まあ、これは最初から然るべき人に相談して頼ればいいだけの話なのにね。
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上記は昨年の6月にいさどんが僕に語った言葉です。当時、僕はこの言葉を元にして「怒りに向き合い、怒りから自由となる」という記事を書きました。以下、少し文章を引用します。
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僕は最近、困った人と出会いました。それで僕は、筋を通しながら流れを見ていこうと思っていたのですが、筋を通そうとする心の奥には、非常識な相手に対する(あまり自覚していない)怒りがあって、僕はその怒りに翻弄されていただけなのです。
「僕といさどんと木の花ファミリー」に書いているように、僕は長年「虐げられた状態から逆転し見返す」という物語を好んできました。そのため無自覚に虐げられる状態を生み出してきたのです。
この一見理不尽な行動、その奥にはこの世界に対する「怒り」の心がありました。僕は今日、そのことを確信しました。「怒り」の心があるから「怒って然るべき」状況、虐げられる状況を無自覚に生み出してきたのです。
そして「世界と一緒に変化を楽しむ」に書いているように、「正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる」物語も好んできました。正義を貫くためには悪が必要で、対象が悪ければ悪いほど、正当に「怒る」ことが出来るのです。
そう、僕は正当に「怒れる」状況を長年好んで来ていて、だけれども「怒り」を求める自分には無自覚で、そのために滞りを生み出してきたのです。
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ここで書いている困った人との関係は3月31日をもって一つの区切りとなりました。一つの流れの終わりを感じていますが、今、あらためて思うことは困った人と出会う縁を自分が持っているということです。そういう縁を生み出してきたのは「虐げられた状態から逆転して見返す」物語や「正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる」物語を好む自分と言えます。それは僕の特徴で、それを悪いと思ってなくそうとするよりも、その物語が生み出す世界を見通し、そこから自由でいることが大切なのだと思っています。
どんな特徴も活かせばきっと調和の世界に繋がります。例えば対立状況も、そこを切り取ってみたら悪い出来事と言えますが、プロセスで見たら成長のために必要なものとなることもあります。大切なのは、僕が困った人との出会いを通してどれだけ自分の中を見通せたかだと思っています。
出会う出来事は自分の精神構造の顕れ
最近よくそんなことを思います。
例えば誰かに強く憧れるのは、自分の外に尊さや美しさを見ているからです。そして誰かを強く憎むのは、自分の外に汚れや汚さを見ているからです。ですが、この世界と自分は本来ひとつです。ならばこの世界の最も醜いものや汚いもの、そして最も尊いものや美しいものは自分自身の中にあるのです。出会う出来事を通してそのことを見通していくことで世界と自分が対等になっていくのだと思います。そしてその結果出会う出来事は変化していきます。
世界に目を広げれば、例えばイルミナティやロスチャイルドなどの陰謀論がありますが、こういう一部のものがこの世界を牛耳っているという説は人々のこの世界に対する不安や不信感の顕れと言えます。そしてなぜ世界に対する不安や不信感があるかと言えば、自我の赴くままに生きることで人々は世界との生きた繋がりを失っているからです。繋がりを失っているから目の前の出来事に一喜一憂することになり現実に振り回されるようになります。ですが、自我を超えて世界との繋がりを取り戻せば、すべての出来事は相応しく与えられていることが見えてきます。そしてそれを学びとして成長していくことが出来ます。
自分の中の他者に依存する気持ちがこの世界に権力者を生み出しそれは時に圧政へと繋がっていきます。その奥には結果や責任を取ることを恐れる気持ちがあったりします。その心の構造にメスを入れることにより世界は自ずから変化していきます。
自分の中の他者にアピールする気持ちが他者との違いを生み出し時には困難な状況も生み出します。その奥にあるのは劣等感や優越感などがごちゃ混ぜになった感情だったりします。その心の構造にメスを入れることにより世界は自ずから変化していきます。
ただみんなでひとつを表現していく。
それは自我が生み出す感情の奥を見通し続けることで、そこから豊かな世界が生まれます。それが出来れば、どんな出来事も大いなる流れの中で活かされていきます。
ただみんなでひとつを表現していく。
僕はそんな世界に向けて生きていこうと思っています。
木の花ファミリーのみんなとお花見をしました(^-^) |
タイのテレビ局が取材に来ていました。 |
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