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混沌(4)の中に天の意志(5)を見出す





先日の大人ミーティングにて、カタカムナの「よ」と「ゆ」の思念についてみんなで深める時間を持ちました。「よ」の思念は僕の名前(よしふみ)の中にも含まれていますが、僕は3年前の10月、以下のような文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕の名前、よしふみ「よ()」は「4」であり混沌を表す思念です。

「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、
「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。
「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。

「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れでしょう。

自分の中には混沌がある。

それは確かで、その混沌が「相応しいものになっていく」や「空っぽへのあこがれ」で
描かれているような滞りを時々僕にもたらしてきました。

それは「いやなもの」に感じます。

ですが、思いは満ちた(3)後、混沌(4)の中で広がり、
意志(5)の元、この世界に位置(5)を得るのです。

混沌はこの世界に広がりをもたらすもので、必要なものでもあるのです。

「よ」を名前にいただいた僕は、自らの持つ混沌としっかり向き合い、
この世界に広がりと豊かさをもたらす役割をいただいているのです。

だから僕は混沌を愛する。

そう宣言し、混沌「よ」(4)の中に天の意志「い」(5)を見出し、
それらが描く未来を楽しんでいこうと思います。




☆彡 ☆彡 ☆彡

今、この文章をさらに発展させると、「よしふみ」の「し」は「示し」ですが、小円(〇)の位置は「い」と同じ位置で、同じような意味を持ちます。小円の位置で見ると、「よしふみ」は「4・5・2・3」となります。

よしふみ

混沌(4)を示して(5)震えて(2)満ちる(3)

にもなるし、

混沌(4)の中に示し(5)を見出し、増えて(2)満ちる(3)

にもなりますが、この違いはとても大きなものです。

混沌を示して震えて満ちたトキ、僕は以下のような状態になりました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。

そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。

なんか漫画みたいなバカな話。ε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

僕はそれぐらい自分の感情に翻弄されていました。

それはある意味、極端な精神状態への憧れでもあります。
忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。




☆彡 ☆彡 ☆彡

ですが、混沌の中の天を意志を見出すトキ、みんなで共に暮らし、その大事をこうして発信するようにもなります。どちらに転がる(9)かは紙一重。常に自分を離れ、心を天に向けることが求められています。

「よい」でも同様です。

混沌(4)の中に意志(5)を見出し位置(5)を得るわけですが、混沌(4)がそのまま意志(5)となり位置(5)を得ることもあり得ます。

例えば、今、経済発展は「よい」こととされていますが、それは人々をお金に依存させ、地球環境にも大きな負荷を与えることで世界はどんどん住みにくくなっています。これは混沌、渦巻く欲(4)がそのまま位置(5)を得たためだと思います。

4(混沌)は5(位置)へと進むことで「よい」となりますが、5(位置)へと進む意志(5)がどんなものによって、「よい」がもたらすものも大きく変わります。人々が欲望(4)のままに位置(5)を見出すならば、これからも「よい」とされることが世界に混乱をもたらしていくことでしょう。だから今、人々は自分を離れ、天の意志(5)に自らの位置(5)を見出す必要があるのです。

4+5=9、「9」は飽和安定(8)を超えて転がり出る思念であり、統合(10)という現象化をもたらす思念です。混沌(4)に位置(5)が加わることで、世界は転がり出し(9)、現象化(10)しますが、その要(カナメ)となるものが、意志(5)なのです。

明日、8月6日はアメリカが広島に原爆を投下した日です。大きな被害や悲劇、苦しみをもたらした原爆投下ですが、当時のアメリカ軍は「よい」ことしてそれを行いました。そのためアメリカの中には今でも「原爆投下は必要なことだった」という意見があると言います。それは意志が自らの視点に偏り、全体性を失っている証と言えます。

天に心を向け、天の意志に自らの位置を見出す。それは自分を離れ全体性へと心を開いていくことです。混沌の中に天の意志を見出し、この世界の光(ヒカリ)の一つ(ヒトツ)となっていこうと思っています。






出会う出来事を通して逞しく生きていく

昨年の8月1日、大人ミーティングにてジイジは以下のように話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

人間がお金や物に執着するのは
生きることの本当の意味を失っているからだ。
だから、それは死生観の問題だ。

今の人間は生きることの意味を履き違えている。


☆彡 ☆彡 ☆彡

そして、今年の8月1日、大人ミーティングにてジイジの以下の言葉が紹介されました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の考えで人の話を聴いても、それは自我を育てるだけ。
自分を離れて人の話を聴くトキ、新しいことに出会える。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の考えで人の話を聴かないように。

この言葉は昔からよくジイジに言われていましたが、昔は言われている意味が全然分かりませんでした。ちゃんと理解する必要があると思うから「考えて」聴いているのに、それが違うと言われ、混乱することがありました。ではなぜ、それが違うのかと言ったら「自我を育ててしまう」からです。

出会う出来事に反応し一喜一憂するのが自我です。そこからお金や物への執着も生まれます。自我を育てることは執着をもたらし、それは今の社会の行き詰まりにも繋がっています。

子どもの頃、出会う出来事や人からの話は世界を広げてくれました。新しい知識を得て、知らなかったことを知るようになり、それがそのまま「生きて認識する世界」の広がりに繋がりました。

大人になると、出会う出来事は今までの繰り返しとなり、自分の都合のよい話ばかりを聴くようになります。それは経験によって認識の枠組みが固まっているからであり、自我はその枠組みに基づいて反応し、枠組みを強めていくのです。

人間社会はずっとお互いの自我を育んできました。出来事に一喜一憂しながら、個人個人の幸せを追い求めることで、認識はどんどん凝り固まり、狭くバラバラになっていきました。その結果、お金や物、仕事やレジャー、成功や地位や名誉への執着が生まれ、生きることの本当の意味を失ってしまったのです。

このような中、心身の病や偏った生活習慣などの問題を抱える人が多くなっていますが、木の花ファミリーではそのような人たちに自然療法プログラム(通称:ケア)を提供しています。以下はケアの取り組みの中でジイジが語った言葉です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることもできますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。

~ ~ ~


ここで疑似体験をしてその延長で完璧に自信がつくということはありません。このケアの取り組みは70%、自分の今までのいろいろな癖やなぜこうなったのか、その理由に気が付くことです。それが分かって、その上でそれをどうやって改善し、次の新しい旅立ちに繋げるかということは、実際に新しいところへ踏み出してからです。それで力を身に着けることです。ここで出来ていることはここの環境、様々なサポートの中でのこと。本当の実力ではありません。


本当の実力は、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通して、それをどう捉えて、どう前向きに進んでいくか、そういう中で本当の実力がつき、逞しい力となっていきます。それが生きるということです。


誰も明日の人生を読み解くことは出来ません。明日起きることが予定通りとは限りません。自分の予想を超えたこと、想像を超えた出来事が起きたトキ、その出来事は新しいコトに対する抵抗力を与えてくれます。そう思えば、その出来事は自分を育ててくれる有難い出来事です。そういうふうに物事を前向きに捉えたら、あれが駄目だった、これがこういう理由で駄目なんだということは思わなくなります。生きていれば難しい出来事に出会いますが、それらは一つ一つ向き合うことで自分の力がついて生きる希望となっていくものです。これがジイジのケアに対する考え方です。


行き詰っている人は、今までやり方が不器用だったから出来ない状態となっていますが、それがちゃんと出来るようになったら、その人流のいい人生を歩むことが出来ます。その人流というのは、今までたくさんの人のサポートをしてきたけれども、同じ人はいないからです。新しい事例を情報としてもらいながら、なんどもケア卒業の機会に出会うたびに、ますますこの大事をやらなければならないなと思っています。


今の世の中は行き詰った人たちをたくさん産んでいます。それは世の中にも原因があります。そして、本人たちは生き方が下手なのですが、そういう人たちの力になって、そして健全に生きてもらいます。その仕組みのからくりを世の中にフィードバックすることで世の中をよくするのです。とても今日は希望が湧いている感じです。


未来は常に未知です。まず一歩進めば、自分の考えていることと違うことが起きます。行く前から考え過ぎず、まずは進むことです。自分がどう生きるかは自分の人生の価値を付けること、自分が納得して人生を終われることが大切です。

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新しく出会う出来事を通して、自分を育み、前向きに進んでいく。

ケアの取り組みでは、そのような姿勢を育むことで行き詰った人々が健全になっていきます。それは生きることの本当の意味を取り戻すことにも繋がります。

自分の利益、自分の立場に固執していると、意見の違いは対立や問題ごとに繋がっていきます。そのような中、人々は苦しみ、世界各地で、紛争や戦争、そして政治上の対立が生まれています。

今年の8月1日、人類は1年間で使える地球資源を使い果たしました。今、自分たちが使っている資源は未来の世代から奪っていることになります。「1年分の資源を使い果たす日」をアース・オーバーシュート・デー」と言いますが、この日は年々早まっています。物質的な利益を求め続けた結果、人類は困難な状況を迎えています。

ですが、困難な状況は自分を逞しくしてくれる要素にもなります。そのために必要な態度が自分を離れることであり、そのトキ、出会う出来事や人からの話が新しい世界へと繋がっていくのです。

変化変容がこの世界の本質です。宇宙の始まりから続く変化変容の物語の中で、人は生を受け、それを次へと繋げていくのです。そういう大きな視点の中で自分自身の価値を付けること、それが生きることの本当の意味です。人々が自分の利益や立場を離れ、困難を通して自分たちを逞しくしていったトキ、表面上の違いを超えた真の調和が訪れ、そのトキはきっと地球とも調和した暮らしを営んでいることでしょう。

そんな歩みを自分一人分、しっかりと刻んでいます。

木の花ファミリーのみんなです。




今までの人類の感情を生きている

今日、7月26日はマヤ暦(13の月の暦)の新年です。今日から来年の7月24日までは13の月の暦では「赤い宇宙の月」となるようです。以下、天下泰平ブログ・今日は「時間をはずした日」、そして逆行ラッシュの夏休みより引用です。

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2018726日から2019724日までは「赤い宇宙の月」の年となります。

宇宙は「存在」「持ちこたえる」「越える」
赤い月は「普遍的な水」「清める」「流れ」

というキーワードがあるそうです。

自分自身の枠を超えた大いなる力や潜在能力が発揮される時。

これまで出来なかったこと、怖れていたことにもチャレンジすることによって、新たな自分の一面が表に出て活躍することかと思います。

また「赤い月」は、水の流れや浄化を意味することもあり、水の浄化がいろいろな意味で続く可能性がありますが、1人ひとりの「浄化」もまた、大きなテーマとなる1年だそうで、不要なものは次々に手放すこととなりそうです。

その中で、水のように流れる、委ねて進むことも求められます。

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そんな節目の日、木の花ファミリーでは、朝6時に宮ノ下広場に集まり、カタカムナを奏上しました。そして、ジイジから語られる言葉をみんなで聴きました。その話を僕の中で咀嚼しまとめると以下のようになります。

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生きているとこの世界の刺激を味わうことになり、そこから囚われや欲が生まれます。生きることが楽になってきたこの社会の中で、刺激が増大し、そして自我が膨らんでいきました。その自我の不調和な響きが天災となって表れているように思えます。

今年の夏はとても暑い日々が続いていますが、来年の夏はおそらくもっと暑くなります。どんどん生きるのが厳しい時代となっていますが、それは自我のそぎ落としをもたらします。生きるのが精一杯の時代は、みんなで力を合わせ現実と向き合っていました。そこに個人的欲望の発生する余地はありません。今日の天災、そして政治や経済の混乱は、文明の崩壊を意味します。それはネガティブにも思えますが、今の文明によって膨らんだ自我のそぎ落としでもあるのです。

この世界で生きることの基軸は自分ではなく太陽にあります。そして太陽は銀河を基軸にしています。生きることの基軸は銀河にある。そのことが分かると今の世界の混乱も天体の動きと共にあることが見えてきます。

僕らは過去の響きを受け継ぐことで生を受け、その響きを未来へと繋げていきます。今、浮き上がる想いや感情は人類の歴史の中にあり、それを浄化することで、未来に美しい響きを受け渡すことが出来るのです。

自分を離れ、銀河を基軸に自分を導いて生きていく。そんなふうに生きたトキ、自分を誇れてかっこいいなと思えます。そしてそれは確実に未来へと繫がっていきます。

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自分を離れることは今の自分の枠を超えることです。銀河という大いなる基軸に自分を委ね、常に自分の枠を超え続けること。その中で自分の想いや感情を浄化し、それを未来へと繋げていこうと思っています。

ジイジと僕と熊野から来た神代杉(マヤの新年に宮ノ下広場にて)

改善のために努力しつつも改善を求めない(2)

昨晩の大人ミーティングでみかちゃんが瞑想やヨガをするとエゴが強まるという記事を読んだと話してくれた。そこでネットを検索すると以下の記事が見つかりました。

瞑想やヨガをするとエゴが強まるという研究結果(ドイツ研究)

この記事では瞑想やヨガの実践者の自己高揚感が高まっているという実験結果を紹介して、そこから上記の可能性を示唆しているのですが、そもそも瞑想やヨガの実践者がやり方を間違えている可能性にも触れています。それはこんなふうに表現されています。

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被験者がヨガや瞑想のやり方を間違っているという可能性だ。

被験者は全員ドイツで募集されたが、多くの学者は西洋人の仏教徒は無我を目指す実践ができていないと考察している。
ヨガや瞑想は本来自我を静める方法をとして意図されたものだったが、非仏教徒の実践者はこうした活動を自己の向上や不安を解消する目的で行なっている。
 
ヨガが自我を弱めるどころか強めるという意見は、ブランド物のスポーツウェアを着込んでヨガに勤しむいかにも聖人ぶった人間に出会ったことがある人にとっては、意外でも何でもないかもしれない。
しかし今回の研究は、仏教の教え自体が自我を拡大させるかどうかまでは調べていない。
ヨガだけでは自我を解消するために十分ではないのかもしれないし、たった1本の心理学の研究で数千年におよぶ仏教の教えと実践を否定できるものでもない。


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ここにはご利益主義の弊害が表現されています。世界には多くの宗教が存在しますが、平和のための宗教が争いを生み出してきた歴史があります。それは多くの人が自らの利益のために信仰することで、利己心を強めてきたからなのだと思います。

自分の宗教が一番。

そういう言葉を耳にすることがありますが、その言葉の奥には傲慢さや利己心が伺えます。そしてそれは宗教の本来の教えとは反することなのだと思います。

どんな立派な教えも、それを聴くものの中に利己心があれば、エゴで汚されていきます。

昨年、私たちに効果のあるがん治療を紹介してくれた方がいました。その方にジイジ(当時はいさどん)は以下のように返信しました。

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素晴らしい存在がいることをシェアしてくれてありがとう。ただ、わたしたちにとっては長生きすることや健康であることが最大の目的ではありません。極端なことを言えば、自分が望むように生きられることが一番の目的ではないのです。たとえ寿命が短くても、病気であっても、それはこの世界の多様性であり、そのことによって何かを失うわけではありません。つまり、病気であることから学び、寿命をもらうことによって学び、そして存在しているのですから、受け入れられないことは何もないのです。それが、この世界の本来の受け取り方です。ですから、学び受け取る姿勢がありさえすれば、すべてはこの世界の実態そのものなのです。それは、何でもいいということです。

その手法が画期的ですばらしいと思うということは、現状を改善したいと思っているからです。僕が常に皆に伝えていることは、そういった「~したい」「~になりたい」という願望を消しなさいということです。そして与えられるがままに存在しなさい、ということです。すべてを受け入れれば、己から解放されます。僕はそのことが伝えたいだけなのです。

今の姿のあなたがすべてではないのですから、いくらでも変化・変容・変態を繰り返すことが可能です。そして、それが宇宙の実相なのです。


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この言葉には僕たちの生きる精神が端的に表現されています。己を手放して、ただ出会う出来事をいただくことで自分の想像をはるかに超えた世界が展開します。そのことを通して自らの枠を超えて、世界と自分についての学びを深めていくトキ、多様性の中ですべての存在が尊重されていくのです。

そこには「こうでなければならない」「こうあって欲しい」という心はありません。なんでも構わない。ということは手法や技法を取り入れてもいいのです。僕たちが問題にしているのは手法や技法そのものではなく、それらがもたらす人の心の動きなのです。ご利益主義に基づいて手法や技法に出会うと、その手法を絶対視したり、それに依存する心が強まっていきます。その時、人の心は目覚めから遠ざかり、自分の成長や不安の解消が世界のすべてとなっていきます。それは利己的な心となり、結果、世界に争いを生み出すかもしれません。ただ淡々と必要なものとして出会った手法や技法を取り入れるならば、それはきっと相応しい恵みを人間に与えてくれるのだと思います。

ご利益主義、結果だけを求める心の弊害がこの世界には溢れています。

先日、サッカーのワールドカップで日本代表は決勝トーナメントへの進出を決めました。グループリーグ最終戦で日本は0-1で負けているのも関わらず、終盤消極的なパスワークで時間稼ぎをしました。それは結果を求めての選択ですが、その行為がこの世界に何をもたらすのか、そういうことに想いが至っていたとは思えません。

結果がすべて。

日本代表の選択はそんなメッセージを世界にもたらしますが、結果だけを求める行為はあの試合のように豊かなものではありません。結果に囚われず一生懸命に戦った心を称えあう。そういう心を育むことが、戦いから平和を生み、挫折者を生まずみんなが尊重される世界に繋がるのだと思います。

どんなに素晴らしい教えも、どんなに素晴らしい技法や手法も、そしてどんな素晴らしい出来事も、ご利益主義や結果主義が貧しいものにしていきます。それが今の人間社会なのだと思います。己を手放してただ出会う出来事をいただくトキ、この世界は豊かな恵みを与えてくれます。僕はそんな日々を木の花ファミリーのみんなと送っています。

合同会社ロータスランドの決算を終えてロータスランドで食事をしました。





光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
☆彡 ☆彡 ☆彡
鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
☆彡 ☆彡 ☆彡
では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






宇宙時間を生きる(2)

6月21日19時07分、夏至です。夏至は光のピークのトキですが、梅雨の期間であるため雨降りのことが多くなります。光(火)と雨(水)、これは陰陽の統合を表しているのだと思えました。一年草(稲、トウモロコシ、大豆、コスモス、菊、朝顔、麻など)の短日植物はここから光の量が少なくなることを感じて、成長期から開花期へと変容をはじめていきますが(地球暦サイトより)、植物は陰陽の統合を経て実りへと向かっていくのでしょう。

天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から2年が経過したことになります。銀河の夜明けが持つ意味については、以下の天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」に明確に示されています。まずはその中に書かれている先住民の長老の話を引用します。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』

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過去から未来へとずっと続いていく宇宙時間。そのために必要なことは「真の女性性をよみがえらせる」ことです。以下、再び泰平さんの文章を引用します。

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真の女性性とは
『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

かつて、「死」さえも天が統治して導いてくれているということを感謝と共に受け入れていた時代がありました。身体を持った「生」の時間と、身体から離れた「死」という時間を、行ったり来たりすることは、"悠久の宇宙時間"の中に在る魂にとっては何も怖いことではなかったのです。


しかし、「生」にあった時、「出逢った大切な人・時間と共にいつまでも在りたい」という当たり前の欲求によって、"宇宙時間"から自分達のための"人間(物質)時間"への執着が生まれたといいます。


やがて"人間時間"の中でのサバイバルを目的とした「男性性」が暴走を始めます。自分たちのやり方で、競争・支配(コントロール)の価値観に基づき、自分たちのルールと科学に傾倒していくうちに、いつしか私たちは天(宇宙に委ねていく在り方)から離れました。


『天から離れたということは、内宇宙と外宇宙が分離し共振性が損なわれたということ。』


私たちの身体の中に存在する内宇宙。それは微生物たちも含めた世界であり各々の心の周波数が創り出す世界です。その内宇宙と、地球と同期する外の微生物たちが創り出す世界(外宇宙)は、本来は統合していて共に響き合っていました。


宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

自分の思考や感情は自分自身の体験や特徴、自我に縛られています。自我は自分の都合を追い求めますが、自分の都合を追い求めることは自分の可能性を潰すことでもあり、それを環境や他者のせいにして過ごすようになります。出来ないという諦め、世の中を嘆き社会を責める気持ち、それらの奥に自分の都合を求める心がないかを確認する必要があるのです。

認めたくない自分、感じたくない感情と向き合うことは自分を生かすことに繋がり、自分が輝き、それが社会に広がり社会も輝いていきます。ひふみの「み」は実りです。全体と個人が統合することで社会全体も一人ひとりの人生も実りのトキを迎えます。

個々の欲望を追い求めた結果、この世界の環境は破壊され、ゴミが溢れています。戦争や紛争、テロはなくならず、その結果、多くの命が犠牲となっています。多くの人が自分の都合を追い求めることで世界や自分を不毛なものとして来ましたが、それを実りへと転換するトキが来ているのです。



123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。

宇宙時間を生きる。

そのために僕は自分の感情ではなく天の道理に基づいて行動します。感情は観察する対象であり、世界は自分の願いを叶えるためにあるのではなく、この世界を輝かせるために自分はあります。恵みは世界の輝きの中でいただくものであり、だからこそ自分の想像を超えて僕を満たしていくのです。

僕は今、宇宙時間を生きています。


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