ただ天のみが頭上に広がる

1年前の9月6日、僕は「自分ごと」から全体性へと至る道を書きました。この投稿は、自分の衝動に翻弄され続け、そしてそれに向き合い続けた僕にとって一つの到達点です。以下、その一部を引用します。

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宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。

そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。

宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。

それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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これは叶わない「自分ごと」の望みを追い求めた末に至った一つの答えです。追い求め苦しむ過程。それは全体性へと至る道でした。今の僕にとって「自分ごと」は幻であり、全体性という客観視点のみが存在しています。

「自分ごと」は幻。それでも人はそれを追い求めたいものです。そして目の前の出来事に一喜一憂し振り回されていくのです。それは宇宙の法の中で人間の自我に許された戯れ。宇宙からの大いなる愛とも言えますが、人がそれに気づくのは「自分ごと」を超えた時だけです。「自分ごと」を超えた時、人は大いなる愛に包まれます。

今、僕の心にはいさどんの以下の言葉が響いています。

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なかのんの言うことは難しいね。彼は哲学者だからね。
だけど、なかのん流の表現をするものだから、ちょっと難しいときもある。
それを、相手の状況に応じて、いさどんのように通訳すればいいのだけどね。
なかのんの悟りのレベルは、自分が求めていく悟りだからね。
スピーカーになりきればいいんだよ。
スピーカーになると、勝手に降りてきて出てくる。
そこには一切私情ははさまない。自分のためもない。

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自分が求めていく悟り。そのレベルを超える時が来ているのではないかと思っています。そこで浮かんでくるのが二宮尊徳の言葉です。

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仏者も釈迦が有難く思われ、儒者も孔子が尊く見ゆる内は能く修行すべし、その地位に至る時は国家を利益し、世を救うの外に道なく、阻の中に益ある事を勤るの外に道なし。譬えば山に登るが如し、山の高く見ゆる内は勤めて登るべし、登り詰れば外に高き山なく、四方共に眼下なるが如し、此場に至て、仰ぎて弥々高きは只天のみなり。


新しき村2017年8月号「二宮尊徳に就いて」より

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山を登り切れば、天のみが頭上に広がります。この地点に立てば、世を救う以外に道はないのです。そこには「自分が求める」要素はありません。今年の7月、僕は以下のような文章を書いています。

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この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。




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山を登る過程。それは自分が求め究める道です。僕はそこを歩んでいました。そこには否定する必要がある自分が存在していたのです。ですが今、僕はそこを卒業しようとしています。「自分ごと」は幻です。消えてなくなれば否定する必要もなくなります。

「自分ごと」を超えた時、人は大いなる愛に包まれます。そしてそこには全体性という客観視点のみが存在します。それは過去から未来へと宇宙を貫く柱であり流れ。ただただそれに基づいて生きていく。ただそれだけなのです(^-^)



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