傷と怒りを愛と調和に変換していく

木の花ファミリーでは今、木の花ファミリー憲章の改定に向けて検討を行っています。今、世界観概要についてはほぼ改定案が出来上がっていますが、今まで世界観概要に記載されていた以下の文章は、世界観・心磨きという項目を作成し、そこに使おうということになっています。

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「想い」はあらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和から成ります。これは自然界から教えてもらえる事実です。自然界では、お互いの存在が生かしあっています。これは利他の精神の顕れです。善意により繋がり、愛が生まれ、愛により絆が生まれ、調和をもたらしているのです。悪、醜、偽、欲、貧など、この世でマイナスの価値を与えられている事柄も、すべてはこの「想い」、善意と愛と調和から生まれています。「想い」に立ち返れば、すべてはひとつなのです。

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人間は一人ひとり「想い」を持って暮らしていますが、その「想い」は、人間の自我、「自分」を優先し、他から区別する心から生まれています。自他の区別から生まれた一人ひとり「想い」がこの世界で響き合い、様々な現象を生み出しているのです。ですが、すべての「想い」は元々一つであり、元に立ち返れば、あらゆる価値判断を超えた善意と愛、そして調和へと至るのです。昨晩の大人ミーティングでジイジは上記の文章に触れて以下のように語りました。

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これは壮大なことを語っているように感じるかもしれませんが、日常のことを語っています。普段の些細な出来事をこのような意識で振り返ることが大切です。そして、被害者のように感じる出来事に出会った際も、そういう出来事に出会う因縁があるということです。そういうことを認識すれば、すべて善意と愛と調和の表れで、いつでも謙虚に生きることが出来ます。

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元の「想い」は一つ。そこから今の因縁を生み出している自分に想いを馳せれば、すべての出来事の背後に善意を感じることが出来ます。すると他者と繋がり愛が生まれ、調和を表現することが出来るのです。日常どれだけそのことを意識出来るか、それが肝心なのだと思いました。

別のところでジイジは以下のようにも語っています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。

その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。


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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。

僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。

木の花ファミリーのみんな@稲刈り神事です。


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