ラベル 木の花の暮らし の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

想いを手放し、想いのままに生きる

僕は今、確定申告の準備をしていますが、締め切りが間近に迫る中、国税庁長官の佐川氏が辞任しました。学校法人「森友学園」への国有地売却問題での決済文書書き換え疑惑を受けてことで、佐川氏は売却問題が発覚した昨年の2月、理財局長を務めていました。財務省は書き換えの事実を認め、そして佐川氏は国税庁長官を辞任しました。佐川氏が自らの意志で書き換えをするとは考えにくく、それを指示した存在がいたと思われます。

決済文書を書き換える行為は作為です。そして佐川氏の辞任にも「トカゲの尻尾切り」という作為が感じられます。

こうしたい、こうなって欲しいという気持ちがあるからそうなるように作為をするわけですが、その作為が上手くいく保証はどこにはありません。作為は自分の視点からするわけですが、自分の欲に縛られれば縛られる程、その視点は狭くなっていきます。そのため作為は思いがけない結果を生み出し、結果に対応しようとして新たな作為が生まれ・・・というように自分の欲に縛られると結果に翻弄されるようになっていきます。

今、森友学園問題は上記のような状況にあるように思われます。そして、それは今の社会を象徴する出来事と言えます。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分たちのこうしたい、ああしたいという想いが自分たちの意図を超えて今の問題を生み出しているのです。そして何とかしようとするのですが、その想いも大抵は同じレベル(自分視点)でなされます。そうすると何とかしようという気持ちが今の問題を維持しているとも言えます。人は問題を通して学ぶのでありそのことを必ずしも否定的に捉える必要はないのですが、ある程度学んだら想いをリセットする必要があります。そうでなければ人は、自らの想いが生み出す想いもよらない結果に翻弄されたままとなります。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


☆彡 ☆彡 ☆彡

人がこの世界に誕生する時、自分の意図は介在しません。みんな、自分の想いもよらない出来事によりこの世界に生み出されます。想いもよらないことによって世界は動き、僕らは生かされているのです。だから僕は想いを手放します。

上記は自分の視点から、思惑や感情を離れて見た事実です。

ですが他者から見たら違う景色も見えてきます。他者からすると、僕の想いが想いもよらないものともなります。ただ他者の期待に沿うのではなく、想いもよらない喜びを生み出すことも出来ます。そのためには想いのままに行動することが大切で、だから僕は想いのままに行動します。

想いを手放し、想いのままに行動する。

話すことは放つことです。想いのままに話し、話すことで想いを手放す。そうすることで、想いのままに生きるとともにその想いを手放していこうと思っています。

農事組合法人の決算や確定申告の準備のために長いこと大人ミーティングをお休みしていましたが、もうすぐその期間も終わります。ミーティングで、みんなで語り合い場創りをすることで、「みんなで」という波動を世界に広げていく。大人ミーティングはそんな場です。

長いお休みの中で培った僕の視点、それを想いのままに語ることで、僕はその想いを手放していきます。そうすることで僕は、自分の想いもよらない人となり想いもよらない人生を歩んでいくことになるでしょう。そんな人生を楽しみます(^-^)


木の花ファミリーのみんな、1ヶ月間の真学校受講生と。


すべて美しく、すべて意味があり・・・

3月7日の誕生日、僕は1ヶ月間の真学校「経済革命」の講座に講師の一人として参加しました。講座の冒頭、いさどんはこんなふうに僕を紹介しました。以下、「当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済」からの引用です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


経済とは、お金の流れです。では、木の花の中でお金の流れはどうなっているでしょう。
木の花の中のお金は、ひとつです。皆さんの会社や家庭の中で、お金はひとつではないでしょう?でも木の花では、お金はひとつなのです。みんなでひとつの財布です。つまり木の花の経済は、私たちの体や地球、太陽系、銀河、宇宙の仕組みと同じなのです。それはこの世界の仕組みそのものですから、当たり前のことですね。ところが、この当たり前のことが今の人間社会にはできないのです。
僕はいろいろなエコビレッジなどに招待されて行くことがありますが、皆さんのところではお財布はひとつですか、と聞くと、そうではありませんね。たった「財布ひとつ」ができない。なぜだかわかりますか。それはスピリット、つまり、心がひとつではないからです。
木の花の経済は「財布ひとつ」ですが、それを循環させる心臓の役割を今日は連れてきました。
IMG_8989
経理のなかのんです。木の花の心臓です。よろしくお願いします。
(みんな拍手!)

☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、話はこんなふうに続きました。

☆彡 ☆彡 ☆彡


みかこ:
金は天下の回り物、と言いますね。

いさどん:
おもしろいですね。「天下」とは天の下、つまり地上のことですね。
木の花の経済は「目から鱗」と言いますが、実は当たり前のことです。天の恵みを世の中に広げる、天然循環経済。その基本が、財布ひとつということです。
財布ひとつと言うと、みんなびっくりします。でも、地球の水はひとつですよね。液体だったり個体だったり気体だったりしますが、それは循環しているだけで、ひとつです。空気もひとつですね。今私たちは、ひとつの空気を共有しているじゃないですか。これはみんなの中を循環し、みんなを健康にするものです。そしてこの世界をひとつにします。お金もそうでなければなりません。それは、私たちの体を流れる血液と同じなのです。

もしも皆さんの会社や所属する組織がお財布ひとつだったら、とても便利がいいですよ。自分の貯金なんて確保しなくていいのです。お金が必要になった時に、お財布の中身が足りない、どうしようなんて考えなくても、全体のお財布から持ってくればいいのです。その代わり、自分が日々働くことは全体のためであり、お金も全体に入ります。自分は全体のために働き、自分が何かを必要になった時は全体から供給されます。ということは、自分のためだけに、なんて考えなくてもいいのです。とても楽だと思いませんか?とても楽で理に適った当たり前のことですが、それを聞いてみんな驚くのです。


でも皆さんは、そんな世界を求めているのではありませんか?

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどんと一緒に講座を創れたことはとっても素晴らしい誕生日プレゼントとなりました。いさどんは僕を引き立て、そしてその場を豊かな時間にしていきました。この日の夜、僕は「経理を通して社会と響き合っていく」を大人ミーティングでシェアしましたが、その場もいさどんは僕を引き立てながら楽しく豊かな時間を生み出しました。

木の花ファミリーの経済は頭でこうしようと思って生み出されたものではありません。心をひとつにして暮らし、社会と対話する中、生み出された仕組みです。だからずっとこれで固定するわけではなく社会が変化すればそれと呼応して木の花の経済も変化していくことでしょう。ただその土台は変わることがありません。それは「心が一つ」ということであり、自分を超えた大いなる意志の下、みんなで繋がり分かち合う生き方です。

誕生日、たくさんの人に祝って貰って幸せな気持ちになりましたが、普段の日から美味しい食事や温かい心に包まれ毎日幸せに暮らしています。それは分かち合う心が生み出す豊かさです。生きていれば都合の悪いことも起きますが、それは自分の視点から見ているから都合が悪いのであって、大いなる意志に心を向けたら、すべての出来事は祝福です。そして生きていることは意図せずに実現していることです。僕の意識の知らないところで僕はこの世界に生み出されました。生きていることは自分の意図を超えています。だから「こうでなきゃ・・・」という想いや「自分が・・・」という想いを超えて、この世界に心を溶かしてみんなと心一つで生きていこうと思いました。

誕生日、友人の川崎くんは今年もこんなメッセージをくれました。

☆彡 ☆彡 ☆彡
Happy Birthday!! Whatever is beautiful, whatever meaningful, whatever gives you happiness.May all that be yours, today, tomorrow & forever .

(誕生日おめでとう!! すべて美しく、すべて意味があり、すべてがあなたに幸福をもたらします。今日と明日、そして永遠にそれらがあなたのものでありますように。)

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は一人の人間だけれども、同時に永遠の表れでもあります。そして、すべては美しく、すべては意味深く、すべては尊い。「自分が・・・」という想いに囚われなければ、そんな世界が見えてきます。僕は永遠の表れ。永遠という時空であり時空を超えた世界の一つの彩りなのです(^-^)


経理を通して社会と響き合っていく

先月、プロセスワーカーのとこさんは還暦を迎えましたが、とこさんが誕生日にあたり書いた言葉がとても印象に残っています。以下その一部を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

兎に角、言いたいのは、年齢だから起きてると思う症状を歳のせいにするより、その症状がシステムに自分がどう加担してるかにいかに関係してるかっていうアウェアネス(気づき)を持ちたいと思う方が、とこにとっては大事ってこと。

☆彡 ☆彡 ☆彡

システムという言葉は社会とも言い換えることが出来ると思うのですが、一人一人の身体症状や課題は社会の影響を受けていて、社会の表れとも言えます。と同時に、一人一人の総和が社会なわけだから、自分のあり方は今の社会のあり方に何らかの形で加担しているわけです。人は症状に出会うと自分を被害者のように感じるものですが、無意識を含めた自分の総和がその症状を選び、そして自分一人分、今の社会に影響を与えているのです。そこを見極めていくことはとても大切なことだと思っています。

それと同時に大切だと思っていることは、症状をネガティブに捉える必要はないということです。ネガティブに捉えるのは、善い悪いという発想に囚われているからで、すべてはただ相応しくあるだけなのです。だから単純に症状や問題をなくそうとするのではなく、症状や問題を生き抜きその奥を見通していこうと思っています。その時きっとこの世界の神秘が花開いていきます。




ここで社会と自分の関わりについて書いてみようと思います。僕ら木の花ファミリーはお財布一つでみんなで暮らしています。誰がお金を持っていてもそれをみんなのお金として扱い生活しています。どこにあっても誰が持っていてもみんなのお金で、そのお金を通してみんなの生活を支えています。自分が持っていても他の人が持っていても同じことだからみんなお金のことを気にせずに暮らしています。その暮らしは今の社会に対する一つのメッセージとなっています。

と同時に僕らは日本社会の中で生きているので、日本の法律に基づいて暮らしています。日本の法律では、課税の基準としてお金の所有者や動きを明確にすることを求めています。その求めに応じて、たくさんの人が集まって一つになっているお金の動きを分類し所有を明確にしていく作業を僕はしています。それはとても複雑な作業なのですが、今の社会を表しています。一人一人が所有権や望みを主張することで、本当は単純で美しいこの世界を人間は複雑で情にまみれたものにしています。そして余計な仕事を生み出し仕事に追われる生活をしています。今、お金はお金を管理する仕事を生み出していますが、世界のお金がみんなのお金になったら、どこにあって誰がもっていてもみんなを支えるだけならば、多くの手続きが不要になりこの世界のトラブルも半減するでしょう。ですが、今の人々は、個人個人の幸せそして個人個人のお金を求め、それが生み出す忙しさを受け入れています。それが今の社会の選択で、その社会と連動して僕は忙しさを引き受け心や身体に負担を掛けている、そんなふうに思っています。そして、それは僕の主体的な選択であり大切な役割だと感じています。

この世界の神秘は現象の奥にあります。だから極端なことを言ってしまえば、現象としては何が起こっていてもいいのです。大切なのは、その現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。

僕は今の社会へのメッセージとしてお財布一つの生活を送りながら、それと同時に、経理を通して今の社会の複雑さを生き大変な思いをしています。その大変さは、人間が歴史の中で生み出してきた複雑さであり、彩りであり、混乱であり、多様性です。僕の忙しさの奥には今に至る人類の物語が流れているのです。僕は現代社会に生きる一員としてその複雑さを生きています。と同時に、僕は他の世界、お金から自由な世界も体験し知っています。だから僕は目の前の現象から離れ現象の奥を見通すことが出来るのです。

ここには危うさもあります。僕が目の前の作業に埋没し、ただ忙しく働くだけならば、それは今の複雑な社会に加担するだけとなり、下手したらワーカホリック(仕事中毒)にもなりえます。こうなると僕は社会の犠牲者となり、そのことで社会を犠牲にするようにもなります。ですが現象の奥を見通しその視点を持って忙しい毎日を送れば、そこから「気づき」が生まれこの世界へ光を差し込むことが出来るのです。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


☆彡 ☆彡 ☆彡

現象の奥にはすべてを生み出す元の世界があり、そこには常に希望があり、世界に変化変容をもたらしています。ですが、人が今の想いに固執すると、その動きが停滞し問題となって表れるのです。今、多くの人が自分の想いで心をいっぱいにしています。そして、一人一人が自分の想いを満たそうとして社会がどんどん複雑になっていきました。僕は経理を通してそんな複雑な社会を経験していますが、同時にそこから離れ現象の奥へと目を向けています。だから僕の中には気づきがあります。

今年の2月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンしたことで経理上はとても複雑になった木の花の経済に向き合う中、僕は39.5℃の熱を経験し、オフィスの引越しを経験し、祖母の死を経験しました。熱の中も仕事を続け、日帰りでさいたまの祖母の葬儀に立ち会い、最後は5日間で7時間という短い睡眠時間(横になった時間でウトウトした時間はもっとあります)で働き続け法人税(農事組合法人)の申告を済ますことが出来ました。僕の中には最初、この状況に対する怒りが生まれていましたが、次第に神様の計らいを感じるようになり「いただく心」を育んでいきました。それはとても濃密で有難い時間で僕はこの時間を通して自分が傍楽(はたらく)意味を再確認しました。

働く(はたらく)とは、人が動くことであり、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たし、傍(はた)を楽(らく)にしていくことです。そこに「自分が」という想いは必要なく、空っぽになってただ与えられた役割を坦々と果たすだけ、そしてそのことを通して現象の奥を見通し、この世界に気づきをもたらしていくのです。

傍(はた)を楽(らく)にする。

他者のために生きる

それはただ物理的な行動だけではなくこの世界に気づきをもたらし新しい動きを生み出すことです。自分の想いでいっぱいの行動は、最初はスムーズに動いたとしてもいずれこの世界に停滞をもたらします。だから常に自分を離れ現象の奥を見通す心が必要で、これからもずっとそんな心を育み経理を通して社会と響き合っていこうと思いました。

もうすぐ僕は43歳になりますが、誕生日は現象としての自分がスタートした日です。現象としてはそこがスタートですが、現象としてこの世界に顕れる前に、魂としての自分は存在し続けていました。3月7日の誕生日を前にして、そこに想いを馳せています。

大切なのは、現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。だから現象は何が起きてもいいのです(^-^)


木の花ファミリーのみんなです。

咲いた梅の花のように

やることが沢山あるとそのことに意識を集中する必要があるのですが、それは没頭にも通じて、場合によっては危うい状態にもなります。

お酒やたばこ、薬物、パチンコ、仕事や携帯など。世の中には様々な中毒や依存症がありますが、依存症、中毒って何かに没頭することで現実を忘れていくことだと思うのです。現実と向き合わないことで日常生活に支障が生じたり、身体が壊れたりしていきます。そして心は、世界との生きた交流を失い、自分だけの世界へと埋没していくのです。

もともと僕には自分の中心を他者に投げ出す傾向があり、そのことによってトラブルを経験してきました(「あなたの未熟もみんなに役立つ」参照)。それって依存症にも通じる心で、依存症は自分の中心をお酒やたばこに投げ出すことで「それがなければいられない状態」へと陥っていくのです。

今、実際に会計処理に集中する必要があるのですが、それってワーカホリック(仕事中毒)を生み出す土壌ともなり、しかもそのことに正当性も与えられます。いやぁ、危うい。本当に危うい状況にあるなと思います。実際に2月中、この精神状態ってこのままいくと依存症のようになっていくんだろうなと感じたことがありました。依存症の要素を抱える僕にこんな状況が与えられるのも神様によるお試しだよなぁと思っています。危うい状況にありながらもそれを認識し、現実に心を開き必要なことを坦々とこなしていく。それは僕が自分の課題を克服した証となっていくことでしょう。そんなことを思い日々を送っています。

そして3月に入りました。

3月に入り健康や長寿を表す梅の花が僕の周りでもようやく咲き始めました。今年は寒かったからか例年より開花が遅く感じましたが、多少遅くなったとしても季節は巡っていきます。そして、今日、3月2日は満月です。この満月は旧暦では小正月にあたり、2月16日の新月から始まった旧暦のお正月期間もここで終了となります。この期間、僕はかなり無理を重ねて働きましたが、季節が巡るように僕の状況も日々刻々と変化していきます。一番大きな課題と言える農事組合法人、法人税の申告は済ますことが出来ました。これからは花開いた梅の花、健康をもう少し意識して過ごそうと思います。

昨年の3月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンすることでコミュニティ全体のお金の流れが大きく変わっていきました。そんな中、僕は木の花のお金の流れを掴みきれなくなっていきました。そこで外部の専門家に見てもらうことも検討し、税理士紹介サイトを利用したのですが、日常生活と3つの法人(農事組合法人、NPO法人、合同会社)が一体となったうちの会計の特殊性のためか引き受けてくれる税理士は見つかりませんでした。だから自分で道を切り開く必要があったのですが、なかなか光を見いだせずにいました。そんな状態だったので農事組合法人の決算報告を作成することは不可能に思え、この1年ずっと葛藤状態にありました。

早い時期からずっと大人ミーティングに出ることを止めて会計に集中するべきではないのか?木の花祭りの鬼を降りて会計に集中するべきではないのか?

こんな思いも湧き続けていましたが、僕は昨年1年、大人ミーティングの多くに参加し全力で場創りをしてきました。そして木の花祭りもみんなと共に舞い踊りました。その経験は僕の宝となり力量となっていますが、もし決算報告が出来なければそれもただの判断ミスとなっていきます。そんなプレッシャーと向き合った2月。僕は作業に集中する中、とうとう木の花のお金の流れを掴み直すことが出来ました。それは感覚の話でもあり、流れを見通すと、ここ全体のお金の流れが自分の身体の一部のように感じられます。その感覚をなんとか取り戻し決算報告を仕上げることが出来ました。

不可能に思えたことが出来たこの経験、自分が自分の想像を超えたと言うことも出来ますが、結局、先のことは分からないのです。分からないから、先のことは置いておいて目の前のことを確実にこなしていくことが大切です。例えば僕が昨年の早い時期から大人ミーティングに出ずに会計に集中したとします。それが良い結果に繋がったかというとそうとも言えないと思っています。僕の中には「出来ないのでは」という不安があったわけですが、不安からの行動はそれに相応しい現実を生み出すものです。会計ばかりに集中して僕の心のバランスが保てるかどうかも分からないことです。未来をコントロールすることは出来ません。常に何が起こるか分からないものです。

結果から見たら、僕は昨年、大人ミーティングの多くの時間を楽しみ、そして決算報告も出来ました。それは未来に対する判断を置いておいて目の前のことをこなしていった結果だと思っています。そして今、心が少し軽くなっています。

梅の花が咲きました。そして旧正月の期間が終わります。だからどうしようと決めるわけではないのですが、咲いた梅の花を感じて咲いた梅の花のように過ごしていこうと思っています。

季節は巡り巡ります。同じように僕の状況も、そして世界の状況も巡り巡ります。その変化に心を開いていようと思っています。

梅の花と富士山。「宮ノ下広場」にて。



自分自身が大海の表れであるように。

自分は親孝行をしていたはずなのに、与えようとする意識とそれを受け取る意識の価値観が違うがために、親不孝をしていることがわかったのです。親孝行や人を想うことは、相手と通じたときに価値があるのです。どんなに相手を想う心であっても、それがいかに尊くても、相手と通じなければ意味がないと考えたときに、自分は間違っていたと気付きました。その極めつけとして、「自分は世のため人のための人生を生きると言っておきながら、結局自分の先祖や両親を優先して考えていた。ここにも我があることを知って、天はこの我も取りなさいと教えてくれているのだ」と気付き、親元を離れ、富士山へ行き、この生活をしようと決意したのです。


このようにして、ふるさとでの理想郷づくりを半年で断念した僕は、ふるさとを出発する当日、その志を滝神社の氏神様に報告しに行きました。そうしたら、氏神様から次のような言葉が降りてきました。「そなたのことは、上の神様より聞いておった。そなたがここに来て、わたしを盛り立ててくれることを喜びとしておった。だから、まさかここで別の地へ行くとは思わなかったが、それは理解できる。旅立ちのはなむけに、言葉を送る。どんな大海を行く者も、その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記はいさどんが故郷を離れる時のエピソードですが、人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

話しは変わって。


そば粉のガレット



のんちゃん
カフェ&ショップ ロータスランドでは今週から午後2時以降、そば粉のガレットを提供しています。Facebookに掲載されているのを見て秘かに食べたいなと思っていたら、ロータスランドスタッフののんちゃんが作ってわざわざ僕が仕事をしているオフィスまで持ってきてくれました。それもちょうど飲みたいなと思っていたミルクティーと一緒に。思いがけなく胸がいっぱいになって、5年前の7月にのんちゃんが作ってくれたおにぎりを思い出しました。以下、その時、Facebookに投稿した文章です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


今日は、お昼に出かけることになっていたんだけれど、バタバタしてしまい、昼食を食べる時間が取れそうもなかった。

「まあ、いいか」と思っていたら、そんな僕の様子を察してのんちゃんがお出かけ用に、おにぎりとゆで卵を用意してくれた。

のんちゃん、すげー!!!

って思った。僕は何にも言っていないのにね。


※写真のおにぎりは酵素玄米にピーナツと黒米餅あられが入っているもの。この他、キビご飯の焼き飯のおにぎりや、とろろと黒ゴマと梅を使ったおにぎりが入っていて、とっても美味しかった(^-^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、おにぎりで思い出すのは、昨年の誕生日に同じくのんちゃんに作ってもらった大きなおにぎり(下の写真)。この時、僕はこんな文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

とっても素敵な料理を作ってもらって胸がいっぱいになりました。そして、みんなで僕を囲んで写真を撮ってくれたのですが、「なかのん、誕生日おめでとう!!!」という声と共にみんなが拍手をしてくれました。それも思いがけなくて胸がいっぱいになりました。デザートはほとんど子どもにあげてしまったのですが、こうやって共有出来ることがただただ幸せでそのことも僕の胸をいっぱいにしました。僕は感動で満たされました。

変化変容を繰り返すこの世界の法則はみんなを幸せに繋いでいきます。それを邪魔するのは「自分が・・・」と際立つ心だけです。僕は魂の地点に立って、自分の思考や感情から自由となり法則のままに生きていきます。そしてみんなとその豊かさを表現して発信していきます。その時きっと自分自身が永遠の表れとなっていることでしょう。

そう、僕は永遠に続く宇宙です(^-^)

いや、「僕は・・・」ではなく「僕も・・・」ですね。
気付けばみんな永遠に続く宇宙、共に未知の道を旅しているのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

自分を超えて法則のままに生きる時、人は宇宙そのものの表現となり大海と一つとなるのだと思います。これから僕は祖母の葬式に行きますが、僕はそんな心を持って祖母を見送ろうと思っています。その場で会う僕の身内は一滴としての僕を生み出したくれた人たちですが、僕は同時に大海でもあります。自分自身が大海としてその場に臨めば、滴としての僕らは溶け合って時空を超えて、生死を超えて一つとなっていきます。忙しい時期であり物理的には僅かな時間しか共に過ごすことは出来ませんが、大きな心で共に過ごそうと思っています。

2月という1年で最も忙しい時期に病気をいただき、そして祖母が亡くなりました。思いもかけないことが続きますが、神さまの計らいも同時に感じています。例えば農事組合法人、税申告の締め切り日に葬式が突然入ったらどちらかを諦める必要があるわけですが、何とか出来る可能性は保たれているのです。

そして今、僕は木の花のみんなの中で生きています。そしてみんなが僕に気を掛けてくれています。素敵なデザートを運んでくれたのんちゃんだけでなく、癒し処たんぽぽの鍼灸師じゅんぞうくんは頼みもしないのにいつも僕の身体の状態を見てくれます。そして、日々の細かなことに気を掛けてくれるオフィスチームのみんな、僕のエールのために大事を語ってくれたいさどん、全部、僕が意図していないところで起きていることです。僕の意図していないことが僕を支え僕を生かしてくれています。

自分にとって都合のよいことも都合の悪いことも、嬉しいことも辛いこともみんなみんな自分の意図を超えたところで起きていて、それが僕の胸をいっぱいにして僕の幅を広げてくれます。僕という一滴を壊し大海へと導いてくれているのです。

大きな流れがこのタイミングで僕を肉親の元へと導いています。僕はただその流れを受けて行動し滴としての自分を確認すると同時に自分自身が大海の表れであるように生きていこうと思っています。それはこんな感じの人生です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。



木の花ファミリーのみんな

空っぽになること、それは本来の自分に戻ること

富士浅間木の花祭り「瀬織津姫の舞」。瀬織津姫は水を司る神様です。


今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は先月木の花ファミリーを訪れたシルク・ド・ソレイユのダンサー、ビルさんの言葉です。ビリーさんは富士浅間木の花祭り(1月27日に開催しました)の稽古の場に出会い、以下のように語りました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。


☆彡 ☆彡 ☆彡

奥の心を感じて歩んでいく」に書いたように最も忙しい時期に病気も頂いた僕は、物理的にはとってもたくさんの時間を帳簿と向き合って過ごしていて、僕の中は数字でいっぱいになっています。それはビリーさんの言葉に出て来る「水がいっぱいに入ったコップ」のような状態。だからニュースを見ても大事な話に出会っても自分の中には全く入ってこない状態でした。そういう自覚はあって、でも〆きりを意識する必要があるから、だから今はそれらを置いておいて仕事に集中しようと思って過ごしていました。そういう時期かなと。

話しは変わって。

2月16日6時5分に新月となりましたが、この新月は旧正月で旧暦では1年の始まりでした。睦月の新月、そのことについて杉山開知くんは以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


「明けましておめでとう」の一言も、太陽(日)と太陰(月)の重なる新月だからこその挨拶であり、初日の出も(実際は眼に見ることはできませんが)“初月の出”も一緒に拝んでいる特別な瞬間なのです。

太陽と月が相結びつくという意味の「睦月」

この元旦は新月=大潮ですから、体感的にもお月さまを肌で感じながら心機一転、気持も新しく年をスタートすることができる時。すべてが新しく生まれ変わることの気持ちよさは、この旧正月ならではの行事です。

 ~ 中略 ~

この新月は1年の元となる日ですから、書き初めのように決意表明したり目標を立ててみるのもオススメ。また正月(1月)にやり残した断捨離や大掃除、人・物・事・金などの整理整頓したり、疲れた身体をぐっすり休ませる寝正月もいい過ごし方です。この旧正月(元旦)が太陽と月の自然のリズムを感じるきっかけになるといいですね。

体感的には寒の極みではありますが、自然界では木の芽もふくらみ、山野草も顔を出し、すでに足元から春ははじまっています。特に季節変化の色濃いアジアでは旧正月・春節は暦のはじまりとなる最も重要な節目です。


ここから春夏秋冬とともにめぐる月の1年のはじまりです◎


☆彡 ☆彡 ☆彡

この旧正月に合わせたように2週間以上続いた僕の熱が平熱に戻りました。そして、この節目の時に、農事組合法人決算など成し遂げなければならないことを「~出来た」と完成形で書いていきました。それはやり遂げるための決意表明ですが、これらを書いていて思ったことがあります。それは「人生は場創り」だということです。だから物理的なことを達成すればそれでいいわけではないのです。常に自分が「場」に何をもたらしているかを意識している必要があります。先日の木の花祭りを経て、僕は以下のように書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

熱は自分にとって思いもかけない出来事でした。それに出会うことで僕は自分を浄化し、いただく心を育みました。それをこれから「場」に生かしていく必要があるのです。そんなことを確認した旧正月が明けて2日目の17日の夜、いさどんは大事なことを語るためにメンバー全員を集めました。ここ最近はずっと大人ミーティングには参加していなかったのですが、「全員」という呼び掛けに応じて参加することにしました。

そこで確認されたのは、みんなで共に暮らすこの暮らしに大切さ。訪れた人が何か懐かしいものを感じる場所。それはここが人本来の生き方をしているからで、みんなが大切なものを思い出すということです。こういうことは、ずっと当たり前のように共有していたことですが、この時間がもたれたのは、いさどんの大事をみんなに伝える役割意識からであり、忙しい僕に対するエールでもありました。たとえ一人で作業をしていたとしても、心は常にみんなと共にあるということ、それがこの暮らしの醍醐味です。

話しを聴きながら思ったのは、いつでもどこでも「空っぽ」になれるということです。「空っぽ」になるとは、余計な思考をストップさせて今この瞬間に自分を解放し味わうことで、それは世界と一体である本来の自分に戻ることです。だから、どんなに自分の中がいっぱいになっていたとしても、それらをいったん手放し、今に集中すればいいのです。するとビリーさんの言葉にあるように世界が自分の中に入ってきて世界と自分が一体となります。

日常生活ではやることが沢山あります。だから今の僕のように自分の中がいっぱいになっていくこともあります。それはそれで日常を回すために必要なことと言えます。ですが、それと同時に日常を超えた本来の自分に戻るためにちょっとの時間でも空っぽになることを大切にしようと思いました。

そして今日、19日は24節気では「雨水」ですが、「雨水」は以下のような日となっています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

春の兆しが徐々に近づき、雪融けとともに、しとしととやわらかい雨が降る「雨水」
「立春」から15度進み、春夏秋冬の四季の物語も一歩踏み出しました。旧正月も終わり、いよいよ1ヶ月後は新年度「春分」です。

1年の反対側は9月上旬の「処暑」、台風や豪雨など荒々しい季節に対し、初春の「雨水」は1年で最も繊細で敏感に水が動く季節。植物も地下部では水揚げがはじまり、枝にはつぼみがつきはじめ、本格的な春の到来を待っています。

1年を1日にたとえると、「雨水」は朝の4時くらい。少しずつ夜明けとともに、自然界も眠りから覚めていくようです。また入試や人事や決算など、社会も新年度・新学期に向けて動き出しています。初春はスタートというよりは、春分に向かってラストスパートのようです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

雨水は、1年で最も繊細で敏感に水が動く季節世界中から集まり木の花祭りで一つとなった清水は翌日、水の御用で地球(川)にお返ししました。そのお水も今、世界中を繊細に敏感に巡り調和した未来へ向けての準備をしてくれていることでしょう。


水の御用

地球の元旦である立春正月、そして旧正月があけて、次は宇宙元旦の春分です。自分の生死を超えた宇宙時間、宇宙の理を意識し、ただ出会う出来事を楽しんでいこうと思います。それが調和した未来へ向けての準備となると思っています(^-^)

₋₋₋

この文章を書き終わった後、祖母が亡くなったという連絡を受けました。また思いもよらないことに出会いました。僕がさいたまに帰って顔を出すととっても喜んでいたおばあちゃん。さいたまから離れた僕をいつも気に掛けていたと言います。忙しい時期ですが、顔を出して天に旅立つところを見送ってこようと思っています。そして僕のルーツの一つを確かめ、それを学びとし未来へ繋げていこうと思っています。

予期せぬことに心を開くこと。そしてすべてが祝福となるように。

僕は空っぽになってすべての繋がりの中で世界と一緒に生きていきます。


富士浅間木の花祭りで僕(一番右)は鬼を演じていました。
茂吉鬼です。木槌でお宝が詰まった蜂の巣を落とします。



奥の心を感じて歩んでいく

火の御用(2018)

根っこから、根本から、世界を天に明け渡す」を読んだ方から「天然痘はどうしてなくなったのだと思いますか?」という質問を受けました。それは間違えなくワクチンのお蔭と言えます。だからすべてのワクチンを否定するのは違うのだと思います。おそらく天然痘のワクチンとインフルエンザのワクチンとではそれが生み出された時の「奥の心」が違うのだと思います。

「他者のために」「苦しんでいる人を救うために」

そんな想いからエドワード・ジェンナー氏は天然痘ワクチンを開発したため、それは結果として表れているのだと思います。それに対して、インフルエンザワクチンはいろいろな意見があるにしろ、効果が分かりにくいです。それはインフルエンザワクチンの開発が純粋な心からではなく、いろいろなものが絡んでいるからだと推察しています。



奥の心を見ていくことが大切なのだと思っています。

さて「病をいただく」に書いたように3年前のこの時期、僕はインフルエンザに罹りました。農事組合法人の決算や個人の確定申告で忙しい時期に長い間休むことになり、復帰後その遅れを取り戻すように仕事に没頭していたら足がゾウさんのように膨らみ、みんなに大きな心配を掛けました。その時のことを当時の僕は以下のように書いています。


木の花ファミリーのお金の流れ(2017年末現在)
☆彡 ☆彡 ☆彡

木の花ファミリーメンバーの多くは農事組合法人の組合員ですが、法人と組合員との間に雇用契約は結んでいません。一人一人が独立した経営者として法人の運営に関わり、従事した分量に応じた配当金を受け取ります。組合員は、その配当金に基づいて確定申告をするのです(農業所得)。加えて、私たちは、本の出版やCDの製作販売、施設や田畑の見学への対応、不動産賃貸など農業以外の収入も得ています。それらについても毎年申告しています。

一般用、農業所得用、不動産所得用の3種類の青色申告決算書を作成し、それぞれ必要なメンバーに振り分けていきます。その他、年金収入や外勤メンバーの給与などを確認し、一人一人の年間の所得を割り出していきます。この作業はとても面白いです。木の花ファミリーのお金はみんなのお金です。でも、そのお金は均質ではなく、一人一人の個性に彩られているのです。数字からそれを感じてちょっと感動します。自分が作成した決算書を見て、「これも芸術だよな~」なんて思ったりもしました。(※お金とは何か?~「自分のお金」と「みんなのお金」もお読みください。)

誰か他のメンバーが持っているお金も、農事組合法人やNPO法人が持っているお金も、すべて「世の為、人の為」に使われ、世の中に循環していきます。だから、みんなどこにお金があっても気にしません。この安心感と信頼はこの暮らしの魅力でしょう。この温かい暮らしの中で、僕は能力以上の力を発揮して暮らしています。2月締め切りの農事組合法人の決算並びに法人税の申告を通してそのことを感じました。

農事組合法人木の花ファミリーは、お米や野菜、小麦や雑穀、豆類など多種多様な商品を販売し、農家民宿や農家レストランを展開しています。それだけでも経理は細かくなりますが、さらに静岡県と長野県と2つの県に事務所を構え、そして先にも触れた通り、組合員に給与を支給しない従事分量配当性を採用しています。そのため税の申告には特別な事務処理や書類が必要となるのです。(申告書の提出先も、国、静岡県、長野県、富士宮市、大町市と5つになります。)

加えて、農事組合法人木の花ファミリーは、上記の図にあるように、NPO法人ぐりーんぐらすや個々の組合員と連携して様々な事業を行っています。なので、NPO法人の経理や個々の組合員の経理にも目を配っておく必要があります。※それらも僕が経理を担当しています。

毎年2月は上記のような作業をするのですが、これは自分の能力の限界に対する挑戦となります。そして、エネルギーも身体の芯から絞りに絞り出すことになります。

そのプレッシャーはとても大きく、今年、僕はプレッシャーに押しつぶされそうになりました。この時は、決算に集中しなければ・・・とオフィスに籠り、みんなとの交流をなくすことで逆に自分の中からエネルギーを枯渇させてしまっていたのです。そんな状態の僕をファミリーのみんなは温かくほぐしてくれました。




☆彡 ☆彡 ☆彡

この経験を踏まえて、その後2年間は忙しいともみんなと交流する時間を大切にしてこの時期を乗り越えていました(「目標達成♪(^-^)♪」参照)。

そして、今年。インフルエンザかどうかは分かりませんが、2月2日頃から体調を崩し2月4日、立春正月には38.3℃まで熱が上がりました。その後、熱は上がったり下がったりを繰り返し2月9日の夜中には39.5℃まで熱が上がりました。39.5℃まで熱が上がった時は、全身が燃えるように熱くなり文字通り浄化されていくように感じました。

忙しい時期であるため休み休みですが、隔離状態で仕事は続けています。

絶対に体調を壊さない!

そう強く心に決め細心の注意を払った結果いただいた発熱です。熱が出た当初はこの状況に対する怒りが湧いていました。

休みたいのに休めない

忙しい時期にインフルエンザが流行る

現状への不満からの怒り、怒りの炎を燃やしていました。そして、その怒りを仕事への集中へと転換していました。ですが、身体はいっこうによくなりませんでした。そして力尽きた頃、駄目押しのように39.5℃の熱をいただきました。その苦しみの中、自分が救済を求めていたことに気づきました。救済とは現状に対する不満から生まれる想いであり自分への理解、自分の都合を求める心と言えます。ですがどんなに理不尽を感じたとしてもすべては相応しく与えられていることです。今年の1月、映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ましたが、その時いさどんは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。



☆彡 ☆彡 ☆彡

救済を求めていては本当の信仰へと至ることは出来ません。誰の側にも立たない普遍的な愛、神と共にある時、信仰は本物となりみんなのためのものとなっていきます。相応しく与えられた熱によって僕は浄化されいただく心をより強くしました。それは今、理屈を超えて神様からの恵みと感じられています。

昨年の3月21日、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンし、5月26日には合同会社ロータスランドが設立されました。そのため目を配る必要がある経理の量と質が昨年の2倍近くとなり常日頃から圧倒されていました。それを整理する視点が今回の苦しみの中から湧き上がってきました。そして2月を乗り切る見通しを得ました。とはいえこれも自分都合の言葉かもしれません。だからただ先に行って結果を貰うだけなのですが。

☆彡 ☆彡 ☆彡


昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は今年の初め、いさどんが語った言葉です。無言に思えたとしても、時に理不尽と思えたとしても神様は常にみんなの意思を受け取っています。そして神の存在は人智を超えたものであり客観性という愛と慈悲に満ちたものとなっています。だから常に目の前に顕れる出来事をいただいていくことが大切です。そしてその奥に流れている心を感じて歩んでいこうと思っています(^-^)


ちなみに以下は病気の間、部屋まで運んでもらった食事の写真です(^-^)










根っこから、根本から、世界を天に明け渡す

今日は節分ですが、節分について杉山開知くんは以下のように述べています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

節分は「立春・立夏・立秋・立冬」のそれぞれ前日で、もともと四季の分かれ目を意味する日。なかでも立春前日は「春夏秋冬」の終わりとなる特別な日であるため、一番大切な「節分」となり、「えと」の区切りも本来はここからが「戌年」です。
この時期は、旧暦を使っていた明治以前は特に“新年”という感覚が強く、数え年でみながいっせいに誕生日を迎えて祝っていたため、節分が年(歳)の節目として大きな意味を持っていました。また立春を方位で例える陰陽五行では、丑と寅の間の“鬼門”の方位にあたることからも特別な日とされていました。1年の邪気を払う豆まき行事にウシの角にトラの毛皮を着た鬼が登場するのはその名残なのですね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

1年の邪気を祓う節分を迎えてインフルエンザが大流行しています(「インフルエンザの大流行が止まらない」参照)。そのインフルエンザについて呼吸するだけで感染することが示唆される研究結果が出たようです(「インフルエンザは呼吸するだけで感染する?」参照)。加えて、ワクチンを受けた人がインフルエンザに感染した場合、呼気からのウイルス排出が受けていない人の6倍になるという結果もありますようです。以下、In Deepの記事からの引用です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


今回は、アメリカで今月発表されたインフルエンザウイルスの感染経路に関しての医学的研究についてご紹介しようと思います。
いろいろ内容あるその論文の中にひとつ「衝撃的な事実」が示されていたのです。
それは、シーズン前にインフルエンザワクチンの接種を受けていた人で、その後、インフルエンザにかかった人の「呼気」から排出されるインフルエンザウイルスの量は、「接種していない人より 6.3倍多かった」ことがわかったのです。
これは「インフルエンザワクチンそのものがインフルエンザを爆発的に流行させているかもしれない」ことを示唆しています。
 ~ 中略 ~
この研究は、米国メリーランド大学の専門家などによるもので、今年 1月18日、冒頭にあります米国科学アカデミー紀要に掲載されました。米国科学アカデミー紀要は、ネイチャー、サイエンスと並んで権威のある発表媒体ですので、相当数の医学関係者がこの論文を読まれたことだと思います。
ちなみに、この論文は「ワクチンの接種がウイルスの拡散を6倍に増大する」という部分が発表のメインではなく、
「インフルエンザウイルスは、咳やくしゃみよりも、通常の呼吸で拡散している」
ということが判明したということが大きい内容でもあります。
つまり、「息をしているだけで拡散する」ことがわかったということです。そういう意味では、よくいわれる「マスク」という存在は微妙ではあります。
いずれにしましても、この研究の論文の中に、「インフルエンザワクチンの接種が、環境へのウイルスの拡散を増大させている」ということが示されているのです。
ここから考えられることは・・・たとえば、普通、ワクチンの接種はインフルエンザ・シーズン前に主におこなわれますが、その「接種キャンペーン」を官民あげて大々的に実施すればするほど、そのシーズンは「インフルエンザが爆発的に流行する」ということも言えるのかもしれません。
たとえば、今年のように
今のワクチン接種の状況を見ますと、今シーズンも、これからさらにインフルエンザは爆発的な流行となるかもしれません。
 ~ 中略 ~
ワクチン接種は、標的とされた病原体に対して免疫性を付与するという疑問のない確信に基づいて行われている。
そのために「ワクチン接種」と「予防接種」という用語が、しばしば同じ意味として使用されることがあるが、これは、不自然な意味の理論的混乱だ。なぜなら、インフルエンザワクチンの場合、予防についての確実性は完全ではないからだ。そこにあるのは、むしろ宗教的信念と近い概念ともいえるのかもしれない。
しかし、ワクチンがインフルエンザを予防するという宗教的理念が、その正統性を支持することができなくなったらどうだろうか。これについては、実際に数百の例があり、多くのワクチンの意図しない副作用が、その利点を上回ることを示す医学論文は 500近くとなる。それらのすべての医学論文はこちらのデータベースにリンクがある。
☆彡 ☆彡 ☆彡
ワクチンは人智で病気をコントロールしようとする試みであり、それが逆に感染を増大させているというのがもし本当ならば、人類に対するとても大きなメッセージだなと思いました。そして今日は節分であり邪気を祓う時です。
僕はこの記事を見て、富士浅間木の花祭りでの「金神様と翁の問答」を思い出しました(問答については、「鬼は内、すると心がきれいになって福が来る(2018)」を参照して下さい。)。この問答で、人間の代表である翁は、天の代表である金神様に根つきの榊を返します。これは「根っこから、根本から、世界を天に明け渡す」ことを意味します。それは一人ひとりが自分を天に明け渡すことを意味し、何が起きてもいただき、起きたことを元にして前向きに積極的に生きていく姿勢へと繋がっていきます。
病気は身体の調整をしてくれているのであり忌み嫌うものではありません。ワクチンはそれを排除しようとする試みであり、だからこそ反動として大流行が起きているのだと思えます。もしそうならインフルエンザの流行は中道への導きとも言えます。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
今起きているインフルエンザの流行も天が与えた浄化とした有難くいただき、そしてその痛みから学んで姿勢を改めることが大切なのだと思います。
節分は1年の邪気を祓う時です。
嫌なモノを排除しようとする心を祓い清め、すべてをいただく心を育んでいこうと思いました。だから、鬼は内なのです。
鬼は本来道理を伝える存在なのですが、その厳しさから忌み嫌われ、鬼門に封印されました。それは病気を排除しようとする心と同様です。
鬼は外。
それは嫌なモノを排除しようとする心であり、ワクチンに繋がり、インフルエンザの大流行を生み出しているのかもしれません。「福は内」と願っていますが、福は来ていません。
鬼は内。
それは、道理に基づいてすべてをいただく心で、結果、心がきれいになって「相応しい福」が来ます。病気すら自らを調整してくれる存在として「福」になっていくのです。
根っこから、根本から、世界を天に明け渡す
それはすべてをいただく心を育むことで、すべてが「福」になっていく生き方です。
僕はそんなふうに生きています。
根つきの榊を持った金神様です。

Your left Slidebar content. -->