天に想いを返す

「僕は望み、願い、求め、喜び、苦しみ、怒り、痛み、考え生きていく」を読んだいさどんと以下のような会話をしました。



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宇宙おじさん(いさどん)
いさどん

 あの文章は評価を期待して書いたように思える。自分の体験からそのままするっと流れるように出てきた文章ではなくて、評価されようとして自分の持っている知識を組み立てた文章。でも、その評価から生まれるものは、逆にそんなものを評価してやるものかというものも生み出す。なるほど、と思う人もいるかもしれないが、そんなに大事にするものでもない。作っているものと自然に湧いてきたものの違い。あの文章はただの知識で生きたものではない。例えば、さちよ郷子ちゃん和子ちゃんの文章は、人の変化が現れていて、本当に生きた文章と言える。なかのんの文章は、まったく変化していないなかのんがただ一つのきっかけを利用して組み立てただけ。

なかのん

 自分としてはああいうふうに生きていこうという決心でもあったんだけれども・・・・

いさどん

 僕はこういうつもりだったと言うなら、それはそれでいいが、例えば、今、自分がこういう状態で生きている。その状態を突破したいと思っているならば、自分を突破する必要がある。その時に、自分はこう思うということを優先するのか?自分には見えないけれども人から見えるものを優先するのか?もし自分を突破したいならば後者だよ。

なかのん

 その通りだと思う。要は、僕は変わっていないということだよね。

いさどん

 いや、変わっているとか変わらないとかではなく、ただ癖が現れている。なかのんの文章には癖が出ていない時もある。

なかのん

 だから、心の状態が現れているということだね。

いさどん

 そういうのを自分で嗅ぐわけることが大切。

なかのん

 いや、僕の中ではあの文章は良く書けたなと思ったんですよね。その感覚が・・・曲者だなと。

いさどん

 そう、その書けたなというところに自我で出ていたんだよ。それが曲者。
要は自分のことでも人のことのように見える客観性と冷静さがあることが大切。
良いと思うことが曲者。その良いというのがどういう意味で良いのかを吟味する必要がある。

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思い返すと、「僕は望み・・・」を書いた時、僕は自分の成長の姿を思い描き、そしてそのレールの元に成長していこうとしていました。こういう時は、僕の自我(エゴ)は強くなっているのです。今までもそういうことはあったのですが、チェック出来ていなかったのですね。

想いは持ち続けるものではなくて、想いが湧いたら天に返していく。
それで想いがなくなるなら、それでいいし、大切な想いならば、湧き続けてくるでしょう。

それが基本姿勢で想いに執着していてはいけないのです。

そんな中、現象から自分を知り、学んでいく。

ただそれだけなのですよね。

僕はそんな毎日を楽しんでいます。



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