狂った反応パターン、そのものを手放す

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…
僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。



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上記は、このブログで何度か紹介している13年前のエピソード。この頃の僕は、人格的にはどうしようもないと思える人に惹かれていて、それと同時にその人と同じ空間にいることが耐えられないぐらいにムカついていました。そのムカついている感情は、訴えても状況が改善することはなくて、それをそのまま維持しているのが辛くなり、惹かれる感情を優先してムカついている感情を超えようとしては、満たされずに消耗してボロボロになっていくということを繰り返していました。その結果、自分がどうしようもない人格となっていきましたが、結局、ひどいものと思える相手の反応も自分が引き出し相応しく与えられたものと言えます。すべては僕の一人相撲なのです。

自分の反応パターンが完全に狂っている

僕はこの事例を通してそのことを認識しました。この事例は、極端な例ですが、自分の中に相反する想いがあるトキ、それに向き合わずにいることで、矛盾した行動に繋がっていくことは、他の場面でも経験してきています。

たとえば最近では、滞りを経験し、みんなに合わす顔がないと感じる自分がいました。それと同じくして、高いところに意識を向けることで、今の状況を乗り越えようとして、ブログを書く自分がいました。心を閉ざす気持ちを抱えながら、自らの想いを発信しようとする。それは相反する想いであり、それに無自覚でいると、見知らぬ人には感銘を与えることが出来たとしても、身近の人をしらけさせてしまいます。ここ最近の僕のブログにはそういう傾向が確実にありました。

そして、人類全般に目を向けた時、環境破壊がこれだけ進み、未来に漠然とした不安を抱えながらも、経済発展という欲を追い求めるこの世界の動きは、大きな矛盾を抱えたもので、人類全体の反応パターンも狂っているように思えます。

自分の中に世界を見て、世界の中に自分を見る。そしてそこに向き合っていくことが大切だと思っています。そして、

狂った反応パターン、そのものを手放す。

これはその頃の僕が目標に掲げた言葉です。自分の反応パターンに手を入れて変えようとするのではなく、反応パターンそのものをそのまま手放していく。そんな目標を掲げていましたが、当時は結局、心を閉ざすことで何も感じないようにしてその状況をやり過ごしていました。そのため課題はそのまま残していましたが、あれからたくさんの経験を積み重ね少しずつ経験値を増やしてきました。そして今、13年前に掲げた目標の言葉を思い出しています。

2月20日の乙女座満月は、「水に流す」ことがテーマということが書かれている記事にも出会いましたが、その頃から「水に流す」という言葉が自分の中に浮上していました。そして、それは3月7日の魚座新月に繫がっていくものなのだろうと思っていました。

そして、なんとなく「水に流す」の語源を調べていたら、こんな文章に出会いました。

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「水に流す」の語源は「禊(みそぎ)」にある

「水に流す」の語源は、神道において古くから行われていた「禊」に存在しています。

神道において古くから行われていた、というよりも、神道が神道として形式づくられる前から、日本人が集団の中で生きるために行っていた行為である、といっても良いかもしれません。

禊=「身濯ぎ」

禊(ミソギ)という言葉は、どこから来ているんだろう? と考えてみましょう。

それは「身濯ぎ」から来ていると言われています。

つまり、身、からだの、洗濯ですね。

今で言う入浴でしょうか。それも、ただからだの汚れを落とすだけではなく、精神的な汚れ、ケガレを落とすための水浴びです。

ミソギを行うときは、清流に身を浸すなどしてからだの汚れを落とすとともに、精神的にもスッキリして、心の汚れを落とすことを目的としています。

集団生活の中で必要であったミソギ

ミソギはただの入浴ではなく、集団生活の中で必要なものでもあったと考えられています。

古代社会の集団生活とは、みんなで一緒に、農作業をはじめとした様々な作業を行う、というものでした。

現代のように生活基盤が安定していない中では、全員が協力し、一丸となって大自然と戦わなければ、集落の生活自体が立ちゆかなかったのです。

しかし、人と人の間柄ですから、ケンカもあり、トラブルも存在しています。

誰かと誰かのケンカが長引けば、共同作業がうまくいかず、スムーズな集団生活が成り立たなくなる。

そこで、お互いにミソギをし、水に流して、仲直りをする、というようなことが行われた。あるいは何かミスを犯したり、失態のあった立場の者が、その失態を流すといった意味で、ミソギを行った。


ミソギを行うことで、トラブルを起こした者もまた集団生活に受け入れられ、生き残るための戦いに参加した、と考えられます。


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人類は、自然の驚異を克服し、物質的豊かさを生み出してきました。そのことにより人々は、たとえ矛盾した、狂った反応パターンを抱えていても生きていることが出来るようになりました。不調和な想いを水に流さず、人との関係がギスギスしていても暮らすことが出来ます。ですが、そんな時代も終わろうとしています。

多くの人がいまだ経済発展という夢を捨てきれずにいますが、気候変動による異常気象は年々厳しさを増し、人口減少により社会のインフラを維持することが難しくなってきています。そのような中、再び共に助け合って暮らしていくことが必要になってきます。そのトキ、大切になってくる姿勢が「禊(みそぎ)」であり、「水に流す」ことで心を合わせていくことなのだと思います。一人ひとりが狂った反応パターン、一人ひとりのこだわりを抱えていたら、これからの生活は立ちいかなくなることでしょう。

狂った反応パターン、そのものを手放す。

そのために必要なのが、自分の中の相反する想いを捉え、ごまかさずにそれらと向き合い、いつも道理に基づいて行動することなのだと思います。

2019年3月7日1時5分、浄化や精算、幕引きを意味する魚座新月を迎えました。このタイミングで僕は、その作業を自分の中に完全に定着させます。今思うと、昨年11月に始めた一つの試みはそのためのものと言えます。ちょうど革命の星である天王星も、昨年11月7日から今年の3月6日までの約4ヵ月間、牡牛座から一度、牡羊座に戻っていました。始まりの星座である牡羊座。これは原点の再確認を意味し、そのタイミングで僕は、自分の原点に奥深く刻まれていた狂った反応パターンと向き合い翻弄され、もがいていたのです。そして、自分を通して一人の人間が崩れていく姿を観察していました。これは意図していたことではありませんが、それだけ自分が未熟だったということで、今あらためて思うことは、この反応パターンは、表現しながらコントロールするものではなく、完全に手放すものだということです。それは道理に基づき、日々自分を整え自分の中から崩れる要素をなくしておくということです。

3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。

ちなみに僕の名前は「よ(4)ふみ」です。

「4」は僕にとって大きな意味を持つ数字で、混沌としたこの世界そのもの。僕は、その意味を楽しみながら示し()という柱を見出し世界を豊かにしていきます(^-^)

節目の日に書いたこの文章。しらけたものとならないように。僕はしばらくブログはお休みしようと思っています。自分が発信してきたことに相応しいものであるように。しばらく発信はお休みして日々の生活に集中しようと思います。今まで読んで下さりありがとうございました。








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