正直に誠実に自分の役割をこなす

人と自然が共にある生き方を学びたい、と、お母さんと一緒に木の花ファミリーにやってきた台湾人のビリーさん。シルク・ド・ソレイユのダンサーでもある彼は、昨夜、富士浅間木の花祭りのために用意された和太鼓を使って見事に舞い踊り、まるで祭り前の「神寄せ」がなされたかのようでした。
今日の午前中はヨガ教室を開き、午後はリゾットを作ってみんなに振る舞い、夜は木の花祭りのハイライトである「四ツ舞」の稽古に参加してみんなで大盛り上がり。稽古後に、こんな感想を教えてくれました。
  
「僕はダンサーとして世界中の様々なダンスを見てきたけれど、コミュニティのダンスほど大切で、素晴らしいものを見たことがない。これはダンスを超えるもの。
木の花祭りでは、世界中の水が集まって釜の中でひとつになることで、エネルギーが大きくなっていく。同じように、その周りを舞い踊る人々も、みんなで舞い踊って、エネルギーがどんどん大きくなっていく。踊りに参加していないおばあさん達も、心は参加していて、この場を支えている。音楽からも、おばあさん達からも、そのエネルギーを感じた。
今、世界の人々は、まるで水がいっぱいに入ったコップのよう。自分のコップがいっぱいで、もうそれ以上入る余地がない。僕が木の花ファミリーで学んだことは、みんながからっぽになっていくこと。からっぽだから、ここには世界が入ってくる。」
 
祭りまであと10日。ビリーさんとお母さんは明日の夜明け前に台湾へと旅立ちますが、きっと祭りの日も、心は共に舞い踊っていることでしょう。(ともこ)


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上記は先日木の花ファミリーを訪問して下さった台湾人のビリーさんとの交流を描いたものですが、このようなお客様にも恵まれ、今、木の花ファミリーでは全体が富士浅間木の花祭りへ向けて軽やかに大事な暮らしを営んでいます。

そんな中、僕は木の花ファミリーを批判する人々の言葉と向き合い、体調も崩し、重たい気持ちで過ごしていました。特に背中と胸の痛みはひどく、歩くだけでも振動が響き、痛みで眠れない日もあり、祭りで舞うことが出来ないのでは?という不安がよぎり、全体の流れと自分の違いを強く感じ「いけない」と思い苦しんでいました。そういう自分と向き合いながらブログを綴り少しずつ軽さを取り戻していって、そして「何ももらっていなくても」という言葉、そして記事へと繋がり、僕はこの記事を大人ミーティングでシェアしました。みんなにシェアしたのはこの記事が大事な話だというフィードバックを貰ったからなのですが、重たい気持ちを出発点として生まれたこの記事が軽やかな全体の中で大事な話として共有されたことに不思議な感覚を持ちました。なにせ記事を書いた時は、あくまで自分と向き合う中で出て来た言葉であり、全体の流れには沿っていないと感じていたのです。それが全体に大事な話として共有され、そして不思議とあれだけ痛かった背中と胸の痛みがなくなりました。

これで祭りで舞うことが出来る!

それもみんなと同じ気持ち、そして軽やかさで。それが確信となりました。

僕にとってこの経験はとても大きなものとなりました。自分が全体の流れと違うと感じていたのですが、僕は好き好んで木の花を批判する人々の言葉に向き合っていたのではありません。役割としてこの時期に一度しっかりと向き合っておく必要があると思いそうしたのです。ですがそれが全体の流れと違っているように感じて苦しくなりました。でも、そうではないのです。流れはもっと多層的になっていて、メインとなる流れだけでなく常に潜在している流れがいくつもあって、きっとそれがこの世界に厚みと彩りを与えてくれているのです。重たい気持ちが軽やかな全体の中で生かされていくこともあれば、今現在、次の流れとして潜在している流れもありそれも大切なものと言えます。だから正直に誠実に自分の役割をこなしていくだけなのです。それが目に見える目立った流れとは違っているように感じても、全体性を意識していれば、きっといつかどこかでそれは生かされていきます。目に見える全体の流れと違うと感じると落ち込んだり、被害的になったり、ふて腐れたりする気持ちも生じますが、こういう気持ちが本来生かされるはずのものを殺してしまうのです。そのことを強く感じました。

ところで、富士浅間木の花祭りは地球の神様である国之常立神(クニノトコタチ)の復活を描いたお祭りですが、かつていさどんは国之常立神について以下のように語っています。

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インテグラル・ヨーガの創始者でもあったオーロビンドのアシュラムに行った時のこと。いさどんは初めて、オーロビンドの魂を感じました。
その魂はいさどんの視線を誘導し、そこにある様々なものに目を向けさせました。植物の葉っぱ、大理石の柱、壁の傷。その視線と共に、いさどんの指も、その一つひとつを指さしていました。そしてひとつ指さすごとに、「そこに私はいる」「そこにも私はいる」「どこにでも私はいる」という言葉が降りてくるのです。それは全てに遍満している存在なのだ、といさどんが思うと、「全てに遍満しているということは、無である」という言葉が降りてきました。全てに遍満しているということは、全てが自分であり、自分(自我の特定)はないということ。その時にいさどんは、これは地球の魂ではないかと直感しました。シュリ・オーロビンドの魂は、地球神・国之常立大神、つまり艮の金神の魂なのです。
オーロビンドの魂は言いました。「私を知っているであろう。今まであなたは私と一緒にいた。その私にあなたは会いに来た。」そこでいさどんは尋ねました。「あなたは私の中においでになりますね?」オーロビンドは答えました。「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる。




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艮の金神、国之常立神の復活は、世の中のひっくり返しを意味し、それは立脚点の転換でもあります。自分の側から世界を見て、自分の価値観で世界を評価してきたのが今までだとしたら、これからは世界の側から自分を見て自分を正していくのです。世界というみんなが共通する地点に立って学びを共有し一つになっていきます。

その世界とは?

地球神・国之常立神は「私は、あなたの内にも外にも、どこにもいる」「全てに遍満しているということは、無である」と言います。それはどこにも固定されないものです。だから世界という視点も固定をしてしまったら、それは気づかぬうちに自我の視点となっていくのです。

例えば最近の僕には、富士浅間木の花祭りに向けて軽やかに進む世界が見えていました。そしてそれにそぐわない自分を感じていました。ですが、それは表面的な見方であり、その奥には様々な流れがあってそのすべてが全体を生み出しています。

軽やかな世界とそれにそぐわない自分。

その視点は「そぐわない自分」を際立たせるものともいえ、それに固定してしまったら、そぐわないものとしての自分が強化されていくのです。それは世界から自らを分け際立たせる自我の動きです。

世界の側から自分を見る。

その世界とは無限に広がり変化変容を繰り返すもので自分の視点で捉えきれるものではありません。だから固定せずに常に変遷として見ていく必要があるのです。そして、与えられた役割をこなしながら「内にも外にも、どこにもいる」国之常立神の視点へと想いを馳せ自分をからっぽにしていこうと思っています。その先にあるのは、生まれ清まり舞い踊るうれしたのしの世の中です(^ー^)


ビリーと木の花ファミリーのみんな(ヨガ教室後)







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