天へと導くことで育まれた尊い心を伝え続けていこうと思っています。

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