苦しみは、神が人間に与えた唯一の救いである。苦しみと対面し、苦しみを乗り越えることが、その苦しみから解放される唯一の方法。今あなたが与えられている苦しみは、今までのあなたの生に対する答え。他の誰にも与えられていない、神からの救いです。
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上記の言葉は、いさどんが神様からいただいた言葉です。
人が苦しむのはどんな時か?
それは自我(エゴ)が浮上してきている時なのではないかと思います。
エゴが湧き上がる時、囚われや執着、所有の心が生まれ、滞り、苦しむことになるのだと思います。ということは、苦しみにより人は自らのエゴを知り、それと向き合うことで、自らを解放していけるのです。
自分を知り、自分を超えていく。
苦しみに向き合う時、そんな生き方が可能となります。
今日の大人ミーティングでは、袴田事件を扱った『BOX 袴田事件 命とは』という映画を観ました。
冤罪事件として、司法や警察、検察にあり方の問題点を浮き彫りにしたこの事件からみんなで様々なことを話し合いました。
そのなかでいさどんは以下のように語りました。
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この事件は今、再審が決定し、冤罪というように見なされていますが、それは本当なのでしょうか?司法や警察のあり方に問題があったのは事実ですが、それがそのまま無罪の証明にはならないはずです。「疑わしきは罰せず」という原則に基づいて、再審が決定したのではないでしょうか?
そして、取り調べの中、楽になるために自白をしたと言いますが、それはその後の裁判に続くわけで本当の意味で楽にはなりません。本当の意味で楽になるために、「自分はやっていない」と信じ切るということもあるのではないでしょうか?
そんなふうに考えると必ずしも冤罪とは言えなくなります。
そしてもし警察や検察が証拠のでっち上げなどをせず、証拠不十分な状態でも事実を積み上げた捜査や取り調べをしたならば、そのまま罪が確定した可能性もあるのではないでしょうか?
もちろん冤罪の可能性もあるのですが、真実は天のみが知るというところでしょう。
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人が人を裁くことはとても難しいことです。そしてそのことの意味も考えさせられます。
もし一人一人が自分で自分のことを裁くことが出来れば、もっと違う社会が生まれます。
木の花ファミリーの暮らしはそんな未来の社会へ向けての取り組みで、その際、問われるのは具体的な行為よりもむしろ心のあり方です。
過去から現在、未来へと続くプロセスの中で、自分自身の心を見つめ、体験を積み上げ、成長していく。その際、不調和を生み出す心は裁き手放していく。
ここでそんな実践を重ねることで世界に平和をもたらすことが出来る。そう確信しています。
そしてその際、重要なのは苦しみと向き合う覚悟なのだと思っています。
くるたのしい
これは「苦しい」と「楽しい」を合わせた造語で作家の遠藤周作さんが使った言葉です。
苦しみに向き合う時、それは楽しさに変化し、そして救いになります。
※遠藤周作さんが「くるたのしい」を使ったニュアンスはこれとは違いますが・・・
苦しみは神が人間に与えた唯一の救いである。
そのことを忘れずに日々を大切に生きていきます。
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