☆彡 ☆彡 ☆彡
今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、4月8日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……(※ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
「色即是空 ……(※ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン♪ 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。
☆彡 ☆彡 ☆彡
この4月、僕は大きな節目と感じていましたが、それは自分の身の回りに起きている変化のためです。その変化が自分にとって好都合であったため物事が好転していると感じていました。それは確かに銀河の夜明けを経た今の流れに沿っている感覚なのかもしれませんが、変に力が入っていたことに気づきました。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
この言葉にある通りトキは永遠に続いていて、すべての節目は通過点として繋がっています。その中の1点を変に強調することは思い入れや囚われとなりこの世界を自らの秤を持って図ることに繋がります。するとこの世界と自分との間に差が出来、悟り(差取り)から遠ざかっていくのです。
様々な節目を伝える天体の動きは天の意思の顕れですが、それを頭で理解する時、人智に利用されていく危険性を持ちます。その時、大いなるものを自分の小さな枠に閉じ込めることになります。そういう心の動きをチェックし、大いなるものに自分を解き放っていこうと思いました。それは思惑を手放すということ、分からない未来を受け入れるということです。
そしてここでもう一ついさどんが昨年の9月に語ったお釈迦様の話を紹介します。
☆彡 ☆彡 ☆彡
お釈迦様の話の中に、家に火がついたのに子どもたちが気付かないで庭で遊んでいるというたとえ話がある。だから、お釈迦様はそれを何とか助けようと思って、家に火がついていることを気付かせようとするのだが、子どもたちはまったく気付かないで朗らかに遊んでいる。 それが、今の人間たちの生きる姿勢だ。
この4月、僕は大きな節目と感じていましたが、それは自分の身の回りに起きている変化のためです。その変化が自分にとって好都合であったため物事が好転していると感じていました。それは確かに銀河の夜明けを経た今の流れに沿っている感覚なのかもしれませんが、変に力が入っていたことに気づきました。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
この言葉にある通りトキは永遠に続いていて、すべての節目は通過点として繋がっています。その中の1点を変に強調することは思い入れや囚われとなりこの世界を自らの秤を持って図ることに繋がります。するとこの世界と自分との間に差が出来、悟り(差取り)から遠ざかっていくのです。
様々な節目を伝える天体の動きは天の意思の顕れですが、それを頭で理解する時、人智に利用されていく危険性を持ちます。その時、大いなるものを自分の小さな枠に閉じ込めることになります。そういう心の動きをチェックし、大いなるものに自分を解き放っていこうと思いました。それは思惑を手放すということ、分からない未来を受け入れるということです。
そしてここでもう一ついさどんが昨年の9月に語ったお釈迦様の話を紹介します。
☆彡 ☆彡 ☆彡
お釈迦様の話の中に、家に火がついたのに子どもたちが気付かないで庭で遊んでいるというたとえ話がある。だから、お釈迦様はそれを何とか助けようと思って、家に火がついていることを気付かせようとするのだが、子どもたちはまったく気付かないで朗らかに遊んでいる。
☆彡 ☆彡 ☆彡
上記の話に出て来る家は長者の家であり、子どもたちは裕福な暮らしをしているそうです。それは地球環境に配慮せず物質的豊かさを享受しさらに追い求めようとしている人間の姿と言えるでしょう。気候変動、異常気象などを通して地球は人類に警告を与えていますが、多くの人々は未だに経済成長という都合の良い幻想を追い求めています。人々はこの世界を自らの秤を持って図り続けていて、この世界と人との差は広がる一方となっています。その結果、世界の危機が見えなくなっているのが今の人類であり、この延長に未来があるとは思えません。
だから一人一人が秤を手放し、自らの解釈によらない境地となっていく必要があるのです。その時、人とこの世界が一つとなり真の調和が実現します。そんな世界に向けて、自分一人分実践し続けようと思っています。
今日はお釈迦様の誕生日、だからお釈迦様の精神の確認をしました(^-^)
0 コメント: