12日の夜、癒し処たんぽぽの鍼灸師、じゅんぞうくんに指圧とお灸をしてもらいかなり楽になりましたが、パソコンに向かうとやはり腰や肩、背中に痛みは発生します。年始早々なかなかな状況を迎えていますが、これも当然、自分の心が生み出しているわけです。この状態のきっかけとなった「敵は自分であり有難い存在になる」に僕は以下のように書いています。
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多種多様な経験をし、様々な立場の人たちが共に暮らすこの世界では意見の相違があるのは当然です。違う立場の人が敵となって表れる。それも不思議なことではありません。その時、それを有難いこととして受け止め、そこから学んでいけば、敵は好敵手となり人は成長しあらゆる立場を超えた視点を育むことが出来るのです。
たとえば僕は老若男女100名近くと血縁を超えて共に暮らしていますが、このような暮らしをしているといわれのない非難を受けることもあります。それらは経験や立場の違いから生まれる偏見と言えますが、彼らの視点を理解すれば、僕らの決意を試す有難い言葉ともなります。そんなふうに僕らは成長して来ました。それがなくなって欲しいと思う必要もなくてただ道理を通して暮らし変遷として見ていけばいいのだと思っています。
過去から未来へと続いていく天の物語。その長い物語の中に自分は位置し物事に出会いますが、すべては流れの中にあります。敵に出会うのもその流れの中であり、そこから学ぶことで敵は消え、また新たな敵が表れるのでしょう。敵の存在を認め尊重していれば、それは絶え間なく続く成長のプロセスであり、すべては役割でありそこには「有難い」しかないのです。
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今現在、役割として僕の敵になってくれている存在がいるのですが、この文章はその存在を意識して書いたもので書いた後に僕は調子を崩しました。そこには僕の弱さが表れています。僕には僕の役割があります。そして、その役割は敵の存在を認め尊重しながら務めるものですが、尊重するとは慣れ合うことではありません。相手の立場を理解しながらも情に流されず道理を通していく必要があります。しんどい状況からあらためてその覚悟を深める必要性を感じています。
ベトナム反戦運動を主導し、北軍南軍双方の兵士を助けることで誤解を生み、両軍から攻撃を受けても非暴力を貫いた仏僧ティク・ナット・ハン氏は、非暴力主義の鑑と言えます。そのティク・ナット・ハン氏は、何らかの理由で引きこもり家から出て来なくなった青年に対して、その青年の家を焼き、社会生活をするように促したことがあるようです。その行動は心を鬼にしてとった行動であり厳しいものですが、その奥には青年に対する理解と愛があります。今僕は、昔、本で読んだこのエピソードを思い出しています。
そして今、1月27日に開催される富士浅間木の花祭りに向けて稽古が本格的になってきていますが、僕はこのお祭りで鬼を演じます。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在です。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。
「二」 定着する
この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。
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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。
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「鬼が云う」で魂、鬼の言葉が魂となります。魂とは本来の姿であり、一人ひとりの自我(エゴ)を超えた存在です。相手を理解する時、そこに相手の自我に対する理解も含まれますが、尊重するのは相手の自我ではなく魂です。すべての存在が魂では通じ合っています。だから魂を尊重するとは、すべての存在に通じる道理を通すことなのです。それは相手の自我にとったら認められないこともあり反発を受けることもあるでしょう。ですが僕は僕の情に惑わされずただただその道理を意識して役割を務めていきます。この言葉が僕の傲慢ならば、結果がそれを教えてくれます。だから常に変遷を見ていけばいいのです。ここで昨年の10月に書いた言葉を思い出しました。
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突破口は気づきにある。
それを意識し生活することが大切だと思っています。
多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。
上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。
気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。
人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)
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突破口は気づきにある。
それを意識し生活することが大切だと思っています。
多くの人は現状に問題を感じた時、その分析をします。その分析の奥には「こうあって欲しい」というイメージがあって、そのためには「こうする必要がある」と訴えることになります。それは自分の想いを実現しようとする姿勢であり、自分の視点に対する理解を周りに求めることになります。この姿勢のまま「これではいけない、なんとかしよう」と一生懸命になっても突破口を開くことは出来ないのでしょう。
我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。
上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。
気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。
人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
「突破口は気づきにある」より
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役割としての敵が存在する今の状態は問題がある状態とも言えます。ですが、僕はそのことに対する理解も結果も求めません。そうではなく世界と他者を理解していく。そのことを心掛けそこから見える道理を通し変遷を見ていく。それはきっと新しい動きとなって僕を未来へと導くことでしょう(^-^)
「突破口は気づきにある」僕の中でこの言葉はこの絵とセットになっています。 |
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