想いを手放し、想いのままに生きる

僕は今、確定申告の準備をしていますが、締め切りが間近に迫る中、国税庁長官の佐川氏が辞任しました。学校法人「森友学園」への国有地売却問題での決済文書書き換え疑惑を受けてことで、佐川氏は売却問題が発覚した昨年の2月、理財局長を務めていました。財務省は書き換えの事実を認め、そして佐川氏は国税庁長官を辞任しました。佐川氏が自らの意志で書き換えをするとは考えにくく、それを指示した存在がいたと思われます。

決済文書を書き換える行為は作為です。そして佐川氏の辞任にも「トカゲの尻尾切り」という作為が感じられます。

こうしたい、こうなって欲しいという気持ちがあるからそうなるように作為をするわけですが、その作為が上手くいく保証はどこにはありません。作為は自分の視点からするわけですが、自分の欲に縛られれば縛られる程、その視点は狭くなっていきます。そのため作為は思いがけない結果を生み出し、結果に対応しようとして新たな作為が生まれ・・・というように自分の欲に縛られると結果に翻弄されるようになっていきます。

今、森友学園問題は上記のような状況にあるように思われます。そして、それは今の社会を象徴する出来事と言えます。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分たちのこうしたい、ああしたいという想いが自分たちの意図を超えて今の問題を生み出しているのです。そして何とかしようとするのですが、その想いも大抵は同じレベル(自分視点)でなされます。そうすると何とかしようという気持ちが今の問題を維持しているとも言えます。人は問題を通して学ぶのでありそのことを必ずしも否定的に捉える必要はないのですが、ある程度学んだら想いをリセットする必要があります。そうでなければ人は、自らの想いが生み出す想いもよらない結果に翻弄されたままとなります。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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人がこの世界に誕生する時、自分の意図は介在しません。みんな、自分の想いもよらない出来事によりこの世界に生み出されます。想いもよらないことによって世界は動き、僕らは生かされているのです。だから僕は想いを手放します。

上記は自分の視点から、思惑や感情を離れて見た事実です。

ですが他者から見たら違う景色も見えてきます。他者からすると、僕の想いが想いもよらないものともなります。ただ他者の期待に沿うのではなく、想いもよらない喜びを生み出すことも出来ます。そのためには想いのままに行動することが大切で、だから僕は想いのままに行動します。

想いを手放し、想いのままに行動する。

話すことは放つことです。想いのままに話し、話すことで想いを手放す。そうすることで、想いのままに生きるとともにその想いを手放していこうと思っています。

農事組合法人の決算や確定申告の準備のために長いこと大人ミーティングをお休みしていましたが、もうすぐその期間も終わります。ミーティングで、みんなで語り合い場創りをすることで、「みんなで」という波動を世界に広げていく。大人ミーティングはそんな場です。

長いお休みの中で培った僕の視点、それを想いのままに語ることで、僕はその想いを手放していきます。そうすることで僕は、自分の想いもよらない人となり想いもよらない人生を歩んでいくことになるでしょう。そんな人生を楽しみます(^-^)


木の花ファミリーのみんな、1ヶ月間の真学校受講生と。


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