実態から潜象界へと至る

自分の思考や感情の奥には自分の実態があり、自分の実態は天と繫がり、この世界に流れを生み出しています。それは自分自身、そして人類に相応しい流れです。ですが、多くの人は自分の思考や感情で判断し行動しているので、自分の実態が見えず、流れをつかめずにいるのです。この世界に多くの滞りが生じ、その原因を人々が理解できないのはそのためと言えるでしょう。


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3月7日は僕の誕生日でした。そしてその数日前、3月1日は農事組合法人木の花ファミリーの10歳の誕生日でした(10周年記念日でした)。誕生日の言葉として、農事組合法人木の花ファミリー10周年のトキ、ジイジが語った言葉を紹介したいと思います。


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一番、我々の姿勢で大切なことは、自分の実態をよく知ること。自分の実態を良く知って、その自分の実態に相応しく適切に歩んでいくことです。これは何かの教えの中にもあるのですが、悟りへの道なのです。悟りへの道は己の実態を知ることである。こんな言葉があったかと思います。

自分の存在には、いろいろな切り口がありますが、自分の実態を知ることによって、自分を正しく導くことが出来るのです。ですから、この農事組合法人がどんな存在で何者であるかということを知るからこそ、適切な運営が出来るのだし、自分たちがどんな時代を生きているか、自分がどんな人格なのか、それに知ることによって進路は自ずと決まってくるのです。

今までの時代は、人間は、自分の実態を知るのではなく、自分の中から湧いてくる願望を叶えることを優先してしまっていて、自分の実態を無視して、情報や風評を聴いて、ああなりたい、こうなりたいと言って歩んでいったのです。自分の実態はどうでもよかったのです。

今、温暖化とマイクロプラスチックなど、地球には様々な問題がありますが、そんな地球の実態を知ることも自分を知ることなのです。自分から湧き出してくるもので、世の中の人々は生きていますが、それが自分や地球、宇宙に何をもたらすのか、それを理解するのは難しいことですが、それを理解しないと次の時代を人類は迎えられません。


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ジイジは実態を知ることの大切さを語っていますが、実態を知ることは僕らを無限の世界へと導きます。そんなことを表現した文章を引用したいと思います。


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3ヶ月程前、いさどんはこんな言葉を語りました。

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昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。
そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。
それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。

僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

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このとっても不思議でどこか魅力的な言葉を聴いて、
僕は以下のようにいさどんの心を感じ、表現してみました。

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※青字がいさどんの言葉、黒字がそれに対する僕が感じた表現です。

昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。

自我を持った人間は、自分の実態から離れ、
幻想の世界で暮らすようになりました。
自我は土台がなく孤立しています。
そのため他人からの承認や評価を必要とするのです。
評価を得て、承認をされることで自分の存在を維持しているのです。

そんな自我の奥には「自分の実態(実体)」が存在しています。

この世界に存在するものはすべて循環の仕組みの中で存在しています。
生き物が生き物を支えることで成り立つ生態系。
そこに存在するものはすべて一つなのです。
自我の奥に存在する「自分の実体(実態)」も
この世界の循環の中で存在しています。
つまり、それはすべての存在と繋がり、
宇宙の法則の下に存在しているのです。

全存在と繋がる「自分の実態(実体)」は、
自我の想像を超える体験をもたらします。
それは自我にとって不可思議な異次元空間のような存在です。
そして、常に自我の一番近いところに存在し続けています。
ですが、自我は幻想の世界に埋没しているため
その存在に気づくことがないのです。

そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

人類は長いこと各々の自我の幻想の中で暮らしていました。
一人一人の幻想から共通項を抜き出し共通の幻想を創り上げ、
実態の存在を忘れてきました。
人類は実態を無視した幻想の中で一喜一憂し、毎日の糧を得ていました。
それは各々の欲望を際限なく追及する姿勢に繋がりました。
今、その暮らしが限界を迎えようとしています。
実態を無視し、際限なく己の欲を追求した自我の振る舞いは、
この世界を蝕んできたのです。

自然災害や環境破壊、テロリズムや紛争、貧困、経済格差など。

今起きている様々な問題は社会が生き詰まりを迎えているサインなのです。

今、一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいていく必要があります。
その時、自我の想像を超えた異次元空間が開かれ、
新しい時代が創られていくのです。

今までの社会は物質循環のみで営まれ、天然循環はしていませんでした。
そのため物質のエネルギーは枯渇し、環境破壊が進んでいるのです。
一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいた時、
天への扉が開かれ、エネルギーは潜象界に返り、天然循環が始まります。
天然循環する暮らしはこの世界に新鮮なエネルギーをもたらします。
そのエネルギーは想像を超えた出来事を人類にもたらし、
今ある問題はすべて解決されるでしょう。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。

難しいにもいろいろな意味があります。
自分がこの道を貫くことの難しさ。
この道の大切さを世の中に伝えることの難しさ。
どちらも難しいです。
今、この道の大切さは僕の中では明確となり、他に道はありません。
今や、僕がこの道を貫くことは当然のことなのです。
ですが、分かれば分かるほど、
この道は今の社会の常識とは大きな隔たりがあります。
それを人々に伝えることを考えると、
それは難しいだろう、それは分からないだろう、
とそんなふうに思えてくるのです。

それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。

先にも伝えた通り、僕にとってこの道は明確であり、
もう他には道がありません。
今や「もう他に道はない」という言葉すら必要がなくなっています。
「もう他に道がない」と表現することは、
他の道に対して、それは違うと否定する意味合いも含まれます。
そこには力も入ります。
ですが、もう自分の視野には一本の道しかないのです。
だから、わざわざ「他に道はない」と表明する必要はないのです。
ただ淡々と歩むことであり、気合は必要としないのです。

僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

みんなが「自分の実態(実体)」に向き合うと、
異次元空間への扉がここかしこに開かれます。
もうそれは自我からしたらわけの分からない世界であり、
大いなる存在へと繋がる世界です。
そんな世界をここに表現した時、訪問者の自我は弱まり
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という体験をします。
この空間自体が訪問者へ
「実態(実体)=異次元空間」への旅を促すようになるのです。

僕はそんな場を創りたいのです。

だけれども、みんなは相変わらず自我に翻弄され続けています。
みんな、自我の下、自分の想定内の毎日を送っています。
そんな暮らしは面白味がありません。
僕はそんな生活には1日だって耐えることは出来ません。
ですが、みんなは平気な顔でそんな毎日を送っています。
それはこの暮らしの価値が分かっていないということなのです。


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これからどんどん地球環境は厳しくなることが予想されます。人類にとってとても厳しい時代となるでしょう。それが地球、そして人類が実態ですが、実態はすべての存在と繋がっています。それはちっぽけな自分を超えて、常に大いなる存在と一つなのです。それはどんなに厳しくとも、新たな時代を創っていく異次元空間です。そんな空間を感じることが出来れば、その可能性に委ねることが出来れば、すべての存在が繋がる新しい時代を感じ、楽しむことが出来るでしょう。そんな未来に向けて、自らの実態を踏まえ、自らの実態に相応しい歩みを重ねていこうと思います(^ー^)








ただただ他者を思う心

これまでの価値観では、人に何かをしてあげることは、「自分がしてあげた」とある意味優越感を持つようなものでした。或いは、人にしてあげることで自らのものが奪われるように思う人もいます。しかし人に何かをしてあげるということは、こちらが人に対して何かをさせてもらえる、ということです。そこには、人のために生きたという価値が生まれます。そうすると、「してあげる」ではなく「やらせていただく」という心になります。ただ他者のために生きる、という、生命の定めを表現した時に、その人は自ずと、自らの価値を上げていきます。そして自らの行うことが、世の中を良くしていきます。そういった仕組みがこの世界には流れており、自らが生きることで、その仕組みが現象化するのです。

それは何も難しいことではありません。高度なテクノロジーやコロナウィルスのワクチンを開発することの方が、ずっと難しく、お金やエネルギーもかかることでしょう。それは誰しもの心の内に秘められた、世界の掟です。自分のことばかりを考えて生きて、そのことがわからなければ、その大いなる仕組みを感じ取り、寄り添おうとすることにこそ、自我を発揮しなさい。「私の目的は、この世界の仕組みが健全に表現されることであり、それを喜びとするのが私の自我です。」そして、この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる 

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私は、夢を見ました。それは、いとも簡単にその世界へ行ける夢でした。
そこでは、何かを求める気持ちは消え去り、ただ心が満たされていました。今の現実の中では、それは本当に夢のようで、程遠い世界に思えるかもしれません。しかし、心がその意識に目覚めれば、可能なのです。
この世界には、様々な可能性が秘められています。一人ひとりの人間が、どのような精神状態で生きるかによって、それにふさわしい世界が目の前に現実化してきます。そのたくさんの可能性の中でもっとも大切なのは、世界が幸せという生産物で満たされることです。それは目には見えないものですが、心身ともに健康な世界を創ってくれます。その原料は、他者を思う心。他者の幸せを願い、他者のために生きていけば、実現できるのです。
そこには、幸せになるための音楽が流れ、幸せになるための食べ物があり、幸せになるための会話が交わされ、幸せになるための日々の暮らしがあるでしょう。そして欲しがる心は満たされて、多くを必要としなくとも、少しのエネルギーでたくさんの幸せが生まれるでしょう。それはどこにあるのかというと、人の心の中にあります。そのスイッチを、あなたが入れればいいのです。

そのような世界があることを、私は観たのです。

ジイジのブログ「ただただ、他者を思い生きること~2021年1月1日」より

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上記は、ジイジによる2021年最初のメッセージからの引用です。この話を聴いて、僕は仏教に伝わる『地獄極楽の食事風景』の話を思い出しました。それはこんな話です。

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「地獄」も「極楽」も食卓を見るだけなら何ら変わりはない。沢山のご馳走が用意されている。ただし、どちらも三尺(約91cm)もある長い箸を使って食べなければならない。
 地獄の住人たちは、先を争って食べようとするが、長すぎる箸を使いこなせず、やがて周囲と争いを起こし、せっかくのご馳走を食することができない。そのためいつも飢餓感に苛[さいな]まれている。
 極楽の住民たちは、三尺の箸でご馳走をつまむと、自分より先に向かい合う相手に食べさせてあげ、自分は相手がつまんだご馳走を食する。そのためいつも楽しく満ち足りた心持ちで暮らしている。

地獄・極楽の食事風景-三尺箸の譬えを徹底検証」より引用

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地獄も極楽も同じ場所に存在していて、ただ人々の心が違うだけなのです。この話を受けてジイジは、「箸の持ち方を工夫して自分で食べることが出来るようになるのが人間の英知。だけれどもお互いに食事を与えることにはそれ以上の豊かさがある」と語りました。

科学やテクノロジーが、人間にとって厳しい自然環境の中で、自分の力で豊かさを獲得しようとする試みだったとしたら、それが限界に来ていることを様々な現象が教えてくれています。それを克服するためには、「ただただ他者を思う心」、それだけが必要なのでしょう。

では「他者を思う心」とはどのような心で、どのように育めばいいのでしょうか?誰かのために・・・と思って行動することが相手にとって有難迷惑になることもあります。それに対する答えは先日の大人ミーティングで語ったジイジの言葉の中にあります。

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ちょっと目線を変えて見る。ちょっと距離を置いたところから自分のやっていることを見る。そうすると他人目線になるから、そういう人は他人のために生きるようになる。ちょっと距離を置くということは、他人の位置から見るということだから、この人はこんなことを求めているなと感じて、それに応えていくことが出来る。それがキャッチボールということ。自分からしか見ていないと他人のために生きることは出来ません。

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ただただ他者を思う心。この言葉から思い出した言葉がもう一つあります。それは、「傍楽(はたらく)」という言葉です。現在、多くの人にとって働くことはお金を得る手段となってしまっていますが、本来、働くとは「傍楽(はたらく)」であり、働くことを通して、傍(はた)を楽(らく)にし、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たしていくことなのです。木の花ファミリーではみんな、そんなふうに働いています。だからこそ、そのような日々を地道に繰り返すことより「この世界を創造する大いなる側の視点に立ち、そこから自らの側へと帰り、その心で自らを包み込み、この世界のすべてになる」ことが出来る可能性があるのだと思います。

そこには「希望の風が吹いてくる」のです。


2021年1月13日(新月)の富士山です。


2021年1月11日の富士山です。

2021年1月1日(元旦)の富士山です。

2020年12月29日の富士山です。


今年の冬はほとんどの期間、冠雪していない富士山。それでも元旦、新月という節目に少しだけ冠雪しています。これもこの世界を創造する大いなる意思の顕れの一つですね。ちなみに過去の富士山を紹介するとこんな感じです。


2020年1月13日の富士山です。


2019年1月11日の富士山です。


2018年1月13日の富士山です。

2017年1月12日の富士山です。

2016年1月14日の富士山です。


2015年1月3日の富士山です。



希望の風が吹いてくる

新年あけましておめでとうございます。


昨年末、天体の動きは風の時代へと移行しました(地球暦では2020年11月3日、占星術では2020年12月22日)。その動きに合わせ、木の花ファミリー通信2020年冬至号のタイトルは、『風が吹いてくる』です。以下、その文章の一部を引用したいと思います。


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私たち生命は、人工の力を遥かに超えるこの世界の大いなる仕組みによって生かされています。

一つの種の中でそれぞれが全く違う個性を持つ人間は、それだけ強い自我を与えられたということでもあります。それは、ただこの世界の創造物として仕組みのままに生きるのではなく、その世界から自らを切り離して捉え、全体を俯瞰し、この世界を創造したものと同じ視点に立つことのできる能力として与えられたものです。ところがその自我故に、私たち人間は世界のために生きるよりも、自分のために生きることとなりました。
しかし私たちは、自分である前に人間であり、人間である前に生命です。本来、生命の領域では、個々の生命は自分のために生きてはいません。多種多様な生命がそれぞれの個性を発揮して生きることで他の生命を支え、つないでいく、大生命循環の一員として、地球生命生態系を表現する役割を果たしているのです。

今、世界は大きく混乱し、大転換の時を迎えています。これからの人間は、個々の枠を超え、他者のため、世界のために生きることが求められています。それは生命の本来の姿に立ち返ることです。
さらに人間は、ただ生命としてこの世界の仕組みのままに生きる以上の役割を果たすために、地球上に降ろされました。それはこの世界を創造したものと同じ視点に立ち、共に世界を創造していくことです。この世界の創造主を神と呼ぶならば、それは自らを空にして、神の器となることです。私たちは神の領域に達するために、神から切り離されたのです。

この世界には常に、見えない風が吹いています。風は、私たちを生かす大いなる宇宙の意思を乗せてやって来ます。地球上に新たな命が次々と芽吹いていくように、そして地球や他の無数の星々が決して留まることなく宇宙の中を進み、果てしない旅を続けているように、宇宙とは無限の連鎖(フリーエネルギー)を続ける世界なのです。
その風を感じ、風に乗った時、物事は極めてスムーズに進むようになり、無駄が削がれて大いなる宇宙の好循環が地上に表現され、全ての生命たちが喜ぶ、地上天国が顕れることでしょう。そこでは、自分のための人生はなくなります。そしてそれが、真に自分のための人生となるのです。

そこに吹くのは、希望の風です。その流れに乗り、宇宙にただひとつの個性を羽ばたかせ、自分らしく自由に生きることが世界のためになっていく。そして誰もが、自らの存在を誇って生きられるようになる。

その時、世界に奇跡が起きるのです。

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風の時代には『希望の風』が吹いてきます。そんな『希望の風』をタイトルとした歌をファミリーみんなで合唱した後、ジイジは以下のように語りました。


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今まで長い間、一人ひとりの努力によって、その人の人生を切り開くという時代がずっと続いたのです。一人ひとりは、それぞれの個性に則ってそれぞれ人生を努力してきたのですが、その結果、一人ひとりである為に「人と同じでなければいけない」という不安感だったり、人と比べて「優秀で生きなければいけない」という個人の違いが競争になったり、格差になったりする時代でした。
みんなが一人ひとりが個性を極めていくことによって、「自分が豊かになろう、人より豊かになろう」という考えで、だんだんだんだん、バラバラになっていったのです。今は世の中はそれぞれ、一人ひとり違うはずなのですが、一律のことをみんな競争し目指していつの間にか、世界は大きいのにバラバラな時代になってしまいました。
今、みんなの歌を聴いていて、この人たちは歌として優れた訓練もしていなければ、能力があるかどうかは知りませんが、力を合わせるとそういったハーモニーや強い力が発揮できると思いました。そして今は、丁度新しい時代の扉が開いて、新しい風が吹き出したところです。
そうすると「これからの一つの姿が、ここに観えた」と思いました。力を合わせてより大きな仕事を成し遂げて行く。その時には、一人ひとりの個性は絶対必要ですが、それは自分の為ではなく、「全体の為に自分の個性が必要だという事が大切な事で、今コロナ禍において「なるべく出るな、人と付き合うな、人と距離を遠くしなさい。」という豊かさとは逆行するようなことが言われています。
しかし、こうやってみんながよく、その人の素性を理解して安心できる場では、こういった豊かな場所を今でも作れるわけです。そういった風に、「新しい時代の風が吹いてきたな」と歌を聴きながら感じました。もっとみんなは心を一つにしてみんなの力で何かを成し遂げるということをしていけば、今まであった時代が生み出したもの、そして今までできなかったことが、これからできるはずです。
それはまだ現れていないから何かとは言えませんが、しかしこれをやっていけば、「こういう事だったのか、という事に、必ず出会うだろう」という希望を感じました。
風が吹き出した、そして希望を感じました。「希望の風」というタイトルは「そういう意味であるんだな」という事を想い、「出会うべき、そしてやるべきことにやっと出会えた」ということを感じて、よい時間でしたね。
みんながそういったことをこれから考えて、対立から調和へ。個性は全体の為に活かして、より大きなことをみんなで成し遂げていく。そういう事をこれから大事にして、この暮らしが新しい時代のモデルになる事を願っています。みんな一人ではやれませんので、力を合わせてやっていきましょう♪
byジイジ


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これから希望の風が吹いてきます。それはきっと一人ひとりの個性を生かし、美しい全体を表現する未来を生み出します。


希望


この字は、未来に向けてのエネルギーを感じさせる言葉ですが、「希(まれ)な望み(のぞみ)」と書きます。これはどういうことかというと望みは少なければ少ないほど良いということだと思います。

ギリシア神話に登場するパンドラは、神々から「開けてはいけない」と言われた箱を持って人間界に現れます。そして、好奇心から箱を開けてしまいます。すると箱からは疫病や悲嘆、欠乏、妬み、憎しみなどあらゆる災いが飛び出しました。こうして世界には災厄が満ち、人々は苦しむことになるのですが、絶望に沈むパンドラに語りかける存在がありました。それが希望です。あらゆる災いが飛び出した後、箱の底には希望が残っていたのです。

好奇心から箱を開けたパンドラの行為は、自我から生まれた望みであり、そこから苦しみが生まれます。その状態に絶望し、自我の働きがストップした時、希望、「希(まれ)な望み(のぞみ)」が生まれ、生きるエネルギーとなっていくのです。

たとえば村上龍さんの小説『希望の国のエクソダス』は、優秀な中学生たちが北海道に自分たちの独立国家を築き上げていく物語ですが、その中でリーダー格の少年ポンちゃんは、「この国にはなんでもある。でも希望だけがない」と語っています。

日本にはたくさんのものがあります。でもそれらは自我の欲望が生み出したものだから、そこから希望が生まれることはないのです。


未来に向けて希望を持って生きるならば、自我の生み出す望みは少なければ少ないほどいいのです。自我の働きがストップしたトキ、時代の風が一人ひとりの個性を生かし、美しい全体を生み出していくことでしょう。そんな暮らしを木の花ファミリーのみんなと表現していきます。


今年もどうぞよろしくお願いいたします。


木の花ファミリーのみんなです。





カルマとの対向発生、そして意識が変わる

ある日の大人ミーティングにて、ジイジはこんなふうに語りました。


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生命にとっては、変化変態することが進化することですが、人間が自我に取り込まれると、その自我が創り出すカルマ(=心の垢)に汚染されていって、カルマが変化を阻むようになります。


いいことも悪いこともカルマとなります。いいことも囚われていくと心の垢になっていきます。悪いことはなおさら心の垢になります。


だから常に柔軟性を持って、その都度、どこにいくかを見ていくという話をしています。


今、大人ミーティング中にマコモダケの処理をしていますが、365日毎日あんなことをやっていたら嫌になってしまいますが、今がマコモのピークだから、今はその気になってやりましょうね、ということでエネルギーが湧いてきます。そうやって地球でやることは変化していきます。


若い時もあれば、熟してきて終わっていく時もあります。それに相応しい自分自身の扱い方、そういうものも柔軟であれば、器用に有効に自分を使っていけます。


ですが柔軟でない人は、通り一辺倒になります。もっと酷いのは、自分の柔軟さに欠けている状態が見えない状態です。見えていて分析できる状態で、それをやるならば、それは超えていく作業になる可能性があります。分からないで頑なにやる人は、本当にいくら一生懸命にやったとしても、そのパターンを超えていくことが出来ません。それをやり続けていると、次へとクリアするために語る言葉が、その場逃れのものとなり、それが癖になってカルマになると、カルマが独り歩きするようになります。何か問題を起こして、周りから「これはこうだよ」と言われると、その「こうだよ」と言われる場面をクリアするための言葉を言うだけで、相手の言葉を心に入れなくなります。言葉では「改善する」と言いますが、それは魂の入った言葉ではなくて、その時点で噓八百を語りだすことになりますが、そういう自分も周りから言われないと分からなくなります。自分を全くコントロール出来ていない状態。こういうふうになるのは固いからで、その時その場に応じた相応しい自分の扱いが出来ていないのです。


自分から発した言葉が自分の心から発した言葉ではなくなっていきます。自分から発した言葉は魂込めて言霊としなければなりません。そうでないと、嘘をつくことになり、その偽物の言葉が発せられたことによって矛盾が自分に返ってくるのです。ここは、自業自得の世界ですから。反対に、矛盾のない魂を込めた言葉を発したら、矛盾のない出来事が返ってくるのです。


今ある現象を見て、これが答えだからこんなものだと思っていてはいけません。心磨きをしないでいたら、どんどんどんどん負債が溜まっていきます。それをいつ見て気づくかですね。


学ぶつもりになれば、どこからでも人は学べます。ただ学ぶ意思がある人のみです。「ガンジスの砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり。」そうお釈迦様は言われたのですが、僕にはそれに付け加えて、「ただし、その道を歩んだものだけにな。」と言われました。その道を歩まなければ仏性は表れてこないのです。


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変化変容を繰り返すのが生命の本質で、それが進化するということなのですが、人間のカルマは変化を阻んでいます。道を歩むとは、そのカルマを超えていくこと、その方法を語っているのが、ジイジのブログ「カルマよ、ありがとう。私は次のステージに行きます」です。以下、その一部を紹介しますね。


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ガンが現れるのは、そこにガンが現れるべき理由があるからです。それをただ「これは要らないものだ」と切り捨て、正常な体に戻れば良しとするのが、現代の医療です。しかしガンが現れるには、私たちの側に何かしらの原因があり、ガンはそれを伝えるためのメッセンジャーとしての役割を果たしたのですから、切り取られたガンにも「ガンさん、ありがとう。ご苦労様」と言って、ガン供養をする必要があります。


それと同じように、カルマに対しても、カルマ供養をする必要があります。カルマにはカルマの発生した理由があり、カルマはカルマのように、自らへの自我的執着を形成したのです。それを解体して収めてあげるためには、「役割ありがとう、ご苦労様」と言って、その存在の意味を認めてあげることです。そうすると、カルマはスルスルと解けていきます。


人間は、人生の中でカルマと対向発生することで現象化を起こし、役割を果たしています。カルマと対向発生するということは、そこに何かしらの目的があるということです。その目的を現象化し、役割を果たした時に、優れた人格は切り離したカルマへ「ありがとう」と伝え、自らが美しいものとなり次のステージを迎えるのです。カルマも、必要なものとして存在していたのです。


視野を広げてみれば、この世界の政治にしても経済にしても、これまであったものはすべて、時代の要請により発生し、人間の歩みと共に、その仕組みが表現されてきたのです。そして時代の要請により、人間が次のステージへと進む段階を迎えた今、私たちはこれまでの仕組みに「ありがとう」と言って、それを供養する。そうして初めて、次の仕組みへと意識が向かうのです。その心に目覚めた人々が、これからの新しい時代を進めていってくれることでしょう。


こういった次のステージへ向かうための話を聞く時に、カルマは自身が崩壊しないよう、その話を自らが受け入れられる情報だけにしてしまいます。すべてを受け入れては自身が崩壊してしまうから、まず自らを守ろうとするのです。つまり、次のステージへと行かないようにするのです。それが自我です。


だからこそこういった仕組みを学び、自我ではなく真我を育て、真我が自我にメスを入れられるようにするのです。そして手放したカルマに向かい、「カルマよ、ありがとう」と慰め、これまでの自分に「ご苦労さま。私は次のステージへ行くからね」と言って、新たなステージへと上がるのです。


そうすると、カルマは捨てられたのではなく、その人間が上へ登っていくための階段になります。その人間が成長し、進化していく物語の中に組み込まれるのですから、捨てられたものではなくなるのです。こうしてカルマも納得し、新たなステージへの踏み台となるのです。


そのようにして人生を歩み、振り返ってみると、「ああ、いろんなことがあって、いろんなカルマを通してここまで来たんだな」と、みんなを認められるようになります。それは、カルマの階段です。今のカルマに役割を果たしてもらい、それが、次のステージへ上がるための一歩となるのです。


カルマよ、ありがとう。


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カルマと対抗発生し、カルマを学びの階段としていく。そのために必要なのが自分を客観的に眺める視点と柔軟さなのですね(^-^)その先には進化があり、人の意識はどんどん変わっていきます。最後にジイジが語ったそんな話を紹介しますね。


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意識をどのレベルに置くかが重要なのです。

 

たとえば相撲は、序二段、幕下、十両、幕内、小結、関脇、大関、横綱と位を上げていきますが、

自分の位にいる時に、そのレベルの相撲を取っている人は駄目なようです。

そこのレベルで目一杯なのですから。

そこを超えられる実力が出てきて、次のレベルに上がった時、そこは次元が全然違うそうです。

でもそこに気持ちがはまっていくとそこでやっていけるそうです。

だから位が上がった時、気持ちも一緒に上がっていかないと出来ないそうです。

十両の人が幕内に上がったら、切り替えてスイッチを入れる必要があります。

 

僕はこの間、半日れんこんを掘っていたら、量も大して取れていないのに午後から寝ていました。

それを1週間弱繰り返していましたが、その時はどんなに動こうとしても動けませんでした。

だから神様に心を向けて、「目の前にあることをやる」ということで、

テレビの前で寝ていました。

そういうふうに気持ちを切り替えていたのです。

そういうことを何日か自分を押して休まずに繰り返していると、

自分が変化していきます。

れんこん掘りを始めた頃は、胴長靴を履いて泥の中に入ると、

泥がぴっと足に吸い付いて、

畔(あぜ)に足を上げて上がるのがしんどかったのです。

人の手を借りる必要もありました。

そういう状態から、ブロックの階段を置いてくれたので、

それに乗って上がろうとすると、それにつまずいたり・・・

そんなヨチヨチ歩きを繰り返しながら、そこを自分の限界としないで、

その状態に付き合っていくと、次の自分が見えてきます。

考えてみれば、人間20歳から免疫力は落ち始め、成長が止まり維持するだけになります。

さらに自分は60を過ぎて衰える一方なのに、なにか成長を感じています。

これは気持ちの問題なのだと思います。

今は午前午後とれんこんを掘ることが出来るようになっています。

だから先のことは考えず、目の前のことをやっていけば、

新しい自分に出会えます。

限界を作っているのは自分なのです。



木の花ファミリー通信2020年秋分号に掲載されている絵です。


登り続けて流れ続ける。

健全な生命、人間以外の生命は、自分を活かすということを、無意識のうちにできるようになっています。しかし人間は自我が強すぎるために、意識したことが自分に矛盾を生むような生き物になってしまいました。ですから自我を超越するための修行が必要になったのですが、修行というのは、本来必要ないものなのです。人間以外の生き物で、修行をする生き物はいないでしょう?ところが人間は、特別な境地に自らを追いやらなければ、そこに気付けないのです。だから止むを得ず、自らの状態を客観的に観て自我を超越するための修行が必要になるのです。


しかしそれは本来、特別なものではありません。自らの思考に囚われない客観的な思考を持つことにより、目指すべき精神状態というのは自然に湧き出してくるものです。生命である人間には、そういった仕組みがもともと備わっています。そしてそれは人間だけではなく、他の生命にも全て、自らを正しく活かす仕組みがもともと備わっているのです。


「どうしたら自分は良い人生が生きられるだろう?」と考えた時点で、既に自我の虜になっています。そのような、自らの願いと反対の方向へ進む思考を巡らせるのではなく、今、自らに与えられている現状を頂いていくことが大切です。その現状を通して大切な気付きを得るための修行を与えられていると思い、現状への感謝の心が湧いてくれば、道は開けるものなのです。


ジイジのブログ:「修行」とは本来必要ないもの・より


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上記は最近アップされたジイジのブログですが、この文章を読んで、「だからこそ人間には『道』がある」という言葉が浮かんできました。そして、5年前に「道」について書いた文章を思い出しました。それはこんな内容です。


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ジイジのブログ『とんとんとんと超えていく』ではこの暮らし、この道を川の流れにたとえています。流れに任せて、その時その時の風景を味わいながら、留まることなく流れ続け、最後に大海に至ります。大海に出たら、その一部となり、太陽の力(宇宙の循環システム)によって蒸発し、また宇宙を生きる種として再生し、地球に降り注ぎ再び川になっていきます。

大いなる循環の中で常に変化して生きていこうと思っています。



僕は川を流れていくと同時に山を登っていきます。


またこの道は山登りにたとえられることもあります。頂上に至るまでにはいろいろなルートがあるけれども、必ず最後は一つの場所にいきつきます。

頂上をみんなと共有し、僕は僕の道(未知)を歩んでいきます。

登り続けて流れ続ける。

この相矛盾するように思える行動に矛盾がない世界。

それがこの世界。

僕は僕の道(未知)を登り続けて流れ続けていきます。

そして最後は大海の一部となり山の頂上から世界を見渡します。

ジイジのブログ『いつか死を迎える時に』には以下のような記述があります。

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人が生きて、終末を迎えたときに問われるのは、「濁り」なのです。人生の内容のことは何も問われません。そこでは心の濁りだけが浮き彫りになり、自らの生きた結果として問われることになるのです。


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自分が大海へ至った時に、自分の濁りで大海を汚さないように。
本当の意味でそこに融け合うことが出来るように。

僕は自分の願いから自由になります。

願いから自由になるために生まれてきたより


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Understanding is like water flowing in a stream. Wisdom and knowledge are solid and can block our understanding.

理解とは小川を流れる水のようなもの。知恵や知識は固定していて、理解の妨げになる。


上記はティク・ナット・ハンの言葉。だからこそ、この道は川の流れにたとえられます。流れに任せ、目の前の現状をいただき続け、自らの認識、理解を更新し続けていくのです。そして、「いただきます」という言葉が示す通り、いただけばいただくほど頂き(頂上)は増していくのです。


だから僕は、登り続けて流れ続けます。



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