出来事に解体され出来事に生み出される(2)

ここ最近、プラスチックゴミに関するニュースが目につくようになりました。ここでそのうちの2つを簡単に紹介してみようと思います。まずは、〈プラスチック危機〉海流入、50年までに魚の総重量超え?という記事。これは、以下のような内容となっています。

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安価で丈夫なプラスチックは多くの製品に用いられ、20世紀半ば以降の暮らしを大きく変えましたが、それが今、大量のごみとなって人々の生活を脅かしています。

インドの首都ニューデリー、不法移民の多い貧困地域タイムール・ナガル地区になる川は、元々は水路だったが、今はビニール袋やストローなどが人の背丈ほども積みあがっています。このごみは雨季になると水に押され、ガンジス川を通ってインド洋へと流れ込みます。

スペイン南東部の岬に打ちあがったマッコウクジラの体内からは29キロものごみが取り出されたが、それは主にプラスチックで、その中には北アフリカで使われるアラビア語で書かれてレジ袋も含まれていました。

今、世界の沿岸部から海に流出するプラスチックは毎年480万~1270万トンと推定され、陸上で適切に処理されなかったごみが主に河川を通じて流れ込み、中国やインドネシア、フィリピン、ベトナムが最大の発生場所になっています(これらの国はごみの輸入国、世界のごみ捨て場と言えます)。

現状のレベルで海へのプラスチックの流入が続いたら、2050年には海のプラスチックごみの重量が魚の総重量を超えると警告されています。

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次の記事は、「世界最大のごみ捨て場」中国の終焉ー日本のプラスチックごみはどこへいくという記事。これは以下のような内容です。

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多くの先進国は長年、環境保護というきれいごとを言いながら、プラスチックごみを途上国へ輸出してきました。その最大の輸出先が中国だったのですが、その中国がごみの受け入れを禁止する方針を打ち出しました。それは中国のゴミ捨て場としてのキャパシティが限界に近づいている証ともいえます。今、べトナムやタイなどがごみを受け入れていますが、それらの国のキャパシティも近く限界に達すると思われます。そのような動きに合わせて各国でプラスチックごみ削減の動きが進んでいます。例えば、スターバックスは全世界の店舗でプラスチック製ストローの使用をやめると発表し、オーストラリアではスーパーなどでプラスチックのレジ袋が廃止されました。このような動きがある中、日本のプラスチックごみに対する意識はとても低い状況にあります。

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世界のプラスチックごみが途上国に集まり、途上国の川から世界中の海洋へと流れていく。そのような流れが出来上がることで、地上にはプラスチックゴミの捨て場がなくなりつつあり、海洋にも大量のプラスチックごみが流出し続けています。

プラスチックは当初、人類に夢をもたらしました。それが今は大量のごみを生み出しています。その姿は核のごみを生み出している原子力の姿と重なります。利便性を追い求めた人類は大量のごみを生み出すことで自らの生活空間を汚染し続けているのです。

ごみということで思い出すのが「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」という番組です。この番組を見た後、僕は以下のような文章を書いています。

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この世界に表されることはすべて人間性の表れです。心の中にゴミがあるからこそ「ごみマンション」がその姿を表してくれているのです。そして、今日の大人ミーティングであらためて心に残った言葉は、「自然界にはごみはない」という言葉です。なぜ自然界にごみがないのかと言ったら、すべてが繋がり循環し生かされているからで、人間の世界にごみがあるのは、分断が進むことによって生かされず無駄になるものが発生しているからです。それは心の中も同様で人との繋がりがないまま自分の想いに浸っていると、無駄な思考や感情がたくさん発生し、それが心の中のゴミとなっていくのです。

「自分が・・・」という意識や「自分の・・・」という意識が強まることでこの世界に分断を広げてきましたが、その分断は一人ひとりの内面にも起きていて、自分の嫌な部分、受け入れたくない部分は心のゴミとなり、人生のトラブルとなって表れます。

ごみマンションは今の社会、そして一人ひとりの心を表しています。だからごみマンションの解決に一番大切なのは自分自身と向き合うことなのです。




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生かされず無駄になっているものがごみとなるのですが、もう一つの特徴として「分解されない」ということがあると思います。プラスチックも分解して土に還るならば、それは循環の中で生かされるのですが、そのままの形を留めるところに問題があります。これも心の表れと考えるならば、人々の心の中に凝り固まって分解されないものがあるからプラスチックごみが溢れているということも言えると思います。

先進国はプラスチックごみという都合の悪いものを途上国に押し付けてきました。そして、途上国の人々は目の前の利益を求めて、環境悪化には目をつぶります。

「食べていくのに精いっぱい。環境のことなんて気にしていられない」

これは、ごみの山からペットボトルを探している不法移民が語った言葉ですが、先進国にも当てはまる態度と言えます。それぞれ自分の立場の視点に凝り固まり、目の前の見える世界に利己的に反応しています。

今、必要なのは凝り固まった視点を解体していくことにあるのだと思います。ということで、「出来事に解体され出来事に生み出される」から文章を引用します。

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大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)


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大量のプラスチックごみ。その事実と向き合うことで今までの自分の思考、自分のあり方を解体し、その出来事に沿っていくこと。そのトキ、繫がりの中から新しい自分が生み出され、それが新しい世界を創っていくのだと思います。それは自らが意図して生み出すものでなく、宇宙の意図に沿うことで、出来事から宇宙の意図を知っていく生き方です。

蓮池の写真です。カエルさんがいます。

海そのものとして生きていく

2009年の12月、僕らは木の花ファミリー憲章の制定に向けていろいろ話し合っていました。当時のことを思い出していたら、その頃ジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉に出会いました。

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今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。

最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。

元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。

ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。

また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。

ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。

ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。

私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。

僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。

しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。

今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。

全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。

それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。

それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。

私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。

それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。

今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。

こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。

ここ23日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。

今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。

大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。

これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。

世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。

それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。

悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。

神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。

それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。

ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。

僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。

そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。

つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。

僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。

しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。

それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。

誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。

私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。

この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。

その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。

この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。

そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。

もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。

決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。

だから、これは特定の誰かワールドではない。


皆ワールドである。


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当時、この言葉はいろいろな人たちの心に響きました。ブログ「ひとりひとりに問う」にはいくつかコメントがついているし、ファミリーメンバーはこの言葉をきっかけにそれぞれがそれぞれの想いを「ひとりごと」として語りました(「皆のひとりごと」参照)。

語ることが道理に適っているから多くの人に影響を与えて、こうやってみんなで暮らす生活が始まったことでみんなの人生にも責任を感じてきたジイジ。そのジイジが向き合ってきたプレッシャーは僕の想像をはるかに超えるものなのだと思っています。そしてそれがそのままジイジという人の大きさを生み出しています。

みんなで共に暮らすトキ、みんなをまとめる心が必要になります。それが一人の人から出続けると、外から見たら、誘導や強制に見えることもあるでしょう。共感できない人が一緒にいたら反発する心も生まれてきます。

僕ら木の花ファミリーの暮らしは、一人一人が自分の自我を超えていく取り組みです。自らを分けると書く「自分」。そこから生まれる自我は、自らを世界から際立たせることで自らの存在を示そうとしています。「違い」を示そうとすることで、時と場合によって違うことを主張したりします。

普段、子どもがうるさいと怒っているのに、他の人が同じように怒っているのを見ると、「そこまで怒ることはないだろう」と感じて止めたくなる。

例えば、そんな感情が芽生えたら、目の前の状況に自我が反応し、自分を際立たせているだけなのかもしれません。自我の反応を超えたら、怒るだけでなく、冷静に伝えたり対話をする道も拓けます。

自我は自らを世界から際立たせます。みんなと一つになることを理想に掲げても、自我は一つになることを拒みます。自我にとって、一つになることは自らの消滅を意味します。

自我は浮かんでは消える波のようなもの。消滅しても次の自我が表れます。その動きを見通すことで海そのものである自らの本質へと至るのですが、自我の視点からは、その事実が見えないものです。

違いを生み出す自我の反応の奥にすべての人が分かり合える視点があります。その視点から見たトキ、自我の動きも全体の中で生かされていくのです。この暮らしはその視点へと至る道ですが、その過程では様々な反応に出会います。誘導や強制だという反発も、過度な称賛も、すべてはそこへと至る過程でそれぞれの自我から生まれるものです。

自我を超えていく。

この道は何かを期待して始めるものではありません。真理は固定したものではなく動きの中で変化し続けるものです。集い語り合うことで常に新しい真理を見出して、それにそっていく心を育んでいくことが生きる目的です。何かを得ることが目的ではなく、自分の心を磨き続けることが目的となります。

真理は誰から出てもどこから出てもいいのです。それは表面的な形のことで重要なことではありません。例えば、一人の人から真理が出続けるならば、それは全体としての未熟さの表れではありますが、大切なことは形の奥にあります。形は一人一人が成熟することでおのずと整っていきます。ジイジがこの言葉を語ったトキから9年が経っていますが、今は僕や他の人から生まれる真理もあります。それはコミュニティの成熟を表していると思っています。

なんにせよ大切なのは形ではありません。反発や称賛、そして期待や不安。これからも様々な波に出会うと思いますが、常に波の奥を見通して海そのものとして生きていく。そして未来は天に委ねます。

9年前のジイジの言葉に触れてこんなことを思いました。

木の花ファミリーのみんなです。

広がると同時になくなっていく

ここ最近の大人ミーティングでは、ジイジブログ「今、自らのエリアを超えることが人類に求められている」を共有しています。それはこんな文章で始まります。

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一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

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僕らはよく「人間性を高める」という表現を使っていますが、自らの枠の中で努力をしていても人間性は高まりません。上記の文章はそのことを明確に表現しています。

例えば、「優しくなろう」とか「真面目に生きよう」とか、そんなふうに思い努力をしたとします。その心掛けは大切なものではありますが、その努力が自らの思考、枠の中でのものだったならば、真の意味で人間性が高まることはないのです。自らの枠の中で努力をしても、自分視点の優しさを提供するだけであり、自分の理解を超えたものに出会ったら、その優しさは有難迷惑となっていくかもしれません。ですが、人には中々その事実が見えないものです。それは人が許容範囲というエリアに縛られているからでしょう。

例えば、人類は長年、平和を願い努力をして来ましたが、そこから争いが生まれてきた現実があります。これも自らの枠の中での努力の結果と言えます。世界は人々の想像を超えた存在です。それなのに許容範囲という枠を持つことで異なるものを排除します。許容範囲を超えることではじめて人々は分かり合い調和が生まれます。

人間性は自分の枠を超えていくことで高まりそれが世界に調和をもたらすのです。

上記の言葉に続いてジイジは以下のように語ります。

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自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

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出会う出来事をそのままいただくことで自分自身を調整していく。そのことにより人間性は高まり観える景色も変わっていくのです。

ところで、知識(ちしき)と知恵(ちえ)という言葉があります。

識別して知ると書いて知識、恵みを知ると書いて知恵となります。

この二つの言葉が共通して持つ「チ」はカタカムナでは、維持しているもの。持続を支えるもの。そして、「シ」は示し、「キ」はトコロ軸における発生の思念。物質や生命の始まり。ということは、知識とは、それぞれの生命や物質の始まりを識別するものなのですが、それだけだとそこで固定してしまうのです。そして、知恵の「エ」は笑み。ゑみわれる。実が熟して裂けること。目に見える形で増えて2つになる思念で、これは陰と陽、相反する2つのものからなるこの世界が、その本質に基づいて発展し続ける姿そのものです。

知識は世界を固定します。固定された世界を目の前にして人は世界を変えようとするのですが、それは自分の範疇の中であり、人は同じ出来事の繰り返しに出会います。

知恵は動きの中にあります。相反するものが生み出すダイナミックな動きをいただくことで広がっていくもの。それが知恵であり、知恵により人間性は高まっていきます。生きることは恵みであり、恵みとは悟り。悟りは差取り。差がなくなって一つになっていく。一つになると自分がなくなります。相反するものが生み出すダイナミックを感じそれを生き抜くと共に自分がなくなっていく。それが知恵であり、広がると同時になくなっていくのです。

7月13日11時49分、蟹座の新月を迎えました。今、ちょうど太陽から見て地球と冥王星は同じ角度にあって、太陽-月-地球-冥王星 とほぼ一直線になっています。新月はリセットであり始まりのトキ、そして冥王星は究極の真理。だから僕は今、この宇宙の実相に向けて自分をリセットし、この世界の究極の真理へ向けて自分を解き放ちます。

広がると同時になくなっていく。

僕はそんなふうに生きています。

7月13日の富士山と朝日です。


ただいただいたものを答えとして逞しく生きていく

1年前の今日、僕はジイジ(当時はいさどん)と一緒に夕食を食べました。その日は僕の慰労のための食事会だったのですが、そのトキ、ジイジはこんな話しをしてくれました。

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この暮らしを始める時、自分の持っているものが自分ものでなくなることの喜びがありました。それは最初、お金や私有財産だったりしましたが、それが血縁や身近なものを手放していく喜びに繋がっていきました。ところが、これをやってきて、それが素晴らしいと思えば思うほど、そして究めれば究めるほど世の中とのギャップを感じてきました。そして、たくさんの無理解者と出会ってきました。周りに理解がないと人はくじけるものです。だけれども大事を持っているからこそ、これを続け、くじけそうになったら広い視点から見てその大事を確認してきました。そして歩むことを恐れません。その結果は、思い通りになるということではなく、ただいただいたものを答えとして逞しく生きていくのです。そうやって価値を積み重ねてきました。時代の流れを見るとこれは必要な生き方だから、それを先駆けとして生きていくのは尊いことです。ところが今の評価を欲しがると人は崩れていきます。今の評価と先駆けとしての生き方をどう織り交ぜるか?そんなことが問われ続けます。

そんな中、なかのんは風当りの強いところで役割をこなしてきました。それは定めということもありますが、その定めは僕に寄りそってきたからです。批判の対象は本来、僕。僕の近くにいるからそういう役割をこなしてきたのです。それがここのところ、なかのんは自分で立って、自分の道として、その役割をこなすようになって来ています。それに対して僕は感謝の言葉は掛けません。なぜなら、なかのんが自分で歩んで自分の価値を高めているのだから。ただ、その孤独と辛さを僕は知っています。だからその歩みに対する慰労の気持ちがあって、それでこの場が持たれました。

その位置に立つと誰かに頼ることは出来なくなります。支えになるのは自分自身のこの道に対する覚悟だけです。自分で生き方を確立し、それを自分に伝えていく。自問自答しかないのです。
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あれから1年、僕は1年分、歩みを進めてきました。僕らは今の社会で生きているのだから、今の社会からの評価を完全に無視することは出来ません。ですが、それは欲しがる対象ではなくて生きていくためのただの情報と言えます。

情報として社会からの評価を意識しながら、自らの道を歩んでいます。

評価は外からの刺激であり、それは自他を区別するから生まれます。自他を区別することで優越や劣等の価値基準が生まれ、生きるために一定の評価が必要となります。そして人は評価を求めて一喜一憂することになります。現代社会では、薬物やたばこ、お酒や買い物など様々な依存症が社会問題となっていますが、それらはすべて外からの刺激であり、外からの刺激に依存し自分の中心を見失っていくのが依存症と言えます。今、社会は評価や評判の良し悪しで動いています。それは人々にとって外からの刺激であり、今は社会全体が評価への依存症となっている。そんなふうにも言えると思います。人々は自らの中心を失い、そして社会も同じように中心を失っているのです。

そんな中、自他の区別を超えて一つになっていこうとする木の花ファミリーの暮らしはとても大切な取り組みだと思っています。自他の区別がなければ、毎日の生活はただ必要なことを淡々とこなすだけとなり、そこに喜びと充実があるのです。それは評価や評判に奪われた自分や社会の中心を取り戻す取り組みと言えます。

自らを分けると書く自分。自我を持つ人間は自らを他から際立たせることで、自他の区別を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。だから社会には一定の価値基準があり、一定の評価は当然必要となります。ですが、それが行き過ぎると依存症のような状態となり人は自らの中心を失い、社会も中心を失っていくのです。

自他の区別を超えていく。

それは表面的な評価を超えてすべてとひとつである本当の自分へと至る道です。

出会う出来事、そしてそこから起きる心の動きはただの情報であると共に今までの自分に対する答え。それらをいただき逞しく生きて、価値を積み上げていこうと思っています。

富士山です。



一つの滞りからみんなが学んでいく

7月5日、西日本を中心に集中豪雨が降り続き被害の拡大が予想される中、安倍首相と上川法務大臣は自民党の若手議員と懇親会「自民亭」を行っていました。集中豪雨は今、実際に大きな被害をもたらしています。7月6日には、オウム真理教の松本智津夫死刑囚ら7名の死刑が執行されたということもあり、その緊張感のなさを問題視する声が上がっています。それは当然の批判と言えますが、同時に以下のようなことも思います。


何かを批判したい気持ちが生じたトキ、自分自身がその対象と同じレベルに陥っている。

そんな経験をしたことがありますが、こうなっている時は、なかなかこの事実は見えません。それはきっと、自分は正しい位置にいて、正しいことをしていると思っていたり、必要なことを伝えようとしていると思っているので、自分が出している空気や波動、周りに与える影響が見えなくなっていくのです。

例えば、上記の出来事だけでなく、加計学園や森友学園、自衛隊日報問題など。安倍政権には批判されて然るべき問題がいくつもありますが、その批判ばかりに心を奪われていると批判の応酬となり、醜いやり取りになっていくことがあります。3年前の安全保障関連法案の際、与野党の議員がもみ合いとなった姿に子どもたちが困惑していたことを思い出します。

批判したい気持ちが生じたトキ、上記のようなことも意識する必要があります。

では批判はしてはいけないのかといったらそんなことはありません。上記の状況を生み出しているのは自我の反応と言えます。自らを分けると書く自分。自我の反応は自らを世界から分けて際立たせようとします。間違えに思えるものを遠ざけ自分を正当化します。その結果、違いが強調され分かり合えなくなるのです。ですが自我の反応を超えて、ただ見える景色を伝えることが出来れば、それは相手にとって有益なものとなりお互い分かり合え成長へと繋げることが出来ます。

冒頭で紹介した安倍首相や上川法務大臣は、集中豪雨の現場や死刑執行の現場から離れているので、それらと自分を完全に切り離しています。切り離すことで配慮を欠いた行動に至っているのですが、それは人類全体が持つ傾向とも言えます。

西日本を襲った集中豪雨ですが、集中豪雨などの異常気象は、天体の動きの影響もありますが、人為的要因も大きいと言われています。近代以降、人類は物理的豊かさを謳歌してきましたが、それが大気汚染や海洋汚染を生み出し、気候変動に繋がっていると言われています。ですが、多くの人は自らの生活と異常気象を切り離して捉え、傍観者や犠牲者となっていくのです。その態度は安倍首相や上川法務大臣の姿勢と変わりがありません。

そういうことを見通したトキ、滞りは批判の対象ではなくなり学びの材料となり、一つの滞りからみんなが学び、より良い世界を生み出すことが出来るのです。

世界との繋がりを取り戻す。

それが今、一人ひとりに求められることで、それは物理的な情報を得ることではなく心で通じ合うことです。自分自身の心の動き、そして日々に暮らしが宇宙との繋がりの中で営まれている。そのことを感じ大いなる流れに委ねて生きていく。そのトキ、一人ひとりの人生が宇宙全体の表れとなり、すべてが繋がりの中で生かされていきます。

そんな世界を木の花ファミリーのみんなと生み出していこうと思っています。

ジャガイモ収穫の様子です。



自分の感情は他者の喜びのためにある

明日7月7日は七夕ですが、昨年の七夕の日、天下泰平さんはこんな文章を書いていました。

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本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。


この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。


かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」


天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」


七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。


織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。

この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。


ちなみに77日は「かぐや姫が生まれた日」ということで「竹の日」とされていますが、このかぐや姫が出てくる竹取物語もまた、ミカド(帝)と姫の結ばれない悲しいラブストーリー。

物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、置き手紙と不死の薬の入った壺を残していきますが、ミカドは天(月)に一番近い山として、日本でもっとも高い山である富士山(不死山)で手紙と壺を燃やしたとあります。

七夕の日、使い終わった短冊を川に流す方法もあれば、短冊を燃やす方法もあり、これはかぐや姫とも関係していると言われています。

天(鶴)に帰った天女と地球(亀)に残された男性。

富士山といえば、コノハナサクヤの女神が象徴ですが、コノハナサクヤといえば桜がシンボル。


ただ、実はコノハナサクヤは隠された女神である瀬織津姫であり、桜は瀬織津姫のシンボルであります。


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~

この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



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そして、3年前の七夕の日、僕はジイジ(当時はいさどん)からこんな言葉を掛けられています。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望と全体性。個人的願望は自我、人智から生まれます。それは地の営み、かごめの歌の「亀」と言えると思います。そして、全体性は天の視点であり、かごめの歌の「鶴」と言えます。個人的願望と全体性との統合、それは天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」と言えます。

光だけが存在した時代、神は自らのことを認識出来なかったといいます。認識するためには対比が必要であり、そのために闇が生み出されました。この世界は神の自己認識の旅であり、そこに無限(∞)の深みを生み出しているのが自我という闇なのです。「我」がなくなればすべての認識は無に帰す、だからこそお釈迦様は「天上天下唯我独尊」と宣言したのです(「一人ひとりの認識がこの世界を創っている」参照)。

光を認識し、光を増すために闇は存在します。闇は光のためにある。自我という闇も全体性という光のためにあります。だから、自分の感情は他者の喜びのためにあり、自分の中を出たり入ったりしながら、自らの感情を味わうと同時にただの情報として客観的に見ていく。そしてそれを全体のために生かしていく。そんなふうに過ごすことできっと陰陽統合が実現し、世界は次のステージへと進んでいきます。

そのためには「いらなくなった状態」へと至る必要があります。

個人的願望を持つと同時に何もいらなくなる。

その状態ですべての想いを全体のために生かしていくトキ、この世界はきっととても美しく素敵なものへとなっていきます。それは前人未踏の世界。僕は今、そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現しようと思っています。

木の花ファミリーのみんな@ジャガイモ収穫



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