いつでもどこでも出来る世直し

トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認めたことを受け、アラブ諸国でデモが起き、欧州諸国をはじめ各国から非難の声が出ています。この状態をどう見たらいいのだろうと思っていた時、今年の2月に書いた以下の文章を目にしました。

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今、トランプ大統領によるアメリカの移民・難民入国制限が話題となっています。アメリカ各地で賛成派と反対派が衝突し人々の分断が明らかとなってきています。大きな混乱を迎え、事態は悪化しているようにも見えますが、アメリカ社会の分断は今に始まったことではありません。多くのメディアが、分断が潜在的に存在していたからこそトランプ大統領が誕生したと報じています。つまり分断をそのままにして過ごしていたのです。

トランプ大統領の行動は人々の分断を浮き彫りにしていっています。それはそこと向き合うチャンスとなります。つまりは真の変化へと至る可能性を秘めているのです。

そう考えると今のアメリカの動きは希望ともなります。


 ~中略~


未来のことは分からない。

それが真実なのだと思います。ですが人は通常、今の思考の延長上に未来を思い描きます。それが枠となり現実が見えなくなっていくのです。すると変化は遠ざかり同じことが繰り返されます。ニュートラルな心でただ現実と向き合う時、変化は自ずと起こります。なぜなら変化は生命の本質だからです。そして、本質に基づき生きる時、人はすべての存在と繋がり、満ち足りていくのです。


 ~中略~


何が起こるか分からない。

それが真実ですが、一つだけ言えることがあって、出会う出来事は自分の人間性の表れだということです。だから人間性を向上させることが幸せへと繋がっていくのです。そして、人間性は出会う出来事に向き合い学ぶことで向上していきます。

トランプ大統領がもたらす混乱は今の人々の人間性の表れです。そこと向き合い学ぶことで人々の人間性は向上し、幸せへと繋がっていくことでしょう。





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この文章は移民・難民入国制限を巡るアメリカ社会の分断について書いていますが、このことはイスラエル・パレスチナ問題についても言えると思います。イスラエルとパレスチナをはじめとする中東諸国はずっと対立をしてきていて、今回のトランプ大統領の首都認定はその対立を浮き彫りにしているだけとも言えるのです。問題が表面に浮上する時、一見大変なことが起きたようにも思えますが、それは元々潜在していたものです。ならば大局から見たら状況に変化はなく、ただ問題と向き合う機会となっているだけなのです。

突破口は気づきにある

これは今年の9月にいさどんが語った言葉ですが、それは客観的視点に立って変遷を見ていく姿勢であり、大局から物事を見ていく姿勢です。人類の歴史が今のイスラエル・パレスチナ問題を生み出していて、そしてその奥には一人ひとりの人間の人間性があるのです。日本で暮らす僕らには、この歴史に直接介入することは出来ませんが、その奥にある人間性にメスを入れていくことは出来ます。そしてそれこそ天が一人ひとりの人間に託している世直しなのです。ここで昨年の1月にいさどんが語った言葉を紹介します。


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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。これはまさに新しい時代の生き方で、木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。これからは少しずつ明るくなっていきます。宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら人生は深まりません。生きている過程でいただく病気や滞り。その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。まずは心、魂を磨くことが大切です。物質のことは考えなくてもいいのです。今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、そういう世の中はひっくり返ります。そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました。そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。自分が・・・という心を超えていく。それが天と共に生きることです。

 ~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。世界のことを思い、自分を超えていく。そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、本来はそういうものではありません。


信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。



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イスラエル・パレスチナ、北朝鮮、イエメン、シリア、南スーダンなど。

今、世界には様々な紛争や対立があり、その歴史的背景を見ると様々な民族が複雑に絡み合っていて解決は困難なように思えます。ですが、それを生み出している根本は一人ひとりの人間の人間性です。多くの人々が自分の欲を追い求めてきた結果、住みにくい世界を生み出してきました。戦争や紛争のない日本社会を見ても、人々の間に対立や分断、孤立が生まれ、それが自殺や精神疾患、貧困問題として表れています。だから自分の欲を超えてみんなのためにみんなと一緒に生きていく。そんな心を育むことが大切で、それが世界を変える力となるのです。

それはいつでもどこにいても出来る世直しです。

だから希望を持って、僕は自分と向き合い木の花のみんなと共に健全な場を生み出していくのです。


木の花ファミリーのみんな@日本平動物園


「愚か」から「尊い」が生まれ人は成長する



あのね、面白い解説があるんだよ。神という存在と、仏という存在がある。「神」という存在は、この世界の実体。「あってあるもの、なきてなきもの」というように一対になっている、この世界の実体そのものを神と言うんだよ。ところが「仏」という存在は、道なんだよ。何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道のことを仏と言うんだよ。そして神の実体へと近付いていく。

そうすると、実体である神は、そこに在り続けるだけなんだよ。これってむなしいでしょう?神様の領域に在り続けることはむなしいんだよ。しかし、仏という状態は、愚かしいところから実体へと向かう道で、とても希望のあるものであり、それを歩めるのが人間なんだよ。人間は、愚かしいところから神までへも行ける幅の広いもので、神よりももっと豊かなもの ──── その可能性を秘めたものであり、それが「ヒ」から「ト」までを歩む「ヒト」なんだよ。

そういう解釈があるんだよ。そうすると、「人に生まれるってすっごいな ────!!!」と思わない?この宇宙のすべての存在には魂があり、その一つひとつの集合体がこの世界の実体となっている。その一つひとつの魂が、「自分はここだけしかわからない」「自分もここの部分しかわからない」「もっと全部をわかりたい!」と思った時に、人間となって、仏道を歩み始めるんだよ。だから人間に生まれてきたことはとても価値があるんだよ。そして「ヒト」の道を歩むんだ。カタカムナの単音の思念でひも解くと、「ホトケ」とは、気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)を言うんだよ。

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みかちゃんの絵です

この文章は、いさどんブログ「大町道中記② ~心の水爆」からの引用ですが、数日前の大人ミーティングでこの話しがシェアされた時、みかちゃんがホワイトボードに絵を描き始めました。この絵は、真理に至る道として天から直観が降りてくるアメノミナカヌシの道、そして学びを積み上げていく道として、仏の道、クニノトコタチの道を描いています。神には序列があり、天の大神様、地の大神様から貧乏神や疫病神まで幅広く存在しますが、それぞれがそれぞれの位置に留まり高まることも落ちることもありません。ですが、人間はどこまでも高まっていくことが出来ます。そのことをいさどんは以下のように語ります。

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仏道というのは、下から積み上げていって上へと上がっていく道のこと。上には際限がないから、どこまでも無限に上がっていける。ところが神というのは、みんな神様に語りかける時には上を向くように、上から下へと降りてくる存在なんだよ。神様にもいろいろな位置があって、それぞれの位置から人間のもとへ降りてくる。「あなたはどこから来ましたか?」と尋ねると、意外と全体からすると下の方の神様だったりするんだよ。そういった神々は人間を誘惑し、惑わせ、それがいろいろな宗教の元にもなった。

だけど、仏道というのはそうじゃない。仏道とは「道」であり、下から上へと上がっていくものだから、その道には限りがない。人間がその気になったら、宇宙の根源までも行ってしまう。


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神は実体としてそこにあり続けます。ですが、人間は実体でありながらも実体を超えていく存在です。いさどんは仏のことを「気配でしかない実体のない見えないもの(ケ)が統合し(ト)、継続して保たれている状態(ホ)」とカタカムナで読み解き、「何も見えない愚かしいところから、どんどんどんどんこの世界の実体を知って、切り開いて、目覚めていく道」と表現しています。

「愚か」とは何かと言ったら、それは実体から離れた状態です。自我を与えられた人間は自分独自の視点を持ち、自分独自の世界を生み出すことが出来るようになりました。そのため人々は、一つの出来事に対して、立場や意見の違いによって全く異なる反応をするようになっています。それは人間の持つ可能性であり幅の広さですが、世界は今、その可能性を生かせず混乱を生み出している状態です。ここで、今年の夏、まりちゃんが語っていた言葉を思い出しました。

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戦争での人間の酷い行いは人間の可能性を示していて、人間はそこまで行くということ。それは誰の中にもあること。それを否定するのではなく、それを知って、淡々と受け取って、だからこそ尊い道を行く。この世界の全部を知って、醜いを否定せずにその上で美しいを表現していく。そこに感情は挟まない。それは受け入れるというのとも少し違う。受け入れるというと「無理して自分の中に入れる」という感じが含まれるが、ただ淡々と「醜い」を見ていって、そして「美しい」を表現する。

それは一人ひとりの人間にも言えて、自分の中の最悪を知って、それを否定せずに認識し、その上で尊い道を行く。酷い自分の実態を知ることが変化、成長への一番の近道。

例えば、「やっていきます!」とか宣言する人とかいるけれども何をやっていくんだろう?と思う。宣言なんかするよりもしっかりと自分を見つめていけば、自ずとやることは見えてきて、変化していく。宣言する人ってけっこう酷い自分を認めずに切り捨てようとしている。それは良いものでありたいと思っているだけで、結局何も変わらない。

自分の中の対極の可能性、醜いを知って、その上で美しいを目指す。ただそれだけ。

「醜い」を見ていって、「美しい」を表現するより



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「自分が・・・」と自分の世界を生み出していく自我は人を「愚か」へと導きます。ですが、「愚か」があるからこそ、その対極である実体の「尊さ」が見えてくるのです。そして「尊さ」を認識した人間は、仏道を歩み、実体である自分を高めていくことも出来ます。それが「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」、この宇宙の法則そのものを理解し歩む「ヒト」としての歩みであり、それは無限に続く道なのです。そして、それは頂くことで頂が増していく、いただきます(頂増す)の道です。自我は常に自分の世界を生み出し続けます。ですが、目の前の出来事を、感情を挟まずにただただいただくことで人は実体の認識へと至ります。そして、その認識を、自分を超えて全宇宙へと広げることで無限の成長へと開かれていくのです。

「愚か」から「尊い」が生まれ、実体へと至り実体を成長させる。

自我の愚かさを認識すればするほどその対極である実体の尊さを認識できます。だから「愚か」は「尊い」、そして成長へと至る希望でもあるのです(^-^)

カタカムナを生きる ~「ズレ」から「スレ」へ~

追い求める人生ではなくいただく人生を生きることを決めている僕ですが、いただく人生とは決して受け身なものではなく、積極的な行動を取ることもあります。どんな時に積極的な行動を取るかと言ったら、それが流れと感じた時。流れとは何かと言ったら、必然性だと思っています。その行動を取ることが必然であること。この必然性とはあらゆる立場を含んで超えた視点からのものです。行動を取ることが必然である時、未知なる未来へ向けて行動し結果をいただいていくのです。

ここ一年ぐらい自分の中に想いが生じた時、必然とは言えない想いは手放して来ましたが、一つ自分の想いを手放すと、その想いの奥に行く感覚があります。自分自身のより深い部分に入っていく感じがするのです。そして思ったことは、自分の思考や感情、情動の奥に本当の自分がいて、その自分は常に全宇宙と響き合っているということです。そして、その自分は宇宙時間を生きているのです。宇宙時間については以下の文章に分かりやすく書かれています。

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かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。

しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。

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悠久に流れる宇宙時間、そこから生まれる流れはすべての存在にとって必然性を持つものです。常にそこを意識して生きていこうと思っています。とはいえ生きているということは人間(物質)時間も生きているわけで、その自分の想いと宇宙時間との間にはズレがあるものです。ズレがあるというとネガティブな印象ともなっていくものですが、そのズレこそが世界に彩りと豊かさを与えているのだと思います。自分の想いと宇宙時間という必然性とのズレ。それがそれぞれの人の物語を生み出していきます。ズレを放置し、そのズレが拡大していけば、人生は混乱したものとなりますが、ズレを認識し、そのズレを埋め合わせようと努力することで人は成長していきます。ズレは人を混乱へと導くこともあれば、成長へと導くこともあるのです。

先月、いさどんからカタカムナプレゼンがメンバーに対して行われましたが、プレゼンには以下のような記述があります。

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個々の生命は自らに偏っている。現象界では、偏った現象に出会うことにより、個々が偏りの実態(自らの姿)を学べるようになっている。さらに、偏りから、つながることの大切さ(宿命)を学ぶようになっている。

相反する二つが存在することによって、世界を認識することができ、それが仕組みと成った。=宇宙を生命として活性させ循環させるメカニズム。

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自らの偏り、これはズレと同じことを言っているのだと思います。ちなみにズレをカタカムナで読み解くと以下のようになります。

ス:・・・する。極限までの進行
レ:エネルギーが過剰の状態。九つを超え、限りなく十に近い9.999・・の思念。

「スレ」は、10(統合)直前まで限りなく進行している思念と言えます。統合とはすべてと一つになること、まさに宇宙そのものとなることで、そこに限りなく近づくけれども、そこに至っていない状態が「スレ」です。そして、「スレ」に濁点(余分なもの、個人的なもの)が加わると「ズレ」となっていきます。自らの「ズレ」から濁点(余分なもの)をなくし「スレ」となることで偏りから調和が生まれる豊かな世界が表現出来るのだと思います。

個々の生命は偏りを持つ以上、完全に一つとなることはありません。そして、認識があるのは相反する二つが存在することによります。ということは、統合に至り宇宙そのものとなった時、認識は消滅します。統合(10)は無(0)へと至るのです。ですが、無(0)へ至ったその瞬間に新たな「ヒ」(1)が動き出します。そして再び、ヒフミヨイムナヤコ(1・2・3・4・5・6・7・8・9)と進み、「スレ」を経て統合(10)、宇宙そのものへと至り、無(0)となっていく。そしてまた・・・・というように個々の生命は本来、全宇宙とダイナミックに響きあっているのです。ですが、自我を持つ人間は、「スレ」に濁点がつけ「ズレ」としその動きに停滞を起こします。個人の想いが強まると、「スレ」は「ズレ」となり、統合(10)へとは進まずに分断が生まれ、人間は自我の世界に埋没していくのです。だから僕は自分の生み出す思考や感情、情動の奥を見ていくのです。その先に待っているのは、全宇宙と響き合って進化していく自分です(^-^)






カタカムナを生きる ~自分のヒビキを究める~

僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。

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上記は、「カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~」に書いた文章です。ここに出て来る「生きている意味も価値もない」という言葉、これは僕の自我が生み出した言葉ですが、こういう言葉は嘘なのだと思っています。最も、自我は自らを暗示に掛けているような状態なので、嘘をついている自覚はなく、本気でそう思っているのですが、この言葉はやはり嘘なのだと思います。意味も価値もないならば、今、生きているという現実を説明することが出来ません。意味があるからこそ生かされているわけで、そういうことを本当は分かっているのです。当時、自我は思うように行かない現実にぶち当たっていました。思うように行かない現実に苦しみ、落ち込み、駄々っ子になっていたのです。だから、そういう気持ちをアピール出来れば、どんな言葉でも信じ込み、採用していくのです。僕の自我はこのような反応を起こすということです。それを常に見通し続けていこうと思っています。

この世界はヒビキで出来ている。

それがカタカムナが教えてくれる世界の真実です。僕の持つヒビキが出会う現実を生み出していて、そして、その現実に対する反応があらたなヒビキを生み出していきます。思うようにしようとして駄々っ子でもなる自我のヒビキ。そんなヒビキが生み出す現実はいらないから、だから僕は自我を超えていくのです。

とにかく出会う出来事がすべてです。それが自分の今まで生に対する答えであり、それにどう反応するかでこれからの未来が決まっていきます。だから思惑や感情を手放し、出会う出来事をそのままいただいていこうと思っています。

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。

ところで今日から水星が逆行するようです。そのことについて天下泰平ブログ「今年最後の水星逆行」には以下のように書かれています。

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12月のラストの水星逆行期間は、

12
31634分から12231050分まで

124日の満月、1218日の新月、1222日の冬至などのすべての宇宙のイベントも含んで天皇の誕生日に終わります。


個人的にオススメなのは、この12月の水星逆行中の3週間は、これまでのことを振り返るにはぴったりの時期。

2017年を振り返って、どうだったか。あっという間に過ぎ去った1年だったかもしれませんが、このタイミングに見直すと多くの気づきがあると思います。


余裕があれば、これまでの人生を長く深く振り返っても良いタイミングかもしれません。

そして逆行中は、普段うまくいかないこと、挫折したことに再チャレンジするタイミングにも向くといいます。

うまくいかなかったことも振り返り、それまでとは違ったやり方、違った意識状態で取り組むと思わぬ良い結果につながるかもしれません。

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振り返りにぴったりのこの期間。今までの自分が発していたヒビキを見通していこうと思っています。そして、これから自分の持つヒビキを究めていきます。


カタカムナを生きる ~自己否定の先にあるもの~

先月、いさどんから木の花ファミリーのみんなにカタカムナプレゼンが4回に分けて行われました。それを受けて、今思うところを書いておきます。プレゼンの中には以下のような記述がありました。

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原始の脳も神経も持たない単細胞の生物は、外界の物質が我が身にとって有害か有益かを直観して、「有害な物は避け、有益なものは細胞内に取り込む」という働きを営んできた。

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これは単細胞生物が環境と響き合っているからであり、思考や感情を超えたところに「生命カン」というものがあることを表しています。現代の人々は日々、前頭葉を使い思惑を巡らせていますが、カタカムナの実践はその状態を超えて、松果体を震わすことです。そうすることで目の前の現実、環境と響き合って生きていく。そして究極的には、大宇宙生命のヒビキを直接感受していくのです。

環境と響き合って適応、そして進化していく「生命カン」

それは現代人が退化させてきているものです。例えば、よくいさどんの話に出てくるのですが、今の社会では子育て本が沢山出版されています。ですが、他の動物でそのようなものに頼って子育てをしているものはいません。動物たちは、本能的に子どもに必要な関わりを察知しているのです。多くの現代人は、目の前の出来事を感じて動くよりも、頭で正解を求めそれに基づいて行動しようとしています。そのような中で失われている「生命カン」。それを取り戻すことがカタカムナの実践と言えます。

その方法は端的に言って、自己否定にあると思っています。自己否定というと「自分は駄目だ」、「自分は出来ない」などの言葉を連想する人が多いと思いますが、ここで言う自己否定とはそのようなものではありません。善悪や能力のあるなしなど、あらゆる価値判断を超えて自分の反応パターンそのものを超えていくのです。

人は日頃、自我に基づいてこの世界を認識し行動していますが、その状態では今の世界の混乱を超えることは出来ません。人間の自我が今の社会を生み出しました。だから今の社会に適応することは出来ますが、その社会は環境破壊や貧困や飢餓、そして戦争や紛争を生み出しているのです。その先に未来を見通すことは出来ません。だから自我に基づいて思考し、この世界に反応している自分を否定し超えていく必要があるのです。自己否定とはそういうことで、自己否定をした先に、奥に眠っている生命カンが働き本当の意味で自分から自由となれるのです。そのことを今年の7月、僕は以下のように書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。



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この世界は人々の意識の総和となっています。多くの人が自らの想いに翻弄されているからこそ、世界全体も混乱の極みにあるのです。

自己否定をし自分の反応パターンを手放し、ただ出会う出来事と響き合っていく。思考や感情を超えたところで直観に従い行動し生命カンを磨いていく。それがカタカムナの実践であり、みんながそのようになった時、みんなで環境と響き合ってこの世界に美しいハーモニーが生まれてことでしょう。ここで2015年7月にいさどんが語ってくれた言葉を紹介したいと思います。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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僕はずっと叶わない願いを持っていました。その願いが僕を自分の反応パターンを超えていく自己否定へと導いてくれたのです。もし願いが叶っていたら、僕は今でも目の前の出来事に一喜一憂し翻弄されていることでしょう。ここに至る過程では、何度も何度も自分には生きている意味も価値もないと思ったものですが(間違えた自己否定ですね)、今はただ出会う出来事をいただくだけ、そこに意味と価値を見出しています。思惑や感情を超えたところで現実と向き合って生きています。だから僕はカタカムナを生きていると言えるのです。

自己否定の先に環境と響き合って変化し続ける自分がいます。その行きつく先は大宇宙生命のヒビキ、いつもそこに心を向け続けています。


他者のために自分を表現していく(2)

・・・人には好きなモノとキライなモノがある。それは自然なことだと思う。人間として。私は以前、「キライなモノは、生きていく上で少ない方がいい。」という考えを持っていた。だから、キライなモノをあまり作らないようにしよう、と思った。ムリしてそうしていたわけではなくて、ごく自然に、そうしていた。

中学生になって、人間関係のはばが広がった。すると、私の考えに一つの影がかかった。

「人をキライになるのはいけないコト??」

私はある人がキライになってしまった。本当に、純粋に。一緒にいると、泣きたくなってくる。私はびっくりしてしまった。・・・人をキライになるのって、こんなに悲しくて苦しくてイヤなことなの?・・・と。なんだか自分が悪いことをしているような、そんな気がしてならない。

「人をキライになるのはよくない?」

「自分の心に正直に、あるがままにしたら?」

2つの心の声が、私の中でグルグル回る。よく分からないのです・・・。どうすればいいのでしょう???人をきらうのは、悪いコトですか?

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この文章は僕が公立中学校で相談員をしていた頃、生徒から貰った匿名の投書です。当時、僕は相談室前に《私はこれが言いたい》と題した紙と投書箱を置いていました。生徒たちは自由に書きたいことを書いて投書箱に投函していました。多い時は1日20通ぐらいの投書が来ていましたが、僕はそのうちの一部を相談室便り『兎の眼』に掲載し紙面上で返事をしていました。その『兎の眼』は全校生徒や教職員に配布され、みんなが心について語り合うきっかけとなっていました。ちなみに当時の僕はこの投書に対して、以下のように返事をしています。

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あなたの言うように、人には好きなものと嫌いなものがあります。そして、それは自然なことです。そういう意味では、人を嫌いになるのは、悪いことではないでしょう。ですが、誰かを嫌いになると、その相手を傷つける恐れがあります。悪口を言ってしまったり、無視してしまったり・・・。もし、そういうことをしないとしても、気づかぬうちに冷たくしてしまうこともありえるでしょう。人を傷つけることは悪いことだと思います。多分、あなたもそう思っているから苦しんでいるのではないでしょうか?本当に難しい問題ですよね。あなたに呼びかけている2つの声は両方とも正しくて間違っているのです。(ややこしい言い方をしてすみません)2つの声、両方とも大切にして下さい。もし、「人を嫌いになるのはよくない」と言う声だけを大切にしていたら、自分の素直な気持ちを失ってしまいます。もし、「自分の心に正直に・・・」という声だけを大切にしたら、むやみに人を傷つけてしまいます。だから、両方の声を大切にして、バランスを取りながら生きていくしかないのです。僕はそうやって生きています。多分、皆もそうだと思うのですが・・・

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今だったらもう少し違う回答をしていますが、これは当時のベストを尽くした回答となっています。『兎の眼』は月に1~2回発行していましたが、毎回、上記のようなやり取りを掲載していました。紹介した投書の数は年間100を下らないと思います。『兎の眼』を発行する際は教育相談主任や管理職のチェックを受け、発行後は全校生徒とその保護者、そして教職員の眼に触れます。それらすべての人を意識して文章を作成することは自分自身を鍛えてくれたと思っています。

今、僕はこうしてブログを書いていますが、その原点はこの『兎の眼』にあると思っています。心理療法の世界では、最初に出会ったクライアントをイニシャルケースと呼び、そこでの経験がその人の心理療法家としての人生に大きな影響を持つと言われていますが(河合隼雄さんの言葉です)、僕にとって『兎の眼』はこのイニシャルケースとなっています。公立中学校での相談員は僕の最初の仕事です。働くことは傍(はた)楽(らく)こと。傍(はた)を楽(らく)にするための最初の一歩となっているのです。

当時、『兎の眼』は自分の想像を超えたものへと育っていきましたが、それは僕の力ではなく生徒からの投書が持つエネルギーによります。投書の持つエネルギー、そして生徒や保護者、教職員の視点が『兎の眼』を育ててくれました。それは、このブログも同じで、これは僕の力で書いているのではなく、いさどんの言葉、そして木の花ファミリーでの生活によって生み出され、育てられているのです。

そして書く目的は、一人の心をみんなで共有することで、共に学び合うきっかけを生み出すことです。『兎の眼』は普段語られない中学生の言葉を紹介することで生徒同士が深いところで語り合うきっかけを作りました。そして、このブログは木の花ファミリーでの暮らしを通した学びを共有することで、読者の学びのきっかけとなるよう心掛けています。

他者のために自分を表現していく

2011年1月にいさどんから貰った言葉。それがこのブログを書く目的であり、僕の人生だと思っています。

今、多くの人が自分のために自分を表現しているのではないかと思います。自分を知って貰いたい。自分の願いや希望を叶えたい。みんなから評価されたい。だから、理解されないと思った時、願いが叶わないと思った時、評価が落ちると思った時は内緒にします。思惑に基づいて表現したりしなかったりで、その結果、人びとは人の心を探り合うようになります。アメリカのトランプ大統領の過激な発言も北朝鮮によるミサイル発射も思惑に基づいた表現であり、世界を危険に晒していますが、それは人々の日常の鏡とも言えます。

だから自分のためではなく他者のために自分を表現していく。

それは何も「他人のためになろう」と意気込むことではなく、客観的視点に立って、そこから見える自分の姿を表現していくのです。客観的視点から見えてくるこの世界の法則性と自分の姿。善悪などの価値判断を超えプロセスを辿ったその姿が他者の学びとなります。この世界の法則は一つ。だけれども、その法則性の上でそれぞれが個性的な道を歩んでいます。それを共有することはとても豊かなことであり、深い学びともなるのです。ここでいさどんが2年前の7月に語ってくれた言葉を思い出したので引用します。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望がなくなったら自分のために表現する必要がなくなります。他者のために自分を表現していく。それはきっといらなくなった状態でみんなで共通の世界を極めていくことです。みんながそんなふうに自分を表現しみんなで世界を極めていく時、この世界の実相が明らかとなり真の平和が訪れることでしょう。

そんな世界を目指して。

他者のために自分を表現していきます(^-^)



『兎の眼』平成12年11月8日発行(表)



カタカムナを生きる ~天が与えた僕の物語~



昨晩、いさどんによるカタカムナプレゼン第4弾が行われました。プレゼンの冒頭で語られたことは、今の人たちは表面上の出来事に反応しているということ。そのため立場が変わればば意見も変わり、一つの出来事に対して様々な見解が生じることとなっているのです。それが現代社会の混乱となって表れています。

カタカムナを学ぶということは、表面上の出来事の奥に流れる法則性を理解するということ。そして、カタカムナを生きるとは、この世界の法則性、天の意志に基づいて生きていくということです。

ヒフミヨイムナヤコト

プレゼンで世界の始まりから語りだすいさどんの言葉に木の花ファミリー憲章世界観「概要」を思い出しました。以下、引用します。

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宇宙の成り立ちや生命の神秘は、いまのところ科学で完全には解き明かされていません。したがって、それは心を通して認識することになります。

現在、過去、未来、そして全宇宙へと、心はどこまでも思いを馳せることが出来ます。

人間が自らの視点を離れ、この世界をありのままに眺めたときに、一つの大きな法則が見えてきます。また五感を超えた感覚、すなわち直観を通して見出すことが出来る宇宙や生命の姿もあります。私たちがこの憲章で語る宇宙や生命は、こうした方法で導き出したものです。

私たちは宇宙に始まりも終わりもないと考えていますが、ある地点を区切り、そこを「始まり」と見なすことも出来ます。現象をありのままに眺めていると、すべての現象が「想い」という種から生まれていることが見えてきます。宇宙も同じです。「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉とは「想い」のことです。「想い」のみが存在している時点。そこを始まりと見なします。

「想い」は圧縮して爆発し、「相反するもの」を生みだしました。磁石の両極のように、相反するものは惹かれ合い、新たな振動を生みだします。それがこの世界を創っています。

相反する存在により、比較が可能となり価値判断が生まれます。光と闇、善と悪、美と醜、大と小などは比べることによって生まれた価値判断です。

この世界で生かされている人間は「自分」という意識、すなわち自我を持ち、自他を区別するようになりました。それによって所有の概念や欠乏感、そして欲が生まれます。そうした欲にもとづいて、人々が自分に都合の良い世界を作ろうとしてきた結果、人々は病み、争い、自然を壊してきたのです。

自我を通して物事を認識する人間は、こうした現象を「問題事」としてとらえます。それを解決しようと目の前の現象を深く見つめた者は、ある事実に気付いていきます。それは、すべての存在が「想い」から創られているということです。

「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

私たちは目の前の「問題事」を通して、この世界を創っている「想い」を認識する道を与えられています。「想い」を認識した時、人は善意と愛と調和に目覚めます。これは心磨きの道です。より多くの人が心を磨くようになれば、世界は善意と愛と調和で満たされていくでしょう。それが、私たちの生きている世界なのです。


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ここで語られている「想い」の圧縮とは「ヒフミヨイムナヤ」で飽和安定している状態、そして爆発とは「転がり出る」ことです。このようにして相反するものが存在するこの世界が生まれ続けているのです。

すべての存在が「想い」から創られている。この「想い」とは元の「想い」であり、天の意志とも言えます。個々の人間はそこから分かたれ、自分の「想い」を持つようになります。この自分の「想い」が人との差を強調し「問題事」を生み出してきました。ですが、「問題事」の奥を見通せば、元の「想い」へと至り、そこから世界や自分を見通せば、人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現出来るようになるのです。

僕が持っている自分の想い。そこには感情や情動、思考などが含まれ、一つの視点、一つの世界を生み出します。それに囚われず、かと言ってそれを否定するわけでもなく、天の視点に立って、それが何を生み出していくのか、そしてどのように変化していくのかを見ていこうと思っています。その変化変容こそが天が与えた僕の物語。人との差で協調し繋がり合う豊かさを表現する物語です(^-^)



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