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あれから3年、今の僕の到達点。

10月1日、台風一過の富士山です。

頭では「これが大事」と分かっていても、感情的になるとそれが吹っ飛んでしまい投げ出してしまう。そしてまた冷静になったトキに後悔する。

昨日、ジイジとそんな人についての話をしました。そして、そんな話をしていて、昔の自分と重なり、2015年10月2日の大人ミーティングにて、ジイジ(当時はいさどん)が僕に語りかけた言葉を思い出しました。この日、僕は完全に壊れていて、大人ミーティングでは、そんな僕の話題となり話を振られましたが、僕は話すことを断りました。以下はそんな僕に向けてのジイジの言葉です。


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話すことがないというのはあなたの都合であって、そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。

今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、それをやらないといつまでも超えることは出来ません。今、何をやれという具体的なことは何も言いません。ですが、あなたのその姿勢では問題です。きちんと向き合い超えていく。それが覚悟というものです。一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。ですが、それは本当は逆なのです。日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。このあなたの本質が変わっていないのは、覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。

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上記の言葉を受けて、僕はムキになって「心は見ていく」と発言し続けました。それは完全に反発と言えるもので、みんながそんな僕を制止した後、ジイジは以下のように語りだしました。

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冷静に見ていくというところで、なんでそういう反応になるのか?そういう反応もしっかりとチェックしていかなければならないのです。

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。それは矛盾を創ります。そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。そして、常に問題を意識して生きるのです。毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

木の花ファミリーのようなみんなで創っている場所、これはある意味、組織みたいに見えます。そうすると、そこに共鳴出来ない不調和な状態にいる人にとっては、この組織みたいなものが個人を締め付けているように感じます。

だけれども、ここでやっていることは個人の質を高めることによって、みんなで目的を達成しようという投げかけをしているだけで、締め付けをしているわけではなくて、あなたにそのことを託し、そして同時にあなたの価値を上げようとしているのです。
その時に、日頃、語っていたり、みんなで確認し合っていたりすることをぶち壊すということは、ここ全体に対して逆風になるし、自分の価値を下げることにもなります。

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。ところが、僕にはもう一つの目線がありました。それも強制的に示される目線です。そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、理に適った方に行かなければなりません。そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。理に適った方を選んでは自分を否定していく。その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。自分で自分を本当の意味で認めることが出来るのです。認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、それはすごいバカなことをやっているのです。それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。そこまでやるんだ。その想いが自分を強くしてくれます。なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。


※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

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あれから丸3年が経ちました。僕はこの3年間、自分の感情と向き合い、感情を見通してきました。このブログはそういう自分の成長の記録とも言えます。最近、「なかのんはもう自我を超えていますよね」なんて言ってくる人にも出会いましたが、そういう人には以下のように答えています。

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自我は浮かんでは消える波のようなもので、それは生きている限りずっと続くもの。平静なトキに大丈夫と思っていても、波が来たトキにどうなるかは分からない。未来は未知。それが宇宙の法則だから「先のことは分からない」というのが本当だと思う。

確かに波を乗りこなしてきた自負はあるし、自信もつけているけれども、これから先、今まで経験したことがない波に出会うこともあり得るから。そしてその波に飲み込まれないとも限らない。

まぁ分からないよね。

でもこれは恐れているわけではなくて、飲み込まれたら飲み込まれた状態から自分を取り戻し、そこからその感情の波を見通していくだけ。だから何でもいいんだけれどもね。

とにかく自我は「これで超えた」というものではなくて、絶えず向き合う必要があるもので、それを通して学びを深めていくものだと思っている。そしてどんな波に出会ったとしてもそれを学びに変えていこうと思っている。

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心の道を歩むとは、自分の感情を超え続けることだと思っています。浮かんでは消える感情の波から離れて、自分を見通すこと。そして、自分の感情を他者の感情と同じに扱っていくこと。それが客観性への道であり、これからもずっと僕が歩み続ける道です。

2015年10月2日、当時の僕は自分の想いをとことん追求することを選んでいました。そしてその結果、壊れていきました。それは一つの決断ではありましたが、これは心の道ではありません。心の道は未知なるもの。想いは追求するものではなく手放すものです。心の道を歩む覚悟とは、自らの感情を離れる覚悟であり、想いを手放す覚悟です。

かくご

カタカムナで見ると、宇宙最極小微粒子である「カ」が自由に転がり出る(9)こと。転がり出る先は統合(10)であり、それは現象化を意味します。そして「カクゴ」と「コ」に濁点がついているのは、自我の濁りであり彩りです。覚悟は各人に委ねられているのです。そして、僕の覚悟は心の道、想いを手放すことによって生まれる現象化、それをいただくことが心の道を歩むということです。僕はこれからもずっとその未知なる道を歩んでいきます。



光を感じながら光を求めない

牡羊座満月です(^-^)

9月19日、韓国の文在寅大統領は、北朝鮮の平壌にて15万人の平壌市民を前に約7分間の演説を行いました。その内容をここに転載したいと思います。

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平壌市民の皆さん。
平壌で皆さんにお会いでき本当に嬉しいです。南の大統領として金正恩国務委員長のご紹介で皆さんにご挨拶することになったのですから、その感激を言葉で表すことはできません。

皆さん。
私たちはこのように、新しい時代を作っています。

同胞の皆さん。
金正恩委員長と私は、4月27日に板門店で会い、熱い抱擁を交わしました。

両首脳は、朝鮮半島においてもはや戦争はなく、新しい平和の時代が開かれたことを、8000万の私たち同胞と全世界に闡明しました。

また、私たち民族の運命は私たち自身が決定するという、民族自主の原則を確認しました。南北関係を全面的かつ画期的に発展させ、断絶した民族の血脈をつなぎ、共同繁栄と自主統一を早めることを固く約束しました。

そして今年の秋、文在寅大統領は、こうして平壌を訪問することになりました。

平壌市民の皆さん、愛する同胞の皆さん!
金正恩委員長と私は、朝鮮半島における戦争の恐怖と武力衝突の脅威を完全に排除するための具体的措置をとることに合意しました。

また、白頭山から漢拏山までの美しい私たちの山河を、永久に核兵器と核の脅威がない平和の地にし、子孫に受け継がせることを確約しました。

そして手遅れになる前に、離散家族の痛みを根本的に解消するための措置を速やかにとることにしました。

私は、私と一緒にこの大胆な旅を決断し、民族の新しい未来のための偉大な旅を一歩一歩歩む金正恩国務委員長に、惜しみない賛辞と拍手を送ります。

平壌市民の皆さん、同胞の皆さん!
私は、今回の訪問で、平壌の驚くべき発展を見ました。金正恩委員長と北の同胞の皆さんがどんな国を作っていこうとしているのかを確認し、胸が熱くなりました。

どれだけ平和を渇望しているかを確認しました。 困難な時代にも、民族の自尊心を守り、ついに自ら立ち上がろうとする不屈の勇気を見ました。

平壌市民の皆さん、同胞の皆さん!
私たちの民族は優れています。私たちの民族は強靭です。私たちの民族は平和を愛しています。そして、私たちの民族は共に生きなければなりません。

私たちは、5000年を共に生き、70年を別れて生きました。私は今日この場で、過去70年の敵対関係を完全に清算し、再び一つになるための、平和の大きな一歩を踏み出すことを提案します。

金正恩委員長と私は、北と南の8千万同胞の手を固く握り、共に作っていきます。
私たちは共に、新しい未来へと進みましょう。

今日、多くの平壌市民、青年、学生、子どもたちがマスゲームに出演し、私たちの代表団を熱く歓迎してくださったことにも改めて感謝いたします。 お疲れ様でした。

ありがとうございました。



※闡明(せんめい):それまではっきりしないかった事を明らかにすること。

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この演説には当然リップサービスが含まれているのでしょうが、読んでいて胸が熱くなるものがありました。韓国の大統領が北朝鮮の国民に向けて演説をする。こんな日が来るとは1年前は誰も思ってもいなかったでしょう。未来は常に未知なるものです。そして何か時代の流れを感じさせるものがあります。

話は変わって。

先日発行された木の花ファミリー通信秋分号のテーマは、「21世紀の死生観 第3部 美しいとは」です。そこにはこんなことが書かれています。

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私たちの体は、数十兆個もの細胞から成る多彩で複雑な機能の集合体です。あなたの体を見てください。目、耳、鼻、口、腕、足、全身に張り巡らされた血管や神経、骨、筋肉、様々な働きの臓器から髪の毛や爪に至るまで、数え上げればきりがないほど多様な器官の一つひとつの中に、さらに複雑で緻密ないくつもの機能があり、それらがすべて連携し、奇跡のような調和のもとに、あなたというひとつの命を形成しています。もしもそれらが連携せず、バラバラに存在していたら、命はたちどころに成り立たなくなるでしょう。つまり、宇宙の本質はつながることにあるのです。つながるとは、善意によってしか成り立ちません。即ち、宇宙は善意によって創られているのです。

その善意のつながりの中で、すべての存在は時という共通した乗り物に乗っています。

私たちの肉体は、母親の胎内で受精後、わずか1mmにも満たないほどの小さな生命から、魚類、両生類、爬虫類を経て哺乳類へと至る38億年の生命進化の歴史を胎内でたどり、280日でこの世に誕生します。そして日々、地・水・火・風・空という自然の五大要素の循環の中で、細胞レベルでの生死をくり返しながら、赤ん坊から子どもへ、そして大人へと成長していきます。年月とともに肌にはしわが刻まれ、髪は白くなり、やがて寿命を迎えれば、魂の抜けた肉体は原子レベルへ解体し、次の生命を構成する材料となります。死は、それまでの縁から解き放たれて、生態系の循環の中へと還っていく美しい瞬間です。

このように個々の存在は時の流れと共に変化し続け、その個々の集合体である全体もまた、新陳代謝をくり返しながら、常に新しく生まれ変わり続けています。この、淀みなく変化していく姿が、この世界の美しさです。

美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくことです。それは、宇宙の姿そのものです。宇宙は常に未知なる場所へと進みながら、変化・変容・変態をくり返しています。それは宇宙が生命だからです。生命とは留まることなく変化し続けるものであり、私たちの体は、その仕組みをもっとも身近に現しながら、命とは何か、美しいとは何であるかを、教えてくれているのです。

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美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくこと

文在寅大統領の演説は、言葉だけ見れば、そんな美しい未来を感じさせるものです。

22日の夜、木の花ファミリー通信秋分号が大人ミーティングでシェアされました。そして、どんな流れだったかは覚えていませんが、ジイジは以下のような話をしてくれました。

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昔、みんなで神社を巡っていた頃、自分たちが神社に行くタイミングに合わせたように雨が止んだり晴れたりした。その頃、いろいろな超常現象に出会ったが、それはどうしてあったかというと、この世界には人智を超えたもの、自分たちの理解を超えたものが存在することを教えてくれるため。超常現象は、自分たちの未熟を教えてくれるためにあった。だから自分たちの中に「今度、神社に行くから晴れて欲しい」という心が育ったトキ、それは違うと思いそういうのを止めた。求めることを止めた。求めることを止めていって、心を磨いていくことで自ずと天のリズムと合うようになっていった。そのトキ、超常現象は特に必要とするものではなくなった。

生命の美しさ、それは木花咲久夜姫だよ。命の儚さ、潔さ、美しさ。それが木花咲久夜姫で木の花ファミリーの名前はそこから頂いている。

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儚く潔い姿の中に美しさがあります。そしてそれを生み出すのは求めることを止めることだと思いました。

文在寅大統領の演説からは未来への光を感じます。ですが、光を求めることはしないことです。求める心は人智となり、人間の中に思惑を育てていきます。思惑は自我を育て、自我は、都合の悪い現実を排除することで、人々の間の違いを強調します。現代はそれが際立つことで孤立や争いが生まれています。



光を感じながら光を求めない。

それは天の意思という光を感じそれをいただきながら、そこから生まれる自分の欲や思惑を手放していく生き方です。

ひかり

カタカムナで見ると、宇宙最極小微粒子である「カ」が秘かに分離していくさま。ものの始まり。すべてを生み出すものと言えます。

そして今日、9月25日11時53分牡羊座満月です。牡羊座は始まりの星座。そのタイミングで光を感じることで、始まりに想いを馳せ、それと同時に自分の欲や思惑を手放していこうと思いました。そして、儚く潔く美しい。これからきっとそんな世界が生まれます。


諦めることで明らかにするトキ

秋分の朝の富士山と太陽です(^-^)


最新のジイジのブログではジイジが長年培ってきた「手かざし」の極意について語ってくれています。以下、その一部を引用します。

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手かざしを行なう上で理解すべき最も重要なことは、欲の心を絡めて行なうのではなく、人の内在する可能性を開発するために行なうということです。そういった内なる気付きを得るための機会にしたいものです。とかく人間は、健康になろうなどと、私欲の延長にそういった行為を行なうことにより、それが本来の人としての優れた気付きを得るためのものとは、違うものになってしまうのです。

そのためには、「私は空っぽですから、私をあなたのエネルギーの通り道にしてください」と天を意識することです。「治してあげよう」とか、「良くしよう」という私欲の意識を持って行なうことは禁物です。その場合、そこに自我が入ることにより、発せられるエネルギーはきれいなものとは言えないことになってしまいます。ですから、その発せられるエネルギーには、何も想いが入っていない美しいものとして、エネルギーの通り道を創り、それを圧縮して発しているだけの意識として行なうことが肝要です。



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手かざしを行う際、ジイジは、欲の心を絡めること禁止していますが、それはジイジの一貫した姿勢と言えます。昨年の7月26日、マヤの新年を迎えてジイジ(当時はいさどん)は以下のように語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います



ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。


「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。




思考の奥へと行って世界と響き合っていく

2018年1ヶ月間の真学校終了パーティの写真です。

今、1ヶ月間の真学校を受講していた中国医のボーシャンが再び木の花ファミリーを訪れています。そして、昨晩の大人ミーティングで以下のようなシェアをしてくれました。

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何か一つのものを見ようとして集中すればする程、それが見えなくなる。何かを見ようと思ったらもっと引いた意識で全体を眺める姿勢で見る必要がある。だから僕は上でもなく下でもなくまっすぐ前を見て俯瞰して歩き続けようと思っている。

宇宙を生きる

そんなふうに意識するトキ、遠くに想いを馳せていたが、宇宙は遠くではなく目の前に存在している。宇宙はすぐ近くに日常の中にある。


木の花ファミリーの人たちの施術をしていて、そこに結び目があることに気づいた。その結び目がしこりとなっている。木の花の人たちは目の前のことに集中しているが、それが囚われとなって宇宙そのものである今を生きることを難しくしている。今を生きるためには、僕らは目の前のことだけでなくもっと深く物事を見ていく必要がある。

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ちょうどこの日、僕はボーシャンに施術を受けていました。ボーシャンの施術を受けているトキ、ボーシャンのエネルギーが流れてきて、自分は自分の思考を眺めている状態となっていました。リラックスした状態で思考の奥から思考を眺めていました。その思考が普段の自分の枠となり、自分の体験を規定しているのです。純粋に今を生きるためには、そして完全に自由に生きるには、思考の奥で世界を感じてみんなと響き合っていく必要があります。だから僕はそんな感覚を磨いていこう。そんなふうに思っていたので、ボーシャンのシェアにはとても共感出来ました。

そして、ボーシャンの施術を受けた後、僕はらぶちゃんに髪を切って貰いました。らぶちゃんもボーシャンの施術を受けたことがあって髪を切って貰いながらお互いの体験を語り合いました。そのトキ、らぶちゃんはこんなことを語りました。

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ボーシャンの施術を受けたら脱力状態になってそのまま眠ってしまった。そしてたくさん夢の見たのだが、ほとんど忘れてしまった。だけれども一つだけ覚えていて、それはオフィスでなかのんが自殺をした夢。オフィスで首をつって自殺をしていて、だけれどもその姿はとてもきれいだった。きれいだったからはじめは何も思わなかったのだけれども、すぐにはっとして「これって大変なことでは」と思って、大慌てでいろいろな人に連絡したりした。後は覚えていないのだけれども・・・

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髪を切ってもらう機会があったから、らぶちゃんはこんな話を僕に語ったのでしょう。そうでなければ、わざわざ語ったかどうかは分かりません。なんにせよ、この話に出会ったのは面白いと思いました。「諦めることで明らかにする」に書いたように、9月9日は括りの日でした。そして僕はこの機会に自分視点が生み出す世界を締め括りました。それは今までの自分の「死」とも言えるでしょう。トキが生み出す流れに心を開くために、僕は自ら「死」を選んだのです。

カタカムナで「シ」は現象として示されているもの。細胞が新陳代謝を繰り返す僕らの中には「死」は常にあって、「死」を通して新しいものが生み出され、僕らの存在は現象としてこの世界に示されているのです。それは常に変化変容を繰り返し常に新しいところへと進んでいく世界です。

そこに「固定」という幻を生み出すのが思考です。だから僕はその思考を眺め、思考を認めながら、その奥へと行って世界と響き合って今を生きていくのです。

昨日はそんなことを感じた一日でした(^-^)



諦めることで明らかにする



9月9日は重陽の節句で、重陽の節句は、菊理姫(ククリヒメ)と縁があるとも言われています。この菊理姫(ククリヒメ)についてWikipediaには以下のように書かれています。

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神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、イザナミと口論になる。 そこに泉守道者が現れ、イザナミの言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。 つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、イザナギはそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。 菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。

この説話から、菊理媛神はイザナギとイザナミを仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。 夜見国でイザナミに仕える女神とも、 イザナギとイザナミの娘、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」(古事記)と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、 イザナミの荒魂(あらみたま)もしくは和魂(にぎみたま)、あるいはイザナミの別名という説もある。 いずれにせよ菊理媛神(泉守道者)は、イザナギおよびイザナミと深い関係を持つ。 また、死者(イザナミ)と生者(イザナギ)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。 ケガレを払う神格ともされる。

神名の「ククリ」は「括り」の意で、イザナギとイザナミの仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状からという説もある。菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある。 他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。 白山神社(石川県鳳珠郡能都町柳田村)では、『久久理姫命(久々利姫命)』と表記している。

なお、神代文字で記されているとされる『秀真伝(ホツマツタヱ)』には、菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている。

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9月9日は括りの日、何かを締め括る日でした。そんなことを意識したのは今年が初めてです。そして、9月10日は新月、新しい始まりの日となって、何かが終わり何かが始まるタイミングなのだと思いました。

黄泉の国にイザナミに会いにいったイザナギは、菊理姫(ククリヒメ)の言葉を褒めて地上に戻っていきました。ずっと一緒に神生みをしていたイザナミが恋しくて黄泉の国を訪れたイザナギはイザナミを諦め単身で地上に戻ります。そしてその後、イザナギは神話の表舞台からは姿を消し、主役の座はアマテラスやスサオノへと移っていきます。それは自分の想いを諦め、トキの流れを受け入れ、変化を受け入れる姿勢と言えます。菊理姫(ククリヒメ)がもたらす締め括り。それは変化を受け入れ、それぞれが相応しい役割を引き受けるということなのでしょう。


諦める(あきらめる)とは明らか(あきらか)にすることでもあります。そしてそれは実りを結果としていただく秋(あき)に相応しい心の動きです。

「アキラメル」をカタカムナで読み解くと、「高次元の始まりが生まれるトコロにわずかに出ている芽」となり、諦めるという行為は物事を明らかにすることであり、そこから新しい動きが生まれるのです。9月9日は、諦めることで新しい動きを生み出す締め括りの日と言えます。

そして9月9日は北朝鮮の建国記念日でもあります。今年は70周年でしたが、軍事パレードは抑制的な内容だったようです。それは北朝鮮が何かを諦めた証なのかもしれません。なんにせよ、核問題などで世界を騒がせている北朝鮮の建国記念日が括りの日である9月9日なのは興味深いことです。その存在は、人類の実態を明らかにすることで、何かを諦めるように訴えているようにも思えます。

ソナイビレからのお客様です。
そんな9月9日、木の花ファミリーでは、韓国から樹仙齋(ソナエビレ)の人々が訪れ交流を深め、その場で「世界の側から自分を見る」が共有されました。それはきっと「高次元の始まりが生まれるトコロにわずかに出ている芽」であり、これから世界は国境を超えて一つになっていきます。

今まで、一人ひとりが自分の側から世界を見て世界をどうにかしようとして世界は混乱していきました。これからは、一人ひとりが世界の側から自分を見て、自分を正していく時代であり、その姿勢が人々を一つにしていきます。

世界の側から自分を見る

それは天の流れに沿って物事を見ていくことであり、目の前の出来事を自分自身の表れとして受け入れると同時に、変遷として見ていくことで一喜一憂しない姿勢を育むことです。自分の視点から自由になるために、一人ひとりが自らの想いを「話す」ことで手放し、物事を明らかにすることで諦めていきます。そうすることでトキの流れは「高次元の始まりが生まれるトコロ」から新しい芽を生み出し続けることでしょう。

自分視点が生み出す世界を締め括り、トキの流れが生み出す世界へ心を開いていく。

今というトキはそんなタイミング、それを感じて実践します。


差が融合され高次へと導かれていく

2018年9月6日の富士山です。

傷と怒りを愛と調和に変換していく」にて、僕は「ある出来事に傷つき怒った」と書きましたが、これは正確な表現ではなくて、僕はある出来事で怒り、その怒りがあまりに大きかったので、その怒りよって自分で自分を傷つけたのです。自分のコントロールを超えた怒りは周りだけではなく自分自身も傷つけます。僕はそんなふうに思っています。

この怒りは自分のコントロールを超えていて、思いもよらないものでした。そのトキの状況を冷静に見れば、それほど怒ることではありません。ですが、自分が怒ったというのが事実です。

思いもよらないことが起きて、それが自分に相応しく与えられて、その種が自分の中にあることを思ったトキ、僕は自分のことを分かっていないのだなぁということを思います。きっと本当の意味で完全に自分のことを分かることはなくて、現象を通して見ていくだけなのだと思いました。

種は時間とともに成長して芽吹き、現象となって表れます。ただその自然の流れを受け入れ、そしてそこから学び、新たな種を撒いていく。生きることはただそれだけなのだと思いました。その繰り返し、循環の中で僕は自然と同じように変化していきます。

僕の怒りは自分にとって思いもよらないもので自分を傷つけましたが、相手との絆を深めるきっかけともなりました。本当に何がどうなるかは分からないものです。

話は変わって。

僕は2年前の9月6日、「自分ごと」から全体性へと至る道というブログを書いています。このブログは僕にとって一つの到達点となっているのですが、そこでは以下のように表現しています。

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僕はずっと意識の関心が自分に向いていることが「自分ごと」だと思っていましたが、この認識は正確ではありませんでした。

この世界で自分を最大限に生かすために、自分を正確に知っていく。

そんなふうに自分に関心を向けるならば、それは「自分ごと」ではなく、世界のことであり全体性へと至る行動となるのです。その一方、途上国の支援など社会貢献と言われる活動をしていたとしても、それが自分都合になってしまっていたら、その活動は「自分ごと」なのです。

活動の動機をしっかりと観ることが大切です。

例えば、ODA(政府開発援助)ですが、本来、途上国のための援助のはずが、日本企業の利益に繋がり、途上国に累積債務と環境破壊をもたらす事例もあります(※Wikipedia「日本のODAの問題点」参照)。このような活動は決して全体のことを思った行動とは言えません。社会貢献活動を利用して日本は「自分ごと」で動いていたのです。しかも日本全体ではなく、一握りの人の利益のためであり、極めて「自分ごと」と言えます。

 ~ 中略 ~


今、この世界は「自分ごと」の集まりで動いているのです。

宇宙の法の下では、自他の区別を超えてすべてが繋がり生かしあっています。それから外れた「想い」や「行動」はすべて「自分ごと」なのです。世界のことを考えていても、社会貢献をしていても、「自分が」という想いに基づいていたら、それはやはり「自分ごと」となります。そして、「自分ごと」の想いや行動は、たとえそれが実現したとしても、この世界に偏りを生み出し、いずれ対立や格差、喪失などの滞りとなって現れるのです。

だから「自分ごと」を超えていくことが大切です。

自我が与えられた人間は、当然のように「自分ごと」の願いや想いを持ちます。そして、それは意欲にも繋がるものです。だから、それらを追い求めることは大切なことではあるのです。ただ、その際、宇宙の法を意識する必要があるのです。宇宙の法とは天の流れあり、それは時代が生み出しています。

自らの希望を追い求めながらも、天の流れを感じ、結果をいただき学んでいく。

そんな姿勢でいると、自分が高まり、自然と全体性へと至るのです。それは自分と向き合う旅であり、その旅は果てしない冒険であり、新しい発見は尽きません。新しい発見により自分がどこまでも果てしなく広がっていくのです。


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当時の僕は「自分の希望を追い求める」と書いていました。それは「自分の意図を持つ」ということであり、自分の意図を通して天と対話していこうと思っていました。今の僕は「意図を手放していこう」と思っています。意図を手放して、意図していないことを通して天の想いを知っていこうと思っています。

意図は糸。つなぎ合わせるものです。「イト」をカタカムナで見ると、「位置が統合する」となりますが、「位置(イチ)」の持っているエネルギーには「(差)サ」があります。位置の持つエネルギーの差が統合(融合)され高次へと導かれていく。そんな役割をするのが、「イト」なのだと思います。

意図が本来の役割、差を融合し高次へと導くエネルギーを発揮するには、他に対して開かれている必要があります。だから僕は意図を手放し他へと解き放っていきます。そして意図していないことの奥に大いなるものの意図を感じて、それと融合していくのです。

そのトキ、表現される世界はきっと、善なる愛なる調和の世界です。

環境と響き合って変化していく(2)



9月1日、木の花ファミリーでは稲刈り神事が行われ、みんなは収穫の喜びを味わいましたが、僕は体調を壊しそこには参加出来ませんでした。その前日、暑い中ジャガイモ定植をしたことが影響したと思われます。普段、基本的にオフィスで仕事をしている僕は、今年の夏、初めて日中畑に出たのですが、その暑さは今まで経験したことがないものでした。普段、畑や田んぼで作業をしている人たちは、こんな中作業をしてくれているんだなと感謝の気持ちがわいてきました。そして、気候の変化の厳しさを、実感を持って感じることが出来ました。そんな厳しさを伝えるものとして2100年の天気予報を掲載しているサイトがありますが、そこにはこんなふうに記載されています。

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2100年の夏も全国的に猛烈な暑さです。特に西日本や東日本では気温が上がり、高知県四万十市では、44.9度、名古屋で44度、東京でも43.6度と観測史上1位の記録を更新。この暑さの影響で、今年は今日までに熱中症で全国12万人が病院に搬送されています!昼間の気温が30℃以上の真夏日ですが、那覇で183日と6ヶ月、大阪で142日、5ヶ月近く、東京で107日、札幌でも47日となっています。この記録的な暑さはまだまだ続きそうです。


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今年は記録的な暑さと言われていますが、この暑さは今後も続くものと思われます。そんなことを思ったトキ、浮かんできた言葉が「環境と響き合って変化していく」というもの。これは2年前にジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。以下、その言葉を紹介します。

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地球温暖化や経済格差、紛争、難民、国々や民族の対立・・・・
現代社会は混沌としています。
混沌の中、その解決策を求める気持ちになるかもしれませんが、
そこには人生の深みがありません。

問題が生じている時、問題のないところにいって、みんなで幸せになろうとする。
それは良いことに聴こえるかもしれませんが、とても薄っぺらな話しです。
みんなで幸せになろうとする時、
幸せになるべき人間性があって初めて幸せになるのではないでしょうか?
人間性が高まらない状態で幸せを求めることが社会に何をもたらすのか?
そのことに想いを巡らせてみて下さい。

問題がある時、ただ解決策だけを求める。
それは新しい発想だけ貰って楽になろうとしている姿勢です。
その姿勢が人々を現実から引き離し停滞を生み出しているのではないでしょうか?
そこからは結局新しい発想も生まれないのです。

新しい発想は自分を放棄した時初めて生まれるものです。

この世界には法則性があります。
常にそれと対話していくこと。
それが天と共に生きるということです。

問題ごとに出会った時、ただそれを改善しようとしていく。
それは人間の知恵の中で良い生活を送ろうという心に繋がり、
その結果、天は離れていき、停滞が生まれます。

美しい蓮池を生み出しているのは水中で混沌としている泥の存在です。
表面に浮かぶ現象を生み出している奥の世界。
それを知り生かすことで人生は深まり花開いていくのです。

人は常日頃当たり前のように思考を組み立てています。
その思考は自分の枠内にあります。
知識として取り入れたものはその枠を超えることはありません。
ですが、自分の思考の背後にはこの時代の意志や物語があり、
自分がここにいる意味があるのです。

心を開くことにより、そういうものを織り交ぜて生きていく状態に変わっていく。

それは人間として生きる姿勢の変化です。

生きるということは本来、変化すること、未知なるところの向うことです。
星々は常に新しいところを運行し、自然は変化し続けます。
天は分からない未来を生きているのです。

時代は未知なる世界へ向けた変化を人間に促します。

時代に応えるために。

何かを貰って新しい自分になるのではなく、
環境と響き合い変化していける人間になっていくのです。

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今の学校教育は生徒に「答えを出す」ことを求めていて、答えを出すコツを覚えて早く答えを出せる人が優秀な人として評価されます。そして、学校教育で優秀と評価されることは社会に出る際に有利に働きます。そのため多くの人の思考は「答えを求める」ものとなっています。正解を知って、その正解に基づいて行動しようとするのです。

ですが、この世界の本質は未知であり変化変容にあります。本来、先に答えを知ることは不可能なのです。だから答えを知ってから行動しようとすると、現実の変化に翻弄され右往左往することになるのです。今、世界で起きている多くの問題は、人間のそのような姿勢の変化を促しているようにも思えます。

おおよその見通しは立てるけれども、答えは行った先で知っていく。心にそういう「マ」、空間を作っておくことが大切なのだと思っています。

カタカムナでは、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれるのはその縁(ふち)であり、そこで縁(えん)が
生まれます。心に「マ」を生み出すことは、「マ」の内部へと想いを馳せることになり、表面上の現象や縁(えん)の奥へと意識を向けることになります。

現象の奥にある「マ」は、見えない世界と言えますが、そこが響き合う空間となって自らの人生と世界に深みを与えてくれるのです。

特定の結果を求めることは、執着を生み出し幸せの範囲を狭めます。ただ環境と響き合い、そのことを味わい楽しむことが出来れば、どのような結果をいただいても充実した日々を送れます。

地球環境や人口問題などを見ると、これから確実に生きていくことが厳しくなることが予想されます。そのような現実と向き合い、心豊かに充実した日々を送るためには結果を求めずに環境と響き合っていく姿勢が大切になることでしょう。そしてそれはきっと調和の表現となり世界に平和をもたらします。

だから僕はそんなふうに生きています。


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