空っぽになること、それは本来の自分に戻ること

富士浅間木の花祭り「瀬織津姫の舞」。瀬織津姫は水を司る神様です。


今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。



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上記は先月木の花ファミリーを訪れたシルク・ド・ソレイユのダンサー、ビルさんの言葉です。ビリーさんは富士浅間木の花祭り(1月27日に開催しました)の稽古の場に出会い、以下のように語りました。

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僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。


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奥の心を感じて歩んでいく」に書いたように最も忙しい時期に病気も頂いた僕は、物理的にはとってもたくさんの時間を帳簿と向き合って過ごしていて、僕の中は数字でいっぱいになっています。それはビリーさんの言葉に出て来る「水がいっぱいに入ったコップ」のような状態。だからニュースを見ても大事な話に出会っても自分の中には全く入ってこない状態でした。そういう自覚はあって、でも〆きりを意識する必要があるから、だから今はそれらを置いておいて仕事に集中しようと思って過ごしていました。そういう時期かなと。

話しは変わって。

2月16日6時5分に新月となりましたが、この新月は旧正月で旧暦では1年の始まりでした。睦月の新月、そのことについて杉山開知くんは以下のように書いています。

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「明けましておめでとう」の一言も、太陽(日)と太陰(月)の重なる新月だからこその挨拶であり、初日の出も(実際は眼に見ることはできませんが)“初月の出”も一緒に拝んでいる特別な瞬間なのです。

太陽と月が相結びつくという意味の「睦月」

この元旦は新月=大潮ですから、体感的にもお月さまを肌で感じながら心機一転、気持も新しく年をスタートすることができる時。すべてが新しく生まれ変わることの気持ちよさは、この旧正月ならではの行事です。

 ~ 中略 ~

この新月は1年の元となる日ですから、書き初めのように決意表明したり目標を立ててみるのもオススメ。また正月(1月)にやり残した断捨離や大掃除、人・物・事・金などの整理整頓したり、疲れた身体をぐっすり休ませる寝正月もいい過ごし方です。この旧正月(元旦)が太陽と月の自然のリズムを感じるきっかけになるといいですね。

体感的には寒の極みではありますが、自然界では木の芽もふくらみ、山野草も顔を出し、すでに足元から春ははじまっています。特に季節変化の色濃いアジアでは旧正月・春節は暦のはじまりとなる最も重要な節目です。


ここから春夏秋冬とともにめぐる月の1年のはじまりです◎


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この旧正月に合わせたように2週間以上続いた僕の熱が平熱に戻りました。そして、この節目の時に、農事組合法人決算など成し遂げなければならないことを「~出来た」と完成形で書いていきました。それはやり遂げるための決意表明ですが、これらを書いていて思ったことがあります。それは「人生は場創り」だということです。だから物理的なことを達成すればそれでいいわけではないのです。常に自分が「場」に何をもたらしているかを意識している必要があります。先日の木の花祭りを経て、僕は以下のように書いています。

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他者のために。

そう思った時、特定の他者を想定すると視点が狭くなり、囚われとなる恐れもあります。ですが、場を同時に意識していれば、視点は時空を無限に広げていくことが出来ます。そして、場が健全になれば自ずと人は癒されるのです。だから常に場作りを心掛けていくことが大切なのです。

視点を場に持って行くと自分からも離れることが出来ます。そして健全な場は人を癒すのだから、自分自身も癒されます。自分のことを考えなくても、場を意識していれば、自ずと自分のためにもなるのです。

自他の区別を超えてみんなのために。

場創りを意識していればそんなふうに生きることが出来るのです。


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熱は自分にとって思いもかけない出来事でした。それに出会うことで僕は自分を浄化し、いただく心を育みました。それをこれから「場」に生かしていく必要があるのです。そんなことを確認した旧正月が明けて2日目の17日の夜、いさどんは大事なことを語るためにメンバー全員を集めました。ここ最近はずっと大人ミーティングには参加していなかったのですが、「全員」という呼び掛けに応じて参加することにしました。

そこで確認されたのは、みんなで共に暮らすこの暮らしに大切さ。訪れた人が何か懐かしいものを感じる場所。それはここが人本来の生き方をしているからで、みんなが大切なものを思い出すということです。こういうことは、ずっと当たり前のように共有していたことですが、この時間がもたれたのは、いさどんの大事をみんなに伝える役割意識からであり、忙しい僕に対するエールでもありました。たとえ一人で作業をしていたとしても、心は常にみんなと共にあるということ、それがこの暮らしの醍醐味です。

話しを聴きながら思ったのは、いつでもどこでも「空っぽ」になれるということです。「空っぽ」になるとは、余計な思考をストップさせて今この瞬間に自分を解放し味わうことで、それは世界と一体である本来の自分に戻ることです。だから、どんなに自分の中がいっぱいになっていたとしても、それらをいったん手放し、今に集中すればいいのです。するとビリーさんの言葉にあるように世界が自分の中に入ってきて世界と自分が一体となります。

日常生活ではやることが沢山あります。だから今の僕のように自分の中がいっぱいになっていくこともあります。それはそれで日常を回すために必要なことと言えます。ですが、それと同時に日常を超えた本来の自分に戻るためにちょっとの時間でも空っぽになることを大切にしようと思いました。

そして今日、19日は24節気では「雨水」ですが、「雨水」は以下のような日となっています。

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春の兆しが徐々に近づき、雪融けとともに、しとしととやわらかい雨が降る「雨水」
「立春」から15度進み、春夏秋冬の四季の物語も一歩踏み出しました。旧正月も終わり、いよいよ1ヶ月後は新年度「春分」です。

1年の反対側は9月上旬の「処暑」、台風や豪雨など荒々しい季節に対し、初春の「雨水」は1年で最も繊細で敏感に水が動く季節。植物も地下部では水揚げがはじまり、枝にはつぼみがつきはじめ、本格的な春の到来を待っています。

1年を1日にたとえると、「雨水」は朝の4時くらい。少しずつ夜明けとともに、自然界も眠りから覚めていくようです。また入試や人事や決算など、社会も新年度・新学期に向けて動き出しています。初春はスタートというよりは、春分に向かってラストスパートのようです。


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雨水は、1年で最も繊細で敏感に水が動く季節世界中から集まり木の花祭りで一つとなった清水は翌日、水の御用で地球(川)にお返ししました。そのお水も今、世界中を繊細に敏感に巡り調和した未来へ向けての準備をしてくれていることでしょう。


水の御用

地球の元旦である立春正月、そして旧正月があけて、次は宇宙元旦の春分です。自分の生死を超えた宇宙時間、宇宙の理を意識し、ただ出会う出来事を楽しんでいこうと思います。それが調和した未来へ向けての準備となると思っています(^-^)

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この文章を書き終わった後、祖母が亡くなったという連絡を受けました。また思いもよらないことに出会いました。僕がさいたまに帰って顔を出すととっても喜んでいたおばあちゃん。さいたまから離れた僕をいつも気に掛けていたと言います。忙しい時期ですが、顔を出して天に旅立つところを見送ってこようと思っています。そして僕のルーツの一つを確かめ、それを学びとし未来へ繋げていこうと思っています。

予期せぬことに心を開くこと。そしてすべてが祝福となるように。

僕は空っぽになってすべての繋がりの中で世界と一緒に生きていきます。


富士浅間木の花祭りで僕(一番右)は鬼を演じていました。
茂吉鬼です。木槌でお宝が詰まった蜂の巣を落とします。



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