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心を磨くこと、全体性を生きることは、煩悩をなしにすることではないのだと思います。煩悩と向き合うことでそれを全体性の中で生かしていくこと。その努力が自分の望みを全体の望みとし、自分としてはそれがいらなくなるのです。僕はそこへと向かって歩みます。
煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない。
そんな言葉が浮かんできました。それは、
平和のために努力をするけれども平和を求めない。
という姿勢ともなります。
人類は長らく平和を求めて争ってきました。それは求めている平和が、自分都合のものであったからで、平和を求めることが平和のための努力にはならなかったのです。煩悩も同じで、煩悩を求めると、それは自分都合のものとなり、きっとこの世界に争いや分断を生み出します。だけれども、求めることなく煩悩のために努力をすることは、全体の中で実現させることであり、それは全体性、そして平和や調和へと繋がっていきます。
煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない
そんなふうに生きることで、自分オリジナルの生の答を見出していこうと思っています。
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ここで煩悩のための努力をするのは誰かと言ったら、煩悩を離れて客観的視点を育んできた自分です。客観的な視点から自らの煩悩を眺め、煩悩を生かしていくのです。僕は煩悩を離れ、価値を積み上がることで、煩悩を抱える自分と価値を積み上げてきた自分という二面性を生み出してきましたが、この二面性も、煩悩を離れた客観的視点によって煩悩を導くことで生かされていきます。そしてきっとこれから僕の二面性は統合されていきます。
マワリテメクル
これは自転公転の二面性を表している言葉ですが、二面性を表す「テ」を経ることで、新しい「メ」が生まれ、自由を維持している(「クル」)というようにも読めます。
二面性ということで言えば、
煩悩をなしにするのでもなく煩悩に囚われるのでもなく
そんな姿勢が大切になると思っていますが、ここでジイジが昨年、流れについて語った言葉を思い出しました。それはこんな感じの言葉です。
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そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。
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大切なのは、流れを観て天の意志を探っていくことです。だから「煩悩のために努力をする」とは、煩悩を満たすための努力ではなく、それが自分のもとにやってきた意味、天の意向を煩悩と向き合う中で見出すことなのです。
今、社会は様々な矛盾や混乱に満ちていますが、それは人間が自らの煩悩を満たそうとしてきた結果とも言えます。それも大きな流れの中にあって、銀河の夜明けという天体の動きにもそれは表されています。ですが、煩悩を満たすことばかりを考えていたら、そのことは見えてきません。煩悩を離れ、煩悩がもたらすものを流れの中で見ていくことで、天の意向を知っていく。その時、人類がこの地上に降ろされた意味を見出せるのだと思います。だから僕は自分一人分、そんなふうに生きていきます。
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