差が融合され高次へと導かれていく

2018年9月6日の富士山です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく」にて、僕は「ある出来事に傷つき怒った」と書きましたが、これは正確な表現ではなくて、僕はある出来事で怒り、その怒りがあまりに大きかったので、その怒りよって自分で自分を傷つけたのです。自分のコントロールを超えた怒りは周りだけではなく自分自身も傷つけます。僕はそんなふうに思っています。

この怒りは自分のコントロールを超えていて、思いもよらないものでした。そのトキの状況を冷静に見れば、それほど怒ることではありません。ですが、自分が怒ったというのが事実です。

思いもよらないことが起きて、それが自分に相応しく与えられて、その種が自分の中にあることを思ったトキ、僕は自分のことを分かっていないのだなぁということを思います。きっと本当の意味で完全に自分のことを分かることはなくて、現象を通して見ていくだけなのだと思いました。

種は時間とともに成長して芽吹き、現象となって表れます。ただその自然の流れを受け入れ、そしてそこから学び、新たな種を撒いていく。生きることはただそれだけなのだと思いました。その繰り返し、循環の中で僕は自然と同じように変化していきます。

僕の怒りは自分にとって思いもよらないもので自分を傷つけましたが、相手との絆を深めるきっかけともなりました。本当に何がどうなるかは分からないものです。

話は変わって。

僕は2年前の9月6日、「自分ごと」から全体性へと至る道というブログを書いています。このブログは僕にとって一つの到達点となっているのですが、そこでは以下のように表現しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕はずっと意識の関心が自分に向いていることが「自分ごと」だと思っていましたが、この認識は正確ではありませんでした。

この世界で自分を最大限に生かすために、自分を正確に知っていく。

そんなふうに自分に関心を向けるならば、それは「自分ごと」ではなく、世界のことであり全体性へと至る行動となるのです。その一方、途上国の支援など社会貢献と言われる活動をしていたとしても、それが自分都合になってしまっていたら、その活動は「自分ごと」なのです。

活動の動機をしっかりと観ることが大切です。

例えば、ODA(政府開発援助)ですが、本来、途上国のための援助のはずが、日本企業の利益に繋がり、途上国に累積債務と環境破壊をもたらす事例もあります(※Wikipedia「日本のODAの問題点」参照)。このような活動は決して全体のことを思った行動とは言えません。社会貢献活動を利用して日本は「自分ごと」で動いていたのです。しかも日本全体ではなく、一握りの人の利益のためであり、極めて「自分ごと」と言えます。

 ~ 中略 ~


今、この世界は「自分ごと」の集まりで動いているのです。

宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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当時の僕は「自分の希望を追い求める」と書いていました。それは「自分の意図を持つ」ということであり、自分の意図を通して天と対話していこうと思っていました。今の僕は「意図を手放していこう」と思っています。意図を手放して、意図していないことを通して天の想いを知っていこうと思っています。

意図は糸。つなぎ合わせるものです。「イト」をカタカムナで見ると、「位置が統合する」となりますが、「位置(イチ)」の持っているエネルギーには「(差)サ」があります。位置の持つエネルギーの差が統合(融合)され高次へと導かれていく。そんな役割をするのが、「イト」なのだと思います。

意図が本来の役割、差を融合し高次へと導くエネルギーを発揮するには、他に対して開かれている必要があります。だから僕は意図を手放し他へと解き放っていきます。そして意図していないことの奥に大いなるものの意図を感じて、それと融合していくのです。

そのトキ、表現される世界はきっと、善なる愛なる調和の世界です。

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