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今日はお釈迦様の誕生日(^-^)

2年前の今日、お釈迦様からいさどんに言葉が降りて来ました。以下、その言葉の一部を引用します。

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今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、48日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。



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この4月、僕は大きな節目と感じていましたが、それは自分の身の回りに起きている変化のためです。その変化が自分にとって好都合であったため物事が好転していると感じていました。それは確かに銀河の夜明けを経た今の流れに沿っている感覚なのかもしれませんが、変に力が入っていたことに気づきました。

時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。

この言葉にある通りトキは永遠に続いていて、すべての節目は通過点として繋がっています。その中の1点を変に強調することは思い入れや囚われとなりこの世界を自らの秤を持って図ることに繋がります。するとこの世界と自分との間に差が出来、悟り(差取り)から遠ざかっていくのです。

様々な節目を伝える天体の動きは天の意思の顕れですが、それを頭で理解する時、人智に利用されていく危険性を持ちます。その時、大いなるものを自分の小さな枠に閉じ込めることになります。そういう心の動きをチェックし、大いなるものに自分を解き放っていこうと思いました。それは思惑を手放すということ、分からない未来を受け入れるということです。

そしてここでもう一ついさどんが昨年の9月に語ったお釈迦様の話を紹介します。

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お釈迦様の話の中に、家に火がついたのに子どもたちが気付かないで庭で遊んでいるというたとえ話がある。だから、お釈迦様はそれを何とか助けようと思って、家に火がついていることを気付かせようとするのだが、子どもたちはまったく気付かないで朗らかに遊んでいる。それが、今の人間たちの生きる姿勢だ。


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上記の話に出て来る家は長者の家であり、子どもたちは裕福な暮らしをしているそうです。それは地球環境に配慮せず物質的豊かさを享受しさらに追い求めようとしている人間の姿と言えるでしょう。気候変動、異常気象などを通して地球は人類に警告を与えていますが、多くの人々は未だに経済成長という都合の良い幻想を追い求めています。人々はこの世界を自らの秤を持って図り続けていて、この世界と人との差は広がる一方となっています。その結果、世界の危機が見えなくなっているのが今の人類であり、この延長に未来があるとは思えません。

だから一人一人が秤を手放し、自らの解釈によらない境地となっていく必要があるのです。その時、人とこの世界が一つとなり真の調和が実現します。そんな世界に向けて、自分一人分実践し続けようと思っています。

今日はお釈迦様の誕生日、だからお釈迦様の精神の確認をしました(^-^)





いらなくなった状態で究めていく世界

自分を中心にして語った世界観だから
他人との共通点が持てない
自分の感情から出た世界観を語っている


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上記は「ただみんなでひとつを表現していく」を読んだいさどんからの言葉ですが、この言葉から僕は二つの言葉を思い出しました。

まず一つ目は、2016年10月に書いた「分からないことの先に無限の広がりがある」に対するいさどんの言葉。いさどんは、この文章の最後の方を見て「なかのん道」を感じ、以下のように語りました。

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何のために文章を書いているのか?全体のためでなく自分のため、自分のこだわりになり始めている。変に力が入っているから疲れる。余分な力を入れずにもっとニュートラルになることが大切。なかのんの中では今でも地球は平らになっている。だからなかのんが進むということはそのままズドンと落ちるということになる。

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地球が平というのは天動説で、地球(自分)中心に宇宙が周っているわけで、まさに自分を中心にして語った世界観と言えます。そして、上記二つのブログを書いた時の精神状態には共通点があって、両方とも自分としては思い切り書いた文章です。その思い切りの中に変な力が加わっていて、その結果「自分」というものが強く出たのだと思いました。

いさどんの言葉は思いもよらないものなのですが、なんとなく「そうだよな」と腑に落ちるものがあります。

そしてもう一つが昨年の9月にいさどんから貰った言葉。それはこんな感じです。

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なかのんの言うことは難しいね。彼は哲学者だからね。
だけど、なかのん流の表現をするものだから、ちょっと難しいときもある。
それを、相手の状況に応じて、いさどんのように通訳すればいいのだけどね。
なかのんの悟りのレベルは、自分が求めていく悟りだからね。
スピーカーになりきればいいんだよ。
スピーカーになると、勝手に降りてきて出てくる。
そこには一切私情ははさまない。自分のためもない。


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自分を中心にして語った世界観」も「自分が求めていく悟り」も、要は僕がまだ自分の幸せを求めているということだと思うのです。「自分のため」がある。まだ自分はそのレベルにあるということです。その事実が「思い切り書く」という行為によりかえって浮き彫りになったのです。そしてこれは「もう自分ためはなくします」と宣言すればなくなるものではありません。ただ日々の積み重ねの中で自分が成熟する過程でなくなる時が来るかもしれない。そういうものだと思っています。だから大切なのは自分の位置を自覚し、ただ謙虚に日々を積み重ねていくことなのだと思っています。

ということでこのブログでは何度も紹介しているいさどんの言葉をあらためて紹介します。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望って「~が欲しい」というように自覚しやすいものばかりでなく、無意識に「こうなったらいいな~」とか「こうなったらいやだな~」と思っていることもあると思います。その心の動きが自分都合ではなくどれだけ全体性を持っているかは人間としての成熟に掛かっているのだろうなと思っています。

ということで。

いつか「自分のため」が「いらなくなった」状態で、みんなで究める世界に行きつくように。長い道のりを楽しんでいこうと思っています(^-^)

太陽系の星々は「いらなくなった」状態で究めていく世界を表現しています。

ただみんなでひとつを表現していく

困った相手に対して正当性を通そうとして同じ土俵に立っている。表面上は穏やかに接していてもその奥には怒りがあって、そのためムキになって自分で対応しようとしている。正当性を通そうとする態度が相手を刺激して、さらに相手を困った存在にしている。正当性を主張するのではなく、こっちが困った人になればいいんだよ。それはおかしな言い分は相手にしないってこと。相手にしなければ、向こうが困るのだから。

まあ、これは最初から然るべき人に相談して頼ればいいだけの話なのにね。

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上記は昨年の6月にいさどんが僕に語った言葉です。当時、僕はこの言葉を元にして「怒りに向き合い、怒りから自由となる」という記事を書きました。以下、少し文章を引用します。

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僕は最近、困った人と出会いました。それで僕は、筋を通しながら流れを見ていこうと思っていたのですが、筋を通そうとする心の奥には、非常識な相手に対する(あまり自覚していない)怒りがあって、僕はその怒りに翻弄されていただけなのです。

僕といさどんと木の花ファミリー」に書いているように、僕は長年「虐げられた状態から逆転し見返す」という物語を好んできました。そのため無自覚に虐げられる状態を生み出してきたのです。

この一見理不尽な行動、その奥にはこの世界に対する「怒り」の心がありました。僕は今日、そのことを確信しました。「怒り」の心があるから「怒って然るべき」状況、虐げられる状況を無自覚に生み出してきたのです。

そして「世界と一緒に変化を楽しむ」に書いているように、「正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる」物語も好んできました。正義を貫くためには悪が必要で、対象が悪ければ悪いほど、正当に「怒る」ことが出来るのです。

そう、僕は正当に「怒れる」状況を長年好んで来ていて、だけれども「怒り」を求める自分には無自覚で、そのために滞りを生み出してきたのです。


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ここで書いている困った人との関係は3月31日をもって一つの区切りとなりました。一つの流れの終わりを感じていますが、今、あらためて思うことは困った人と出会う縁を自分が持っているということです。そういう縁を生み出してきたのは「虐げられた状態から逆転して見返す」物語や「正義を掲げ、その正義を貫くことに熱くなる」物語を好む自分と言えます。それは僕の特徴で、それを悪いと思ってなくそうとするよりも、その物語が生み出す世界を見通し、そこから自由でいることが大切なのだと思っています。

どんな特徴も活かせばきっと調和の世界に繋がります。例えば対立状況も、そこを切り取ってみたら悪い出来事と言えますが、プロセスで見たら成長のために必要なものとなることもあります。大切なのは、僕が困った人との出会いを通してどれだけ自分の中を見通せたかだと思っています。

出会う出来事は自分の精神構造の顕れ

最近よくそんなことを思います。

例えば誰かに強く憧れるのは、自分の外に尊さや美しさを見ているからです。そして誰かを強く憎むのは、自分の外に汚れや汚さを見ているからです。ですが、この世界と自分は本来ひとつです。ならばこの世界の最も醜いものや汚いもの、そして最も尊いものや美しいものは自分自身の中にあるのです。出会う出来事を通してそのことを見通していくことで世界と自分が対等になっていくのだと思います。そしてその結果出会う出来事は変化していきます。

世界に目を広げれば、例えばイルミナティやロスチャイルドなどの陰謀論がありますが、こういう一部のものがこの世界を牛耳っているという説は人々のこの世界に対する不安や不信感の顕れと言えます。そしてなぜ世界に対する不安や不信感があるかと言えば、自我の赴くままに生きることで人々は世界との生きた繋がりを失っているからです。繋がりを失っているから目の前の出来事に一喜一憂することになり現実に振り回されるようになります。ですが、自我を超えて世界との繋がりを取り戻せば、すべての出来事は相応しく与えられていることが見えてきます。そしてそれを学びとして成長していくことが出来ます。

自分の中の他者に依存する気持ちがこの世界に権力者を生み出しそれは時に圧政へと繋がっていきます。その奥には結果や責任を取ることを恐れる気持ちがあったりします。その心の構造にメスを入れることにより世界は自ずから変化していきます。

自分の中の他者にアピールする気持ちが他者との違いを生み出し時には困難な状況も生み出します。その奥にあるのは劣等感や優越感などがごちゃ混ぜになった感情だったりします。その心の構造にメスを入れることにより世界は自ずから変化していきます。

ただみんなでひとつを表現していく。

それは自我が生み出す感情の奥を見通し続けることで、そこから豊かな世界が生まれます。それが出来れば、どんな出来事も大いなる流れの中で活かされていきます。

ただみんなでひとつを表現していく。

僕はそんな世界に向けて生きていこうと思っています。


木の花ファミリーのみんなとお花見をしました(^-^)
タイのテレビ局が取材に来ていました。

「いや」という反応を超えて自分を超えていく



ブルームーンの3月31日、中国の宇宙ステーション実験機「天宮1号」が翌々日の4月2日に大気圏に突入すると発表されました(「中国初の無人実験室、2日にも地球落下へ」参照)。天宮1号は、ほとんどが宇宙のちりとなり、落下する僅かな破片も海の藻屑となることが予想され、大きな被害となることはまずないと言われています。ですが、この天宮1号の落下をホピ族の予言に関連づけ「大いなる清めの日」の合図と捉える人々もいるようです(「ホピの予言「最後の第9の徴」の出現か?」参照)。

未来は常に未知、それが宇宙の真理だと思っています。だから予言がどうなるかは分かりませんが、今このタイミングに大きな節目を感じています。大きな流れが変わり、新しい流れが生まれていることを感じています。

天体の動きや予言、文明周期説など。時の流れを伝えるものは様々ありますが、そこには共通したメッセージがあります。それは人類が今、自我を超える時が来ているということです。24節気や新月満月などの節目はその流れが促進していることを確認する機会となります。

人智から天智へ。自我を超えて生きるとは宇宙を生きること。そんな生き方についていさどんは以下のように語っています。

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宇宙を生きるとは、どういうことでしょうか。それは、自分を手放すということです。自己を捨てるということです。ところが、今の自分が大切な人にとっては、それは一番の苦痛です。そして宇宙の流れに逆らってでも、今の自分を保とうとするのです。そうすると、宇宙はその人に問題ごとを与えます。それは宇宙の法則からのメッセージです。そしてそれが、神様が私たちに与えてくれている、愛です。あなたを捨てなさい。そして私と共にありなさい ──────

この愛は、いじわるをしているみたいですね()。けれどもこの愛は、宇宙を生きるのに最もふさわしいことを教えてくれています。私たちが自我に向ける愛は、この世界に矛盾をつくる愛です。今、そういったことを理解した人間たちが、これからの地球上に生きていくことが求められています。それが、この宇宙の物理性を現実化することになるからです。

そのことを理解した者たちは、今の地球上の矛盾を、どんどん潜象界へと送りかえします。そうすると潜象界は、その矛盾を、まったく汚れのない、宇宙の最極小微粒子である「カ」という最もきれいな単位にして、再び現象界へと送りかえすのです。この形ある「カタ」の世界(現象界)と、神の心である「カム」の世界(潜象界)を、行ったり来たりしながら質的転換「ナ」を繰り返す宇宙の仕組みが、「カタカムナ」です。そしてその推進力になれるのが、「ヒト」です。それはこの潜象物理を理解した者だから、できるのです。


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人類はずっと増やすこと、そしてそれを維持することに価値を置き過ぎてきました。その結果、環境破壊が進み、ゴミが溢れる世界となっています。そしてそれは心の状態にも言えます。今、多くの人が自分の立場を語りそれを理解してもらうことに喜びを感じています。ですがその結果、この世界に何を及ぼすかを観察している人は稀です。それは意識が膨れ上がった状態と言え、そしてそれを維持することに価値を置いているのです。その結果、人々は自分の実体が見えなくなり、生きる実感を失っていくのではないかと思います。

そんな状態を打破するために天は問題事を与えてくれますが、すべては今の自分を壊し新しい自分を生きるためにあります。

先に紹介した文章の中で、いさどんは「波動が高いということは、壊れるということ」と述べています。思いもよらない言葉、自分を壊す出来事に出会うということはそれだけ波動が高い証であり、本来喜ばしいことなのです。なぜなら宇宙の本質は変化変容であり、それは生命にとっての学びであり目覚めに繋がるものだからです。ですが、多くの人はそれを嫌います。自分の見える世界に留まることを好みますが、そのことで波動が下がり変化変容のきっかけを失っていくのです。

目の前の出来事に反応し自分を維持しようとして一喜一憂するのが人間です。ですが、その反応のままに生きていたら変化の芽を潰してしまいます。その結果、停滞した毎日を送ることになります。だから常に自分の心の動きを見ていく必要があります。湧き上がる想いの出処を探り、それが世界に何をもたらすかを観察し、「いや」という反応を超えて自分を超えていくのです。その繰り返しにより人は壊れ宇宙の変化変容の流れに沿っていきます。その時本当の喜び、そして本当の自分と出会うことが出来るのだと思います。

冒頭に紹介したホピの予言を初めとする終末の思想は「壊れる」ことの大切さを訴えているのだと思います。それは物理的な豊かさを追求し増やし続けてきた今の社会にとって大切なメッセージであり高い波動への導きと言えます。そのメッセージに沿うように、「いや」という反応を超えて自分を超え続けていこうと思っています(^-^)




本当の意味で願いが叶っていくこと(2)

3月24日、1ヶ月間の真学校が終了しました。日本、中国、台湾、タイ、4ヶ国から受講生が集まり濃密な時間となった今年の真学校、その最後にあたり、いさどんは以下のように語りました。

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ハプニングの連続でないと、人生ではありません。ハプニングの連続だからこそ、人生は楽しいのです。

この世界に命として生きるということは、そういうことです。それなのに人間は学習し、予定を立て、その計画の通りに生きていこうとするのです。そして、自分の計画通りに物事を進めようとすることで、自我の芽を、大きく育てていくのです。

皆さんはこの1ヶ月間の間に、私たち一人ひとりの中に、大宇宙の柱である天之御中主の分霊が立っていることを学びました。その内なる柱に目覚めれば、今のように、毎日ハプニングで生きていることがとても楽しくなります。それはとても豊かで、ダイナミックな人生です。

多くの人々は、自分自身の考えや目的を達成しようと思い、一生懸命生きています。しかし、一人ひとりがバラバラの目標に向かって生きた結果が、今の地球上の世界なのです。それぞれが自分の思うように予定を立て、その通りに生きようとすれば、世界はバラバラになっていくのです。

~ 中略 ~

何が言いたいのかというと、こういったハプニングの連続が、人生だということです。そしてそれぞれが個性を発揮し、エンジョイしていく。それが、地球で生きるということなのです。

皆さんは、一人ひとり、とても個性的です。その個性はどれもオリジナルであり、天が皆さんに与えたものです。その個性を、存分に発揮してください。ただし、それを調和させてください。そうすると、天が望んでいるように、この世界は大調和のハーモニーを響かせるようになります。それが、皆さんの当初の目的である、自らの健康で豊かな暮らしにつながるのです。

~ 中略 ~

1ヶ月間、これまでに出会ったこともないような世界観を学びました。現代人には、思考回路の範疇を超えてしまうような学びです。けれども、その思考回路が壊れることが、思考の枠を広げることになり、毎日毎日、新鮮な出会いをいただいていく心の準備になるのです。それがハプニングを楽しみ、豊かに生きるコツです。そして私たちは、天と共に、自らの望みのままに、ひとつの世界を表現するのです。




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そしてその日の夜、大人ミーティングではいさどんブログ「生きることの奥にある人生の原点に出会う」がシェアされました。この文章の中に出て来る以下の言葉はとても印象的で、僕は昨年の9月、この言葉を引用し「本当の意味で願いが叶っていくこと」というブログを書いています。

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本当の意味での願いが叶っていくことは、自分が望んで獲得するのではなく、自然に与えられ、その流れに沿って生きていくことなのです。

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今、あらためてこの言葉に接して、「本当の願い」って何かな?と想いを巡らしました。生きていると「こうしたい、ああしたい」といろいろな想いが生じるものですが、それらは浮かんでは消える波のようなもの。よく意識は氷山の一角に過ぎないと言われますが、意識に浮かぶ想いは表面を漂っているものと言え、その出処はいろいろです。想いのままに生きていたら、その出処を探ることは出来ず人生に深みは生まれません。そして、多くの想いは目の前の出来事やカルマから生まれているのであって「本当の願い」とは言えないと思っています。

「本当の願い」は心の奥底にあるもの。それは意識していようがいまいがあり続けるものです。そして自我は、それとは無関係に目の前の出来事に反応し一喜一憂しています。一喜一憂しながら望んだ願いを獲得しても、その結果は思わぬものとなりがちです。すぐに飽きて新たな願いが生まれたり、他からの反発が生まれたり。そして空しくなることもあります。

「本当の願い」は心の奥底にあるものです。だから簡単には見つけることが出来ません。それを見つけるには、意識の枠を壊し自分の奥へ奥へと入っていく必要があります。そんな探求へと導くのが思いもよらないハプニング。だからハプニングの連続でないと人生ではないのです。

ハプニングに心を開くことで人は自分の段取りや思惑を超えていきます。そしてそのことが思考の枠組みを広げてくれます。その時出会う出来事、それは自らの心が生み出したものでもあり、そこから人は「本当の願い」、そして「本当の自分」を知ることが出来るのです。そしてその時出会う自分は世界と繋がり調和しています。

ハプニングが起きないと、人は自分の狭い思惑の中で暮らすことになります。ハプニングが起きてもそれを拒絶していると思惑の中に留まることになります。その結果、人と人とはバラバラとなり世界はバラバラとなっていきます。それが今の多く人が生み出している世界です。

今、Facebookの個人情報5000万人分の不正利用が問題となっています。そして森友学園への国有地売却での公文書改ざんが問題となっています。どちらも社会に対する信頼が揺らぐ出来事ですが、これらを生み出したのは、トランプ大統領や安倍首相の目標であり思惑です。個人の狭い思惑が世界から信頼を奪い、そして当の本人も自分を守るために苦しむことになっています。それは人々の日常を反映した出来事とも言えます。

だから思いもよらないハプニングに心を開くのです。そして、意識の枠を壊し思惑を超えて心の奥へ奥へと入っていきます。その時、人は「本当の願い」と出会い自らの望みのままにひとつの世界を表現することが出来ます。そこから生まれる大調和のハーモニーを僕は木の花のみんなと表現していこうと思っています。

「本当の願い」

それは頭で思い描くものではなく目の前の出来事を通して探求し続けるものです。そしてそれは大きな流れの中では常に叶っていて表現されるのを待っているのです。それを見えなくしているのは人間の自我、そこから生まれる思惑、だからただそれを手放せばいいのです(^-^)

1ヶ月間の真学校終了パーティにて撮影





分からないから悟れる

自分は分かっているものでありたい。

そんな気持ちが自分の中にはあります。何かを聞かれた時、「ああ、それはこうだよ。そういう時はこうすればいいんだよ。」と断定したい気持ちが湧いてきたり、何かを指摘された時、「それは分かっていた」と言いたい気持ちが湧いてきたり。

でもその気持ちは人を成長から遠ざけます。

「分かる」という言葉は「分ける」という言葉に通じます。何かから何かを分けること、分類したり、識別したりすることで人は何を「分かる」のです。何かを「分かった」ままでいるということは何かを「分けた」ままでいるということです。

悟るという言葉があります。悟るは「差」を「取る」ということで、それは分け隔てのない状態です。ということは「分かった」ままでいるということは悟りから遠ざかっているということです。

「分からない」という言葉は、「分けることが出来ない」という言葉に通じます。分けることが出来ないからいろいろなことが一緒になって分からなくなっていくのです。それは悪い状態にも思えますが、「差」が「取れている」状態とも言えます。とすると、悟りは「分からない」ことから生まれるとも言えます。

つまりこういうことだと思うのです。

人は何かを「分ける」ことでそのものを「分かる」。でもその次の瞬間に「分けることが出来ない」現実に出会って、「分からなく」なる。それでもまた「分かろう」として「分けて」いく。そのダイナミックな繰り返しが悟りへの道であり、「分かった」ままでいることは悟りからどんどん遠ざかっていくのです。

「分からない」ことを受け入れ、「分からない」ところに進み続ける。それが悟りへの道だと思いました。

話しは変わって。

3月17日22時12分 、魚座新月でした。宇宙元旦である春分前の新月、その新月に当たって、天下泰平ブログでは以下のように書かれています。

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新月は、心身がゼロポイントにリセットされる時。また意識もゼロポイントへ。

ゼロはないのではなく、新月の木のようにもっとも安定している状態です。

なぜ、新月の祈りや願いは成就しやすいのか。

意識が現実を作り、未来の現実化や引き寄せは、意識の状態によって大きく左右されるとなれば、意識がゼロポイントに位置する新月は、もっとも祈りや願いの効果が高まるのも納得となります。

太古の地球は、現在よりも質量が小さく、また陸地と海の割合も半分であったと言われています。

ある時期に突如として地球の水の量は増加し、水太りのように惑星が膨張した結果現在の海と陸地の割合になったようですが、この水の増加量を計算すると、かつて水の彗星であった月の水分量と一致するそうです。

月にあった氷、水分が地球に引き寄せられてもたらされた地表が泥沼になって沈むほどの大水害のインパクト。

聖書ではノアの方舟の物語として書かれていますが、現在の地球の水は月からもたらされた水の影響を大きく受けています。

月の女神、水の女神として知られる瀬織津姫

月の真実、水の真実が解き明かされる今、瀬織津姫の封印が解除されていることを強く感じます。


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この文章に出て来る瀬織津姫(セオリツヒメ)は男神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の妃で封印されている女神です。昨日の大人ミーティングではその瀬織津姫について書かれた文章がシェアされました。以下、その一部を引用します。

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女性性の復活というのは、単に制度的に男女が平等になるということではありません。それは、女性が女性であることの意味を理解し、正しい目を持つ者になるということです。同時に、これまでの男性優位の社会のような、男性が力や財力によって支配してきた時代が終わるということです。男性は、力や財力ではなく、智恵を持って、リーダーとしての役割を果たすのです。
男性は、この地上世界に宇宙の法を降ろします。女性はその法を受け取り、それにふさわしい、秩序ある地上を創るのです。その時に、種を降ろす男性と、それを受けて現象化する女性は、対等な存在です。男性性と女性性が対等となり、世界が運営されていくのです。その宇宙の仕組みが、地上に表現される時代が来たということです。
 ~ 中略 ~

それは本来、当たり前のことです。しかしあまりにも長い間、男性が力で支配する時代が続いたため、今の人々には、この当たり前のことが理解できないのです。女性は、男性にへつらうことが染みついています。そのことについて、これから講座の中でひも解いていきます。本当の男女平等とは、どういうものなのか。真の平等は、宇宙の法に則った、正しい陰と陽の関係にあるのです。
先ほど、瀬織津姫をカタカムナでひも解きました。それは、目には見えない奥にある大切なものであり、それを観る目を持つことを伝えてくれる存在です。
「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

 ~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。
瀬織津姫は、正しい性の物理性の象徴です。それは、宇宙が現象化し、命として生まれてくる仕組みのことです。私たちの性も、本来そのような神聖な意識のもとに行われなければなりません。

宇宙は生命そのものです。その仕組みに倣い、私たち地球の生命も、人間も存在しています。ですから、宇宙の原理に則って、私たちも命の循環に倣い、生きていかなければならないのです。
ところが、人間は自我を持ち、宇宙から自らを切り離してしまいました。生命誕生の仕組みである宇宙の根本原理を、自らの自我で汚してしまったのです。性という聖なるものを、自らの快楽や、お金や物で世の中を支配するための道具にしてしまったのです。それを、宇宙の法に基づく、本来の男性性と女性性の関係に戻す流れが、今起きています。
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水の星座であり春分(ゼロポイント)へと戻っていく魚座での新月を迎えました。このタイミングで月と水を司る神様である瀬織津姫の存在に想いを馳せるのは相応しいことだと思いました。
水は分け隔てなく世界を駆け巡っています。それはすべてに浸透している宇宙の法のような存在です。その動きを人間の意思で「分ける」ことが出来ません。そしてすべてを洗い流す力を持ちます。洗い流されることで「分けることが出来なく」なり「分からなく」なっていきます。そして、それこそが悟りへの旅路です。

今まで人間の自我が汚してきた宇宙の根本原理。それは自我の「分かっている」という自惚れから生まれています。今、多くの識者が世界を何とかしようとしていますが、「分かっている」立場にいたら宇宙の根本原理を汚し続けてしまいます。

だから僕は。

僕の自我が汚してきた宇宙の根本原理。今、それらをすべて洗い流し法則のままに生きていく。それは分からない道を行くということ。それが魚座新月を迎えての僕の誓いです。

瀬織津姫の舞@富士浅間木の花祭り


ただ出会う出来事を楽しんでいく(2)



日の出の位置が大分、富士山に近づいてきました。富士山の近くから登る太陽。その光景はとても美しいものです(^-^)

昨日、確定申告が無事済みました。僕は締切前日も確定申告の書類作りをしていましたが、記帳漏れの通帳を一つ発見しました。そこで自転車に乗って急いで銀行へ出掛けたのですが、帰り道に自転車のタイヤがパンクしてしまいました。忙しいところに予期せぬ出来事に出会いましたが、穏やかな気候の中、自転車を転がし周りの景色を眺めながら歩くのはとても気持ちのよい時間となりました(^-^)



2月に入ってから農事組合法人の決算、そして個人の確定申告と続き、ただひたすら帳簿に向き合う日々でそれはまさに駆け抜けるような感じでした。自転車のタイヤのパンクは「そのまま行くとパンクするよ」というメッセージに感じました。周りの景色、気候の移り変わり、世界の出来事を眺めながら歩むことで人生は豊かになります。

駆け抜ける必要がある日々はこれでもう終わりました。

確定申告から帰ってきた後、カフェ&ショップ ロータスランドに顔を出しました。みんな気にしてくれているだろうなと思ったから。そうしたらスペシャルプレートを作ってくれました。加えて、今週提供しているおまかせセットも少し味わいました(^-^)


スペシャルプレートを手にする僕。

ロータスランドにて今週提供しているおまかせセットです。

こういう特別なことに出会うと、それに足るヒトでなければ・・・と気持ちが引き締まりますが、どちらにしても未来は何が起こるか分からなくて思い通りにすることなんて出来ません。だからこういう時、出来事に焦点を当てて、こうでなければ・・・と思っても意味はないように感じています。大切なのは、ただニュートラルな心を維持することなのだと思います。嬉しいことに出会って調子に乗ったり、嫌なことがあって落ち込んだり、そんなふうにならずにニュートラルでいること。心は揺れ動くものですが、どんなに揺れ動いても、いつでもニュートラルな位置に戻れるように心掛けること。そんなふうであれば、何が起きるかをあまり気に留める必要はないのだと思います。すべてはただ相応しく学びのためにあるのだから。

ロータスランドは昨年の3月21日にオープンしましたが、その頃、僕は以下の文章を書いています。

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欲しいものを欲しいと素直に表現して手に入れる。

それって面白みがないことだなと思いました。
それは僕の求めている世界ではありません。

欲しいという想いは人智であり人智が叶うことは人智を積み上げていくことになります。その時僕の中には叶って欲しい、叶わないと嫌だという想いが育っていきます。
それって不自由なことです。

自分の想いは置いておいて出会う出来事をいただいていく。

そんなふうに生きていくと思いもかけない出来事に出会い感動するのです。その時、自分の欲しい気持ちなんてどうでも良くなっていってただただ出会う出来事を楽しむだけとなるのです。


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この言葉は今でも変わらず、僕の人生に対する基本的な姿勢となっていますが、自分の中には警戒感があったことに気づきました。欲しいと思う気持ちに囚われたり、それが増幅するのを恐れていたのです。だから特別なことがあると意識的に気持ちを引き締めてきました。でももう恐れる必要はありません。欲しい気持ちがあってもなくても、願いが叶っても叶わなくても、心がどんなに揺れ動いても、そこから離れてニュートラルな状態に戻っていく。そういう力を僕は育んできたし、これからもずっと育み続けます。だから心の赴くままに生きていきます。その結果どんな出来事に出会っても、どんなに心が揺れ動いても、ニュートラルな位置に戻って学び続けていこうと思っています(^-^)


想いを手放し、想いのままに生きる

僕は今、確定申告の準備をしていますが、締め切りが間近に迫る中、国税庁長官の佐川氏が辞任しました。学校法人「森友学園」への国有地売却問題での決済文書書き換え疑惑を受けてことで、佐川氏は売却問題が発覚した昨年の2月、理財局長を務めていました。財務省は書き換えの事実を認め、そして佐川氏は国税庁長官を辞任しました。佐川氏が自らの意志で書き換えをするとは考えにくく、それを指示した存在がいたと思われます。

決済文書を書き換える行為は作為です。そして佐川氏の辞任にも「トカゲの尻尾切り」という作為が感じられます。

こうしたい、こうなって欲しいという気持ちがあるからそうなるように作為をするわけですが、その作為が上手くいく保証はどこにはありません。作為は自分の視点からするわけですが、自分の欲に縛られれば縛られる程、その視点は狭くなっていきます。そのため作為は思いがけない結果を生み出し、結果に対応しようとして新たな作為が生まれ・・・というように自分の欲に縛られると結果に翻弄されるようになっていきます。

今、森友学園問題は上記のような状況にあるように思われます。そして、それは今の社会を象徴する出来事と言えます。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分たちのこうしたい、ああしたいという想いが自分たちの意図を超えて今の問題を生み出しているのです。そして何とかしようとするのですが、その想いも大抵は同じレベル(自分視点)でなされます。そうすると何とかしようという気持ちが今の問題を維持しているとも言えます。人は問題を通して学ぶのでありそのことを必ずしも否定的に捉える必要はないのですが、ある程度学んだら想いをリセットする必要があります。そうでなければ人は、自らの想いが生み出す想いもよらない結果に翻弄されたままとなります。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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人がこの世界に誕生する時、自分の意図は介在しません。みんな、自分の想いもよらない出来事によりこの世界に生み出されます。想いもよらないことによって世界は動き、僕らは生かされているのです。だから僕は想いを手放します。

上記は自分の視点から、思惑や感情を離れて見た事実です。

ですが他者から見たら違う景色も見えてきます。他者からすると、僕の想いが想いもよらないものともなります。ただ他者の期待に沿うのではなく、想いもよらない喜びを生み出すことも出来ます。そのためには想いのままに行動することが大切で、だから僕は想いのままに行動します。

想いを手放し、想いのままに行動する。

話すことは放つことです。想いのままに話し、話すことで想いを手放す。そうすることで、想いのままに生きるとともにその想いを手放していこうと思っています。

農事組合法人の決算や確定申告の準備のために長いこと大人ミーティングをお休みしていましたが、もうすぐその期間も終わります。ミーティングで、みんなで語り合い場創りをすることで、「みんなで」という波動を世界に広げていく。大人ミーティングはそんな場です。

長いお休みの中で培った僕の視点、それを想いのままに語ることで、僕はその想いを手放していきます。そうすることで僕は、自分の想いもよらない人となり想いもよらない人生を歩んでいくことになるでしょう。そんな人生を楽しみます(^-^)


木の花ファミリーのみんな、1ヶ月間の真学校受講生と。


すべて美しく、すべて意味があり・・・

3月7日の誕生日、僕は1ヶ月間の真学校「経済革命」の講座に講師の一人として参加しました。講座の冒頭、いさどんはこんなふうに僕を紹介しました。以下、「当たり前の仕組み・お財布ひとつの経済」からの引用です。

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経済とは、お金の流れです。では、木の花の中でお金の流れはどうなっているでしょう。
木の花の中のお金は、ひとつです。皆さんの会社や家庭の中で、お金はひとつではないでしょう?でも木の花では、お金はひとつなのです。みんなでひとつの財布です。つまり木の花の経済は、私たちの体や地球、太陽系、銀河、宇宙の仕組みと同じなのです。それはこの世界の仕組みそのものですから、当たり前のことですね。ところが、この当たり前のことが今の人間社会にはできないのです。
僕はいろいろなエコビレッジなどに招待されて行くことがありますが、皆さんのところではお財布はひとつですか、と聞くと、そうではありませんね。たった「財布ひとつ」ができない。なぜだかわかりますか。それはスピリット、つまり、心がひとつではないからです。
木の花の経済は「財布ひとつ」ですが、それを循環させる心臓の役割を今日は連れてきました。
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経理のなかのんです。木の花の心臓です。よろしくお願いします。
(みんな拍手!)

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そして、話はこんなふうに続きました。

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みかこ:
金は天下の回り物、と言いますね。

いさどん:
おもしろいですね。「天下」とは天の下、つまり地上のことですね。
木の花の経済は「目から鱗」と言いますが、実は当たり前のことです。天の恵みを世の中に広げる、天然循環経済。その基本が、財布ひとつということです。
財布ひとつと言うと、みんなびっくりします。でも、地球の水はひとつですよね。液体だったり個体だったり気体だったりしますが、それは循環しているだけで、ひとつです。空気もひとつですね。今私たちは、ひとつの空気を共有しているじゃないですか。これはみんなの中を循環し、みんなを健康にするものです。そしてこの世界をひとつにします。お金もそうでなければなりません。それは、私たちの体を流れる血液と同じなのです。

もしも皆さんの会社や所属する組織がお財布ひとつだったら、とても便利がいいですよ。自分の貯金なんて確保しなくていいのです。お金が必要になった時に、お財布の中身が足りない、どうしようなんて考えなくても、全体のお財布から持ってくればいいのです。その代わり、自分が日々働くことは全体のためであり、お金も全体に入ります。自分は全体のために働き、自分が何かを必要になった時は全体から供給されます。ということは、自分のためだけに、なんて考えなくてもいいのです。とても楽だと思いませんか?とても楽で理に適った当たり前のことですが、それを聞いてみんな驚くのです。


でも皆さんは、そんな世界を求めているのではありませんか?

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いさどんと一緒に講座を創れたことはとっても素晴らしい誕生日プレゼントとなりました。いさどんは僕を引き立て、そしてその場を豊かな時間にしていきました。この日の夜、僕は「経理を通して社会と響き合っていく」を大人ミーティングでシェアしましたが、その場もいさどんは僕を引き立てながら楽しく豊かな時間を生み出しました。

木の花ファミリーの経済は頭でこうしようと思って生み出されたものではありません。心をひとつにして暮らし、社会と対話する中、生み出された仕組みです。だからずっとこれで固定するわけではなく社会が変化すればそれと呼応して木の花の経済も変化していくことでしょう。ただその土台は変わることがありません。それは「心が一つ」ということであり、自分を超えた大いなる意志の下、みんなで繋がり分かち合う生き方です。

誕生日、たくさんの人に祝って貰って幸せな気持ちになりましたが、普段の日から美味しい食事や温かい心に包まれ毎日幸せに暮らしています。それは分かち合う心が生み出す豊かさです。生きていれば都合の悪いことも起きますが、それは自分の視点から見ているから都合が悪いのであって、大いなる意志に心を向けたら、すべての出来事は祝福です。そして生きていることは意図せずに実現していることです。僕の意識の知らないところで僕はこの世界に生み出されました。生きていることは自分の意図を超えています。だから「こうでなきゃ・・・」という想いや「自分が・・・」という想いを超えて、この世界に心を溶かしてみんなと心一つで生きていこうと思いました。

誕生日、友人の川崎くんは今年もこんなメッセージをくれました。

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Happy Birthday!! Whatever is beautiful, whatever meaningful, whatever gives you happiness.May all that be yours, today, tomorrow & forever .

(誕生日おめでとう!! すべて美しく、すべて意味があり、すべてがあなたに幸福をもたらします。今日と明日、そして永遠にそれらがあなたのものでありますように。)

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僕は一人の人間だけれども、同時に永遠の表れでもあります。そして、すべては美しく、すべては意味深く、すべては尊い。「自分が・・・」という想いに囚われなければ、そんな世界が見えてきます。僕は永遠の表れ。永遠という時空であり時空を超えた世界の一つの彩りなのです(^-^)


経理を通して社会と響き合っていく

先月、プロセスワーカーのとこさんは還暦を迎えましたが、とこさんが誕生日にあたり書いた言葉がとても印象に残っています。以下その一部を引用します。

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兎に角、言いたいのは、年齢だから起きてると思う症状を歳のせいにするより、その症状がシステムに自分がどう加担してるかにいかに関係してるかっていうアウェアネス(気づき)を持ちたいと思う方が、とこにとっては大事ってこと。

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システムという言葉は社会とも言い換えることが出来ると思うのですが、一人一人の身体症状や課題は社会の影響を受けていて、社会の表れとも言えます。と同時に、一人一人の総和が社会なわけだから、自分のあり方は今の社会のあり方に何らかの形で加担しているわけです。人は症状に出会うと自分を被害者のように感じるものですが、無意識を含めた自分の総和がその症状を選び、そして自分一人分、今の社会に影響を与えているのです。そこを見極めていくことはとても大切なことだと思っています。

それと同時に大切だと思っていることは、症状をネガティブに捉える必要はないということです。ネガティブに捉えるのは、善い悪いという発想に囚われているからで、すべてはただ相応しくあるだけなのです。だから単純に症状や問題をなくそうとするのではなく、症状や問題を生き抜きその奥を見通していこうと思っています。その時きっとこの世界の神秘が花開いていきます。




ここで社会と自分の関わりについて書いてみようと思います。僕ら木の花ファミリーはお財布一つでみんなで暮らしています。誰がお金を持っていてもそれをみんなのお金として扱い生活しています。どこにあっても誰が持っていてもみんなのお金で、そのお金を通してみんなの生活を支えています。自分が持っていても他の人が持っていても同じことだからみんなお金のことを気にせずに暮らしています。その暮らしは今の社会に対する一つのメッセージとなっています。

と同時に僕らは日本社会の中で生きているので、日本の法律に基づいて暮らしています。日本の法律では、課税の基準としてお金の所有者や動きを明確にすることを求めています。その求めに応じて、たくさんの人が集まって一つになっているお金の動きを分類し所有を明確にしていく作業を僕はしています。それはとても複雑な作業なのですが、今の社会を表しています。一人一人が所有権や望みを主張することで、本当は単純で美しいこの世界を人間は複雑で情にまみれたものにしています。そして余計な仕事を生み出し仕事に追われる生活をしています。今、お金はお金を管理する仕事を生み出していますが、世界のお金がみんなのお金になったら、どこにあって誰がもっていてもみんなを支えるだけならば、多くの手続きが不要になりこの世界のトラブルも半減するでしょう。ですが、今の人々は、個人個人の幸せそして個人個人のお金を求め、それが生み出す忙しさを受け入れています。それが今の社会の選択で、その社会と連動して僕は忙しさを引き受け心や身体に負担を掛けている、そんなふうに思っています。そして、それは僕の主体的な選択であり大切な役割だと感じています。

この世界の神秘は現象の奥にあります。だから極端なことを言ってしまえば、現象としては何が起こっていてもいいのです。大切なのは、その現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。

僕は今の社会へのメッセージとしてお財布一つの生活を送りながら、それと同時に、経理を通して今の社会の複雑さを生き大変な思いをしています。その大変さは、人間が歴史の中で生み出してきた複雑さであり、彩りであり、混乱であり、多様性です。僕の忙しさの奥には今に至る人類の物語が流れているのです。僕は現代社会に生きる一員としてその複雑さを生きています。と同時に、僕は他の世界、お金から自由な世界も体験し知っています。だから僕は目の前の現象から離れ現象の奥を見通すことが出来るのです。

ここには危うさもあります。僕が目の前の作業に埋没し、ただ忙しく働くだけならば、それは今の複雑な社会に加担するだけとなり、下手したらワーカホリック(仕事中毒)にもなりえます。こうなると僕は社会の犠牲者となり、そのことで社会を犠牲にするようにもなります。ですが現象の奥を見通しその視点を持って忙しい毎日を送れば、そこから「気づき」が生まれこの世界へ光を差し込むことが出来るのです。

突破口は気づきにある

僕は昨年の10月、以下の文章を書いています。

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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。


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現象の奥にはすべてを生み出す元の世界があり、そこには常に希望があり、世界に変化変容をもたらしています。ですが、人が今の想いに固執すると、その動きが停滞し問題となって表れるのです。今、多くの人が自分の想いで心をいっぱいにしています。そして、一人一人が自分の想いを満たそうとして社会がどんどん複雑になっていきました。僕は経理を通してそんな複雑な社会を経験していますが、同時にそこから離れ現象の奥へと目を向けています。だから僕の中には気づきがあります。

今年の2月、カフェ&ショップ ロータスランドがオープンしたことで経理上はとても複雑になった木の花の経済に向き合う中、僕は39.5℃の熱を経験し、オフィスの引越しを経験し、祖母の死を経験しました。熱の中も仕事を続け、日帰りでさいたまの祖母の葬儀に立ち会い、最後は5日間で7時間という短い睡眠時間(横になった時間でウトウトした時間はもっとあります)で働き続け法人税(農事組合法人)の申告を済ますことが出来ました。僕の中には最初、この状況に対する怒りが生まれていましたが、次第に神様の計らいを感じるようになり「いただく心」を育んでいきました。それはとても濃密で有難い時間で僕はこの時間を通して自分が傍楽(はたらく)意味を再確認しました。

働く(はたらく)とは、人が動くことであり、自分を超えた大いなるネットワークの中で役割を果たし、傍(はた)を楽(らく)にしていくことです。そこに「自分が」という想いは必要なく、空っぽになってただ与えられた役割を坦々と果たすだけ、そしてそのことを通して現象の奥を見通し、この世界に気づきをもたらしていくのです。

傍(はた)を楽(らく)にする。

他者のために生きる

それはただ物理的な行動だけではなくこの世界に気づきをもたらし新しい動きを生み出すことです。自分の想いでいっぱいの行動は、最初はスムーズに動いたとしてもいずれこの世界に停滞をもたらします。だから常に自分を離れ現象の奥を見通す心が必要で、これからもずっとそんな心を育み経理を通して社会と響き合っていこうと思いました。

もうすぐ僕は43歳になりますが、誕生日は現象としての自分がスタートした日です。現象としてはそこがスタートですが、現象としてこの世界に顕れる前に、魂としての自分は存在し続けていました。3月7日の誕生日を前にして、そこに想いを馳せています。

大切なのは、現象を生き抜きその奥にあるメッセージを掴むことです。だから現象は何が起きてもいいのです(^-^)


木の花ファミリーのみんなです。

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