何ももらっていなくても

昨日の朝起きた時、「何ももらっていなくても」という言葉が浮かんできました。この言葉は僕の中で、2年前の2月にいさどんが語った言葉と結びついています。それはこんな言葉です。

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生きていることが天の意志であり、計らいであるとしたら、ある程度地上を生きる者の事情も加味して計らってもらわないと、天の計らいを意識して生きる者にとっては、生きることが人によっては辛いことばかりになってしまうことがある。そして、歩みが遅れる。だからこそ、少しは天に向かってありがたいと思えるように、その計らいを感じられるようにしていただかないと、と思っていた。そうしたら、それに対する答えが降りてきた。

天に計らいをしていただかないといけない、という自分の心の中に、困ったことが起きたという、ある意味緊張と言うのか、心の筋肉が張っている状態があった。そうしたら、ふぁーっと、それに対する回答が返ってきた。それを何と表現したらいいのだろう・・・・水鉄砲からぴゅーっと水が発射されたような感じのものが何本も降りてきて、それは霧のようなものだけど水ではなく、虹のようでもあって、光でもない。それはいったい何だろうと探っていくと ――――― 響き。

カタカムナでいう潜象界から「カ」がヒフミヨイと進み、マワリテメクルで現象化の自転公転の動きが起き、そしてムナヤコトでアマ界に至り現象化してみこと(命)になって出て来るでしょう。アマ界から現象化して出てくる時に、最初は響きとして出て来る。その響きが、現象界の水のようにちりちりちり・・・と破線のような感じで、いくつもいくつも平行にしゅーっと降りて来る。そういう景色が、返事として返ってきた。

それで、わかったぞ、と思った。そして今、それを伝えようと思い、その前段となる自分が天に向けた想いを語り始めた。配慮をしていただかないと、ことが起きることばかりを受けていては、人間は道を信じていただくことを忘れがちになります。それは困ったことが起きましたという感じで心の筋肉が緊張している状態であり、そういうふうになると道が遅れます、と。僕がそう意識を向けたことに対して、ちりちりちり・・・といくつも降りてきたものは、その緊張をふーっと取ってくれた。

緊張をふーっと取られて、その瞬間に「回答が返ってきた」と思った。ところが、こちらが天に向けた想いを説明して、さてその回答を言葉にして語ろうと思ったら、言葉は何も出てこない。ただ緊張だけを取ってくれた。

それをあえて言葉にするならば ―――――
最初に思っていたのは、「私は天の意志をいただいて生きる者ですから、どんなことでもいただきます」という心。それは、いつも自分の中にベースとして持っている心。だからこの道を歩んできた。けれどもあまりにもこういったことが起きると、人間が苦痛を感じて道を歩むことが遅れます、という言葉を上へ伝えたことに対して、もともと持っていた心へ戻りなさい、という意味で、緊張をさーっと取ってもらった。

その時に、なぜ人の道が遅れるのかというイメージがあった。滞りが起きる時、自分が一人でそれを受け取るならば、天意だから何でも受け取りますという心はある。けれども、例えば自分がこの人だったら、と考える。人のことを想うと、みんなはそれぞれに目いっぱいになるから、それでその者たちの道が遅れます、ということを僕は思った。

けれどもそこを解き放つのが、それを束ねてみんなを道へ進ませる自分の役割であり、一人ひとりの滞りを正すのも自分の役割だと思っている。だからそう考えた。
それはある意味、現世的には人に対する想いやりでもある。もう一つの奥にあるのは、私の道が楽になりますように、ということ。もう面倒くさく煩わしいから。僕の心の動きを観ると、人の道に滞りがないようにと想うのも、ある意味その背景に「私が楽になるように」という想いがあるとしたら、僕のベースにある「何でもいただきます」という心と、それに十分成り切っていないギャップの心があるということを示している。

それに対して、「ギャップがあって未熟だぞ」という指摘はまったくされない。ただ無言で、響きを持って、その緊張だけをほぐしてもらえた。それをある意味意志として返してもらったのだと思い、それを言葉にしようとしたら何も出てこなかった。

このメッセージを別の解釈をすると、何も答えはない。もしも負荷がかかったならば何も考えずに負荷の状態を解き放てばよい、ということ。それはよく僕が言っていること。ダメだと思ったならやめればいい。ダメだと思うということは、気付いたということなのだから。ダメだと思わなければ、進めばいい。それが滞りの種であれば、滞りが起きるだろうから。そして滞りが起きたら、それ以上進めるのをやめればいい。

先案じをして取り越し苦労せずに、今を生きるということだよ。そう。誰よりも真剣に生きているのだから。誰よりも道にふさわしい歩みをしているのだから。迷うことは何もない。

今言葉を語ったのは、頭を回したのではなく、中空にある絵を観て語った。頭を使ったとしたら、その絵から受け取れるものを言葉にしただけ。

僕も頑固者だな。誰と比べて頑固者かというと、出口王仁三郎聖師。彼は警察に捕まり牢獄に入れられて、そこで尋問を受けた。その時に、自分の姿勢を曲げずに、尋問をするものに道を説いて聞かせた。そのくらい頑固者だよ。
その時の精神は、今の自分の状態と一緒だと思う。僕は監獄には入れられていないし、状況は違っても、ものごとに動じて道を踏み外すことはない。

ただ、これは万人の道。人として地上に降りてきて目指すべき、万人の道。そのことをわかるものは、この時代の変わり目を迎えても、まだまだ少ない。
ただ、出口王仁三郎聖師の時代とは違い、切り替えの時がもう来てしまったから、時期にその証が現象化されるということでは、希望のある時代だ。彼はその夜明けを見ないで終わったのだから。僕は土台を生きるとしても、夜明けを見て終われるんだよ。子どもたちは、その夜明けの向こうを創っていく子どもたちだ。

ありがとうございます。

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

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僕がこういう言葉をこんなふうに思い出すのは、僕が弱く未熟だから。僕の未熟が揺るぎない心を求めているからです。いろいろ経験してこの道を歩む意志は強く確かなものとなっています。だから僕の中の弱さがなくなったかと言ったら、そんなことはありません。自我を持つ僕は日々の出来事に一喜一憂し、揺れ動きます。だけれども僕は強くなったとも思っています。その強さとは何かと言ったら、いつでもすぐに揺るぎのない心と繋がれることです。揺るぎのない心を支えに僕は日々揺らいでいるのです。

自分の自我の弱さや未熟さが僕を謙虚にしてくれます。そしてそれは他者の未熟を理解する助けともなります。だからこの弱さや未熟さはなくなる必要がないのです。その奥にある揺るぎのない心をいつも感じていたら、すべての出来事は祝福となっていきます。

揺らぎと揺るぎのない心。

両方を生きることで僕の幅は広がっていきます。

上記の文章で天がいさどんに対してしたことはただ緊張を解いただけ。それだけでいさどんは元の「すべてをいただく心」に戻りました。天に心を向ければ、いつでも緊張はリセットされ、再スタートをすることが出来るのです。それは揺るぎのない真実です。だからいつでもどこでも

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心となれるのです。

そして、同時に思い出したのは、堕天使ルシフェルの存在です。地獄でサタンとなったルシフェルについては以下のように書いている本があります。

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私達が悪魔と呼ぶサタン、ベルゼブルこそが、身の毛もよだつような分の悪い役割を自ら担い、人間の心に生ずるありとあらゆる悪の部分は、すべて彼のものとして位置づけし、彼の仕業であるということで、人々は自分自身を救ってきたのです。

 ~ 中略 ~ 

「ねえお母さん、天国の扉の鍵はルシエルが持ってるんだって。私たち人間が、この世にはびこる悪というものを本当によくわかるようになるまで天の国の扉は開かずに、みんなその前でウロウロしているらしいよ」


ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。

ありがとうございます(^-^)



自我は惑いの中にある

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。




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この文章にあるように、時に木の花ファミリーのことを批判する人に出会いますが、そのような時、第三者にその出来事の意味を説明することもあります。そんな時、僕は木の花を批判する人たちの言葉を徹底的に読み込んでいます。繰り返し繰り返し読み、彼らの視点から木の花を眺め、その言葉を実感を持って味わうようにしています。すると実際を離れて本当にその通りに思えてきます。今や彼らの言葉は僕の言葉ということが出来るぐらいです。こんなふうに彼らの視点を確認した後、そこから抜け出しいつもの自分の位置に戻ってきます。これは数年前からやり続けている作業で、僕はずっと批判者の文章を読み続けていますが、こんなふうにお互いの立場を行き来しながら、どちらの視点にも立たない言葉を紡ぐようにしています。

誰の側にも立たずにみんながそうだねと思える言葉を紡いでいく。

それが僕の目指すところで日々そのための努力をしていますが、批判者の実感を味わいながら自分を保つのはなかなかしんどい作業でここ最近の苦しみはそこから生まれていました。

木の花ってひどいところ。

そんな言葉を実感を持って味わいその視点で日常を送りながら、この道を歩む意志を固めていくのです。年始に批判者たちの文章をまとめて読み込みその視点を沢山味わって彼らに共感し、共感することで今、その奥をさらに見通すことが出来たのはないかと思っています。それは自分自身の奥を見通すことにも繋がります。

自我は惑いの中にある

これが今浮かんでいる言葉です。

みんな様々な出来事に出会いその中で自分の考えを育んでいて、そこにはそこに至るワケがあり、その人の正当性があります。人間の自我は目の前の出来事に反応し一喜一憂しながら自分の利益を求めていきます。それは多分みんな共通していて、だからその人の立場に立ったらその気持ちになるなと理解し合うことが出来るのです。僕はこんなふうに批判者たちの言葉を理解しています。ですが、これはあくまでそれぞれの状況に対する反応です。だから状況が変われば心も意見も変わります。なぜなら自我が求めているのはあくまでも自分の利益であり正当性だからです。そして、それは僕らの意見にも同じことが言えます。もし僕の言葉が自我からの言葉ならば、それはあくまで自分の立場や状況から生まれているものです。状況が変われば気持ちは変わります。だからもしその状態で言葉を保とうと思ったら自分に「大丈夫だ」と言い聞かす必要があるでしょう。自我からの言葉は状況に左右されますが、変化変容を本質とするこの世界では未来は未知であり絶対はありません。自我の思惑から世界を眺めたらどうしても惑うことになり、逆に一つの視点に固執したら、そのことが世界を見えなくさせます。そこに自我による決心の弱さや危うさがあり、自我による共感はそれぞれの都合を認め合うことで分断が進んでいく今の社会を追認するのです。

先に僕は奥を見通したと書きました。それは僕の言葉が自我からのものではないことの確認です。僕が生きているのは自分の意志で生きる前に生かされているからであり、自我の奥には自分を生かしている働き掛けがあります。今、僕がここで暮らすのも自分の意志より前にその働きかけがあるからであり、それは自分の損得を超えたものでありその事実は揺るぎがないものです。そこに立つ時、僕は自我の惑いを超えて思惑を超えたところでみんなと繋がっていけるのです。そして、この視点が今の社会の行き詰まりを突破するものだと感じるから、ひどいところと言う人がいたとしても僕はここの大事をみんなが分かる言葉で伝えていくのです。そしてそれは大切な繋がりや心の豊かさを生み出しているという事実を伝えることでもあります。

自我の思惑を超えたところに「みんなでそうだね」と奥のところで感じ合える言葉があります。それは自我による共感を超えたものであり、様々な立場にいる人々を繋いでいきます。そんな本当の絆が広がるように。最後に一つの文章を引用して終わりにしたいと思います。

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思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




木の花ファミリーパンチームのみんなです。年始に美味しいパンを作ってくれました。

突破口は気づきにある(5)

今週はずっと体調が悪く苦しい1週間でした。ちょうど、「敵は自分であり有難い存在となる」を書いた後から風邪をひきそうな予感がして、昼間長めに休んだのだけれども、やっぱり風邪をひいて、頭痛、咳、鼻水、加えて、背中が強く痛み、肩と首が凝り、腰も痛み・・・というような状態で立っていても座っていても歩いていても寝ていても何をしていてもしんどい日々でした。そして、長めに休んだことで仕事が溜まり情報の整理をするのが大変になっています。

12日の夜、癒し処たんぽぽの鍼灸師、じゅんぞうくんに指圧とお灸をしてもらいかなり楽になりましたが、パソコンに向かうとやはり腰や肩、背中に痛みは発生します。年始早々なかなかな状況を迎えていますが、これも当然、自分の心が生み出しているわけです。この状態のきっかけとなった「敵は自分であり有難い存在になる」に僕は以下のように書いています。

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多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。


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今現在、役割として僕の敵になってくれている存在がいるのですが、この文章はその存在を意識して書いたもので書いた後に僕は調子を崩しました。そこには僕の弱さが表れています。僕には僕の役割があります。そして、その役割は敵の存在を認め尊重しながら務めるものですが、尊重するとは慣れ合うことではありません。相手の立場を理解しながらも情に流されず道理を通していく必要があります。しんどい状況からあらためてその覚悟を深める必要性を感じています。

ベトナム反戦運動を主導し、北軍南軍双方の兵士を助けることで誤解を生み、両軍から攻撃を受けても非暴力を貫いた仏僧ティク・ナット・ハン氏は、非暴力主義の鑑と言えます。そのティク・ナット・ハン氏は、何らかの理由で引きこもり家から出て来なくなった青年に対して、その青年の家を焼き、社会生活をするように促したことがあるようです。その行動は心を鬼にしてとった行動であり厳しいものですが、その奥には青年に対する理解と愛があります。今僕は、昔、本で読んだこのエピソードを思い出しています。

そして今、1月27日に開催される富士浅間木の花祭りに向けて稽古が本格的になってきていますが、僕はこのお祭りで鬼を演じます。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在です。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂、鬼の言葉が魂となります。魂とは本来の姿であり、一人ひとりの自我(エゴ)を超えた存在です。相手を理解する時、そこに相手の自我に対する理解も含まれますが、尊重するのは相手の自我ではなく魂です。すべての存在が魂では通じ合っています。だから魂を尊重するとは、すべての存在に通じる道理を通すことなのです。それは相手の自我にとったら認められないこともあり反発を受けることもあるでしょう。ですが僕は僕の情に惑わされずただただその道理を意識して役割を務めていきます。この言葉が僕の傲慢ならば、結果がそれを教えてくれます。だから常に変遷を見ていけばいいのです。ここで昨年の10月に書いた言葉を思い出しました。

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突破口は気づきにある。

それを意識し生活することが大切だと思っています。

多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。




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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)

「突破口は気づきにある」僕の中でこの言葉はこのとセットになっています。



神様はあらゆるところに住んでいる

昔、ただ答えがなくとも、そこに語りかけよ。そことは斜め45度の方角に向かって、斜め45度とは丸の中ではの方角だよ。つまり斜め45度に向かって語り掛けよと、それに対してどんなに無言であったとしても、必ず斜め45度のその先ではその意思を受け取っておる。だからそれを積み重ねよ。そしてそれを積み重ねた結果、必ず現象となってその答えが現れるであろうと。

今そのころの思いを言葉にしてみたんだけれど、それをやり続けてきてこの歩みがあったんだよ。それをやり続けることによって、まだ見えぬ現象、そして問いかけに対する答えを後からいつももらって、その答えをもらうことによって、信じる心が育ち、そしてここまで歩んできた。つまり、先に得てから信じるんじゃないんだよ。得る前に信じて歩まなければいけないんだよ。それじゃないと歩めない。

次にみんなで見る映画『沈黙-サイレンス』は、そのことの真実を宣教師たちの苦悩の中で、問いかけている。神がどこに住んでおるか、ということなんだよ。


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上記はある日の深夜3時半にいさどんがみかちゃんに語った言葉です。1月7日の夜、この会話に出て来る映画『沈黙-サイレンス』をみんなで観ました。この映画は遠藤周作の小説『沈黙』の映画化で江戸時代初期、キリスト教弾圧の渦中に置かれたポルトガル人の司祭ロドリゴを主人公にしたものですが、映画の後、いさどんは以下のように語りました。

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今は、多様性が大切な時代となっています。映画の中でロドリゴは、弾圧される中で神の沈黙を訴えていますが、それは自分の側に神を引き寄せようとしているからです。だけれども、相手の側にも神はいます。ロドリゴにはそのことが見えていません。あの映画の中の弾圧は酷い行いですが、そこに登場する人たちは、あの時代を反映し、それぞれの立場から行動していたのであって、そこには良いも悪いもなく悪者はいません。当時、キリスト教は世界中に布教活動をしていましたが、その中では現地の信仰への弾圧もありました。そういうことも見ていく必要があります。そして、宗教は、貧しく苦しんでいる人々に広がっていきました。そのため宗教は救いを求めるもの、ご利益の対象となっていきました。ですが、本当の信仰とは神と共に創っていくものです。そしてその基盤には精神的豊かさが必要となり、それがこれからの社会に求められるものです。今、僕らはみんなでそんな世界を表現していますが、そのことの大切さをあらためて実感しています。

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いさどんの言う通り神は沈黙していたわけではなく、神の答えは常に目の前の出来事に顕れています。当時、世界中にキリスト教の布教が行われていましたが、それは植民地政策とセットとなっていました。例えば、ネット上でこんな言葉を見つけました。

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だいたい、日本でキリシタンや宣教師たちが弾圧されたのは、そもそも戦国時代の宣教師が日本人の子供の人身売買にめっちゃ関与していてインドや東南アジアに売り飛ばしまくっていてたり、「寺社仏閣を破壊したら救われる」とか吹聴してキリシタンたちが実行しまくって、それで秀吉も困っちゃってイエズス会と交渉したけど聞き入れなかったからだからね。異教徒のことを敵視したり、人間扱いしていなかったのは元々おめえらのほうだからっていう話なんですよ。それの延長に徳川幕府の取り締まりがあるわけで(詳しくは神田千里『戦国と宗教』岩波新書を参照)。



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この言葉がどこまで本当かは分かりませんが、キリスト教の布教が完全に純粋なものではなかったのは確かです。弾圧はそんな彼らの布教に対する神の回答とも言えます。自分の側に立たなければ、神のメッセージははっきりと見ることが出来るはずなのです。

映画でははっきりと表現されていたかどうかは覚えていないのですが、小説ではロドリゴによる踏み絵には以下のようなイエスの言葉が伴っていたようです。

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神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。

夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエス「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。

こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?

踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。


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このイエスの言葉は、すべての罪を背負ったイエスに繋がり、形に囚われない本当の愛に繋がるものではありますが、ロドリゴはまだ自分の側から世界を見ています。あくまで神は自分たちの側にいて、自分たちは正義であり奉行所は悪なのです。イエスが背負ったのはすべての人の罪であり、それは善悪を超越しているはずです。ならばこの言葉の奥にはもっと深いメッセージがあり、そこには奉行所も含めたすべての存在に対する愛があり、それはあらゆる立場を超えたものなのです。

ロドリゴは先にイエスという答えを得て、信仰の道を進みました。それが今までの信仰であり、未来を想定しているためなかなか自分の視点を超えることが出来ません。神の声も自分の望む声となり自分の視点を反映したものとなります。何かを得る前に分からない未来に向かって信じて進んでいく。そして結果から学び信じる心を深めていく。そういう姿勢が自分の視点を超えることに繋がり、結果みんなが分かり合える世界へと繋がります。多種多様な立場が存在し宗教や民族を巡る争いが絶えない今、必要なのは自分の視点を超える信仰であり、それは救いを求めるものではなく、共に創り上げていくものなのです。

神とはこの宇宙の法則であり客観性。そして客観性こそが愛であり慈悲。

僕らは常々このようなことを語り合っていますが、法則性である神様はあらゆるところに住んでいて、誰の側にも立たず、みんなに客観性という愛を注いています。だから目の前の出来事は常に神様からの答えなのです。いつもその答えを受けて、分からない未来に進んでみんなで分かり合える世界を創っていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんなです。

敵は自分であり有難い存在となる

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

これは古代ギリシアの喜劇作家アリストファネスの言葉。
風呂場の日めくりカレンダーで目にしました。

この世界は自分の鏡と言います。

敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということです。
敵と向き合うことは己と向き合うことになり、
そのためそこから多くの学びを得ることが出来るのでしょう。



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上記は昨年の3月に書いた言葉ですが、この言葉を見た時、「敵も自分だよな」ということを思いました。大きな視点で見たら、この世界は天の意向によって動いていて、自分も相手も役割を果たしているだけで、奥を辿ればすべては一つなのです。だからこの人生で出会うものはすべて自分と言えるのです。

そして「敵がいる」というとネガティブな印象を与えますが、必ずしもそうではないのだと思っています。

賢者は己の敵から多くのことを学ぶ

ということは、敵がいる状態は学びがあるということです。ライバルという言葉を日本語に直すと好敵手と書きます。好ましい敵です。ライバルという好ましい敵がいることにより成長する機会となるのです。2年前、僕は「敵が目の前にいるということは自分が敵を生み出す心をしているということですと書いていますが、この時の僕は、敵という存在を超えていくべきものと捉えていました。最終的には敵がいなくなることを良しとしていたのです。ですが、好敵手であるライバルは自分を成長させてくれる存在です。生きている間、成長し続けるならば、敵がいることは常に有難いことなのです。そのことに気づきました。

そして、この「敵はいない方が良い」という心は曲者だなと思いました。それは都合の悪いものを排除する心にも通じるもので、争いを避けているようで争いを増幅していくのだと思います。実際に人類は長年、平和を求めて争ってきています。そして、この心が敵を好敵手ではなくただの敵にし、それが学びのない不毛な争いとなっていくのでしょう。

多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。

たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。

過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。

このようにみんなで成長を続けていたら、みんながみんなの好敵手となり成長し合い不毛な争いはなくなっていくのでしょう。敵の存在を認め尊重すること。その心が平和への第一歩となり人類の目覚めへと繋がります。それは暗闇の中に立ち上がる光の柱となっていくでしょう(^-^)



積極的に自分を探求するために夢を描く

1月2日スーパームーンと富士山(ちなっぴ撮影)です。

2018年の振り返って書く2018年の目標という記事を読みました。この記事では今年1年を通して引き寄せたい、現実化させたい未来の出来事を手帳に書くことを勧めています。以下、一部引用します。

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過去形で未来のことを書くことに違和感を感じる人もいるかもしれませんが、なかなか集中できない人へのオススメの書き方は、自分が未来にタイムスリップしていて、2018年の目標を書くなら、2019年のお正月に2018年の振り返り日記をつけている感覚で書くと良いかもしれません。

1年後の自分が、この1年間を振り返った状態。

1年後の自分はどんな自分となっているのか。

やりたかった、あの夢は叶っているのか。

どんな人が身の回りにいるのか。誰が一番近くにいるのか・・・。

「冬はこんなことがあったなぁ・・・」

「秋にはこんなことも始まって・・・」

2018年も半分が過ぎた頃には、予定通り目標も半分達成して・・・」

すべて、妄想で良いので、とにかく書くときだけでもいいから、意識を未来にタイムスリップし、過去を振り返りながら2018年に実現したいことを過去形で書きます。

自分の過去の経験上、何でもかんでも願望が実現するわけでもなく、それでも70%くらいは実現します。

実現しなかった目標は、ちょっと早すぎて、その翌年に実現したり、また頭で考えた願望は実現しにく、心がワクワクと踊る中でインスピレーションで降りてきた目標や数字は、現実化しやすいです。

だから、なるべく目標を書くときは、自分の心がリラックスしていて、頭ではなくハートに意識を持っていきながら、思いのまま浮かんだことを過去日記を書くようにすると良いと思います。

はたから見たらバカみたいなことですが、どれだけバカになって自分自身を信じれるか・・・信じるといえば綺麗ですが、自分を騙せるか、自分を洗脳できるかがポイントです。

潜在意識や脳は、一度設定したら、それを実現するために、フル回転で起きている時も眠っている時も稼働しています。

「そんなこと自分には無理」

いつも伝えていますが、自分に自信がない人、自分を否定する人は、一体どの自分を自分と思っているのでしょうか。

顕在意識、人間の脳、DNAにしても、使われているのは数%程度。

未知なる可能性が無限に近いほど誰にでも残されているのに、僅かに知っている自分をすべての自分と思い込み、自分で自分を制限してしまっています。

90%以上の、まだ見ぬ自分。


自分が知らない自分があることを認識するだけで、無限の可能性の扉が開かれます。

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この記事を読んで自分も実践してみることにしましたが、これは願いを叶えること、思い通りにすることが目的なのではなく、天との対話なのだと思いました。目標という形で想いを天に投げてみる。そしてそれがどのように展開するかによって自分を知っていくのです。

今、世界は様々な分野で行き詰まりを迎えていますが、それは人間が思い通りの世の中を生み出そうとしてきた結果です。自らを分けると書く自分。そこから生まれる自我は世界から自分を切り離し際立たせます。その動きが行き過ぎたものとなり人々に分断や対立が生まれているのです。

大切なのは、自我の動きを超えることです。目標や願いを書く時、自我の想いを叶えようとするならば、叶ったとしても、それは社会や自分の混乱を深めていくだけとなります。だから実現不能に思えるようなことを思い切り書くといいのだと思いました。その後はそれを手放し日常をただ真剣に送るのです。そしてそれがどのように展開するかで自分の心を知っていくのです。積極的に自分を探求する姿勢として夢を描き天に投げてみるのです。こんなふうにしてただ受け身で天からの意向を待つのではなく天を主役としながらも現実を共に創り上げていこうと思いました。それが個としての存在する人間の役割なのだと思っています。

銀河の夜明けを経て、今、時代は真の女性性が蘇り統合する時代へと向かっています。ここでその意味が明確に表現されている文章を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

 ~ 中略 ~


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。

無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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自我は波のようなものでその奥には海である自分がいます。海の表面に波があるように心の表面にも自我があり、そこでは常に感情の浮き沈みを繰り返しています。人はそこに目を奪われ感情の波に飲み込まれていきますが、真の自分、海であることに気づくためには波の奥へと潜っていく必要があります。

日々湧き上がる感情。その奥に潜っていくことで本当の想い、愛と繋がることが出来ます。それは毎日地道に続ける実践です。僕は思い切り夢を描き、感情を離れ日々の出来事をそのままいただいていきます。そして、それがどのように展開するかを楽しもうと思っています(^-^)





お金を通して心を育んでいく

昨年の6月、僕が木の花ファミリーの経済について書いた原稿がアメリカのコミュニティズマガジンに掲載されました。その原稿の中で僕はお年玉について触れています。以下、その部分を引用します。

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たっくん(5歳):なかのん、僕、これ(大袋のあられ)買いたい。

なかのん:それを買うにはお金が足りないね。たっくん、他のお菓子を買ってお金使っちゃったからね。

あやな(7歳):私のお金足してあげる。

なかのん:あやなは優しいね。

あやな:うん、みんなで食べたらいいもんね。


これは今年のお正月、子どもたちと交わした会話です。日本にはお年玉という習慣があり、お正月には大人から子どもたちに小遣いが渡されます。木の花ファミリーの子どもたちはそのお金を使って木の花ファミリーの商品を買っているのです。子どもたちは各自、自分の好きなお菓子を購入しますが、それをみんなで分け合っています。分け合うことでたくさんの種類のお菓子をみんなで楽しんでいるのです。それはとても微笑ましい光景です。通常、子どもたちはお金を使うことなくお菓子や必要なものを得られるのですが、このようにしてファミリーの子どもたちはお金を使うことを身近なところで体験しながら、共有することを学んでいます。

 ~ 中略 ~

冒頭で紹介した子どもたちとの交流もお金を通した学びです。子どもたちはお年玉をもらうことでお金を手にし、それを使うことを楽しんでいます。ファミリーの子どもたちのバックグラウンドは様々です。コミュニティ外部に祖父母がいてお年玉を貰ってくる子どももいれば、そういう存在が一切いない子どももいます。コミュニティ外部でお年玉を貰ってくる子どもたちは、そうではない子どもたちよりも多くのお金を手にすることになります。その時、子どもたちの中にそのお金を自分で持っていたいという気持ちが芽生えることがあります。ですが、私たちは基本的にそのお金はみんなのお金として預かることにしています。前述の通り、私たちの暮らしに必要なものは生活費によって過不足なく満たされます。子どもたちの必要も当然満たされています。そのような中、限られた子だけが自分のお金を多く持つことは、優越感や不平等感などを生み出し、それらの心は不調和に繋がります。そのことを丁寧に説明すると子どもたちは納得し、お金を手放していくのです。その姿はとても気持ちが良いものです。



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今年もファミリーの子どもたちはお年玉を手にし、お買い物を楽しんでいます。そしてコミュニティ外部からお年玉を貰ってくる子どももいて、子どもたちの中には様々な感情が芽生え学びの機会となっています。木の花ファミリーでは毎晩夕食後、子どもミーティングを行い子どもたちの話題を大人と子どもで共有していますが、昨晩の子どもミーティングで僕はお年玉の話題を出し、上記のようなことを伝えました。その話を受けて、子どもたちからは以下のような言葉が出ました。

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(1)例年はおじいちゃん、おばあちゃんのところに帰っていて、好きなものを買って貰っていたけども、今年は帰らないでここで貰ったお年玉だけで買い物をすることになった。そうすると買うものを選ぶ必要があっていつもとは違う気持ちで買い物をした。

(2)前にお正月に出掛けて5,000円ぐらいお年玉を貰ったことがあって好きなものを買ったんだけれども、今思うと無駄な買い物をしたなと思う。木の花のお金になって大切なことに使って貰った方が良かったなと思った。

(3)デパートに買い物に連れて行って貰ったんだけれども、電気を沢山使っているなと思った。

(4)自分は欲が深かったなと思った。

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一昨日の晩、サバイバルファミリーという映画を子どもたちも含めてみんなで観ました。この映画では地球全体で電気が全く使えなくなるのですが、そうすると都市機能が麻痺し、お金の価値もなくなります。そんな中、自給自足の価値がクローズアップされるのですが、上記の子どもの発言はその映画の影響も受けています。映画を観た後、いさどんは電気が使えなくなるという状況が非現実的ではないことを子どもたちに伝えていました。北朝鮮による電子パルス攻撃、大きな地震など実際に起きたら都市機能は麻痺することになるでしょう。そのような中、映画の中でクローズアップされた自給自足の生活がここでは実現していて、みんなで豊かに楽しく暮らしています。お金を超えて大切なことがあることをあらためて感じているのではないかと思っています。

6年連続で上昇し、26年ぶりの高値を記録した昨年末の東京株式市場の終値。その中で実体経済は1%にも満たないとも言われています。それは人々の心の表れで、多くの人が実体を離れ自分のイメージを膨らませているのです。そんな中、地球環境という実体は限界を迎えつつあります。そして人々の心も貧しくなっています。

そのような中、ただ欲を膨らませるのではなく、実際の生活に即してお金について考えることはとても大切なことだと思います。この世界には欲を掻き立てるものが溢れていますが、それを通して自分を見つめ心を育んでいく時、数字のようなバーチャルなものではなく実際の豊かさを味わうことが出来ます。お金を通して欲を満たすのではなく、心を育んでいくのです。僕は今、木の花ファミリーのみんなとそんな世界を表現しています(^-^)

ちなみに今日の子どもミーティングでは、コミュニティ外部の人から貰ったお年玉について、少しぐらいの額だったらそれぞれの人が保有することを大人も子どもも認め合いました。みんなで・・・という気持ちを大切にしつつも自分で管理するという経験もしていくことになります。僕らは固定した答えに現実をあてはめるのではなくて、その時その時新鮮にみんなで考えることを大切にしています。

昨晩の夕食に出たパンです。とっても豊かな食事でした。





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