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道理に基づくうれしたのしの世の到来

株価が上がって喜ぶ人は一部の人で、汗水流して働く人々はその恩恵は受けません。でも、こんなニュースが流れると、株で儲けたいと思う人が多くなります。すると、汗水流して働く人が減っていきます。それは健全な社会の姿でしょうか?汗水流すことで得る僅かな収入で暮らし大人は、子どもには勉強をさせて将来、楽をさせたいと願います。そして、そんな子どもたちの中には、貧しい人たちを助けたいと医者を志すもので出てきます。ですが、医者は病人がいて初めて成り立つ仕事です。病に依存しています。加えて、生活を成り立たせるために収入におわれ、最初の理想も失っていく可能性が大きくなります。現実の中で何かが狂っていくのです。

加えて、そんな子どもたちが医者になれる可能性はとても低い現状があります。東大生の親の年収ですが、57%は950万円以上というデータがあります(年収ガイド参照)。子どもが東大に入るためには莫大な投資を必要とするのです。教育基本法3条では教育の機会均等が謳われていますが、現実は経済格差が教育格差に繋がっているのです。結果、東大には今、受験勉強が出来る、記憶力が優秀な人ばかりが入学しています。それは本当の意味で「頭が良い」とは言えません。「頭が良い」人とは直観力が働く人です。そんな本当の力を持つ人たちが出て来れない世の中になっているです。

そして、スポーツの世界に目を向けても、そこには歪みが見えます。トップを夢見ること。そこへ向けて人間の可能性を追求することは素晴らしいことですが、反面多くの落ちこぼれを生んでいます。プラス思考ばかりを追求すると、これも歪みに繋がります。例えば、フィギュアスケートのジュニアたち。彼らが表舞台に立つために親はどれだけ多くのお金を投資しているのでしょうか?その背後に親の涙ぐましい努力があります。それは子どもへの欲の心から生まれているのではないでしょうか?その姿は美しいものでしょうか?


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上記は2014年の年末、東京株式市場大納会のニュースを見て語ったいさどんの言葉です。今年の年末終値は6年年続で上昇し、26年ぶりの高値となりました。それはここで語られている状況がさらに悪化しているということです。

今の世の中は評判や評価を得る人が得をするようになって、お金や評価を得ることが生きる手段となっています。スポーツにしても、スポーツを純粋に楽しむことよりも、それにより評価やお金を得ることが目的となっていきます。選挙に勝つ人は、優れた政策を立案し実行する人というわけではなく上手にアピールし人気を得た人となります。

本来、はたらくことは生きることそのものであり、生きることを通して傍(はた)を楽(らく)にすることであり、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たしていくことです。自分が大いなる存在の一部であり、その中で役割をこなしていること。そのことが人に安心感やゆとりをもたらし、生きることを楽しむことに繋がります。

ですが今の世の中は、はたらくことがお金や評価を得る手段となり、自分のために自分をアピールする手段となってしまっています。自らを分けて際立たせた結果、自他の区別が大きくなり、他者に対して自分をアピールする必要が生まれていますが、それは健全な姿とは言えません。この姿勢が過剰になると、評価を得ることが目的となり、本来の自分の姿を見失うことになります。

人は自らに都合の良い世界を創ろうとしてきましたが、その時、切り捨てられるものも本来は自分であり、都合の良い世界を求めれば求めるほど本来の自分を失っていきます。人々の心が混乱し社会が混乱するのはそのためです。

先日、「光と影のやさしいお話 - この世のすべての悪を担った大天使ルシエル それはいまひとつの神の姿であった」という本の紹介を目にしました。そこにはこんなふうに書かれています。

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私達が悪魔と呼ぶサタン、ベルゼブルこそが、身の毛もよだつような分の悪い役割を自ら担い、人間の心に生ずるありとあらゆる悪の部分は、すべて彼のものとして位置づけし、彼の仕業であるということで、人々は自分自身を救ってきたのです。

 ~ 中略 ~ 

「ねえお母さん、天国の扉の鍵はルシエルが持ってるんだって。私たち人間が、この世にはびこる悪というものを本当によくわかるようになるまで天の国の扉は開かずに、みんなその前でウロウロしているらしいよ」

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堕天使ルシエルは地獄でサタンとなりますが、それは分断の時代における役割を演じていたのであり、統合の時代においてその役割を終えようとしているのだと思います。人々が自分の都合の良いもの(善)だけを求めることで世界に分断が広がっていきました。これから都合の悪いもの(悪)も見てそれも生きることで世界に統合が生まれていきます。

今、善と呼ばれているものは自分に都合の良いものであり、人々は自分の側から世界を見て善を求めて分断や対立を広げてきました。ですが、自分が生きているのは生かされているからであり、本来は世界の側から自分を見る必要があるのです。だから今、立脚点がひっくり返る必要があります。富士浅間木の花祭りで描く艮(うしとら)の金神の復活もそんな世界を描いています。

ルシエル、艮の金神、瀬織津姫 (セオリツヒメ)。今、封印された神々が蘇る神話が語られ始めていますが、それはこの世界の統合、道理に基づくうれしたのしの世の到来を表しています。

そこで今年最後の言葉として艮の金神と翁の問答を紹介したいと思います。もうすぐ2018年となりますが、新しい年が新たな時代の幕開けとなるよう、自分一人分心を磨き続けようと思っています。今年一年ブログを読んで下さりありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。


前回の富士浅間木の花祭りの様子です。

思い通りにならないことに向き合うことで心が育まれる

思い通りにならないことは向き合うことで心を育んでくれます。そして心が育まれると思いもよらない出来事に出会い感動します。感動し嬉しくなると気が緩むものです。ですがこの時、気が緩んでしまうと思い通りにならないことに苛立ち心が貧しくなっていきます。そうするとせっかく積み上げたものが一気に崩れてしまいます。これでは元の木阿弥で人生は同じことの繰り返しとなっていきます。

思いもよらない出来事に出会うということはそれだけ価値のあるものになれというメッセージで、より責任が大きくなり心を引き締める必要があります。心を引き締めることで何が起きても心は育まれ続け価値を高めていけるのです。

クリスマスの日、木の花ファミリーでも12月のお誕生日会を兼ねてクリスマス会が行われ、みんなで楽しい時間を過ごしました。クリスマス会ではサンタさんから子どもたちにプレゼントが贈られますが、今年は僕にもプレゼントがありました。思いがけないことに胸が温かくなりましたが、翌日、子どもたちがプレゼントのおもちゃに使う電池を求めて僕のところに来て、数が足りなくなったけれども注文してある分がなかなか届かなくて何度も何度も確認に来る子どもたちがいたり、プレゼントのオーディオプレイヤーの使い方を調べて欲しいと言ってくる子の対応をしたりでペースが乱されました。

忙しいところ時間を取られてしまった。これはまずい!

という思いが浮かびましたが、冷静に観れば、多少仕事に遅れが出ただけのこと。大騒ぎをするようなことではありません。それでも、まずい!という思いが浮かんでくるのは自己主張で、その奥にはペースを乱されていることに対する負担感、もっとよく見れば苛立ちがあります。それを認識すれば、その感情を超えていくだけなのです。

子どもたちはただ喜んでいるだけだから、その喜びには気持ちよく応じたいものです。

仕事が進まない。まずい!

というのは責任感がある言葉のようにも聴こえますが、心の奥を観ればペースを乱されることに対する苛立ちがあり、それをきれいにカモフラージュしているだけです。

自らを分けると書く自分、そこから生まれる自我は自らを際立たせます。それは刺激に対する反応なようなもので、多くの場合、そこには冷静な判断は含まれていません。押されたら引きたくなるし、引かれると押したくなる。目的は自らを際立たせることあるから言うことがコロコロ変わるのです。人はそんな自我の動きをきれいごとでカモフラージュします。先に挙げた、仕事が進まない。まずい!というものもそんな心の動きの一つです。

自らの価値を高めることは自我から自由となることであり、だからこそ思い通りにならないことは向き合うことで価値を高めてくれます。思いもよらない出来事はそんな中与えられるご褒美のようなものですが、そこで自我が疼いたらまた元の木阿弥となるのです。

だから常に心を観察し続けることが大切です。

そんなことを思っていると、静岡新聞の社説が目に入りました。

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素手に棒を握り、はいつくばって砂浜をつついて進む。手応えがあると慎重に砂をのける。現れるのは円形の地雷。信管の抜き取りをわずかでも誤れば目の前で爆発。死と隣り合わせの作業に幼い面立ちのナチス・ドイツの敗残兵が当たる

ちょうど1年前に公開された映画「ヒトラーの忘れもの」。第2次大戦後のデンマークを舞台にナチスが海岸線に埋設した地雷の除去に駆り出された少年兵と、指揮するデンマーク軍の軍曹との葛藤を描いた。史実に基づくリアルな場面が胸に迫った

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ナチス・ドイツの敗残兵に地雷処理をさせる。それを命令する側には当然の報いという理屈があるのでしょうが、その奥にある心を見て超えていく必要があります。そうでないとお互いの正当性を主張しながらの悲劇が繰り返されていきます。先の記事はこんなふうに続きます。

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残念ながら、その悲劇は今も終わらない現実でもある。先日、非政府組織の連合体、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)が発表した報告によると地雷や不発弾による2016年の死傷者は世界全体で8605人。うち8割は子どもを含む一般市民だった

地雷の中でも対人地雷は命でなくけがを狙って設計される。恐怖心をあおり救護に要するコストで敵を消耗させる。安価で大量に装備でき、いったん埋設されれば半永久的に作動し無差別に殺傷する。「悪魔の兵器」といわれるゆえんだ

廃絶を目指した対人地雷禁止条約(オタワ条約)ができて20年。130以上あった地雷保有国は半分以下まで減ったものの、なお地球上に残る地雷は数千万とも1億とも推計される


条約に米国、ロシア、中国などが背を向ける中、日本は地雷を廃棄し除去へ資金や技術的支援にも積極的に取り組む。道のりは長いが、まずは地雷全廃。そして核という非人道兵器も“人類の忘れ物”にしてはならない。



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人生は思い通りにならず人類は数々の悲劇を経験してきました。それに向き合う時、人類の心が育まれ、思いもよらない出来事、実現不能にも思える平和が訪れるのだと思います。地雷にしろ原爆にしろ自分の思い通りにしようとする心から生まれています。その思いにはそれぞれ正当性があるのでしょうが、軍拡競争となり歯止めが利かなくなっています。思い通りにしようとすると心が貧しくなっていきます。平和運動が対立に繋がるのも思い通りにしようとする心の表れです。だから自分の正当性の奥にある心を見て、それを超えていく必要があるのです。それはきっと日々の生活の中でみんながする必要がある実践で、その積み重ねが本当の平和へと繋がっていくのでしょう。

思い通りにならないことに向き合うことで思いもよらない出来事に出会い感動するのです(^-^)

12月お誕生日会&クリスマス会の様子です。


うれしたのしの世界を生み出す

木の花ファミリー通信2017冬至号が発行されました。今回のファミリー通信は世界情勢をテーマにしていて、時代を大きな流れで捉える視点を提供すると共に、環境、農・食、経済、社会、政治、教育などの分野の現状の分析をしています。その中で政治についてはトランプ大統領に触れています。以下、その内容を転載します。

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時代の申し子・トランプ米大統領の出現

時代は新たな価値観を求めている

アメリカの建国から約250年、ニューヨークに高層ビルが建てられるようになってから約130年。それは、46億年の地球の歴史からするとほんの少しの出来事ですが、素晴らしく発展したマンハッタンも、宇宙から観たら本来の自然の美しさが失われた皮膚癌の状態であり、それは地球の病巣とも言えるのです。

20121221日の「銀河の冬至」という大いなるターニングポイントを越えて光が差してきた今、そこで見えてきた本音が「アメリカファースト」です。その本家がイギリスであり、今、イギリスも「イギリスファースト」という姿勢を取っています。元々、アメリカという国家は度量の大きな他民族国家でした。ですから、アメリカは偉大な国だとされてきたのですが、その本音では自国の利益ばかりを求めていたのです。これまで公開されてこなかった過去の文書によると、アメリカは世界戦略として戦争をつくり、戦争によって繁栄してきた国だということが観えてきています。そして今や、アフリカやアジアといった貧しい国を搾取することによって栄えてきた国でもあるのですから、アメリカが世界の名士であるということは幻想にしか過ぎません。

自分たちが豊かになろうとする欲望の延長に、イギリスやアメリカが覇権主義で世界をリードし、その結果世界中の国々がそれに追随してきた時代が終焉を迎えている証として、トランプ大統領が誕生したとも言えるでしょう。時代が必要として産み出されたトランプ大統領には、既存の国家主義を壊すために大混乱を引き起こす重要な役割があるのです。そして、本来アメリカという国家は度量の大きな他民族国家なのですから、自分たちの欲を手放し、今まで抱えてきた富をこの世界に還元する時を迎えています。そのように、現代を生きる人々が地球レベルで世界のことを考え、人類の本来の目的に目覚めた時、地球に真の平和は訪れることでしょう。

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先日、国連総会の緊急会合が開かれ、トランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定したことに対して、認定の撤回を求める決議案が圧倒的多数で採択されました。採択に先立ち、トランプ大統領は決議案に賛成する国への支援を停止すると警告していましたが、多くの国はそれでも賛成票を投じました。トランプ大統領によるエルサレム首都認定の動機については、中間選挙での人気巻き返し、ロシア疑惑の話題を反らすためなどと報じられており、「アメリカファースト」どころか「トランプファースト」とも言える姿勢となっています。国が自国の利益ばかりを求めているのは、国を構成している人々が自分の利益ばかりを求めているからであり、そのような国民に選ばれた指導者が自分のことばかり考えているのはある意味当然と言えます。トランプ大統領は繕うことなくその姿勢を打ち出すことで既存の国家主義を壊すための役割となっているのでしょう。トランプ大統領の姿勢は人々の鏡であり、その姿から人々が自分の姿勢を改めることで今の混乱を抜け出し希望ある未来を生み出すことが出来るのです。

冬至の夜、木の花ファミリーでは富士浅間木の花祭りについてのプレゼンが行われ、その意味を共有しました。木の花祭りは鬼が主役のお祭りです。鬼は人々に忌み嫌われていますが、鬼は本来、人びとに道理を説く存在なのです。鬼についてカタカムナの単音で調べると以下のような意味となります。

「オ」 6方(前後左右上下)へ限りなく拡散、または凝縮する思念。大きい 重い 奥の方・潜象の場  ※潜象界とはカタカムナでは「ない世界」のこと

「二」 定着する

この意味を発展させて「いさどんと鬼の面」では鬼について以下のように説明しています。

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「オニ」とはマクロにもミクロにも限りなく広がる現象界、および現象界の元になる潜象界をも含む、両方の世界の働き(仕組み)を定着させるものである。そして、「鬼が云う」と書いて「魂」となる。魂とはこの世界の仕組みのもとにある心で、鬼は人間に、この世界の道理を伝えるものなのである。

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「鬼が云う」で魂となります。ということは、鬼を忌み嫌っているということは自らの魂を忌み嫌っているのと同様なのです。自我を与えられ、この世界を自らと切り離して認識することが出来る人間は自分だけの世界を生み出します。それは宇宙と一体となった本来の自分(=魂)から離れた幻想の世界と言えます。多くの人が自我から世界を眺め世界と関わりますが、自分と世界を切り離しているため世界に認めてもらうためのアピールが必要となるのです。好き勝手に行動しているように思えるトランプ大統領ですが、中間選挙を意識し支持層にアピールをしています。それが本来の自分の望み、考えかどうかは関係がないのです。このトランプ大統領の姿は多くの人の日常の姿なのではないでしょうか?ここで2013年9月にいさどんと交わした会話を紹介します。


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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。


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アピールするということは自分と対象を分けているから。

それが自我を与えられた人間の日常の意識です。本来、自分らしく生きることに対象はないのに、分かって欲しいと対象を求めるようになります。そして本来の自分である魂を忘れていくのです。鬼が忌み嫌われている今の世の中は人々が本来の自分を失っていることの現れなのです。この状態では好きなように生きていても満たされることがありません。

日常の奥にある現象を生み出すバイパス。

それがこの世界の法則であり、天の意志であり、鬼が伝えてくれる道理です。そこに意識を向けることで、人は本来の自分、魂を取り戻せるのです。

鬼が主役の富士浅間木の花祭り。それは自我から生まれるアピールする心を忘れ、生まれ清まり舞い踊る、うれしたのしの地球のお祭りです。祭りの精神により本来の自分を取り戻すこと。それは自他の区別により分断が進んでいるこの世界に光を射しこみます。道理を大切にし本来の自分を取り戻すこと。それはどこでも誰でも出来る世直しであり、唯一の世直しの方法なのです。この世界で共に舞い踊りうれしたのしの世界を生み出しましょう(^-^)








みんなの中でよみがえり生きていく(3)

クリスマスを前にしたロータスランドの店内です。

今日、12月22日1時28分冬至です。冬至についてFacebook地球暦のページには以下のように書かれています。

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太陽と地球をつなぐ光の関係における1年の終着駅、夏至が山場とすれば冬至は谷間にあたります。これまで落ち込み続けてきたエネルギーもついに底を突き、完全に「落ち着いた」ポイントが冬至です。
 ~中略~

冬至は古くは生命の終わりを意味し、再生復活の時と考えていました。文化信仰を問わず炎を神聖視し、火を焚き上げる風習が残っています。火(日)の大切さを実感しつつ、これまでの厄払いや、禊や浄化、または大掃除などで清めることで、生活を簡素に一新することが生活のポイントです。

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そして25日はクリスマスですが、クリスマスと言えば、イエス・キリスト。イエスの物語も再生復活の物語であり、それは冬至の意味と重なります。以下、みんなの中でよみがえり生きていく」より文章を引用します。

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多くの人々に救いをもたらしたイエス・キリスト。イエスは処刑されますが、予言通り3日後に復活します。僕は常々、イエス・キリストの死と復活については、心の成長過程のモチーフになっていると思ってきました。

イエス・キリストはすべての人間の罪を背負って磔(はりつけ)にされ、命を落とします。人間の罪とはすなわち「自我(エゴ)」だと思うのです。自我の元、人間は自らの欲望を叶えようとし、世界に働きかけます。その結果が今の社会であり、環境問題、経済格差、人種差別、民族紛争など様々な問題を生み出しました。イエスの死は、問題を起こしてきた自我の死を意味します。自我の死とは自意識を捨てることであり、自分視点を離れることです。その体験は人に恐怖を与えるのかもしれません。執着の感情が湧き上がるのかもしれません。ですが、自我の死、自意識を手放すことは人間に新しい可能性をもたらします。

磔にされ肉体の死を迎えたイエス・キリストは、3日後に復活するのです。それはイエスの魂の復活であり、それ以後、イエスは人々の中で再生し、今も世界を見まもり続けています。人が自意識を捨てる時にも同じようなことが起こります。

自意識を捨てる時、人は今まで囚われていたものから解放されます。その時、人は、自分(自意識)が知らなかった自分と出会います。思いもよらない感情や能力が湧き上がってくるのです。そしてそれは波動となって世界に広がり、人々の心に伝わっていきます。自意識の元、自分の中だけに留まっていた心、感情が動き出し他の人々の心の中に入っていくのです。そして、その心は人々の心の中で生き続けます。自分の魂が肉体を超えてみんなの中で生きていく。自意識を超えた時、そんな生き方が可能となるのです。


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みんなの中でよみがえり生きていく

それがクリスマスのメッセージで、クリスマスは自分の願いや望みを手放す時なのです。手放した願いや望みの中で相応しいものをサンタクロースが叶えてくれるのです。その時、その願いや望みは祝福され自分のものではなくみんなのものとなっています。自分の望みがみんなの喜びとなる。そんな世界が生まれるのです。

みんなの中でよみがえり生きていく

艮の金神さまもそのような存在です。心の掟を厳しく問うため神々に疎まれ封印された艮の金神さまは国之常立神(クニノトコタチ)であり地球神、大地の神さまです。大地の恵みをいただくことで生命を維持している人間は本来金神さまの分け御魂と言えます。ですが、多くの人びとはそのことを忘れてしまっています。金神さまが封印されている間、人間は大地を好き勝手に開発し痛めつけて来ました。ですが、今、金神さまは復活しています。地震や津波などの天災は金神さまからの愛のメッセージと言えます。人々がそのことに気づき自らの内に存在する尊き存在、大地そのものの輝きと繋がることで、新しい世界うれしたのしの世が始まるのです。2018年1月27日(土)に開催される富士浅間木の花祭りではみんなでそんな世界を表現し、僕らは日常をそのように生きています。ここでお祭りの中に登場する金神さまと翁の問答を紹介したいと思います。

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艮の金神と翁の問答              

 
  
伊勢天照皇大神 熊野権現 富士浅間 ところは当初の氏大神。木の花の佐久夜の御庭におわします、金色(こんじき)の尊き姿の御身は、どなた様にてござりましょう。

金神  

この方(ほう)は、艮の金神と申す。
時いよいよ来たれり。この度は、地球(くに)最後の天意転換(たてなおし)。一度に清める神幽顕の三千世界(みちよかい)。 汝らの宇宙(うつ)、光一つ上ぐる仕組み。今の世は「我よし、力よし」の獣の世、蛇の「あやま知」支配する、穢れ(けがれ)逆巻く魔釣りの世。

      

艮の金神とはいかなるお方にてござりましょう

金神
この方(ほう)は、宇宙(うつ)を創りた元つ神。こ度の宇宙(うつ)の天意転換(たてなおし)、始原(はじまり)の、時より決まりてありた事。この方隠れている間、「我よし」「あやま知」逆巻いて、神が息の出来ぬほど、穢れ(けがれ)汚れたこの世界、最後の最後の大仕上げ。この方再び現れたなら、光に穢れ(けがれ)混じること、適わぬ(かなわぬ)世となるべきなり。古き仕組みに変わりたる、新たな仕組み始まれり。
縁ある御魂引き寄せて、掃除洗濯 済みしものより、神の使える器となりて、こ度の尊き天意転換(たてなおし)、汝らご用に使うてやる。


一度はお隠れなされた御身が、再び現れ出る(いでる)と申されるか

金神  

いかにも。この世は逆さまじゃ。どうにもならぬ者どもを、今から改心させるため、世の中ひっくりかえすぞよ。これからは、神人(かみびと)、天地が一体の「弥勒の世」が始まるぞ。
故に皆々様、御魂磨いて下されよ。御魂磨かずおられては、使えるものにはならぬぞよ。
神多くの人民の、御魂目覚めて欲しいのぞ。汝ら皆々大切な、地球(くに)の日月の神々じゃ。
一なる花を二の花へ、二なる花を三なる花へ、大和の御魂を呼び覚まし、腹にまことを据えるのじゃ。
この心、天教山より日の本の、隅々にまで広げるぞ。汝らその役、引き受けられい。

      

引き受けましょう。我らこれより「弥勒の世」、創らんがためありましょう。

金神  

一度は渡したその榊。天の元に供えられい

(金神は後ろを向く。翁が榊の枝を金神の腰に差して退場する。
金神、根付きの榊に持ち替えて、四方でへんべいを踏んだ後、神座に戻る)

皆々様、いよいよ金神動くぞよ。さすればこの世、嬉し嬉し、愉し愉しの世となりて、真(まこと)の世が花開く。皆々笑え、愛し合え。真(まこと)次々現れくるぞ。
あっぱれ、あっぱれ、富士は晴れたり、日本晴れ。
オー、オー、ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト オー。
真(まこと)の神が現れる。神人(かみびと)共に現れる。弥勒の世の幕開けじゃ。
真(まこと)の真釣り(まつり)始まるぞ。新たな時代へ、船出の時じゃ。幕開け祝い踊ろうぞ。




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みんなの中でよみがえり生きていく

それは自他の区別をなくしみんなでみんなを生かし合ううれしたのしの世の中です。

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ちなみに僕は今から18年前の1999年、箱庭でイエスの死と再生を表現していました。中央に池を掘りその中に磔にされたイエスを沈めたのです。そして、その後、四方に様々な世界を表現したのです。

みんなの中でよみがえり生きていく

僕が心掛ける生き方です。

1999年に僕が創った箱庭です。


変遷として見ていく

私たちは自らが美しい響きを響かせ、美しい響きのものを生産し、そして健全に生きていく。それを社会に還元し、社会を健全にしていくのが私たちの生きる本当の目的です。

美しい生産物は、霊的な美しい心によってもたらされます。ならば、収穫感謝とは、物理的に生産をして、それが良い収穫であったかどうかということの前に、それに携わる私たちの心が美しいものであったかどうかを振り返ることです。畑や田んぼ、その他の様々な活動を通じて、この1年間、自らの心が美しい響きを発するものであったかどうか。1年を通して何が自分自身に定着したかということも、収穫なのです。そこを考えなければ、本当の収穫としての意味がないのではないかと思うのです。


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上記は12月16日に行われた収穫感謝祭にていさどんが語った言葉です。この1年で自分自身に何が定着したかということも収穫。そんなことを考えていたら、昨晩、いさどんから木の花ファミリーメンバーに向けてファシリテーションのプレゼンが行われました。これは1ヶ月間の真学校の中で行われる講座であり、今回は内容のチェックを兼ねて行うことになったのです。僕はこのプレゼンを聴くのは初めてですが、今年の2月、真学校ブログに掲載されたものは読んでいました。その時、その内容を受けて僕は以下の文章を書いています。

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湧いてくる感情。それは自然発生するように思えるかもしれませんが、そうではありません。僕たちは瞬間瞬間、自らの感情を生み出しているのです。そこには自らの意志が反映されています。ただそれは瞬間の出来事であり日常の中で繰り返され定着してしまっているので、自らの意志の働きが見えなくなっているだけなのです。

自らが生み出した感情は世界に反映されていきます。今の世界は人々の感情の表れであり、それは簡単に言ってしまえば、利己的なアピールの心と言えます。例えば選挙でも具体的な政策の善し悪しはあまり話題に上らず自らの存在を上手にアピールした議員が当選されていきます。上手にアピールした人が成功する。そのため人々の関心はいかに上手にアピールするかに向います。その結果、実質が伴わなくなり、社会は混乱していくのだと思います。

アピールは自分を他者(世界)から切り離しているから必要になります。アピールによって世界が動いているということはそれだけ人々がバラバラに切り離されているということです。それは2012年12月21日に銀河の冬至を迎えた時代の流れと呼応しています。2012年の冬至まで時代は闇、分断のピークに向って進んでいたのです。そして時代は今、銀河の夜明けを経て光、統合へと向かっています。なので、その時代の流れに身を委ねると自ずと健全になっていけるのです。

 ~ 中略 ~

日々湧いてくる感情。そこには分断の時代の名残がありアピールの心から大きな影響を受けています。そこに気づきそこから自由になることで新しい時代に向けて自らを開いていけます。自らの感情の出どころを見抜き自分を自由にしておく。そうすることで感情も自我の囚われから解放され自由に展開されていきます。僕は今、そんなふうに自分をファシリテートすることを心掛けています。そうすると湧きあがる感情は新鮮なものとなり予測不能なものとなっていきます。それは感情も本来、自然の法則に基づくものであり、自然は人間の理解を超えて変化変容を繰り返すものだからでしょう。


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僕はこの1年間、感情の出どころを観察して来ました。その姿勢は定着してきたのではないかと思っています。そして、観察力を磨き、物事を変遷として見ていくことが出来るようになってきました。それを可能にしたのは、「立脚点のひっくり返し」です。

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世界を自分の狭い想いに閉じ込めるのではなく、自分を世界に対して開いていく。
自分の想いから世界を体験するのではなく、世界の法則から自分を体験していく。

立脚点を僕から世界へと転換させる。僕はひっくり返りました。


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上記は今年の立春正月に書いた文章です。この時から、自分の想いは叶えるものではなく観察の対象となりました。そして想いを離れて変遷として物事を見ることで、自分の想いが変化していくことを知りました。この観察力が今年の僕の収穫です。

僕の中には好き嫌いや善悪の価値判断がありますが、それらは僕が出会った縁の中で育んだものであり絶対的なものではありません。世界には様々な好みや価値基準があります。多種多様な好み、価値判断のどれが正しいかと考えることにはあまり意味がなくて、それらの奥には天の流れがあり、すべては役割としてあるのです。そのことが見えると、分断や対立の奥に流れる大いなる意志を感じ、お互いを理解し合うことが出来るのです。

僕はこの1年間そういう視点を育んできました。だから僕はその視点から自分と世界に働き掛けます。それが僕のファシリテーションです。

ちなみに僕は収穫感謝祭の際、乾杯の音頭を頼まれ、以下のように話しました。天の響きを感受する時、今の世界の対立や分断、争いすら美しい響きとなって昇華し、世界は愛と慈悲で満たされることでしょう。

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いさどんが語った通り、収穫を通して僕たちがしていくことは、この世界をきれいにしていくことだということが確認されました。そのために、美しい響きを発していく。それを日々心がけていく。
美しい響きって何かな、と思うと、やはり天の響きだと思うのです。天の響きが、それぞれが持つ良さを存分に活かし、天の響きを感受していくことで、美しい響きを収穫物を通して世の中に広げていくことができるのだと思います。
天の響きを感受するには、心が空っぽになっていくことが大切です。皆で「乾杯」し、「杯」を「乾」(あ)かすことによって、皆の心も空っぽにして、これからもずっと皆で一緒に、美しい響きを世の中に広げていきたいと思います。

───────── 乾杯!





突破口は気づきにある(4)

叶わぬ願いは自我(エゴ)から生まれていました。自我(エゴ)は自他を分けることで不足感を生み出し、欲しい心を育みますが、それは表面的なもので、僕の奥には宇宙の法則が流れています。そこから生まれるものが僕の本当の望みであり、それはきっとこれからすべて叶っていきます。というのは、そこには決まった形はなくただ探求があるだけだからです。

「こうなって欲しい」とか「ああなって欲しい」とかそういう望みではなく、ただ湧いてきた想いに基づき行動し、その結果から自分を知っていく。そう、それはただの探求なのです。特定の願いを叶えるのではなくただただ探究していくだけ。それが望みだからすべて望みは叶うのです(^-^)


それは法則と共に生きて法則から学ぶ人生です。その法則は宇宙の法則だから、僕は宇宙と共に生きているのです。





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上記は1年前のこの時期に書いた文章です。ただ探求していく。僕はあれから1年探求を続けたことになりますが、探求したものは次の瞬間過去のものとなり、そして経験として蓄積されます。蓄積された経験は生きる力となっていきますが、同時に囚われを生み出すこともあります。人間は経験に基づいて思考しますが、それが「分かった」という思い込みに繋がると世界を狭くしていくのです。いさどんはそのことについて以下のように語ります。

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人間以外に経験をもとにした思考で生きているものはいない。人間以外のものは、その瞬間瞬間を生きているだけなんだよ。それは思考をめぐらさない状態なんだよ。しかし、人間はそこに思考をめぐらすから、思考の上で結論を出そうとし、常にわかるものでありたいと思うんだよ。この世界に存在する人間を含めたすべてのものは、わからない未来に向かって進んでいる。これからの時代を生きる人々にはその謙虚さが必要なんだよ。

今、時代は新しいものを必要としている。古い形骸化したものの中にあり続けるとしたならば、それは自らに真実をもたらすことを拒む自我の汚れのようなもの。ただいつの時代もどんな教えも、今までの教えをすべて壊し、新たな価値観を生み出してきたのだから、今という時はその新しいものが生まれるチャンスなんだよ。

物事の真実を観る眼を育てないといけない。観る眼がないものがどんなに真実だと言っても、それはその目に見えるものの位置でしかない。だからこそ常に最先端を語るものは、その目に見えるものが常に変わり続けなきゃいけないということなんだよ。みえない流れがこの世界の奥に流れている。その流れを感じ取り、それと共に生きていく。それを常に感じて生きていく姿勢が必要なんだよ。それが、これから30世紀に向けて人類が歩む進化の姿だよ。

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変化変容がこの世界の本質であり自分も世界も変化し続けます。ですが、経験を積むことで「分かった」気になると、思考が固定し自分や世界を固定します。それが停滞へと繋がっていくのです。だから常に探求し続けることが大切です。

今、自分が真実だと思っていることは今の自分の位置から見える真実です。評価は視点が変わればいくらでも変化していきます。世界を脅威にさらしている北朝鮮の核・ミサイル実験は、北朝鮮からしたら「帝国主義を叩き潰す正義の核の宝剣」となり国威発揚に使われます。だから評価を求めることにはあまり意味がありません。大切なのは事実に即して考えることで、北朝鮮の核・ミサイル実験で言ったら、それが世界を脅威にさらしていて、歴史を辿れば、それは北朝鮮だけの責任ではなくアメリカや日本、韓国、中国、ロシア、関係する国々みんなで生み出しているということです。善悪という評価を超えて事実に即して考えていけば、出来事の奥を探求していくことが出来ます。そしてそこには時代が生み出す流れがあるのです。それが何かを探求し続けることが突破口となっていきます。

突破口は気づきにある

気づきとは変遷を見ていく姿勢から生まれるものであり、それには自分の立場を離れる必要があります。変化変容が世界の本質だから、出来事も常に変化し続けます。その変遷を見ていき、その奥の流れを感じてそこから表現していく。そうすることでそれぞれの立場を超えて未来に繋がる真実を語ることが出来ます。それは固定した回答を出すことではなくて、未来へ繋がる変化を生み出す探求なのです。

突破口は気づきにある

だから僕はその突破口に向けて探求し続けます。




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