IS(イスラミックステート)やボコ・ハラムは国境を越えて支配地域を広げています。そして、様々な国籍に人々がそこに参加しています。国境を越えて世界が一つになっていく。そんな現象と言えるでしょう。一つになった世界で人々が表現しているのは、恐怖や苦しみとなってしまっています。ニュースを観ると暗い話題が並びます。それは人々が自我を超えることが出来ないからではないでしょうか?自我は自分に近いものに愛着を示し、遠いものを排除します。そこから対立が生まれ、対立は争いへと発展するのではないでしょうか?
自我について。そして、それを超える生き方について。いさどんは以下のように語っています。
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一人ひとりに、自我がある。自我とは、自己愛。自己愛とは、宇宙の究極の姿。
この世界は全て、自己愛によって紡がれている。究極の自己愛とは、この世界を紡ぐための部品となること。それは、自我を超越した状態。自我を超越した自我の状態。
それを感じると、心が躍動する。心の躍動とは、喜びのこと。そういった世界を、ただ表現したい。
それは究極の喜びだ。そこへ到達することが最終目的であるはずなのに、人間は自我を満たすことにばかり囚われて、囚われに喜びを求めている。それでは究極の自己愛にはつながらない。
そこで、私とは何だろうと考える。それは、たくさんの人間の可能性の中のひとつである。
それは私という天の望みと、私という自我の望みが共通している点のところを歩んでいる。それは、たくさんの可能性の中のひとつ。人間にはたくさんの可能性がある。その中のひとつに過ぎない。
人間は、自らが受け取れる範囲内のものを良しとしたいもの。それが囚われであっても、それを良しとしたいのだ。しかし、そこを超えていかなければ次が観えてこない。
この広い宇宙の中で、人間たちが当たり前と思って生きている今の地球上の姿は、特殊の特殊の特殊の世界だ。人間は、そのことに気付いていない。良くも悪くも、特別の特別の特別を生きている。そこに気付いていないから、こういう形で存在していることの本当の価値がわからない。だから、人間であることを生かせない。
今のところ、それは人間一人ひとりの意志ではなく、天の采配によってしか、成っていない。本来人間は、天と協議しながら道を歩むべき者なのである。
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このブログでも何度も書いているように天の物語を生きることはとても幸せなことです。心が踊り躍動します。ですが、自我を持つ人間は自分の物語も持つため、なかなか天の物語を生きることが出来ません。天は人間に自由を与えているのです。天はなぜ人間に自我を与えたのでしょうか?それは天がより大きく躍動するためなのだと思います。自らの意志で天の物語を生きる。この意志に力が加わることで、動物などただ天に意向のままに動く存在には生み出せないエネルギーが生まれます。その時、一人の人間は天と対等であり全世界と対等となり平和をもたらすものとなるでしょう。
その境地に行きたい。だから僕は木の花ファミリーで暮らし学びを深めています。
その学びの一例を紹介すると、先の番組『テロの拡散が止まらない~呼応するイスラム過激派~』を観た感想をみんなで話している時、玲ちゃんは以下のように語りだしました。
「独裁者もヒトラーからどんどん若くなって・・・」
そこでいさどんが尋ねます。
「独裁者とは何? 若いって?」
玲ちゃんはボコ・ハラムの指導者アブバカル・シェカウの映像を観て、上記のように表現したようでした。ですが、アブバカル・シェカウが独裁者かどうかも分からないし、ヒトラーが権力を持ち始めた年齢とアブバカル・シェカウも年齢はあまり変わりません。なのに印象だけで上記のように語っていたのです。
こういう言葉をそのまま受け流してしまうと、場がぼんやりしたものになります。それが重なるとおかしいと思うことも表現出来なくなっていき、気づくと戦争やテロに巻き込まれている。そんな危険もあるのではないでしょうか?戦前の日本や地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教はそんな状況にあったのではないかと想像します。
※「やっぱり天の物語を生きる~オウム真理教の事件から~」もお読みください。
一つ一つの言葉を吟味し大切にすること。そしてその言葉を発した人の心を観ていくこと。こんなふうに学びを深めることで自分を知っていきます。その先にあるのはきっと地上天国。
そこを目指して今日も「空飛ぶぞ♪」って呟いています(^ー^)
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