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宇宙時間を生きる(2)

6月21日19時07分、夏至です。夏至は光のピークのトキですが、梅雨の期間であるため雨降りのことが多くなります。光(火)と雨(水)、これは陰陽の統合を表しているのだと思えました。一年草(稲、トウモロコシ、大豆、コスモス、菊、朝顔、麻など)の短日植物はここから光の量が少なくなることを感じて、成長期から開花期へと変容をはじめていきますが(地球暦サイトより)、植物は陰陽の統合を経て実りへと向かっていくのでしょう。

天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から2年が経過したことになります。銀河の夜明けが持つ意味については、以下の天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」に明確に示されています。まずはその中に書かれている先住民の長老の話を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

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過去から未来へとずっと続いていく宇宙時間。そのために必要なことは「真の女性性をよみがえらせる」ことです。以下、再び泰平さんの文章を引用します。

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真の女性性とは
『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。


しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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自分の思考や感情は自分自身の体験や特徴、自我に縛られています。自我は自分の都合を追い求めますが、自分の都合を追い求めることは自分の可能性を潰すことでもあり、それを環境や他者のせいにして過ごすようになります。出来ないという諦め、世の中を嘆き社会を責める気持ち、それらの奥に自分の都合を求める心がないかを確認する必要があるのです。

認めたくない自分、感じたくない感情と向き合うことは自分を生かすことに繋がり、自分が輝き、それが社会に広がり社会も輝いていきます。ひふみの「み」は実りです。全体と個人が統合することで社会全体も一人ひとりの人生も実りのトキを迎えます。

個々の欲望を追い求めた結果、この世界の環境は破壊され、ゴミが溢れています。戦争や紛争、テロはなくならず、その結果、多くの命が犠牲となっています。多くの人が自分の都合を追い求めることで世界や自分を不毛なものとして来ましたが、それを実りへと転換するトキが来ているのです。



123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。

宇宙時間を生きる。

そのために僕は自分の感情ではなく天の道理に基づいて行動します。感情は観察する対象であり、世界は自分の願いを叶えるためにあるのではなく、この世界を輝かせるために自分はあります。恵みは世界の輝きの中でいただくものであり、だからこそ自分の想像を超えて僕を満たしていくのです。

僕は今、宇宙時間を生きています。


宇宙のプロセスそのものを生きる

3年前(2015年)の6月、僕はジイジ(当時はいさどん)と以下のような会話をしています。


☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどんがなかのんと一緒に出張したとき、
以前ここを離れた元メンバーのことが話題になった。

彼について
いさどんはこう語った。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

彼がまだメンバーだったとき、
交通事故を起こしたでしょ。

その裁判の際、
弁護士を相手にどういうふうに付き合っていくのか。

それから、
弁護士の精神状態だけではなく、
被害者の性質を読み解きながら、
どうやって裁判を進めていくのかという
アドバイスをしていたんだよ。

結論としては、
こちらにとって特別有利に話を進めようとは思っていなかったけれど、
向こうのわがままに乗ってはいけないからね。

そういった正義感も持ちながら、
弁護士がついたからといって向こうの思うままにならないという意味では、
弁護士の精神状態も読みながら話を進めていったんだよ。

最終的にどこに結論が行くのかについては
裁判所が決めることだけどね。

そして、
結果的に当初の話の5%をこちらが勝ち取ったのだけど、
そういったお金の話が一番大切なのではなく、
人と交渉するときの交渉術を大事な学びとして彼には教えてあげたんだよ。

でも、
そういった学びを生かすことなく、
彼はここを離れていった。

結局、
根本の大事を忘れず求めるこころがないとダメだね。

彼は母親に対して、
まったく自己主張ができないのだから。

もし、
学びを生かせていたとしたら、
ここを離れていったときの
あの傲慢な態度はないはずだよ。

結局、
彼からしたらあの裁判は、
単なる数字だけの話になっていたのだろう。

でも場合によってはね、
今ちょっとばかり良い思いをするよりも、
たとえば余分に払ったとしても
それが将来の価値に対する種まきになることもあるんだよ。

つまり、
そういった波動を未来にもたらしているのだからね。

大切なことは、
そこが読み解けるかどうかだよ。

正確に言うと、
読み解くのではなく、
本能みたいなものだよ。

そのときに、
あせってすぐに結論を出そうとすると、
冷静さに欠いているから、
情報を正しく精査できなくなる。

さらに
損得勘定から「損をしてはいけない!」という思惑が働きすぎると、
そういった直観は鈍ってしまうね。

だから、
何かプラスアルファか感じ取れる状態でいることが
大切なんだよ!


そういった学びの位置に立てることすら、
なかなかできないからね。

まずその位置に立って、
その価値を思考することが人にはできないんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

いさどんの話を聞いていたなかのんは、
「本当にそう思います。

人はなかなかそこに行かないですよね。

ついつい、
結果を求める発想になってしまい、
結果がこうだから良かった・悪かったとなってしまうのです。

そのプロセスをしっかりと観ていって、
そこを味わっていき、
そしてそこから学んでいくことが大切ですよね。

当たり前の日常の中に、
たくさんの学びが詰まっているんですよね」と伝えた。

それを受けて、
いさどんはこう続けた。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そこがわかると、
すごくダイナミックだよ!

ほんのちょっとのことが、
すごくダイナミックなんだよ!!

世界はね、
とてつもなく深いんだよ

そこまで心が通じる人は、
なかなかいないね。

だから、
僕はこの道を歩み始めてから、
ずっと孤独だった。

僕はね、
彼が母親と一緒に来てここを離れるときに、
「彼は今、今まで積み上げてきたものを全て崩して、
彼にとって一番大事なものを失おうとしている。
今までのことは彼にとって一体何だったのだろう?」
と思ったんだよ。

彼は、
「僕の人生の目的は悟ることです!」と言っていたのに、
最後、離れるとなったら、
もともと納得してここで暮らしていたはずなのに、
自分たちの主張だけを通して、
そのときに約束したことすら守らなかった。

彼のこころはぐらぐらしながら、
母親に対してさえ、
「お母さん、僕の話なのだからやめてくれよ」と
伝えることもできなかった。

なかのんは、
経理担当として
あのとき立ち会っていたけれど、
こちらの側にいて、
その柱のない人の姿を見せてもらう立場にいた。

この違いは大きいんだよ!

僕は最後に彼に言ったんだよ。

「よく観ているんだよ。
必ず、この目的は達成するからね。」

そしてこころの中で、

「あなたはその船を降りたんだよ。
そのことがよくわかっているか」と想い、
無言の意志を伝えたんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,


「本当にそうですよね!
こちらの側にいて本当に良かったと思います!」となかのん。

そんななかのんに対し、
いさどんはこう伝えた。


゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そんなあなたを観ていると、
うらやましいと思うよ

うらやましいと言ったら変かもしれないし、
一番誇り高い自覚を持っているのは
自分だと思うけどね。

そこに出会っているなかのんは、
普通の人からしたら
『よくぞ、そこに立てたね!』ということでしょ。

だからね、
そろそろ人々は、
そういった個人的なことを優先して生きることをやめるトキが来ている。

結局、
人間が個人的なことを優先し、
それが70億人集まって、
今のような世界を創っているのだから。

それと、
人間の世界の中で
どんなに優劣を競ったところで
たかだか知れているよ。

そのたかだか知れているところで生きても、
いつか自分が霊的な存在になるときに、
自らの価値を突きつけられることになるんだよ。

これから大切なのは、
つないで、
時代を創っていくことなんだよ。

死の向こうまで理解するものたちが生きているからこそ、
死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことができる。

それが人生の勝利者であり、
道を目指すものにとって

一番大切なことだと思うんだよ。



☆彡 ☆彡 ☆彡

結果を求めるのではなく、プロセスを味わい学ぶことが大切。

そんなふうに語っていた僕は、この後、結果を求めて滞りをいただくことになります。それは語っていることと実際が違ったということですが、僕自身がそういう段階にあったということで、大きな視点から見れば、その滞り自体がプロセスの中にあります。

僕は滞りを味わい、そしてそこから学びました。

こうでなければならない。

そんなことを言ってもあまり意味はないのかもしれません。結果を求めるなと言ったって結果を求めたい心があれば、やはり結果を求めるだけです。

頭での理解ということで言えば、僕は5年前(2013年)の9月にもジイジと以下のような会話をしています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどん:

人は思考をめぐらすでしょ。思考を巡らして答えを得ようとする。僕は思考を上から持ってくる。目の前の相手に合わせて思考が下りてくるんだよね。例えば精神性を求めている相手には、そういう話が下りてくるし、あんたと話していると哲学的な話になってくる。それは前もって学んだものを話すという感じではなくて、常にその場その場に下りてくる。知恵を上から持ってきて、僕もそれを一緒に聴いていて、なるほどな~と思っている。

なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章を読み直して、当時の自分がこんな話に触れていたことにびっくりしました。それぐらい当時の僕は表面的な結果を求めて右往左往していました。それもすべてプロセスの中にあります。その事実をいただくことで、少しずつ都合の良い結果を求める心を弱めていくのです。

目の前の出来事のプロセスを見ていくと同時に自分自身のプロセスも見ていきます。囚われているならば、囚われていることもプロセスの中にあります。

こうでなければならない。

そんなことを言うつもりはありません。だけれども自分自身を天に向けて解放します。起きることはすべて自分自身の表れとして恵みとしていただきます

2017年の立春正月にひっくり返った僕は、今年の立夏を迎えて自我を天へと導くと決めました。

囚われや結果を求める心を生み出してきた僕の感情。今、僕はそれを見切っています。

ということで最後はこんな文章で締めたいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




☆彡 ☆彡 ☆彡

これまでここで紹介したプロセスは僕個人のプロセスです。それはそれで僕にとって重要なものですが、世界に心を開いて、世界とヒビキあっていけば、宇宙のプロセスそのものを生きることが出来ます。もうそろそろそういう段階でありたいなと思っています。

宇宙のプロセスそのものを生きる

そのために僕は生まれては消える波のような自我を手放し続けます。

蓮池の花が咲き始めています

一人ひとりの認識がこの世界を創っている。

三角エコビレッジ・サイハテ坂井勇貴さんが以下の問いを発しているのを目にしました。

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人間らしさを学び、育む場としての村づくりやコミュニティ作りは今後ますます求められていきますが……あなたにとって『人間らしさ』とはなんでしょう?コメントお待ちしています!

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それに対して僕は以下のように答えました。

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仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。

長くなりましたが、思うことを書かせていただきました。
読んでくれてありがとうございます。


☆彡 ☆彡 ☆彡

一人ひとりの認識がこの世界を創っている。

今はそう確信しています。だからこそ認識には価値があり、仏陀は「天上天下唯我独尊」と語っているのです。ですが今、多くの人の認識は、エゴから生まれる欲や不安、恐怖に染まっていてバラバラになっています。バラバラの認識が世界に反映されて、戦争や紛争、孤立や分断となって表れているのです。

だから今、大切なのは人々が共通の認識を得ることです。そのためには自らを囚われから解放し、現象の奥へと探求を深めていく必要があるのです。

本来、ニュースや報道はそのような視点を提供するものなのだと思います。誰の立場にも立たずに客観的視点から出来事を紡いでいくトキ、そこからその奥を感じられるようになります。それは探求の入り口となるのです。ですが、今のニュースは国や団体などの立場からの視点を提供しています。それはそれぞれの立場の視点を強め、分断を助長する結果となって表れています。

そしてコマーシャルは、大量消費社会の中、人々の欲望を刺激しています。これも人々の囚われを強化することに繋がります。

それぞれの視点に対する囚われが強化され、そしてその表れとして社会は混乱していきます。それは一人ひとりの認識が生み出していることです。

だから認識を新たにすればいいのです。ただこれは何でも自分の思い通りになるということではありません。

この世界を平和だ

そう思い込めば平和になる。そんな簡単な話ではありません。思い込みと認識は違います。何かを実現しようとして願ってもそれは認識とは違うものです。認識とは恵みであり恵みとは認識です。そしてそれは出来事をいただくことで「頂き」が「増し」、視野が広がっていくものなのです。ジイジは恵みと認識について以下のように語っています。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。



☆彡 ☆彡 ☆彡


広い視野は尊い生き方に繋がり、狭い視野は地獄へと繋がっていきます。自分の思惑や感情を超えて出来事をそのままいただくことで視野は広がっていきます。その開かれた視野がすべての存在を繋げ、この世界に調和をもたらしていくのです。

この世界は一人ひとりの認識が創っています。

だから自らの認識を広げることによりこの世界に実相に向けて深めていく。そしてそれをみんなに共有することは世界平和に向けての力強い取り組みです。なぜなら、この世界の実相は一つで、そこではすべてのものが調和しているからです。

蓮池の花が咲き始めています。


いただくことでヒトは自由となる

5月16日、天王星が牡牛座へと移動しましたが、そのことについてかとうゆかさんは以下のように書いています。

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牡牛座が天王星入りし、多くの人が無意識レベルでとらわれていた「欲望の奴隷」になっていた自分の生き方に気づくような流れに入ります。

自分らしさも、正義も、夢も、ファッションセンスや社会貢献、毎日の暮らしの多くのものも、「欲望の奴隷」という基盤の上に成り立っていたことに気づかされます。

これが「自分」だと思っていたことが、目の前の簡易的な欲望を満たすために、脳を錯覚させてつくりあげた偽りの真実だと気づきます。

しかし「欲望」そのものが悪いのではありません。

欲望に首輪をつながれ奴隷になっている生き方から、欲望を手なづけて飼い慣らし、
バイタリティや原動力のように取り扱えるようになる必要があります。

自分が欲望の奴隷であったことに気づくのは、簡単なことではありません。

なぜなら「脳」は快楽物質ドーパミンを追い求め、自分が欲望の奴隷であることを隠し、
さらには肯定するロジカルな理由をつくりあげてしまうからです。

知識がある人ほど自分は知っているから捉われてはいない、大丈夫なのだと錯覚します。
まさか自分が欲望の奴隷になっているわけがないと、自分以外の人の話のように、脳が高度な錯覚を起こすのです。


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牡牛座は五感、そして五感に基づく欲求を司る星座です。天王星はその領域で革命を起こすということで上記のように表現されているのでしょう。

自分の思惑や感情の奥に本当の自分がいる。

それは常々感じていることで、五感から生まれる欲求も表面的なものといえ、本当の自分はその奥にいるのです。五感の求めるままに行動することが自由だと思っている人もいるかもしれませんが、それは上記の文章にあるように「欲望の奴隷」となっている状態です。五感を超えて、五感の欲求を見通したトキ、人は本当の自由を手にいれます。自分の思い通りにしたいと思ったトキ、人は自分の五感や思惑、感情の奴隷となっていて、何が起きてもいただく心を育むことでそこから抜け出すことが出来るのです。

今、どれだけの人が本当の自由を得ているのでしょうか?

権力者と言われる人たちもその多くが自分の思惑や感情に基づいて行動しているように見えます。そうであったならば、彼らは思惑や感情の奴隷であり、世界を統治しているようで自分の感情に支配されているのです。

いただく心を育むことで本当の自由へと至ることが出来ます。そして「いただく」とは古いものを捨てるということ、変化変容を繰り返す宇宙の流れに沿うことです。権力や今の自分に固執していては自由は遠ざかるばかりなのです。

五感の豊かさ。

それを自分の欲望から表現するのではなく、価値あるものとして世のため人のために表現していく。本当の意味で自由となったトキ、人はそのように生きることが出来ます。

そのために必要な態度は以下のマザー(オーロビル)の言葉に示されています。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は日々の生活の中でいただく心を育んでいます。

自分の中に湧き上がる感情や思惑、そして出会う出来事、すべては「いただく」ものであり常に新しいところへと向かって探求が続きます。変化変容の繰り返しだから、「これが自分」と固定して捉えることは出来ないしする必要もありません。

いただく

自由(ク)に分離独立し(ダ)分離独立した(タ)位置(イ)を占める

カタカムナで見ると、それぞれの自由が思う存分に表現された状態と言えますが、「いただく」ことは食べ物をいただくように現象や対象と一体となる行為です。ヒトは出来事をいただくことで世界と一体となり、本当の自分が輝き、それが自由な表現となって表れるのです。

それはきっと頭の理解を超える出来事。

理解出来ないことに開かれていく。それもきっと自由への道となります。

毎日の暮らしでいただく心を育むこと。

それは未来へと繋がる精神革命です(^-^)

今朝の富士山と太陽です(^-^)



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