恵みいただきます(2)

昨晩の大人ミーティングで昨年の立春正月に書いた「僕はひっくり返った」をシェアしました。「ひっくり返り」とは立脚点を自分の側から世界の側へと転換することであり、自分の側から世界を見て世界を評価するのではなく、世界の側から自分を見て自分を正していく、そんなふうに生きていくことを意味します。

この文章は僕にとってとても大きな転機となるもので、それをあらためてみんなにシェアすることでその姿勢を自分に刻み込みました。

自分の側から世界を見る。

それが多く人々の生きる姿勢だと思っています。それで自分とは何か?と思ったトキ、僕の中には「天上天下唯我独尊」と「我思う、故に、我あり」の2つの言葉が思い浮かびます。そして、これらを僕の言葉で説明すると以下のようになります。

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天上天下唯我独尊


これはお釈迦さまの有名な言葉です。すべてが繋がりあって存在するこの世界では、他が存在しなければ自分は存在しません。
だけれども、それを認識するのは「我」なのです。そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。


ただ我だけを尊ぶ。

だけれどもその「我」は宇宙のすべてを含んでいて、すべてのものに支えらえているのです。

君あり、故に我あり。 君がいるから僕がいる。

それが、お釈迦さまが尊ぶ「我」です。

そして時代は下って・・・



我思う、故に、我あり。(コギト・エルゴ・スム)



私が存在するのは、私が思考しているから。

自分の存在基盤を自分の思考に求めたこのデカルトの言葉は、自我による自然からの独立宣言で、他者の存在なしでも自分は存在出来るという幻想を生み出しました。

自然から独立した自我は、自然をただの物質と捉え、切り刻み利用していきます。それは自我による可能性や欲の追求で、その結果、物質文明は発展しますが、自然環境は限界を迎え、人々は離れ離れとなり、自我は孤独になっていきました。


孤独となった自我は、不足感を持ち、それを埋め合わせよう努力します。不安から必要以上に求めるようにもなります。それは自然から離れた自我の生み出す矛盾です。矛盾した努力は天の法から外れ、人が努力すればするほど社会は混乱していったのです。


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近代以降、自我は「他者の存在なしで自分が存在出来る」という幻想を持つようになりました。そしてそれを基盤にして世界を認識しています。幻想を基盤に世界を認識しているため、すべての認識は自分視点の幻想となっていきます。

自分の側から世界を見て、世界を評価し、世界に働きかける。

そのトキ見える世界は幻想です。幻想が膨らみ一人ひとりの視点に「差」が広がり世界はどんどんバラバラとなり混乱へと至ります。それが現代の多くの人々の認識であり、そんな中、人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しているのです。だからお釈迦様は以下のように語ります。

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悟るということは「差を取る」ということ。何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。

そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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天上天下唯我独尊と宣言したお釈迦様は自分をなくすことの大切さを語っています。それは自我を持つことで世界を自らの秤で図り世界と自分に差が出来るから。そしてその差が幻想であり世界をバラバラにしていくからです。自我が与えられこの世界を認識出来るようになったことは天が人間に与えた「恵み」です。その「恵み」を最大限に生かし世界の実相を認識するために自分をなくし「絶対有」を目指していくのです。

人は幻想に惹かれ、幻想を求め、幻想に奔走され、幻想で苦労しています。ですが、なかなかその幻想を手放すことが出来ません。それはその幻想がそのトキの自分にとっての「恵み」であり、そこに様々な思いや感情そして記憶がセットになっているからです。恵みと認識についてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。



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恵み(めぐみ)

カタカムナで言うと、「見えないところに大きな広がりを持つ芽が自由に満ちている」となりますが、「まわりてめくる=自転公転」の中で公転を意味する「めくる」にも繋がる言葉に思えます。つまりそれは新しいところへと動き続けるということです。

多くの人が今の恵み(認識)に執着するものですが、恵みとは本来いただくものです。それは古いものを手放し常に新しいものと出会っていくということです。なぜなら宇宙の本質は変化変容にあるからです。

だから世界の側から自分を見て、自分を正していくのです。変化変容を繰り返すのがこの世界です。その世界から自分を見ることで、世界に合わせて自分を変化させていくのです。その繰り返しの中で認識を広げ「絶対有」を目指すこと。それが僕の歩む道です。

木の花ファミリーのみんなです。


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