広がると同時になくなっていく

ここ最近の大人ミーティングでは、ジイジブログ「今、自らのエリアを超えることが人類に求められている」を共有しています。それはこんな文章で始まります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕らはよく「人間性を高める」という表現を使っていますが、自らの枠の中で努力をしていても人間性は高まりません。上記の文章はそのことを明確に表現しています。

例えば、「優しくなろう」とか「真面目に生きよう」とか、そんなふうに思い努力をしたとします。その心掛けは大切なものではありますが、その努力が自らの思考、枠の中でのものだったならば、真の意味で人間性が高まることはないのです。自らの枠の中で努力をしても、自分視点の優しさを提供するだけであり、自分の理解を超えたものに出会ったら、その優しさは有難迷惑となっていくかもしれません。ですが、人には中々その事実が見えないものです。それは人が許容範囲というエリアに縛られているからでしょう。

例えば、人類は長年、平和を願い努力をして来ましたが、そこから争いが生まれてきた現実があります。これも自らの枠の中での努力の結果と言えます。世界は人々の想像を超えた存在です。それなのに許容範囲という枠を持つことで異なるものを排除します。許容範囲を超えることではじめて人々は分かり合い調和が生まれます。

人間性は自分の枠を超えていくことで高まりそれが世界に調和をもたらすのです。

上記の言葉に続いてジイジは以下のように語ります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

☆彡 ☆彡 ☆彡

出会う出来事をそのままいただくことで自分自身を調整していく。そのことにより人間性は高まり観える景色も変わっていくのです。

ところで、知識(ちしき)と知恵(ちえ)という言葉があります。

識別して知ると書いて知識、恵みを知ると書いて知恵となります。

この二つの言葉が共通して持つ「チ」はカタカムナでは、維持しているもの。持続を支えるもの。そして、「シ」は示し、「キ」はトコロ軸における発生の思念。物質や生命の始まり。ということは、知識とは、それぞれの生命や物質の始まりを識別するものなのですが、それだけだとそこで固定してしまうのです。そして、知恵の「エ」は笑み。ゑみわれる。実が熟して裂けること。目に見える形で増えて2つになる思念で、これは陰と陽、相反する2つのものからなるこの世界が、その本質に基づいて発展し続ける姿そのものです。

知識は世界を固定します。固定された世界を目の前にして人は世界を変えようとするのですが、それは自分の範疇の中であり、人は同じ出来事の繰り返しに出会います。

知恵は動きの中にあります。相反するものが生み出すダイナミックな動きをいただくことで広がっていくもの。それが知恵であり、知恵により人間性は高まっていきます。生きることは恵みであり、恵みとは悟り。悟りは差取り。差がなくなって一つになっていく。一つになると自分がなくなります。相反するものが生み出すダイナミックを感じそれを生き抜くと共に自分がなくなっていく。それが知恵であり、広がると同時になくなっていくのです。

7月13日11時49分、蟹座の新月を迎えました。今、ちょうど太陽から見て地球と冥王星は同じ角度にあって、太陽-月-地球-冥王星 とほぼ一直線になっています。新月はリセットであり始まりのトキ、そして冥王星は究極の真理。だから僕は今、この宇宙の実相に向けて自分をリセットし、この世界の究極の真理へ向けて自分を解き放ちます。

広がると同時になくなっていく。

僕はそんなふうに生きています。

7月13日の富士山と朝日です。


ただいただいたものを答えとして逞しく生きていく

1年前の今日、僕はジイジ(当時はいさどん)と一緒に夕食を食べました。その日は僕の慰労のための食事会だったのですが、そのトキ、ジイジはこんな話しをしてくれました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この暮らしを始める時、自分の持っているものが自分ものでなくなることの喜びがありました。それは最初、お金や私有財産だったりしましたが、それが血縁や身近なものを手放していく喜びに繋がっていきました。ところが、これをやってきて、それが素晴らしいと思えば思うほど、そして究めれば究めるほど世の中とのギャップを感じてきました。そして、たくさんの無理解者と出会ってきました。周りに理解がないと人はくじけるものです。だけれども大事を持っているからこそ、これを続け、くじけそうになったら広い視点から見てその大事を確認してきました。そして歩むことを恐れません。その結果は、思い通りになるということではなく、ただいただいたものを答えとして逞しく生きていくのです。そうやって価値を積み重ねてきました。時代の流れを見るとこれは必要な生き方だから、それを先駆けとして生きていくのは尊いことです。ところが今の評価を欲しがると人は崩れていきます。今の評価と先駆けとしての生き方をどう織り交ぜるか?そんなことが問われ続けます。

そんな中、なかのんは風当りの強いところで役割をこなしてきました。それは定めということもありますが、その定めは僕に寄りそってきたからです。批判の対象は本来、僕。僕の近くにいるからそういう役割をこなしてきたのです。それがここのところ、なかのんは自分で立って、自分の道として、その役割をこなすようになって来ています。それに対して僕は感謝の言葉は掛けません。なぜなら、なかのんが自分で歩んで自分の価値を高めているのだから。ただ、その孤独と辛さを僕は知っています。だからその歩みに対する慰労の気持ちがあって、それでこの場が持たれました。

その位置に立つと誰かに頼ることは出来なくなります。支えになるのは自分自身のこの道に対する覚悟だけです。自分で生き方を確立し、それを自分に伝えていく。自問自答しかないのです。
☆彡 ☆彡 ☆彡

あれから1年、僕は1年分、歩みを進めてきました。僕らは今の社会で生きているのだから、今の社会からの評価を完全に無視することは出来ません。ですが、それは欲しがる対象ではなくて生きていくためのただの情報と言えます。

情報として社会からの評価を意識しながら、自らの道を歩んでいます。

評価は外からの刺激であり、それは自他を区別するから生まれます。自他を区別することで優越や劣等の価値基準が生まれ、生きるために一定の評価が必要となります。そして人は評価を求めて一喜一憂することになります。現代社会では、薬物やたばこ、お酒や買い物など様々な依存症が社会問題となっていますが、それらはすべて外からの刺激であり、外からの刺激に依存し自分の中心を見失っていくのが依存症と言えます。今、社会は評価や評判の良し悪しで動いています。それは人々にとって外からの刺激であり、今は社会全体が評価への依存症となっている。そんなふうにも言えると思います。人々は自らの中心を失い、そして社会も同じように中心を失っているのです。

そんな中、自他の区別を超えて一つになっていこうとする木の花ファミリーの暮らしはとても大切な取り組みだと思っています。自他の区別がなければ、毎日の生活はただ必要なことを淡々とこなすだけとなり、そこに喜びと充実があるのです。それは評価や評判に奪われた自分や社会の中心を取り戻す取り組みと言えます。

自らを分けると書く自分。自我を持つ人間は自らを他から際立たせることで、自他の区別を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。だから社会には一定の価値基準があり、一定の評価は当然必要となります。ですが、それが行き過ぎると依存症のような状態となり人は自らの中心を失い、社会も中心を失っていくのです。

自他の区別を超えていく。

それは表面的な評価を超えてすべてとひとつである本当の自分へと至る道です。

出会う出来事、そしてそこから起きる心の動きはただの情報であると共に今までの自分に対する答え。それらをいただき逞しく生きて、価値を積み上げていこうと思っています。

富士山です。



一つの滞りからみんなが学んでいく

7月5日、西日本を中心に集中豪雨が降り続き被害の拡大が予想される中、安倍首相と上川法務大臣は自民党の若手議員と懇親会「自民亭」を行っていました。集中豪雨は今、実際に大きな被害をもたらしています。7月6日には、オウム真理教の松本智津夫死刑囚ら7名の死刑が執行されたということもあり、その緊張感のなさを問題視する声が上がっています。それは当然の批判と言えますが、同時に以下のようなことも思います。


何かを批判したい気持ちが生じたトキ、自分自身がその対象と同じレベルに陥っている。

そんな経験をしたことがありますが、こうなっている時は、なかなかこの事実は見えません。それはきっと、自分は正しい位置にいて、正しいことをしていると思っていたり、必要なことを伝えようとしていると思っているので、自分が出している空気や波動、周りに与える影響が見えなくなっていくのです。

例えば、上記の出来事だけでなく、加計学園や森友学園、自衛隊日報問題など。安倍政権には批判されて然るべき問題がいくつもありますが、その批判ばかりに心を奪われていると批判の応酬となり、醜いやり取りになっていくことがあります。3年前の安全保障関連法案の際、与野党の議員がもみ合いとなった姿に子どもたちが困惑していたことを思い出します。

批判したい気持ちが生じたトキ、上記のようなことも意識する必要があります。

では批判はしてはいけないのかといったらそんなことはありません。上記の状況を生み出しているのは自我の反応と言えます。自らを分けると書く自分。自我の反応は自らを世界から分けて際立たせようとします。間違えに思えるものを遠ざけ自分を正当化します。その結果、違いが強調され分かり合えなくなるのです。ですが自我の反応を超えて、ただ見える景色を伝えることが出来れば、それは相手にとって有益なものとなりお互い分かり合え成長へと繋げることが出来ます。

冒頭で紹介した安倍首相や上川法務大臣は、集中豪雨の現場や死刑執行の現場から離れているので、それらと自分を完全に切り離しています。切り離すことで配慮を欠いた行動に至っているのですが、それは人類全体が持つ傾向とも言えます。

西日本を襲った集中豪雨ですが、集中豪雨などの異常気象は、天体の動きの影響もありますが、人為的要因も大きいと言われています。近代以降、人類は物理的豊かさを謳歌してきましたが、それが大気汚染や海洋汚染を生み出し、気候変動に繋がっていると言われています。ですが、多くの人は自らの生活と異常気象を切り離して捉え、傍観者や犠牲者となっていくのです。その態度は安倍首相や上川法務大臣の姿勢と変わりがありません。

そういうことを見通したトキ、滞りは批判の対象ではなくなり学びの材料となり、一つの滞りからみんなが学び、より良い世界を生み出すことが出来るのです。

世界との繋がりを取り戻す。

それが今、一人ひとりに求められることで、それは物理的な情報を得ることではなく心で通じ合うことです。自分自身の心の動き、そして日々に暮らしが宇宙との繋がりの中で営まれている。そのことを感じ大いなる流れに委ねて生きていく。そのトキ、一人ひとりの人生が宇宙全体の表れとなり、すべてが繋がりの中で生かされていきます。

そんな世界を木の花ファミリーのみんなと生み出していこうと思っています。

ジャガイモ収穫の様子です。



自分の感情は他者の喜びのためにある

明日7月7日は七夕ですが、昨年の七夕の日、天下泰平さんはこんな文章を書いていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。


この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。


かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」


天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」


七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。


織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。

この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。


ちなみに77日は「かぐや姫が生まれた日」ということで「竹の日」とされていますが、このかぐや姫が出てくる竹取物語もまた、ミカド(帝)と姫の結ばれない悲しいラブストーリー。

物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、置き手紙と不死の薬の入った壺を残していきますが、ミカドは天(月)に一番近い山として、日本でもっとも高い山である富士山(不死山)で手紙と壺を燃やしたとあります。

七夕の日、使い終わった短冊を川に流す方法もあれば、短冊を燃やす方法もあり、これはかぐや姫とも関係していると言われています。

天(鶴)に帰った天女と地球(亀)に残された男性。

富士山といえば、コノハナサクヤの女神が象徴ですが、コノハナサクヤといえば桜がシンボル。


ただ、実はコノハナサクヤは隠された女神である瀬織津姫であり、桜は瀬織津姫のシンボルであります。


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~

この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、3年前の七夕の日、僕はジイジ(当時はいさどん)からこんな言葉を掛けられています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



☆彡 ☆彡 ☆彡

個人的願望と全体性。個人的願望は自我、人智から生まれます。それは地の営み、かごめの歌の「亀」と言えると思います。そして、全体性は天の視点であり、かごめの歌の「鶴」と言えます。個人的願望と全体性との統合、それは天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」と言えます。

光だけが存在した時代、神は自らのことを認識出来なかったといいます。認識するためには対比が必要であり、そのために闇が生み出されました。この世界は神の自己認識の旅であり、そこに無限(∞)の深みを生み出しているのが自我という闇なのです。「我」がなくなればすべての認識は無に帰す、だからこそお釈迦様は「天上天下唯我独尊」と宣言したのです(「一人ひとりの認識がこの世界を創っている」参照)。

光を認識し、光を増すために闇は存在します。闇は光のためにある。自我という闇も全体性という光のためにあります。だから、自分の感情は他者の喜びのためにあり、自分の中を出たり入ったりしながら、自らの感情を味わうと同時にただの情報として客観的に見ていく。そしてそれを全体のために生かしていく。そんなふうに過ごすことできっと陰陽統合が実現し、世界は次のステージへと進んでいきます。

そのためには「いらなくなった状態」へと至る必要があります。

個人的願望を持つと同時に何もいらなくなる。

その状態ですべての想いを全体のために生かしていくトキ、この世界はきっととても美しく素敵なものへとなっていきます。それは前人未踏の世界。僕は今、そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現しようと思っています。

木の花ファミリーのみんな@ジャガイモ収穫



改善のために努力しつつも改善を求めない(2)

昨晩の大人ミーティングでみかちゃんが瞑想やヨガをするとエゴが強まるという記事を読んだと話してくれた。そこでネットを検索すると以下の記事が見つかりました。

瞑想やヨガをするとエゴが強まるという研究結果(ドイツ研究)

この記事では瞑想やヨガの実践者の自己高揚感が高まっているという実験結果を紹介して、そこから上記の可能性を示唆しているのですが、そもそも瞑想やヨガの実践者がやり方を間違えている可能性にも触れています。それはこんなふうに表現されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡


被験者がヨガや瞑想のやり方を間違っているという可能性だ。

被験者は全員ドイツで募集されたが、多くの学者は西洋人の仏教徒は無我を目指す実践ができていないと考察している。
ヨガや瞑想は本来自我を静める方法をとして意図されたものだったが、非仏教徒の実践者はこうした活動を自己の向上や不安を解消する目的で行なっている。
 
ヨガが自我を弱めるどころか強めるという意見は、ブランド物のスポーツウェアを着込んでヨガに勤しむいかにも聖人ぶった人間に出会ったことがある人にとっては、意外でも何でもないかもしれない。
しかし今回の研究は、仏教の教え自体が自我を拡大させるかどうかまでは調べていない。
ヨガだけでは自我を解消するために十分ではないのかもしれないし、たった1本の心理学の研究で数千年におよぶ仏教の教えと実践を否定できるものでもない。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ここにはご利益主義の弊害が表現されています。世界には多くの宗教が存在しますが、平和のための宗教が争いを生み出してきた歴史があります。それは多くの人が自らの利益のために信仰することで、利己心を強めてきたからなのだと思います。

自分の宗教が一番。

そういう言葉を耳にすることがありますが、その言葉の奥には傲慢さや利己心が伺えます。そしてそれは宗教の本来の教えとは反することなのだと思います。

どんな立派な教えも、それを聴くものの中に利己心があれば、エゴで汚されていきます。

昨年、私たちに効果のあるがん治療を紹介してくれた方がいました。その方にジイジ(当時はいさどん)は以下のように返信しました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

素晴らしい存在がいることをシェアしてくれてありがとう。ただ、わたしたちにとっては長生きすることや健康であることが最大の目的ではありません。極端なことを言えば、自分が望むように生きられることが一番の目的ではないのです。たとえ寿命が短くても、病気であっても、それはこの世界の多様性であり、そのことによって何かを失うわけではありません。つまり、病気であることから学び、寿命をもらうことによって学び、そして存在しているのですから、受け入れられないことは何もないのです。それが、この世界の本来の受け取り方です。ですから、学び受け取る姿勢がありさえすれば、すべてはこの世界の実態そのものなのです。それは、何でもいいということです。

その手法が画期的ですばらしいと思うということは、現状を改善したいと思っているからです。僕が常に皆に伝えていることは、そういった「~したい」「~になりたい」という願望を消しなさいということです。そして与えられるがままに存在しなさい、ということです。すべてを受け入れれば、己から解放されます。僕はそのことが伝えたいだけなのです。

今の姿のあなたがすべてではないのですから、いくらでも変化・変容・変態を繰り返すことが可能です。そして、それが宇宙の実相なのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

この言葉には僕たちの生きる精神が端的に表現されています。己を手放して、ただ出会う出来事をいただくことで自分の想像をはるかに超えた世界が展開します。そのことを通して自らの枠を超えて、世界と自分についての学びを深めていくトキ、多様性の中ですべての存在が尊重されていくのです。

そこには「こうでなければならない」「こうあって欲しい」という心はありません。なんでも構わない。ということは手法や技法を取り入れてもいいのです。僕たちが問題にしているのは手法や技法そのものではなく、それらがもたらす人の心の動きなのです。ご利益主義に基づいて手法や技法に出会うと、その手法を絶対視したり、それに依存する心が強まっていきます。その時、人の心は目覚めから遠ざかり、自分の成長や不安の解消が世界のすべてとなっていきます。それは利己的な心となり、結果、世界に争いを生み出すかもしれません。ただ淡々と必要なものとして出会った手法や技法を取り入れるならば、それはきっと相応しい恵みを人間に与えてくれるのだと思います。

ご利益主義、結果だけを求める心の弊害がこの世界には溢れています。

先日、サッカーのワールドカップで日本代表は決勝トーナメントへの進出を決めました。グループリーグ最終戦で日本は0-1で負けているのも関わらず、終盤消極的なパスワークで時間稼ぎをしました。それは結果を求めての選択ですが、その行為がこの世界に何をもたらすのか、そういうことに想いが至っていたとは思えません。

結果がすべて。

日本代表の選択はそんなメッセージを世界にもたらしますが、結果だけを求める行為はあの試合のように豊かなものではありません。結果に囚われず一生懸命に戦った心を称えあう。そういう心を育むことが、戦いから平和を生み、挫折者を生まずみんなが尊重される世界に繋がるのだと思います。

どんなに素晴らしい教えも、どんなに素晴らしい技法や手法も、そしてどんな素晴らしい出来事も、ご利益主義や結果主義が貧しいものにしていきます。それが今の人間社会なのだと思います。己を手放してただ出会う出来事をいただくトキ、この世界は豊かな恵みを与えてくれます。僕はそんな日々を木の花ファミリーのみんなと送っています。

合同会社ロータスランドの決算を終えてロータスランドで食事をしました。





見えない心の汚れを取っていく

6月28日13時54分、山羊座の満月です。月は水と深く関与していて、満月のトキ、水の分子のスパイラル運動は最大となるようです。そこでこのタイミングで水に想いを馳せてみようと思いました。以下、月と水の関係についての文章を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

月と水。

この2つは切っても切り離せないほど深く関与しており、月と水は同じ呼吸、同じリズムで生きていると言っても過言ではないようです。

水の分子構造の研究が進んだ近代、水の分子はスパイラル運動をして動いていることが発見され、ある一定の周期で円周が最大になったり、まったく動かない中心のゼロに戻るタイミングがあるそうです。

その水のリズムは、約29.5日。

月の満ち欠けのリズムと完全一致でピッタリ重なっており、満月の時に水の分子のスパイラル運動は最大に、新月の時にゼロポイントに戻るようです。

なぜ、新月伐採の木は安定しているのか。

それは木に含まれた水が関係しており、水がゼロポイントに位置するタイミングでの伐採であるため、ブレがなく安定した強い建材となっています。

含水率やデンプン量という数値ではない、月のリズム、水のリズムまで理解できないと昔の人の叡智は理解できず、自然と切り離されてしまった現代人は、単なる迷信として数々の叡智を失ってきています。

もちろんゼロポイントに戻るのは木や植物だけでなく、動物や人間も同じ。

人体の70%は水分であり、海から大気を含めて水の惑星である地球においては、水のリズム、月のリズムが地球や地球人のリズムとなります。

情報の記録媒体としても知られる水。満月まで情報をインプットして満杯にし、新月に向けて情報をリリースしてゼロに戻るとも言われています。


☆彡 ☆彡 ☆彡

地球は水の惑星と言われています。地表の70.8%は水に覆われ海となっています。そして大気中にも水蒸気が存在し、それは靄(もや)や霧となることもあれば、雲となって地上に雨を降り注ぐこともあります。水は地球の上を巡り巡りながらこの地球の情報を記録しているのです。(※記憶媒体としての水については「水は情報を記録する」を参照して下さい。)

そして人体の70%を締める水は個人としての情報を記録していくわけですが、それが意識を生み出しているのではないかと思いました。そして、そこから生まれる靄(もや)が自我だと思うのです。あーしたい、こーしたい、こうでなきゃ嫌だ。ああでなければいけない。これらはすべて自我の生み出す靄(もや)と言えますが、生きているとそれが次第に濃くなって霧となり空に浮かぶ雲のように心を覆っていきます。(「霧と靄と霞の違いとは?」参照)。自我の動きは空を流れる雲のようなもの。それは浮かんでは消えて、美しい彩りを見せることもあれば、暗雲となり嵐を呼び寄せることもあります。

雲が空を美しく彩るのは太陽の光によります。だから常に太陽の光を意識することが大切なのです。太陽の光、それは意識で言えば、この世界の道理と言えます。道理を常に意識して生きること。そうすることにより自我は生かされ自らと世界に美しい彩りを与えることが出来るのです。

人は水をいただき水を排泄することで大気と交わっています。大気中の水分は雲となり、雲は雨を降らせ、それが川となり、川は海へと至り、そしてまた蒸発し・・・こんなふうに水は世界を巡り巡っています。

一人ひとりの体内の水が世界に影響を与え、そして世界の水が一人ひとりに影響を及ぼします。自らの意識をきれいにすることは体内の水をきれいにすることであり、それは世界の水をきれいにし、地球、そして人々の意識を健全にしていきます。

今、海洋のプラスティックゴミ、その中でも特にマイクロプラスチック(直径5mm以下のもの)が大きな問題となり、回収は不可能とも言われています。水は地球、そして一人ひとりの意識の表れです。目に見えないゴミが入り交じり取返しがつかないところまで行きついている。それが今の地球の水の現状であり、それは人々の意識、心の反映なのです。

今、世界を汚しているのは目に見えないゴミです。それは人々の思いもよらないところで思いもよらない作用を生み出し世界は混乱の極みに達しています。多くの人が言葉では平和を求めています。ですが、見えない心の汚れが争いを生み出し続け、平和が実現することはありません。

蓄積されてきた目には見えないゴミを取っていく必要があります。そのトキ、求められるのは感じる力です。今の思考や感情がゴミを蓄積してきました。だから思考や感情を超えて、天の道理、太陽の光に身(ミ)をさらしていくのです。そして未来はすべて天の道理、太陽の浄化力に委ねます。

満月。水のスパイラル運動は最大になっています。それは情報が膨れ上がるトキとも言えて、そのタイミングで蓄積されてきた情報を感じていきます。そして、これから新月に向けて情報を手放していく。新月と満月。そのリズムにそって自分と世界の情報を感じその変遷を見ながら蓄積したものを手放していく。それがきっと見えないゴミを浄化することに繋がり、その先にこそ未来があるのだと思っています。

未来に向けて。

目には見えないゴミ、心の汚れを浄化し、真の平和へと至る宇宙と共にあろうと思っています。

富士浅間木の花祭り「湯ばやし」、調和の水が振りまかれています。

6月28日1時頃のお月様です。


光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
☆彡 ☆彡 ☆彡
鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
☆彡 ☆彡 ☆彡
では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






宇宙時間を生きる(2)

6月21日19時07分、夏至です。夏至は光のピークのトキですが、梅雨の期間であるため雨降りのことが多くなります。光(火)と雨(水)、これは陰陽の統合を表しているのだと思えました。一年草(稲、トウモロコシ、大豆、コスモス、菊、朝顔、麻など)の短日植物はここから光の量が少なくなることを感じて、成長期から開花期へと変容をはじめていきますが(地球暦サイトより)、植物は陰陽の統合を経て実りへと向かっていくのでしょう。

天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から2年が経過したことになります。銀河の夜明けが持つ意味については、以下の天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」に明確に示されています。まずはその中に書かれている先住民の長老の話を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

☆彡 ☆彡 ☆彡

過去から未来へとずっと続いていく宇宙時間。そのために必要なことは「真の女性性をよみがえらせる」ことです。以下、再び泰平さんの文章を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡


真の女性性とは
『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。


しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の思考や感情は自分自身の体験や特徴、自我に縛られています。自我は自分の都合を追い求めますが、自分の都合を追い求めることは自分の可能性を潰すことでもあり、それを環境や他者のせいにして過ごすようになります。出来ないという諦め、世の中を嘆き社会を責める気持ち、それらの奥に自分の都合を求める心がないかを確認する必要があるのです。

認めたくない自分、感じたくない感情と向き合うことは自分を生かすことに繋がり、自分が輝き、それが社会に広がり社会も輝いていきます。ひふみの「み」は実りです。全体と個人が統合することで社会全体も一人ひとりの人生も実りのトキを迎えます。

個々の欲望を追い求めた結果、この世界の環境は破壊され、ゴミが溢れています。戦争や紛争、テロはなくならず、その結果、多くの命が犠牲となっています。多くの人が自分の都合を追い求めることで世界や自分を不毛なものとして来ましたが、それを実りへと転換するトキが来ているのです。



123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。

宇宙時間を生きる。

そのために僕は自分の感情ではなく天の道理に基づいて行動します。感情は観察する対象であり、世界は自分の願いを叶えるためにあるのではなく、この世界を輝かせるために自分はあります。恵みは世界の輝きの中でいただくものであり、だからこそ自分の想像を超えて僕を満たしていくのです。

僕は今、宇宙時間を生きています。


Your left Slidebar content. -->