法則の側から自分と世界を見る

すべての人が共有できる客観的な真実


昨年の12月、4回シリーズで放送された100分de名著『野生の思考』(レヴィ=ストロース)を観ました。「願いを叶えるのではなくただ探求していく」でも取り上げましたが、番組ではレヴィ=ストロースの思索の出発点を以下のように紹介しています。

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第二次世界大戦中、レヴィ=ストロースはフランス軍兵士として戦場に赴きます。ある日、塹壕に入ってぼぉっと景色を見ていたところ、たんぽぽの花に目が留まります。そして美しい秩序を持つたんぽぽの花を見つめるうちに構造の考えを思いついたのです。自然界の秩序と人間の思考の秩序は本質的に同じではないのか。宇宙の運動の中から地球が生まれ、地球に生命が発生し、脳が創られ、そこに精神があらわれます。自然界の中から生み出される精神の構造と自然の構造。レヴィ=ストロースはどちらも同じ構造を持つと捉えます。そして、人間の精神を構造という視点で科学的に分析したのです。

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レヴィ=ストロースは宇宙、自然、社会、そして、人間の身体と思考。すべてに同じ法則が流れていることを感じ取り、構造という視点で人間の精神を分析していきました。それは日常の思考、自我の奥に流れているものの分析であり、その思索はとても刺激的です。松岡正剛さんは千夜千冊「悲しき熱帯」の中でレヴィ=ストロースについて以下のように述べています。

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冒頭に「私は旅や冒険が嫌いだ」「それなのに、いま私はこうして自分の探検旅行のことを語ろうとしている」と書いてある。長い長い記述の最後には「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という人類学者らしくないとも人類学者らしいともいえる言葉が出てくる。そのうえで、「ともあれ、私は存在する」と書いてある。

  ~ 中略 ~

「ともあれ、私は存在する」と書く1ページ前には、平然と「私は人類全体の矛盾である」とも書いている。こんな人類学者はいなかった。まったくいなかった。

  ~ 中略 ~


調査研究記録の随所に、人類と人間に関する本質的な思索と自身の根源的な省察を同時に、かつ暗喩に富んで表現できた学者など、まったくいなかった。

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宇宙は揺れ動き常に変化しています。その本質を表現するならば、常に言葉の揺れが必要になってきます。レヴィ=ストロースの言葉の揺れは本質を見事に表現しているのです。だからとても刺激的なのです。

僕はこのようなレヴィ=ストロースの学問が好きだし、そこに大きな可能性を感じています。だけれども世界の思想に大きな影響を与えたというレヴィ=ストロースが活躍したフランスでシャルリエブド襲撃事件パリ同時多発テロが起き、その後もテロが続いています。この現実をどのように捉えたらいいのでしょうか?

レヴィ=ストロースは人類の未来に悲観的だったと言います。自身が見出した構造という法則。それが世界に広がり波紋を起こしても、人々はそれを知的には楽しみながらも、実践では自我という自らの慣れ親しんだ思考の中で暮らし続けているのです。だからこそ、それに相応しい現実が起きているのだと思います。

自我、自らの慣れ親しんだ思考の奥にはすべてを貫く宇宙の法則が流れています。木の花ファミリーでは「現象をもって真実とする」という言葉を大切にしていますが、起きることはすべて相応しく与えられています。そこには本人の納得は関係ありません。出会うこと、起きることはすべて自らの人間性の現れです。そのことを本当の意味で受け取った時、宇宙の法則から自分や世界を見ることが出来ます。それは人類が目覚めたならば、すべての人で共有できる客観的な真実です。

そこには祝福があります。少なくとも僕は今それを感じています(^-^)

はたらく(傍楽)から生まれる豊かさ


ところで、暮らしの実践の一つに「はたらく」という行為がありますが、現代では「労働」と呼ばれ、対価(お金)を得るための手段となり、苦痛を伴うものとなっています。ですが本来、「はたらく」とは傍(はた)を楽(らく)にすることであり、自分を超えたネットワークの中で役割を果たすことなのです。それは冒頭で取り上げた番組で紹介されているギリシア語の「はたらく」という言葉からも伺うことが出来ます。ギリシア語では以下の2つの言葉が「はたらく」ことを意味するようです。

プラクシス(実践):
行為する人間が自分自身の目的のために事物を使用する。

ポイエーシス(つくり出す):
事物をそれ自体の目的のために作りだす(受動的に本質を取り出す)

現代の労働はプラクシス(実践)になっていますが、それはそれぞれの自我が生きる主役になっているためです。自我が生きる主役となり、自分の目的のために労働をしますが、それは必ずしも世界とは調和せず苦痛を伴うものとなるのです。ですが、主役を構造、宇宙の法則に移す時、はたらくことはポイエーシスとなり、それは全体の中でお互いが生かしあうものとなるのです。木の花ファミリーの暮らしはポイエーシスで成り立っています。例えば、のんちゃんの「ありがとう」の物語の中でのんちゃんはこんなふうに語っています。

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よく主役になる野菜もいればならない野菜もいて、同じ大根の中でも本当にいろんな形があるよね。特に自家用でキッチンに届くのは個性的な形が多いから(笑)、みんなで「これ見てー」って笑って、この子をどうにか生かそうって考えたり。
野菜はそういう役割として、人間が使いたいように使われてるんだね。決して文句も言わずにね。それでみんなが食べたら、「ありがとう」って言って、体の中に入っていく。

今思ったんだけど、野菜って人間みたいだなと思ってたけど、私たちも、神さまに使われる野菜みたいだね。使ってくれてありがとう、って。

何を作るかを決める時に、前は本とかを見て、ちょっと変わった料理とか、味がおいしいといいなとか思いながら選んでたんだけど、そういうのも、今はないね。今はどうやって決めるかというと、まずみんなが食べたいものでしょ。それから、たくさんある野菜をどう使うか。

あとはね、きっと、その時、その野菜に、「これになりたい」っていうのがあるんだよ。
りょうちんが木の花祭りの鬼の面を作っていて、実はもう作る前から面の完成形は決まっていて自分はそれに沿っていくだけだって話してたけど、野菜にも「これになる」っていうのがあるんだと思う。

今ね、自分の頭で考えてメニュー決めてること多いなって反省した。
神さまにとって人間が野菜だったら、野菜にとって人間は神さまだよね。それなのに、この子はこうやったら一番活かされるっていうのを、野菜と対話をしないで勝手に決めたら、台無しにしちゃうよね。


きっと、ただ相手を感じて、何も考えずに野菜を洗ったりしてると、どうしたらいいかが自然と湧いてくるんじゃないかな。

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それぞれの存在の奥には同じ法則が貫いていて、それは天に生かされているということです。のんちゃんは野菜の声を聴くことで、天の恵みを表現しようとしています。それは全体のネットワークの中で互いを生かしあう「はたらき」で、温かくエネルギーに満ちた空間を生み出します。

先週の日曜日、15日に100回目を迎えた「恵みいただきます」はそのような空間をお客様に提供して来ました。施設の改装のため「恵みいただきます」はしばらくお休みとなりますが、3月21日(火)には異次元空間カフェ「ロータスランド」がオープンします。

そこは天の法則が花開く場所。来た人が「あれ?ここはどこだろう?」と懐かしさと不思議さを感じて、また帰宅(きたく)なる場所にしていきます。それは自分たちの意図によってなるのではなく、心磨きの結果、おのずとなっていく場所なのです。是非、遊びにいらして下さいね(^-^)


1月15日(日)の恵みいただきますでお客様の提供した料理です。

みんなで集合写真(^-^)

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