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自然で当たり前のことを当たり前にする

九州にて、大雨による被害が警戒されていますが、時代が令和を迎えた5月、ジイジは大人ミーティングで以下のように語っています。

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今は5月ですが、これから夏に向かうにつれて、また世界中に災害が起きてくることでしょう。それは自然の問題で、自分に問題があるわけではないと多くの人々は思っています。しかし、それはすべて、履物の話と同じなのです。履物が散乱しているのはその人の人間性の現われであるように、病気になるのも、その人の人間性です。災害が起きるのも、今の人類の人間性の結果なのです。そういったことを緻密に観て、しっかりと振り返り、改めて、先へ進むことが大切なのです。
そこで大切なことは、常に新鮮な出来事に新鮮な心で向き合い、自らの枠に囚われず、物事の実態を冷静に捉え、進化につなげていくことです。これまでは、過去のものを実績として積み重ねていくことが大切な時代でもありました。過去から学ぶことは大切なことです。しかし、そこで過去に執着したり、特定のものに正しさを求めると、古びたものに真実を固定してしまうことにもなります。正しさとは、未来に行って与えられるものなのです。
その時に、まだ来てもいない未来のことで結論を出してはいけません。わかるはずがないのですから。まずは今、自らが行うべきことをする。そうすれば、それにふさわしい答えが未来に結果として与えられます。宇宙や地球の仕組みは、常にその答えを返してくれるのです。自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。
今、地球上に聖者はいません。しかし、人間は本来誰しもが、優れたものとして地球上に生きることができるのです。本来、そのために人間は地上に降ろされたのです。これまで、過去にどんなに優れた人が降ろされていたとしても、結果として人間たちは今、地球のガン細胞のような存在となりました。ですからその証として、現代に優れた人はいません。本当に優れている人ほど、自らの実力のなさが今の地球の現状を招いたのだと、謙虚に振り返っているはずなのです。


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ここで話は変わって。

昨年のこの時期、僕は自然療法プログラムに取り組んでいたAくんのサポーターをしていました。Aくんの卒業コンサートは、昨年の7月31日に行われたのですが、その時、ジイジが語った言葉を最近思い出しました。

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本当の自分の実力というのは、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通し、それをどのように捉え、どのように前向きに進んでいくのかにかかっています。そのときに、本当の実力が出来、社会をたくましく生きていく力になります。これは、ここで決めていることなのではなく、実際に、生きるということはそういうことなのです。誰も、明日の自らの人生を読み解くことは出来ません。明日に出会うことは、今日までに出会ってきた延長にあるとは限らないのです。それが、人生というものです。

そのために、自らの予想を超えた想像の出来ないことが起きたとき、その出来事は新たなことに対する抵抗力を与えてくれていると思えば、とてもありがたいことなのです。なぜなら、それは自分を育ててもらっていることになるからです。そのように物事を前向きに捉えたら、「あれはダメだった」「これはこういう理由でダメなのだ」という言い訳は必要なくなります。そして、どんなに難しいと思われる出来事が起きたとしても、超えられないことは何ひとつありません。そこを一つ一つ取り組んでいくことによって、自分の力が身につき、生きる希望になるのです。それが、この自然療法の取り組みに対する考え方です。


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当時、不登校だったAくんは、健全な生活を取り戻すために自然療法プログラムに取り組んでいましたが、最初の頃は、出来ない理由ばかりを探していて取り組みはなかなか進みませんでした。そんなAくんが自らの意思を強くし、規則正しい生活リズムを整え、自分と向き合うことで成長し、卒業していきました。

Aくんのケースのように、自然療法プログラムでは、規則正しい生活リズムを一つの柱としています。それは、自然で当たり前なことを当たり前にするということを意味します。そのことを基盤として、日々出会う出来事を通して自分を見つめ変化していくのです。

自分で結論を出すのではなく、今やれることに最善を尽くし、その結果を未来に受け取っていく。それがこれから求められる地球上での人間の立ち位置です。

今年の5月、これからの人間の立ち位置として、ジイジは上記のように語っていますが、これは自然療法プログラムで求められる態度と共通しています。自然のことを気にせずにやりたい放題をして来た人類の姿勢は、昼夜逆転の生活を送っているようなものとも言えます。その結果、人間社会は自然との繫がりや秩序を失ってきたのです。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

今の人間社会はそのことが出来ていない状態で、その表れとして、鬱や引きこもり、人々の分断や対立、そして自然災害があるのだと思います。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

そのことが最善を尽くすこととなり、ヒトとヒトは繋がり、出会う出来事をいただき実力をつけていく基盤となるのです。今まで見てきた景色は、乱れた思考や生活から生み出されたもの。それが未来を作り続けるわけではありません。冒頭で、これからの時代について語るジイジの話を紹介しましたが、その話は以下のように締め括られています。時代は新しいところへと常に進み続けているのです。

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これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。

令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。



木の花ファミリーのみんな@玉ねぎ収穫です。

みんなの中でよみがえり生きていく(4)

今、台風や水害、地震等で地方が破壊されている。今年は九州、大阪や広島、北海道など各地で災害が起きたが、そのうち大都市に災害がやってくるだろう。そうなると、日本は再生できないような状態に陥る可能性がある。そうすると、人々の生きる方向は群れることでしか選択肢はなくなる。これは今の社会の延長に新しい生き方を見つけようとするような生ぬるいものではなく、その選択肢はなくなり、群れで生きるしかない時代が来るだろう。そのときに精神性が伴っていなければ、それは限りなく混乱の方向へ向かい、そこで人々は群集化し、さらに混乱へと向かっていく。人々の精神性が伴えば、群れ化して、人々のライフスタイルが再編される。ライフスタイルの転換が今、人類に必要になってきたのである。確かに我々はそのさきがけなのだ。

来年のテーマである「軌道修正」というものは、まずは人々が目覚めなければ軌道修正はできない。目覚めた者たちにはこの星で生きることの意味が理解され、軌道修正ができる。地球の時間軸にたとえれば、ほんの少しの間の工業化の波が人間たちをテクノロジーの依存症にさせてしまった。もう人間の小手先のテクニックで生きていく時代は終焉を迎える。そして、人々が天と共に生きる時代が始まる。それが、新たに始まる時代の求める軌道修正だ。だから、来年2019年のテーマは「軌道修正」ということなのだろう。

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上記は、ジイジのブログ「時代が縮小のサイクルに入った今~2018年11月28日(天赦日)」からの引用です。来年のテーマとして「軌道修正」が挙げられていますが、「軌道修正」については、12月9日に行われた収穫感謝祭のトキにもジイジは語っています。以下、その言葉を引用します。

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今年は再出発の年でした。再出発とはどういうことでしょうか。それは、今までのことを振り返り、初めは何だったのか、この歩みは何だったのか、そして未来に向けて私たちはどのように進んでいけばいいのか、ということを考え、そのことを見極めることです。そこで、来年は軌道修正の年です。しかし、それは木の花ファミリーを指しているのではありません。私たちは、自然と共に生き、そのメッセージをいただき、生きる立場にいるからです。そろそろ人間たちの地球上での生き方は、軌道修正をしなければいけないところに来ているのです。この軌道修正は、世界観を広くして軌道修正しないと、これからの社会は成り立って行かないというところまで来ているのです。

そのような現状の中で、私たち木の花ファミリーは、今の方向に向かって、世の中の指針となるということです。ですから、私たちには、社会に軌道修正をもたらす自覚がいるのです。その自覚の元に、スケールの大きな世界観を生きたならば、私たちはとても大事な役割をしているということが分かります。そうすると、その自覚は一人ひとりにも必要ですが、全体を通して大きな役割があることが見えてきます。今、そのために世界の人たちと交流しているのです。今も、タイに二人そのメッセージを伝えに行っています。

そして、これから人類が進む方向性に対して、この暮らしがモデルとなります。私たち一人ひとりが大切な役割をしていくという自覚と誇りをもって、謙虚に自然から命をいただいているという自覚が大切です。自然に対する謙虚な姿勢は、これからの世の中の見本です。それがモデルとなるのです。生きることをいただいていくという精神です。それをもって、私たちは、そういった方向に社会が軌道修正するための役に立っていきましょう。

ここにはたくさんの人が共に暮らしていますが、それは一つの生き物です。私たちは、ひとつの生き物として歩んでいきますから一体です。それが今の世の中に足りないところです。それを示していきましょう。時間を積み重ねるたびに、日を積み重ねるたびに、月を積み重ねるたびに、季節が巡るたびに、年がたつたびに、私たちの役割は大きくなるのです。ですから、毎年毎年、その自覚を深め、高め、一緒にその役割を果たしていきましょう。みなさん一緒にやりましょう。

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そして、収穫感謝ということで言えば、昨年の収穫感謝祭にて、ジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。


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今年は再出発の年でした。今までのことを振り返ることで、初めは何だったのかを確認した年です。そんな今年1年を通して定着したことと言えば、この暮らしに対する確信と言えます。その確信をもって、木の花ファミリーは、これから軌道修正していく社会の指針となっていくのです。そのためには常に自分を振り返り心を美しくしていく必要があります。

僕個人で言えば、今年のはじめに堕天使ルシフェルの存在に触れてこんな文章を書いています。

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ルシフェルは悪い役割を自ら担いました。なぜそのような存在が必要だったかというと、人々が自分のことを見て来なかったからです。悪とは何かと言ったら、自分の都合を求めてきた人々に排除された存在です。人間は自分の都合を求めていろいろなものを切り捨ててきました。その結果、地球環境は悪化し、社会の分断と孤立が深まっています。その状態は偏りであり均衡を取り戻す必要があります。だから、人々が切り捨てているものが何かを教える存在が必要となるのです。役割としての悪。それは人々の姿を映すことで学びへと導いているのです。

人類はずっと正義の名の元に争ってきました。自分の行為を正当化し、争いを生み出している心の種を見ることはありませんでした。悪は自分の中にあるのにそれを認めずに外を改善しようとしてきたのです。それは自分の都合を求める心です。自分の都合を求めて争いが起き緊張しているのが今の人間社会と言えます。だから天に心を向けてすべてリセットするのです。そして「すべてをいただく心」でみんなが再スタートをすれば、全ての存在と出来事が認められ、今ある問題はすべてなくなっていくでしょう。なぜならいつでもどこでも、

何ももらってはいないのに、ありがとうございます。

ただ今があるだけなのに、ありがとうございます。

という心で生きていけるからです。


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そして今年の終りが近づく中で、僕は自分の中で両親と再会し、煩悩と再会しました(「僕と父と木の花ファミリー」や「煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない」を参照)。それは自分の原点との再会と言えますが、乗り越えるべき性質として、ある意味、「悪」としてきた性質との再会でした。例えば、高い目標、精神性を求めたとしても、それが何かを切り捨てるものであるならば、心に緊張が生まれ、いただく姿勢ではなくなっていきます。相反するものの統合、全体性を生きることが高い精神性であり、そして一人ひとりがそこに至ることで世界に調和と平和が広がるのだと思います。だからこそ、両親や煩悩との再会は僕にとってとても大切なものです。

例えば僕は、理解を求めるのではなく、他者や世界を理解していくことを心掛けています。だけれども、まるでコインが反転するように、自分の中から理解を求める心が湧いてくることがあります。その理解を求める心を無理に切り捨てようとしても、どこかで反動が起こり、二面性の表現となっていきます。

他者に理解を求める弱い自分を認め、そして受け入れることで癒し、他者に理解を求める必要をなくしていきます。その上で世界や他者を理解していく。自分の中にある揺らぎとゆるぎのない心、相反する性質をしっかりと見通し、統合させていくことが大切です。

だから僕が、この1年の成果としてこれから定着させるものは、自分の中の相反する精神を生き抜き、統合させる姿勢です。そんな姿勢を定着させ、みんなと一体となって、美しい調和の響きをこの世界に広げ、これから軌道修正する社会の指針となっていくのです。

今日、12月22日は冬至、光が最も弱い日であり、生命の死と再生のトキとも言われています。闇から光、死から生へと反転するこのタイミングは、生と死、相反するものの出会いであり、統合するタイミングとも言えます。

自我は自分視点という闇を生み出しますが、それはなくすものではなく、世界という光の中で溶かしていくものです。自我が世界に溶けることで、ヒトは、みんなの中でよみがえり生きていくのです。それがイエス・キリストが示したメッセージだと僕は思っています。

1999年に創った箱庭です。



失った善意を取り戻していく

少し前に、木の花ファミリーのみんなと映画『君の名は』を観ました。この映画は2016年に大ヒットしましたが、僕はこの前初めて観ました。この映画、スピリチャルな世界では、イエス・キリストとマグダラのマリアの統合(陰陽・男女の統合)瀬織津姫の復活など、大きな意味を持つものとして語れていますが、こういう言葉に出会った時、自分の都合よく捉えないように注意をする必要があります。神話的なものは宇宙の流れを表しているのであって、宇宙は人間の都合で動いているわけではありません。その流れは人智を超えたものであり、流れにそぐわなければ、滞りに出会うことにもなります。

話は変わって。

今年の8月以降、木の花ファミリー憲章の改定に向けて憲章の検証をしていますが、その中で善意という言葉がクローズアップされています。今の木の花ファミリー憲章、世界観概要の中には「善意」は以下のように表現されています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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善意は愛や調和に先立っています。そして善意という言葉から、3年前の6月、ジイジ(当時はいさどん)が大人ミーティングで語った以下の言葉を思い出しました。

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物事の捉え方はたくさんあってね。

善意で捉えようと思ったら、
この世界にある全てのことは、
善意になるんだよ。

ただ、
人にはそれを善意で捉える力がないだけなんだよ。

宇宙は全て善意でできている。

なぜかというと、
宇宙は調和でできているから。

調和は、
悪意では保てない。

調和は、
善意によってしか、
成り立たない。

だから、
物事を善意で捉えられないときには、
自分が未熟だと思わないといけない。

そこを悪意で捉えるということは、
自分を観ないで、
悪意は相手から来ると思っているのだけど、
悪意は、
自らの未熟さから生まれるものなんだよ。

だから、
自分が言っていることは全て、
自分自身を表しているんだよ。

そこに気付かないと、
自らを改めることはできないね。

人間というものは、
必ず自分の都合の良いように
答えを求めようとするんだよ。

だから、
自分の本心があっても、
そういった人たちは「けど」「でも」と言って、
本心と違う行動を取るんだよ。

そのカラクリをわかって、
自分自身に修正の目を向けられるようになったら、
人は成長できる!

そのためには、
自らの想いをどんどん外に出していって、
まわりからフィードバックをもらい、
客観的な視点を育てていくことが大切だね。




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善意の「ぜん」は、潜象界の「せん」に濁点がついたものです。愛が、「ひふみよいむなやこと」を経た高次の響きである「あ」の位置(い)であり、現象界の根本であるならば、善意は、潜象界の位置、潜象界そのものの響きと言えます。だから善意は愛より先なのです。善意と濁点がついているのは、それが人間の馳せる想いだからです。潜象界は「ない世界」です。「ない」というところですべてを一つにするのが潜象界ならば、善意は、「見える世界」と「見えない世界」からなる現象界(「ある世界」)に存在する人間が、「ない世界」に想いを馳せることで一つに繫がり、「ひとつらなりのいのち」を表現していくものなのです。

イエス・キリストとマグダラのマリアとの結婚、そして瀬織津姫。それらは封印されてきた神話です。権力者となったものたちは、都合の悪い神話を封印してきました。そこには善意がなく、人類は一つの繫がりを失ってきたのです。

それは海洋汚染にも表れています。瀬織津姫は水の神様です。水の神様が封印されることにより水の汚染が広がり、今、プラスティックごみの問題は特に深刻なものとなっています。ごみは繫がりを失うことで生かされなかったものです。だからこの問題は、人々が善意を忘れ、繫がりを喪失した象徴とも言えるのです。

冒頭で僕は、神話を自分の都合で捉えてはいけないと書きました。自分の都合で捉えると、他者の視点が喪失し、繫がりを失うことになります。その結果、瀬織津姫は封印されてきたのです。瀬織津姫の復活。それは自分の都合を超えて、善意で繋がり合う世界を意味しているのだと思います。

善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらされる

心を磨き続けることでそんな世界を表現していこうと思っています。


木の花ファミリーのみんなです。

環境と響き合って変化していく(2)



9月1日、木の花ファミリーでは稲刈り神事が行われ、みんなは収穫の喜びを味わいましたが、僕は体調を壊しそこには参加出来ませんでした。その前日、暑い中ジャガイモ定植をしたことが影響したと思われます。普段、基本的にオフィスで仕事をしている僕は、今年の夏、初めて日中畑に出たのですが、その暑さは今まで経験したことがないものでした。普段、畑や田んぼで作業をしている人たちは、こんな中作業をしてくれているんだなと感謝の気持ちがわいてきました。そして、気候の変化の厳しさを、実感を持って感じることが出来ました。そんな厳しさを伝えるものとして2100年の天気予報を掲載しているサイトがありますが、そこにはこんなふうに記載されています。

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2100年の夏も全国的に猛烈な暑さです。特に西日本や東日本では気温が上がり、高知県四万十市では、44.9度、名古屋で44度、東京でも43.6度と観測史上1位の記録を更新。この暑さの影響で、今年は今日までに熱中症で全国12万人が病院に搬送されています!昼間の気温が30℃以上の真夏日ですが、那覇で183日と6ヶ月、大阪で142日、5ヶ月近く、東京で107日、札幌でも47日となっています。この記録的な暑さはまだまだ続きそうです。


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今年は記録的な暑さと言われていますが、この暑さは今後も続くものと思われます。そんなことを思ったトキ、浮かんできた言葉が「環境と響き合って変化していく」というもの。これは2年前にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。以下、その言葉を紹介します。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化です。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。

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今の学校教育は生徒に「答えを出す」ことを求めていて、答えを出すコツを覚えて早く答えを出せる人が優秀な人として評価されます。そして、学校教育で優秀と評価されることは社会に出る際に有利に働きます。そのため多くの人の思考は「答えを求める」ものとなっています。正解を知って、その正解に基づいて行動しようとするのです。

ですが、この世界の本質は未知であり変化変容にあります。本来、先に答えを知ることは不可能なのです。だから答えを知ってから行動しようとすると、現実の変化に翻弄され右往左往することになるのです。今、世界で起きている多くの問題は、人間のそのような姿勢の変化を促しているようにも思えます。

おおよその見通しは立てるけれども、答えは行った先で知っていく。心にそういう「マ」、空間を作っておくことが大切なのだと思っています。

カタカムナでは、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれるのはその縁(ふち)であり、そこで縁(えん)が
生まれます。心に「マ」を生み出すことは、「マ」の内部へと想いを馳せることになり、表面上の現象や縁(えん)の奥へと意識を向けることになります。

現象の奥にある「マ」は、見えない世界と言えますが、そこが響き合う空間となって自らの人生と世界に深みを与えてくれるのです。

特定の結果を求めることは、執着を生み出し幸せの範囲を狭めます。ただ環境と響き合い、そのことを味わい楽しむことが出来れば、どのような結果をいただいても充実した日々を送れます。

地球環境や人口問題などを見ると、これから確実に生きていくことが厳しくなることが予想されます。そのような現実と向き合い、心豊かに充実した日々を送るためには結果を求めずに環境と響き合っていく姿勢が大切になることでしょう。そしてそれはきっと調和の表現となり世界に平和をもたらします。

だから僕はそんなふうに生きています。


魂の改定としての断食

8月11日18時58分、獅子座新月でした。1週間ぐらい前、この新月に合わせて断食をしようかなという思いが湧いて来ました。2014年に気候変動問題解決に向けて、月に一度の断食の誘いを受けたことがありしばらく実践していました。最近の異常気象の中、そのことを思い出していました。

ですが、実行するかどうかは保留にしていたのですが、先日、木の花ファミリー憲章を改定しようという話が浮上しました。憲章はこのコミュニティで最も大切にしている精神を明文化してもので魂とも言える存在です。憲章を改定するということは魂を改定するということです。

魂の改定。

ならば、それに相応しい準備をする必要があるということで8月10日から断食を始め、そして14日の朝に終了しました。4日間の断食を行ったことになります。

断食については以下のような効果が言われています。

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普段、私たちが食べたものは腸で吸収され、エネルギー源のブドウ糖となって全身に運ばれます。ブドウ糖は、何も食べないと通常8時間ほどで、全てなくなると言われています。


つまり、断食とはエネルギー源がゼロになる生命の危機なのです。
カラダがそのような状態になると、中性脂肪が肝臓に集まってきます。肝臓で脂肪が分解されてできるのが「ケトン体」です。このケトン体は新たなエネルギー源としてカラダのさまざまなところで働くことが分かってきました。さらにケトン体は、もう一つ重要な働きをしていることで世界中の研究者に注目されています。
「ふつう、われわれはエネルギー源としてブドウ糖を使います。しかし、それがなくなってしまうと脳が働かなくなるので、その代替エネルギーが脂肪から作るケトン体です。
ケトン体は、酸素をそんなに使わずに非常にエネルギー価が高いので、お手頃なエネルギー源になる。今、注目されている物質です。

断食をすることにより、ケトン体という脳内物質が増加します。ケトン体が増加すると、α波が出て、心身をリラックスさせる効果があり、さらに、普段以上に頭や五感も鋭くなり、冴えてくるといわれております。


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ですが今回の僕の場合、断食期間中は身体が重くだるい状態が続き、いつもと同じように散歩をしたことで筋肉痛となり、眠く頭もあまり冴えずエネルギーがない状態が続いていました。それでこれ以上続けると日常業務の妨げとなると判断し中止しました。

断食の効果として脂肪を分解して作られる「ケトン体」ということが言われていますが、今の僕には燃やす脂肪があまりないのではないかということを思ったりしました。

世の中にはプラーナを食べて生きているという不食の人もいるようですが、いきなりそんな身体になれるわけもなく、今回はこういう結果をいただきました。

今回の断食のメッセージとしては、自分は命という食に生かされているということです。すべての食べ物は命です。その命をいただくことがなければ、自分の活動もままならなくなります。僕は生きとし生けるものの循環に支えられて生きています。だから僕自身の命やエネルギーも循環の中で生かされていくべきものです。変化変容を本質とするこの世界の中で、今に囚われずに。

冒頭で取り上げたように、今、世界中で異常気象が続いています。それは生きとし生けるものの循環に滞りがあるから起きているのだと思います。無駄に消費され生かされずに残っていくごみが空気や海の中には溢れています。循環の異常が気候の異常として表現されているのだと思います。

今日、8月15日は日本では終戦記念日です。戦争こそ無駄な争いによって尊い命を犠牲にしてきた行いと言えますが、循環を意識していたら、生きとし生けるものに生かされていることを実感していたら、何かを攻撃しようという心は生まれないと思います。なぜなら、それは巡り巡って自分を攻撃することになるからです。

魂の改定へ向けての断食は僕に苦しみをもたらしました。それは生きとし生けるものの中で循環することの豊かさへと繋がる苦しみです。

例えば、キッチンスタッフの玲ちゃんは断食明けの僕にこう語りました。

「なかのんが断食中は(なかのんの好きな)かぼちゃは料理に使わないようにしようねってみんなで話していたんだ。今後かぼちゃ料理を出すからね」

そして、昨日の夕食の味噌汁にはかぼちゃが入っていました。まだまともに食事が出来ない僕にとって最も嬉しいプレゼントでした。

こんなふうに、僕の断食はみんなの心に響き、そしてみんなの心が僕に響き・・・こんなふうに循環していきます。

僕の魂は僕自身で完結するものでなく循環の中でこの宇宙のすべてと繋がっていきます。それは木の花ファミリー憲章も同様で、憲章は木の花ファミリーで完結するものではなく、この宇宙の仕組みの中で宇宙全体へと繋がっていくものです。

木の花ファミリー憲章改定を前にしてそんなことを再確認しました。

断食4日目の朝、みんなと落花生収穫をしていました。

出会う出来事を通して逞しく生きていく

昨年の8月1日、大人ミーティングにてジイジは以下のように話をしました。

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人間がお金や物に執着するのは
生きることの本当の意味を失っているからだ。
だから、それは死生観の問題だ。

今の人間は生きることの意味を履き違えている。


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そして、今年の8月1日、大人ミーティングにてジイジの以下の言葉が紹介されました。

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自分の考えで人の話を聴いても、それは自我を育てるだけ。
自分を離れて人の話を聴くトキ、新しいことに出会える。

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自分の考えで人の話を聴かないように。

この言葉は昔からよくジイジに言われていましたが、昔は言われている意味が全然分かりませんでした。ちゃんと理解する必要があると思うから「考えて」聴いているのに、それが違うと言われ、混乱することがありました。ではなぜ、それが違うのかと言ったら「自我を育ててしまう」からです。

出会う出来事に反応し一喜一憂するのが自我です。そこからお金や物への執着も生まれます。自我を育てることは執着をもたらし、それは今の社会の行き詰まりにも繋がっています。

子どもの頃、出会う出来事や人からの話は世界を広げてくれました。新しい知識を得て、知らなかったことを知るようになり、それがそのまま「生きて認識する世界」の広がりに繋がりました。

大人になると、出会う出来事は今までの繰り返しとなり、自分の都合のよい話ばかりを聴くようになります。それは経験によって認識の枠組みが固まっているからであり、自我はその枠組みに基づいて反応し、枠組みを強めていくのです。

人間社会はずっとお互いの自我を育んできました。出来事に一喜一憂しながら、個人個人の幸せを追い求めることで、認識はどんどん凝り固まり、狭くバラバラになっていきました。その結果、お金や物、仕事やレジャー、成功や地位や名誉への執着が生まれ、生きることの本当の意味を失ってしまったのです。

このような中、心身の病や偏った生活習慣などの問題を抱える人が多くなっていますが、木の花ファミリーではそのような人たちに自然療法プログラム(通称:ケア)を提供しています。以下はケアの取り組みの中でジイジが語った言葉です。

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出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることもできますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。

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ここで疑似体験をしてその延長で完璧に自信がつくということはありません。このケアの取り組みは70%、自分の今までのいろいろな癖やなぜこうなったのか、その理由に気が付くことです。それが分かって、その上でそれをどうやって改善し、次の新しい旅立ちに繋げるかということは、実際に新しいところへ踏み出してからです。それで力を身に着けることです。ここで出来ていることはここの環境、様々なサポートの中でのこと。本当の実力ではありません。


本当の実力は、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通して、それをどう捉えて、どう前向きに進んでいくか、そういう中で本当の実力がつき、逞しい力となっていきます。それが生きるということです。


誰も明日の人生を読み解くことは出来ません。明日起きることが予定通りとは限りません。自分の予想を超えたこと、想像を超えた出来事が起きたトキ、その出来事は新しいコトに対する抵抗力を与えてくれます。そう思えば、その出来事は自分を育ててくれる有難い出来事です。そういうふうに物事を前向きに捉えたら、あれが駄目だった、これがこういう理由で駄目なんだということは思わなくなります。生きていれば難しい出来事に出会いますが、それらは一つ一つ向き合うことで自分の力がついて生きる希望となっていくものです。これがジイジのケアに対する考え方です。


行き詰っている人は、今までやり方が不器用だったから出来ない状態となっていますが、それがちゃんと出来るようになったら、その人流のいい人生を歩むことが出来ます。その人流というのは、今までたくさんの人のサポートをしてきたけれども、同じ人はいないからです。新しい事例を情報としてもらいながら、なんどもケア卒業の機会に出会うたびに、ますますこの大事をやらなければならないなと思っています。


今の世の中は行き詰った人たちをたくさん産んでいます。それは世の中にも原因があります。そして、本人たちは生き方が下手なのですが、そういう人たちの力になって、そして健全に生きてもらいます。その仕組みのからくりを世の中にフィードバックすることで世の中をよくするのです。とても今日は希望が湧いている感じです。


未来は常に未知です。まず一歩進めば、自分の考えていることと違うことが起きます。行く前から考え過ぎず、まずは進むことです。自分がどう生きるかは自分の人生の価値を付けること、自分が納得して人生を終われることが大切です。

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新しく出会う出来事を通して、自分を育み、前向きに進んでいく。

ケアの取り組みでは、そのような姿勢を育むことで行き詰った人々が健全になっていきます。それは生きることの本当の意味を取り戻すことにも繋がります。

自分の利益、自分の立場に固執していると、意見の違いは対立や問題ごとに繋がっていきます。そのような中、人々は苦しみ、世界各地で、紛争や戦争、そして政治上の対立が生まれています。

今年の8月1日、人類は1年間で使える地球資源を使い果たしました。今、自分たちが使っている資源は未来の世代から奪っていることになります。「1年分の資源を使い果たす日」をアース・オーバーシュート・デー」と言いますが、この日は年々早まっています。物質的な利益を求め続けた結果、人類は困難な状況を迎えています。

ですが、困難な状況は自分を逞しくしてくれる要素にもなります。そのために必要な態度が自分を離れることであり、そのトキ、出会う出来事や人からの話が新しい世界へと繋がっていくのです。

変化変容がこの世界の本質です。宇宙の始まりから続く変化変容の物語の中で、人は生を受け、それを次へと繋げていくのです。そういう大きな視点の中で自分自身の価値を付けること、それが生きることの本当の意味です。人々が自分の利益や立場を離れ、困難を通して自分たちを逞しくしていったトキ、表面上の違いを超えた真の調和が訪れ、そのトキはきっと地球とも調和した暮らしを営んでいることでしょう。

そんな歩みを自分一人分、しっかりと刻んでいます。

木の花ファミリーのみんなです。




出来事に解体され出来事に生み出される(2)

ここ最近、プラスチックゴミに関するニュースが目につくようになりました。ここでそのうちの2つを簡単に紹介してみようと思います。まずは、〈プラスチック危機〉海流入、50年までに魚の総重量超え?という記事。これは、以下のような内容となっています。

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安価で丈夫なプラスチックは多くの製品に用いられ、20世紀半ば以降の暮らしを大きく変えましたが、それが今、大量のごみとなって人々の生活を脅かしています。

インドの首都ニューデリー、不法移民の多い貧困地域タイムール・ナガル地区になる川は、元々は水路だったが、今はビニール袋やストローなどが人の背丈ほども積みあがっています。このごみは雨季になると水に押され、ガンジス川を通ってインド洋へと流れ込みます。

スペイン南東部の岬に打ちあがったマッコウクジラの体内からは29キロものごみが取り出されたが、それは主にプラスチックで、その中には北アフリカで使われるアラビア語で書かれてレジ袋も含まれていました。

今、世界の沿岸部から海に流出するプラスチックは毎年480万~1270万トンと推定され、陸上で適切に処理されなかったごみが主に河川を通じて流れ込み、中国やインドネシア、フィリピン、ベトナムが最大の発生場所になっています(これらの国はごみの輸入国、世界のごみ捨て場と言えます)。

現状のレベルで海へのプラスチックの流入が続いたら、2050年には海のプラスチックごみの重量が魚の総重量を超えると警告されています。

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次の記事は、「世界最大のごみ捨て場」中国の終焉ー日本のプラスチックごみはどこへいくという記事。これは以下のような内容です。

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多くの先進国は長年、環境保護というきれいごとを言いながら、プラスチックごみを途上国へ輸出してきました。その最大の輸出先が中国だったのですが、その中国がごみの受け入れを禁止する方針を打ち出しました。それは中国のゴミ捨て場としてのキャパシティが限界に近づいている証ともいえます。今、べトナムやタイなどがごみを受け入れていますが、それらの国のキャパシティも近く限界に達すると思われます。そのような動きに合わせて各国でプラスチックごみ削減の動きが進んでいます。例えば、スターバックスは全世界の店舗でプラスチック製ストローの使用をやめると発表し、オーストラリアではスーパーなどでプラスチックのレジ袋が廃止されました。このような動きがある中、日本のプラスチックごみに対する意識はとても低い状況にあります。

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世界のプラスチックごみが途上国に集まり、途上国の川から世界中の海洋へと流れていく。そのような流れが出来上がることで、地上にはプラスチックゴミの捨て場がなくなりつつあり、海洋にも大量のプラスチックごみが流出し続けています。

プラスチックは当初、人類に夢をもたらしました。それが今は大量のごみを生み出しています。その姿は核のごみを生み出している原子力の姿と重なります。利便性を追い求めた人類は大量のごみを生み出すことで自らの生活空間を汚染し続けているのです。

ごみということで思い出すのが「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」という番組です。この番組を見た後、僕は以下のような文章を書いています。

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この世界に表されることはすべて人間性の表れです。心の中にゴミがあるからこそ「ごみマンション」がその姿を表してくれているのです。そして、今日の大人ミーティングであらためて心に残った言葉は、「自然界にはごみはない」という言葉です。なぜ自然界にごみがないのかと言ったら、すべてが繋がり循環し生かされているからで、人間の世界にごみがあるのは、分断が進むことによって生かされず無駄になるものが発生しているからです。それは心の中も同様で人との繋がりがないまま自分の想いに浸っていると、無駄な思考や感情がたくさん発生し、それが心の中のゴミとなっていくのです。

「自分が・・・」という意識や「自分の・・・」という意識が強まることでこの世界に分断を広げてきましたが、その分断は一人ひとりの内面にも起きていて、自分の嫌な部分、受け入れたくない部分は心のゴミとなり、人生のトラブルとなって表れます。

ごみマンションは今の社会、そして一人ひとりの心を表しています。だからごみマンションの解決に一番大切なのは自分自身と向き合うことなのです。




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生かされず無駄になっているものがごみとなるのですが、もう一つの特徴として「分解されない」ということがあると思います。プラスチックも分解して土に還るならば、それは循環の中で生かされるのですが、そのままの形を留めるところに問題があります。これも心の表れと考えるならば、人々の心の中に凝り固まって分解されないものがあるからプラスチックごみが溢れているということも言えると思います。

先進国はプラスチックごみという都合の悪いものを途上国に押し付けてきました。そして、途上国の人々は目の前の利益を求めて、環境悪化には目をつぶります。

「食べていくのに精いっぱい。環境のことなんて気にしていられない」

これは、ごみの山からペットボトルを探している不法移民が語った言葉ですが、先進国にも当てはまる態度と言えます。それぞれ自分の立場の視点に凝り固まり、目の前の見える世界に利己的に反応しています。

今、必要なのは凝り固まった視点を解体していくことにあるのだと思います。ということで、「出来事に解体され出来事に生み出される」から文章を引用します。

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大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)


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大量のプラスチックごみ。その事実と向き合うことで今までの自分の思考、自分のあり方を解体し、その出来事に沿っていくこと。そのトキ、繫がりの中から新しい自分が生み出され、それが新しい世界を創っていくのだと思います。それは自らが意図して生み出すものでなく、宇宙の意図に沿うことで、出来事から宇宙の意図を知っていく生き方です。

蓮池の写真です。カエルさんがいます。

一つの滞りからみんなが学んでいく

7月5日、西日本を中心に集中豪雨が降り続き被害の拡大が予想される中、安倍首相と上川法務大臣は自民党の若手議員と懇親会「自民亭」を行っていました。集中豪雨は今、実際に大きな被害をもたらしています。7月6日には、オウム真理教の松本智津夫死刑囚ら7名の死刑が執行されたということもあり、その緊張感のなさを問題視する声が上がっています。それは当然の批判と言えますが、同時に以下のようなことも思います。


何かを批判したい気持ちが生じたトキ、自分自身がその対象と同じレベルに陥っている。

そんな経験をしたことがありますが、こうなっている時は、なかなかこの事実は見えません。それはきっと、自分は正しい位置にいて、正しいことをしていると思っていたり、必要なことを伝えようとしていると思っているので、自分が出している空気や波動、周りに与える影響が見えなくなっていくのです。

例えば、上記の出来事だけでなく、加計学園や森友学園、自衛隊日報問題など。安倍政権には批判されて然るべき問題がいくつもありますが、その批判ばかりに心を奪われていると批判の応酬となり、醜いやり取りになっていくことがあります。3年前の安全保障関連法案の際、与野党の議員がもみ合いとなった姿に子どもたちが困惑していたことを思い出します。

批判したい気持ちが生じたトキ、上記のようなことも意識する必要があります。

では批判はしてはいけないのかといったらそんなことはありません。上記の状況を生み出しているのは自我の反応と言えます。自らを分けると書く自分。自我の反応は自らを世界から分けて際立たせようとします。間違えに思えるものを遠ざけ自分を正当化します。その結果、違いが強調され分かり合えなくなるのです。ですが自我の反応を超えて、ただ見える景色を伝えることが出来れば、それは相手にとって有益なものとなりお互い分かり合え成長へと繋げることが出来ます。

冒頭で紹介した安倍首相や上川法務大臣は、集中豪雨の現場や死刑執行の現場から離れているので、それらと自分を完全に切り離しています。切り離すことで配慮を欠いた行動に至っているのですが、それは人類全体が持つ傾向とも言えます。

西日本を襲った集中豪雨ですが、集中豪雨などの異常気象は、天体の動きの影響もありますが、人為的要因も大きいと言われています。近代以降、人類は物理的豊かさを謳歌してきましたが、それが大気汚染や海洋汚染を生み出し、気候変動に繋がっていると言われています。ですが、多くの人は自らの生活と異常気象を切り離して捉え、傍観者や犠牲者となっていくのです。その態度は安倍首相や上川法務大臣の姿勢と変わりがありません。

そういうことを見通したトキ、滞りは批判の対象ではなくなり学びの材料となり、一つの滞りからみんなが学び、より良い世界を生み出すことが出来るのです。

世界との繋がりを取り戻す。

それが今、一人ひとりに求められることで、それは物理的な情報を得ることではなく心で通じ合うことです。自分自身の心の動き、そして日々に暮らしが宇宙との繋がりの中で営まれている。そのことを感じ大いなる流れに委ねて生きていく。そのトキ、一人ひとりの人生が宇宙全体の表れとなり、すべてが繋がりの中で生かされていきます。

そんな世界を木の花ファミリーのみんなと生み出していこうと思っています。

ジャガイモ収穫の様子です。



今日はお釈迦様の誕生日(^-^)

2年前の今日、お釈迦様からいさどんに言葉が降りて来ました。以下、その言葉の一部を引用します。

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今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、48日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。



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この4月、僕は大きな節目と感じていましたが、それは自分の身の回りに起きている変化のためです。その変化が自分にとって好都合であったため物事が好転していると感じていました。それは確かに銀河の夜明けを経た今の流れに沿っている感覚なのかもしれませんが、変に力が入っていたことに気づきました。

時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。

この言葉にある通りトキは永遠に続いていて、すべての節目は通過点として繋がっています。その中の1点を変に強調することは思い入れや囚われとなりこの世界を自らの秤を持って図ることに繋がります。するとこの世界と自分との間に差が出来、悟り(差取り)から遠ざかっていくのです。

様々な節目を伝える天体の動きは天の意思の顕れですが、それを頭で理解する時、人智に利用されていく危険性を持ちます。その時、大いなるものを自分の小さな枠に閉じ込めることになります。そういう心の動きをチェックし、大いなるものに自分を解き放っていこうと思いました。それは思惑を手放すということ、分からない未来を受け入れるということです。

そしてここでもう一ついさどんが昨年の9月に語ったお釈迦様の話を紹介します。

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お釈迦様の話の中に、家に火がついたのに子どもたちが気付かないで庭で遊んでいるというたとえ話がある。だから、お釈迦様はそれを何とか助けようと思って、家に火がついていることを気付かせようとするのだが、子どもたちはまったく気付かないで朗らかに遊んでいる。それが、今の人間たちの生きる姿勢だ。


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上記の話に出て来る家は長者の家であり、子どもたちは裕福な暮らしをしているそうです。それは地球環境に配慮せず物質的豊かさを享受しさらに追い求めようとしている人間の姿と言えるでしょう。気候変動、異常気象などを通して地球は人類に警告を与えていますが、多くの人々は未だに経済成長という都合の良い幻想を追い求めています。人々はこの世界を自らの秤を持って図り続けていて、この世界と人との差は広がる一方となっています。その結果、世界の危機が見えなくなっているのが今の人類であり、この延長に未来があるとは思えません。

だから一人一人が秤を手放し、自らの解釈によらない境地となっていく必要があるのです。その時、人とこの世界が一つとなり真の調和が実現します。そんな世界に向けて、自分一人分実践し続けようと思っています。

今日はお釈迦様の誕生日、だからお釈迦様の精神の確認をしました(^-^)





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