分からないから悟れる

自分は分かっているものでありたい。

そんな気持ちが自分の中にはあります。何かを聞かれた時、「ああ、それはこうだよ。そういう時はこうすればいいんだよ。」と断定したい気持ちが湧いてきたり、何かを指摘された時、「それは分かっていた」と言いたい気持ちが湧いてきたり。

でもその気持ちは人を成長から遠ざけます。

「分かる」という言葉は「分ける」という言葉に通じます。何かから何かを分けること、分類したり、識別したりすることで人は何を「分かる」のです。何かを「分かった」ままでいるということは何かを「分けた」ままでいるということです。

悟るという言葉があります。悟るは「差」を「取る」ということで、それは分け隔てのない状態です。ということは「分かった」ままでいるということは悟りから遠ざかっているということです。

「分からない」という言葉は、「分けることが出来ない」という言葉に通じます。分けることが出来ないからいろいろなことが一緒になって分からなくなっていくのです。それは悪い状態にも思えますが、「差」が「取れている」状態とも言えます。とすると、悟りは「分からない」ことから生まれるとも言えます。

つまりこういうことだと思うのです。

人は何かを「分ける」ことでそのものを「分かる」。でもその次の瞬間に「分けることが出来ない」現実に出会って、「分からなく」なる。それでもまた「分かろう」として「分けて」いく。そのダイナミックな繰り返しが悟りへの道であり、「分かった」ままでいることは悟りからどんどん遠ざかっていくのです。

「分からない」ことを受け入れ、「分からない」ところに進み続ける。それが悟りへの道だと思いました。

話しは変わって。

3月17日22時12分 、魚座新月でした。宇宙元旦である春分前の新月、その新月に当たって、天下泰平ブログでは以下のように書かれています。

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新月は、心身がゼロポイントにリセットされる時。また意識もゼロポイントへ。

ゼロはないのではなく、新月の木のようにもっとも安定している状態です。

なぜ、新月の祈りや願いは成就しやすいのか。

意識が現実を作り、未来の現実化や引き寄せは、意識の状態によって大きく左右されるとなれば、意識がゼロポイントに位置する新月は、もっとも祈りや願いの効果が高まるのも納得となります。

太古の地球は、現在よりも質量が小さく、また陸地と海の割合も半分であったと言われています。

ある時期に突如として地球の水の量は増加し、水太りのように惑星が膨張した結果現在の海と陸地の割合になったようですが、この水の増加量を計算すると、かつて水の彗星であった月の水分量と一致するそうです。

月にあった氷、水分が地球に引き寄せられてもたらされた地表が泥沼になって沈むほどの大水害のインパクト。

聖書ではノアの方舟の物語として書かれていますが、現在の地球の水は月からもたらされた水の影響を大きく受けています。

月の女神、水の女神として知られる瀬織津姫

月の真実、水の真実が解き明かされる今、瀬織津姫の封印が解除されていることを強く感じます。


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この文章に出て来る瀬織津姫(セオリツヒメ)は男神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の妃で封印されている女神です。昨日の大人ミーティングではその瀬織津姫について書かれた文章がシェアされました。以下、その一部を引用します。

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女性性の復活というのは、単に制度的に男女が平等になるということではありません。それは、女性が女性であることの意味を理解し、正しい目を持つ者になるということです。同時に、これまでの男性優位の社会のような、男性が力や財力によって支配してきた時代が終わるということです。男性は、力や財力ではなく、智恵を持って、リーダーとしての役割を果たすのです。
男性は、この地上世界に宇宙の法を降ろします。女性はその法を受け取り、それにふさわしい、秩序ある地上を創るのです。その時に、種を降ろす男性と、それを受けて現象化する女性は、対等な存在です。男性性と女性性が対等となり、世界が運営されていくのです。その宇宙の仕組みが、地上に表現される時代が来たということです。
 ~ 中略 ~

それは本来、当たり前のことです。しかしあまりにも長い間、男性が力で支配する時代が続いたため、今の人々には、この当たり前のことが理解できないのです。女性は、男性にへつらうことが染みついています。そのことについて、これから講座の中でひも解いていきます。本当の男女平等とは、どういうものなのか。真の平等は、宇宙の法に則った、正しい陰と陽の関係にあるのです。
先ほど、瀬織津姫をカタカムナでひも解きました。それは、目には見えない奥にある大切なものであり、それを観る目を持つことを伝えてくれる存在です。
「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

 ~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。
瀬織津姫は、正しい性の物理性の象徴です。それは、宇宙が現象化し、命として生まれてくる仕組みのことです。私たちの性も、本来そのような神聖な意識のもとに行われなければなりません。

宇宙は生命そのものです。その仕組みに倣い、私たち地球の生命も、人間も存在しています。ですから、宇宙の原理に則って、私たちも命の循環に倣い、生きていかなければならないのです。
ところが、人間は自我を持ち、宇宙から自らを切り離してしまいました。生命誕生の仕組みである宇宙の根本原理を、自らの自我で汚してしまったのです。性という聖なるものを、自らの快楽や、お金や物で世の中を支配するための道具にしてしまったのです。それを、宇宙の法に基づく、本来の男性性と女性性の関係に戻す流れが、今起きています。
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水の星座であり春分(ゼロポイント)へと戻っていく魚座での新月を迎えました。このタイミングで月と水を司る神様である瀬織津姫の存在に想いを馳せるのは相応しいことだと思いました。
水は分け隔てなく世界を駆け巡っています。それはすべてに浸透している宇宙の法のような存在です。その動きを人間の意思で「分ける」ことが出来ません。そしてすべてを洗い流す力を持ちます。洗い流されることで「分けることが出来なく」なり「分からなく」なっていきます。そして、それこそが悟りへの旅路です。

今まで人間の自我が汚してきた宇宙の根本原理。それは自我の「分かっている」という自惚れから生まれています。今、多くの識者が世界を何とかしようとしていますが、「分かっている」立場にいたら宇宙の根本原理を汚し続けてしまいます。

だから僕は。

僕の自我が汚してきた宇宙の根本原理。今、それらをすべて洗い流し法則のままに生きていく。それは分からない道を行くということ。それが魚座新月を迎えての僕の誓いです。

瀬織津姫の舞@富士浅間木の花祭り


ただ出会う出来事を楽しんでいく(2)



日の出の位置が大分、富士山に近づいてきました。富士山の近くから登る太陽。その光景はとても美しいものです(^-^)

昨日、確定申告が無事済みました。僕は締切前日も確定申告の書類作りをしていましたが、記帳漏れの通帳を一つ発見しました。そこで自転車に乗って急いで銀行へ出掛けたのですが、帰り道に自転車のタイヤがパンクしてしまいました。忙しいところに予期せぬ出来事に出会いましたが、穏やかな気候の中、自転車を転がし周りの景色を眺めながら歩くのはとても気持ちのよい時間となりました(^-^)



2月に入ってから農事組合法人の決算、そして個人の確定申告と続き、ただひたすら帳簿に向き合う日々でそれはまさに駆け抜けるような感じでした。自転車のタイヤのパンクは「そのまま行くとパンクするよ」というメッセージに感じました。周りの景色、気候の移り変わり、世界の出来事を眺めながら歩むことで人生は豊かになります。

駆け抜ける必要がある日々はこれでもう終わりました。

確定申告から帰ってきた後、カフェ&ショップ ロータスランドに顔を出しました。みんな気にしてくれているだろうなと思ったから。そうしたらスペシャルプレートを作ってくれました。加えて、今週提供しているおまかせセットも少し味わいました(^-^)


スペシャルプレートを手にする僕。

ロータスランドにて今週提供しているおまかせセットです。

こういう特別なことに出会うと、それに足るヒトでなければ・・・と気持ちが引き締まりますが、どちらにしても未来は何が起こるか分からなくて思い通りにすることなんて出来ません。だからこういう時、出来事に焦点を当てて、こうでなければ・・・と思っても意味はないように感じています。大切なのは、ただニュートラルな心を維持することなのだと思います。嬉しいことに出会って調子に乗ったり、嫌なことがあって落ち込んだり、そんなふうにならずにニュートラルでいること。心は揺れ動くものですが、どんなに揺れ動いても、いつでもニュートラルな位置に戻れるように心掛けること。そんなふうであれば、何が起きるかをあまり気に留める必要はないのだと思います。すべてはただ相応しく学びのためにあるのだから。

ロータスランドは昨年の3月21日にオープンしましたが、その頃、僕は以下の文章を書いています。

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欲しいものを欲しいと素直に表現して手に入れる。

それって面白みがないことだなと思いました。
それは僕の求めている世界ではありません。

欲しいという想いは人智であり人智が叶うことは人智を積み上げていくことになります。その時僕の中には叶って欲しい、叶わないと嫌だという想いが育っていきます。
それって不自由なことです。

自分の想いは置いておいて出会う出来事をいただいていく。

そんなふうに生きていくと思いもかけない出来事に出会い感動するのです。その時、自分の欲しい気持ちなんてどうでも良くなっていってただただ出会う出来事を楽しむだけとなるのです。


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この言葉は今でも変わらず、僕の人生に対する基本的な姿勢となっていますが、自分の中には警戒感があったことに気づきました。欲しいと思う気持ちに囚われたり、それが増幅するのを恐れていたのです。だから特別なことがあると意識的に気持ちを引き締めてきました。でももう恐れる必要はありません。欲しい気持ちがあってもなくても、願いが叶っても叶わなくても、心がどんなに揺れ動いても、そこから離れてニュートラルな状態に戻っていく。そういう力を僕は育んできたし、これからもずっと育み続けます。だから心の赴くままに生きていきます。その結果どんな出来事に出会っても、どんなに心が揺れ動いても、ニュートラルな位置に戻って学び続けていこうと思っています(^-^)


想いを手放し、想いのままに生きる

僕は今、確定申告の準備をしていますが、締め切りが間近に迫る中、国税庁長官の佐川氏が辞任しました。学校法人「森友学園」への国有地売却問題での決済文書書き換え疑惑を受けてことで、佐川氏は売却問題が発覚した昨年の2月、理財局長を務めていました。財務省は書き換えの事実を認め、そして佐川氏は国税庁長官を辞任しました。佐川氏が自らの意志で書き換えをするとは考えにくく、それを指示した存在がいたと思われます。

決済文書を書き換える行為は作為です。そして佐川氏の辞任にも「トカゲの尻尾切り」という作為が感じられます。

こうしたい、こうなって欲しいという気持ちがあるからそうなるように作為をするわけですが、その作為が上手くいく保証はどこにはありません。作為は自分の視点からするわけですが、自分の欲に縛られれば縛られる程、その視点は狭くなっていきます。そのため作為は思いがけない結果を生み出し、結果に対応しようとして新たな作為が生まれ・・・というように自分の欲に縛られると結果に翻弄されるようになっていきます。

今、森友学園問題は上記のような状況にあるように思われます。そして、それは今の社会を象徴する出来事と言えます。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分たちのこうしたい、ああしたいという想いが自分たちの意図を超えて今の問題を生み出しているのです。そして何とかしようとするのですが、その想いも大抵は同じレベル(自分視点)でなされます。そうすると何とかしようという気持ちが今の問題を維持しているとも言えます。人は問題を通して学ぶのでありそのことを必ずしも否定的に捉える必要はないのですが、ある程度学んだら想いをリセットする必要があります。そうでなければ人は、自らの想いが生み出す想いもよらない結果に翻弄されたままとなります。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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人がこの世界に誕生する時、自分の意図は介在しません。みんな、自分の想いもよらない出来事によりこの世界に生み出されます。想いもよらないことによって世界は動き、僕らは生かされているのです。だから僕は想いを手放します。

上記は自分の視点から、思惑や感情を離れて見た事実です。

ですが他者から見たら違う景色も見えてきます。他者からすると、僕の想いが想いもよらないものともなります。ただ他者の期待に沿うのではなく、想いもよらない喜びを生み出すことも出来ます。そのためには想いのままに行動することが大切で、だから僕は想いのままに行動します。

想いを手放し、想いのままに行動する。

話すことは放つことです。想いのままに話し、話すことで想いを手放す。そうすることで、想いのままに生きるとともにその想いを手放していこうと思っています。

農事組合法人の決算や確定申告の準備のために長いこと大人ミーティングをお休みしていましたが、もうすぐその期間も終わります。ミーティングで、みんなで語り合い場創りをすることで、「みんなで」という波動を世界に広げていく。大人ミーティングはそんな場です。

長いお休みの中で培った僕の視点、それを想いのままに語ることで、僕はその想いを手放していきます。そうすることで僕は、自分の想いもよらない人となり想いもよらない人生を歩んでいくことになるでしょう。そんな人生を楽しみます(^-^)


木の花ファミリーのみんな、1ヶ月間の真学校受講生と。


すべて美しく、すべて意味があり・・・

3月7日の誕生日、僕は1ヶ月間の真学校「経済革命」の講座に講師の一人として参加しました。講座の冒頭、いさどんはこんなふうに僕を紹介しました。以下、「当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済」からの引用です。

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経済とは、お金の流れです。では、木の花の中でお金の流れはどうなっているでしょう。
木の花の中のお金は、ひとつです。皆さんの会社や家庭の中で、お金はひとつではないでしょう?でも木の花では、お金はひとつなのです。みんなでひとつの財布です。つまり木の花の経済は、私たちの体や地球、太陽系、銀河、宇宙の仕組みと同じなのです。それはこの世界の仕組みそのものですから、当たり前のことですね。ところが、この当たり前のことが今の人間社会にはできないのです。
僕はいろいろなエコビレッジなどに招待されて行くことがありますが、皆さんのところではお財布はひとつですか、と聞くと、そうではありませんね。たった「財布ひとつ」ができない。なぜだかわかりますか。それはスピリット、つまり、心がひとつではないからです。
木の花の経済は「財布ひとつ」ですが、それを循環させる心臓の役割を今日は連れてきました。
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経理のなかのんです。木の花の心臓です。よろしくお願いします。
(みんな拍手!)

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そして、話はこんなふうに続きました。

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みかこ:
金は天下の回り物、と言いますね。

いさどん:
おもしろいですね。「天下」とは天の下、つまり地上のことですね。
木の花の経済は「目から鱗」と言いますが、実は当たり前のことです。天の恵みを世の中に広げる、天然循環経済。その基本が、財布ひとつということです。
財布ひとつと言うと、みんなびっくりします。でも、地球の水はひとつですよね。液体だったり個体だったり気体だったりしますが、それは循環しているだけで、ひとつです。空気もひとつですね。今私たちは、ひとつの空気を共有しているじゃないですか。これはみんなの中を循環し、みんなを健康にするものです。そしてこの世界をひとつにします。お金もそうでなければなりません。それは、私たちの体を流れる血液と同じなのです。

もしも皆さんの会社や所属する組織がお財布ひとつだったら、とても便利がいいですよ。自分の貯金なんて確保しなくていいのです。お金が必要になった時に、お財布の中身が足りない、どうしようなんて考えなくても、全体のお財布から持ってくればいいのです。その代わり、自分が日々働くことは全体のためであり、お金も全体に入ります。自分は全体のために働き、自分が何かを必要になった時は全体から供給されます。ということは、自分のためだけに、なんて考えなくてもいいのです。とても楽だと思いませんか?とても楽で理に適った当たり前のことですが、それを聞いてみんな驚くのです。


でも皆さんは、そんな世界を求めているのではありませんか?

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いさどんと一緒に講座を創れたことはとっても素晴らしい誕生日プレゼントとなりました。いさどんは僕を引き立て、そしてその場を豊かな時間にしていきました。この日の夜、僕は「経理を通して社会と響き合っていく」を大人ミーティングでシェアしましたが、その場もいさどんは僕を引き立てながら楽しく豊かな時間を生み出しました。

木の花ファミリーの経済は頭でこうしようと思って生み出されたものではありません。心をひとつにして暮らし、社会と対話する中、生み出された仕組みです。だからずっとこれで固定するわけではなく社会が変化すればそれと呼応して木の花の経済も変化していくことでしょう。ただその土台は変わることがありません。それは「心が一つ」ということであり、自分を超えた大いなる意志の下、みんなで繋がり分かち合う生き方です。

誕生日、たくさんの人に祝って貰って幸せな気持ちになりましたが、普段の日から美味しい食事や温かい心に包まれ毎日幸せに暮らしています。それは分かち合う心が生み出す豊かさです。生きていれば都合の悪いことも起きますが、それは自分の視点から見ているから都合が悪いのであって、大いなる意志に心を向けたら、すべての出来事は祝福です。そして生きていることは意図せずに実現していることです。僕の意識の知らないところで僕はこの世界に生み出されました。生きていることは自分の意図を超えています。だから「こうでなきゃ・・・」という想いや「自分が・・・」という想いを超えて、この世界に心を溶かしてみんなと心一つで生きていこうと思いました。

誕生日、友人の川崎くんは今年もこんなメッセージをくれました。

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Happy Birthday!! Whatever is beautiful, whatever meaningful, whatever gives you happiness.May all that be yours, today, tomorrow & forever .

(誕生日おめでとう!! すべて美しく、すべて意味があり、すべてがあなたに幸福をもたらします。今日と明日、そして永遠にそれらがあなたのものでありますように。)

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僕は一人の人間だけれども、同時に永遠の表れでもあります。そして、すべては美しく、すべては意味深く、すべては尊い。「自分が・・・」という想いに囚われなければ、そんな世界が見えてきます。僕は永遠の表れ。永遠という時空であり時空を超えた世界の一つの彩りなのです(^-^)


経理を通して社会と響き合っていく

先月、プロセスワーカーのとこさんは還暦を迎えましたが、とこさんが誕生日にあたり書いた言葉がとても印象に残っています。以下その一部を引用します。

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兎に角、言いたいのは、年齢だから起きてると思う症状を歳のせいにするより、その症状がシステムに自分がどう加担してるかにいかに関係してるかっていうアウェアネス(気づき)を持ちたいと思う方が、とこにとっては大事ってこと。

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システムという言葉は社会とも言い換えることが出来ると思うのですが、一人一人の身体症状や課題は社会の影響を受けていて、社会の表れとも言えます。と同時に、一人一人の総和が社会なわけだから、自分のあり方は今の社会のあり方に何らかの形で加担しているわけです。人は症状に出会うと自分を被害者のように感じるものですが、無意識を含めた自分の総和がその症状を選び、そして自分一人分、今の社会に影響を与えているのです。そこを見極めていくことはとても大切なことだと思っています。

それと同時に大切だと思っていることは、症状をネガティブに捉える必要はないということです。ネガティブに捉えるのは、善い悪いという発想に囚われているからで、すべてはただ相応しくあるだけなのです。だから単純に症状や問題をなくそうとするのではなく、症状や問題を生き抜きその奥を見通していこうと思っています。その時きっとこの世界の神秘が花開いていきます。




ここで社会と自分の関わりについて書いてみようと思います。僕ら木の花ファミリーはお財布一つでみんなで暮らしています。誰がお金を持っていてもそれをみんなのお金として扱い生活しています。どこにあっても誰が持っていてもみんなのお金で、そのお金を通してみんなの生活を支えています。自分が持っていても他の人が持っていても同じことだからみんなお金のことを気にせずに暮らしています。その暮らしは今の社会に対する一つのメッセージとなっています。

と同時に僕らは日本社会の中で生きているので、日本の法律に基づいて暮らしています。日本の法律では、課税の基準としてお金の所有者や動きを明確にすることを求めています。その求めに応じて、たくさんの人が集まって一つになっているお金の動きを分類し所有を明確にしていく作業を僕はしています。それはとても複雑な作業なのですが、今の社会を表しています。一人一人が所有権や望みを主張することで、本当は単純で美しいこの世界を人間は複雑で情にまみれたものにしています。そして余計な仕事を生み出し仕事に追われる生活をしています。今、お金はお金を管理する仕事を生み出していますが、世界のお金がみんなのお金になったら、どこにあって誰がもっていてもみんなを支えるだけならば、多くの手続きが不要になりこの世界のトラブルも半減するでしょう。ですが、今の人々は、個人個人の幸せそして個人個人のお金を求め、それが生み出す忙しさを受け入れています。それが今の社会の選択で、その社会と連動して僕は忙しさを引き受け心や身体に負担を掛けている、そんなふうに思っています。そして、それは僕の主体的な選択であり大切な役割だと感じています。

この世界の神秘は現象の奥にあります。だから極端なことを言ってしまえば、現象としては何が起こっていてもいいのです。大切なのは、その現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。

僕は今の社会へのメッセージとしてお財布一つの生活を送りながら、それと同時に、経理を通して今の社会の複雑さを生き大変な思いをしています。その大変さは、人間が歴史の中で生み出してきた複雑さであり、彩りであり、混乱であり、多様性です。僕の忙しさの奥には今に至る人類の物語が流れているのです。僕は現代社会に生きる一員としてその複雑さを生きています。と同時に、僕は他の世界、お金から自由な世界も体験し知っています。だから僕は目の前の現象から離れ現象の奥を見通すことが出来るのです。

ここには危うさもあります。僕が目の前の作業に埋没し、ただ忙しく働くだけならば、それは今の複雑な社会に加担するだけとなり、下手したらワーカホリック(仕事中毒)にもなりえます。こうなると僕は社会の犠牲者となり、そのことで社会を犠牲にするようにもなります。ですが現象の奥を見通しその視点を持って忙しい毎日を送れば、そこから「気づき」が生まれこの世界へ光を差し込むことが出来るのです。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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現象の奥にはすべてを生み出す元の世界があり、そこには常に希望があり、世界に変化変容をもたらしています。ですが、人が今の想いに固執すると、その動きが停滞し問題となって表れるのです。今、多くの人が自分の想いで心をいっぱいにしています。そして、一人一人が自分の想いを満たそうとして社会がどんどん複雑になっていきました。僕は経理を通してそんな複雑な社会を経験していますが、同時にそこから離れ現象の奥へと目を向けています。だから僕の中には気づきがあります。

今年の2月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンしたことで経理上はとても複雑になった木の花の経済に向き合う中、僕は39.5℃の熱を経験し、オフィスの引越しを経験し、祖母の死を経験しました。熱の中も仕事を続け、日帰りでさいたまの祖母の葬儀に立ち会い、最後は5日間で7時間という短い睡眠時間(横になった時間でウトウトした時間はもっとあります)で働き続け法人税(農事組合法人)の申告を済ますことが出来ました。僕の中には最初、この状況に対する怒りが生まれていましたが、次第に神様の計らいを感じるようになり「いただく心」を育んでいきました。それはとても濃密で有難い時間で僕はこの時間を通して自分が傍楽(はたらく)意味を再確認しました。

働く(はたらく)とは、人が動くことであり、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たし、傍(はた)を楽(らく)にしていくことです。そこに「自分が」という想いは必要なく、空っぽになってただ与えられた役割を坦々と果たすだけ、そしてそのことを通して現象の奥を見通し、この世界に気づきをもたらしていくのです。

傍(はた)を楽(らく)にする。

他者のために生きる

それはただ物理的な行動だけではなくこの世界に気づきをもたらし新しい動きを生み出すことです。自分の想いでいっぱいの行動は、最初はスムーズに動いたとしてもいずれこの世界に停滞をもたらします。だから常に自分を離れ現象の奥を見通す心が必要で、これからもずっとそんな心を育み経理を通して社会と響き合っていこうと思いました。

もうすぐ僕は43歳になりますが、誕生日は現象としての自分がスタートした日です。現象としてはそこがスタートですが、現象としてこの世界に顕れる前に、魂としての自分は存在し続けていました。3月7日の誕生日を前にして、そこに想いを馳せています。

大切なのは、現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。だから現象は何が起きてもいいのです(^-^)


木の花ファミリーのみんなです。

咲いた梅の花のように

やることが沢山あるとそのことに意識を集中する必要があるのですが、それは没頭にも通じて、場合によっては危うい状態にもなります。

お酒やたばこ、薬物、パチンコ、仕事や携帯など。世の中には様々な中毒や依存症がありますが、依存症、中毒って何かに没頭することで現実を忘れていくことだと思うのです。現実と向き合わないことで日常生活に支障が生じたり、身体が壊れたりしていきます。そして心は、世界との生きた交流を失い、自分だけの世界へと埋没していくのです。

もともと僕には自分の中心を他者に投げ出す傾向があり、そのことによってトラブルを経験してきました(「あなたの未熟もみんなに役立つ」参照)。それって依存症にも通じる心で、依存症は自分の中心をお酒やたばこに投げ出すことで「それがなければいられない状態」へと陥っていくのです。

今、実際に会計処理に集中する必要があるのですが、それってワーカホリック(仕事中毒)を生み出す土壌ともなり、しかもそのことに正当性も与えられます。いやぁ、危うい。本当に危うい状況にあるなと思います。実際に2月中、この精神状態ってこのままいくと依存症のようになっていくんだろうなと感じたことがありました。依存症の要素を抱える僕にこんな状況が与えられるのも神様によるお試しだよなぁと思っています。危うい状況にありながらもそれを認識し、現実に心を開き必要なことを坦々とこなしていく。それは僕が自分の課題を克服した証となっていくことでしょう。そんなことを思い日々を送っています。

そして3月に入りました。

3月に入り健康や長寿を表す梅の花が僕の周りでもようやく咲き始めました。今年は寒かったからか例年より開花が遅く感じましたが、多少遅くなったとしても季節は巡っていきます。そして、今日、3月2日は満月です。この満月は旧暦では小正月にあたり、2月16日の新月から始まった旧暦のお正月期間もここで終了となります。この期間、僕はかなり無理を重ねて働きましたが、季節が巡るように僕の状況も日々刻々と変化していきます。一番大きな課題と言える農事組合法人、法人税の申告は済ますことが出来ました。これからは花開いた梅の花、健康をもう少し意識して過ごそうと思います。

昨年の3月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンすることでコミュニティ全体のお金の流れが大きく変わっていきました。そんな中、僕は木の花のお金の流れを掴みきれなくなっていきました。そこで外部の専門家に見てもらうことも検討し、税理士紹介サイトを利用したのですが、日常生活と3つの法人(農事組合法人、NPO法人、合同会社)が一体となったうちの会計の特殊性のためか引き受けてくれる税理士は見つかりませんでした。だから自分で道を切り開く必要があったのですが、なかなか光を見いだせずにいました。そんな状態だったので農事組合法人の決算報告を作成することは不可能に思え、この1年ずっと葛藤状態にありました。

早い時期からずっと大人ミーティングに出ることを止めて会計に集中するべきではないのか?木の花祭りの鬼を降りて会計に集中するべきではないのか?

こんな思いも湧き続けていましたが、僕は昨年1年、大人ミーティングの多くに参加し全力で場創りをしてきました。そして木の花祭りもみんなと共に舞い踊りました。その経験は僕の宝となり力量となっていますが、もし決算報告が出来なければそれもただの判断ミスとなっていきます。そんなプレッシャーと向き合った2月。僕は作業に集中する中、とうとう木の花のお金の流れを掴み直すことが出来ました。それは感覚の話でもあり、流れを見通すと、ここ全体のお金の流れが自分の身体の一部のように感じられます。その感覚をなんとか取り戻し決算報告を仕上げることが出来ました。

不可能に思えたことが出来たこの経験、自分が自分の想像を超えたと言うことも出来ますが、結局、先のことは分からないのです。分からないから、先のことは置いておいて目の前のことを確実にこなしていくことが大切です。例えば僕が昨年の早い時期から大人ミーティングに出ずに会計に集中したとします。それが良い結果に繋がったかというとそうとも言えないと思っています。僕の中には「出来ないのでは」という不安があったわけですが、不安からの行動はそれに相応しい現実を生み出すものです。会計ばかりに集中して僕の心のバランスが保てるかどうかも分からないことです。未来をコントロールすることは出来ません。常に何が起こるか分からないものです。

結果から見たら、僕は昨年、大人ミーティングの多くの時間を楽しみ、そして決算報告も出来ました。それは未来に対する判断を置いておいて目の前のことをこなしていった結果だと思っています。そして今、心が少し軽くなっています。

梅の花が咲きました。そして旧正月の期間が終わります。だからどうしようと決めるわけではないのですが、咲いた梅の花を感じて咲いた梅の花のように過ごしていこうと思っています。

季節は巡り巡ります。同じように僕の状況も、そして世界の状況も巡り巡ります。その変化に心を開いていようと思っています。

梅の花と富士山。「宮ノ下広場」にて。



自分自身が大海の表れであるように。

自分は親孝行をしていたはずなのに、与えようとする意識とそれを受け取る意識の価値観が違うがために、親不孝をしていることがわかったのです。親孝行や人を想うことは、相手と通じたときに価値があるのです。どんなに相手を想う心であっても、それがいかに尊くても、相手と通じなければ意味がないと考えたときに、自分は間違っていたと気付きました。その極めつけとして、「自分は世のため人のための人生を生きると言っておきながら、結局自分の先祖や両親を優先して考えていた。ここにも我があることを知って、天はこの我も取りなさいと教えてくれているのだ」と気付き、親元を離れ、富士山へ行き、この生活をしようと決意したのです。


このようにして、ふるさとでの理想郷づくりを半年で断念した僕は、ふるさとを出発する当日、その志を滝神社の氏神様に報告しに行きました。そうしたら、氏神様から次のような言葉が降りてきました。「そなたのことは、上の神様より聞いておった。そなたがここに来て、わたしを盛り立ててくれることを喜びとしておった。だから、まさかここで別の地へ行くとは思わなかったが、それは理解できる。旅立ちのはなむけに、言葉を送る。どんな大海を行く者も、その始まりはふるさとに降るしずく一滴より始まることを忘れるな。



☆彡 ☆彡 ☆彡

上記はいさどんが故郷を離れる時のエピソードですが、人間はみんな一滴としてこの世に生を受け、そしてこの世を旅立つ時、この世界という大海と一つとなります。ですが、あの世に旅立つ前にこの世にいながら大海と一つとなって歩むことも出来ます。それが心磨きの道だと僕は思っています。

話しは変わって。


そば粉のガレット



のんちゃん
カフェ&ショップ ロータスランドでは今週から午後2時以降、そば粉のガレットを提供しています。Facebookに掲載されているのを見て秘かに食べたいなと思っていたら、ロータスランドスタッフののんちゃんが作ってわざわざ僕が仕事をしているオフィスまで持ってきてくれました。それもちょうど飲みたいなと思っていたミルクティーと一緒に。思いがけなく胸がいっぱいになって、5年前の7月にのんちゃんが作ってくれたおにぎりを思い出しました。以下、その時、Facebookに投稿した文章です。

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今日は、お昼に出かけることになっていたんだけれど、バタバタしてしまい、昼食を食べる時間が取れそうもなかった。

「まあ、いいか」と思っていたら、そんな僕の様子を察してのんちゃんがお出かけ用に、おにぎりとゆで卵を用意してくれた。

のんちゃん、すげー!!!

って思った。僕は何にも言っていないのにね。


※写真のおにぎりは酵素玄米にピーナツと黒米餅あられが入っているもの。この他、キビご飯の焼き飯のおにぎりや、とろろと黒ゴマと梅を使ったおにぎりが入っていて、とっても美味しかった(^-^)

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そして、おにぎりで思い出すのは、昨年の誕生日に同じくのんちゃんに作ってもらった大きなおにぎり(下の写真)。この時、僕はこんな文章を書いています。

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とっても素敵な料理を作ってもらって胸がいっぱいになりました。そして、みんなで僕を囲んで写真を撮ってくれたのですが、「なかのん、誕生日おめでとう!!!」という声と共にみんなが拍手をしてくれました。それも思いがけなくて胸がいっぱいになりました。デザートはほとんど子どもにあげてしまったのですが、こうやって共有出来ることがただただ幸せでそのことも僕の胸をいっぱいにしました。僕は感動で満たされました。

変化変容を繰り返すこの世界の法則はみんなを幸せに繋いでいきます。それを邪魔するのは「自分が・・・」と際立つ心だけです。僕は魂の地点に立って、自分の思考や感情から自由となり法則のままに生きていきます。そしてみんなとその豊かさを表現して発信していきます。その時きっと自分自身が永遠の表れとなっていることでしょう。

そう、僕は永遠に続く宇宙です(^-^)

いや、「僕は・・・」ではなく「僕も・・・」ですね。
気付けばみんな永遠に続く宇宙、共に未知の道を旅しているのです。



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自分を超えて法則のままに生きる時、人は宇宙そのものの表現となり大海と一つとなるのだと思います。これから僕は祖母の葬式に行きますが、僕はそんな心を持って祖母を見送ろうと思っています。その場で会う僕の身内は一滴としての僕を生み出したくれた人たちですが、僕は同時に大海でもあります。自分自身が大海としてその場に臨めば、滴としての僕らは溶け合って時空を超えて、生死を超えて一つとなっていきます。忙しい時期であり物理的には僅かな時間しか共に過ごすことは出来ませんが、大きな心で共に過ごそうと思っています。

2月という1年で最も忙しい時期に病気をいただき、そして祖母が亡くなりました。思いもかけないことが続きますが、神さまの計らいも同時に感じています。例えば農事組合法人、税申告の締め切り日に葬式が突然入ったらどちらかを諦める必要があるわけですが、何とか出来る可能性は保たれているのです。

そして今、僕は木の花のみんなの中で生きています。そしてみんなが僕に気を掛けてくれています。素敵なデザートを運んでくれたのんちゃんだけでなく、癒し処たんぽぽの鍼灸師じゅんぞうくんは頼みもしないのにいつも僕の身体の状態を見てくれます。そして、日々の細かなことに気を掛けてくれるオフィスチームのみんな、僕のエールのために大事を語ってくれたいさどん、全部、僕が意図していないところで起きていることです。僕の意図していないことが僕を支え僕を生かしてくれています。

自分にとって都合のよいことも都合の悪いことも、嬉しいことも辛いこともみんなみんな自分の意図を超えたところで起きていて、それが僕の胸をいっぱいにして僕の幅を広げてくれます。僕という一滴を壊し大海へと導いてくれているのです。

大きな流れがこのタイミングで僕を肉親の元へと導いています。僕はただその流れを受けて行動し滴としての自分を確認すると同時に自分自身が大海の表れであるように生きていこうと思っています。それはこんな感じの人生です。

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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。

波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。

僕は自分を通してみんなの人生を生きる。

それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。



木の花ファミリーのみんな

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