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失った天意を人間社会に取り戻す

最近、アメリカでの麻薬の害悪について書いている記事を2つ読みました。まず一つ目が、「新MUのブログ・米国は麻薬によって滅びることになる」です。以下、少し文章を引用してみます。

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世界の貧困から見るとアメリカは豊かな国ですが、薬物犯罪は増加傾向にあり、薬物が原因での死亡者も増え続けます。中南米から、毎日かなりの量の麻薬がアメリカに入っているのも感じます。麻薬戦争は、今年あたりから激しさを増すことでしょう。

メキシコとの国境に塀を建設すると言ったトランプ大統領の考え方は、もしかすると正解だったのかもしれません。私の見える限りでも、アメリカとメキシコの国境には抜けられる穴場があちらこちらにあり、薬物を持ち込むのも容易です。政界人や国の仕事をしている人の中にまで、この麻薬依存症の人がいたりする気さえしています。(中略)


アメリカの国力をも低下させるのがこの麻薬です。刑務所が罪人を収容できず、本体なら刑務所入りの麻薬常習者を放置しているとしか思えません。世界はこれから麻薬との戦いを迎えることと思います。日本でも、大麻や覚せい剤の使用者は増加すると心配しています

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もう一つが、「In Deep・西洋社会で次々と合法化されていくドラック・・・」で、この記事では、米国での薬物(オピオイド)の過剰摂取で死亡する確率が、自動車事故を上回ったという事実を紹介しています。以下、記事の一部を引用します。

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現在のアメリカは、
「自然災害で亡くなる人は 3万人に 1人」
なのに対して、
「自動車事故によって亡くなる人が 103人に 1人」
「銃で撃たれて亡くなる人が 285人に 1人」
そして、
「オピオイドの過剰摂取によって亡くなる人が 96人に 1人」
という国となっているのです。
「オピオイドの中毒の人が 96人に 1人」なのではなく、「死んでしまう人が 96人に 1人」なのです。
驚くべき数字ではないでしょうか。
ここから考えますと、今のアメリカでは「何人に 1人がオピオイドを常用しているのだろう」と考えます。
先ほども書きましたけれど、これは合法薬であり、手に入れることがものすごく難しいものというわけではないはずです。
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この記事では、上記の事実が、ジャック・アタリの以下の言葉の顕れであると考えています。
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《麻薬の合法化》
大衆は、不安定で無意味な生活から逃れるために、娯楽、そして麻薬に溺れるようになる。
20年後(2026年)には、多くの国境が閉鎖され、生涯の雇用が保証されることもなく、結婚することもできない生活の中で人々は暮らしていく。
そのような生活の中では「娯楽」が人々の主要な逃避先となる。
取り憑かれたかのように娯楽に没頭するものや、一日中、画面の前から動かない人々。
そして、娯楽と共に、麻薬が次々と合法化され、多くの人々は生活の中の逃避先として麻薬に没頭する。
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ジャック・アタリは、大衆は、不安定で無意味な生活から逃れるために、娯楽と麻薬に溺れると書いています。人類は自然環境の厳しさを克服するために人口の社会を築いてきましたが、それは自然からの逃避の側面もあり、それが行き過ぎたのが、現代社会と言えます。自然は天意の顕れであり、そこから逃れることで、人間社会は天意を失い不安定で無意味なものとなっていったのではないかと思います。そして、そこからさらに逃れようとしているのが、米国の姿で、それは地獄に向かって進んでいるようなものと言えます。そして、その姿は他の国々にも広がろうとしています。
失った天意を人間社会の取り戻すこと。
そこにしか人類の未来はないのだと思います。昨晩、ジイジは以下のような言葉を僕に語ってくれました。
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やっぱり天意で生きる。それは所有しないということ。どうなってもいいという開き直り。こだわりがないということ。それが天意で生きるということ。常に現象をいただき、現象から学ぶことで天意を知っていく。

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こだわりがあって現象を受け入れることが出来ないから、人間は逃避をするのだと思います。そして人間社会は天意を失い、自然環境は破壊され、生活は不安定で無意味なものとなっていったのです。現象と向き合い現象をいただくことで、初めて現象の奥にある天意は見えてきます。今の人間社会はそのような姿勢から生まれる暮らしを必要としているのです。僕が暮らす木の花ファミリーは、世界全体から見たらささやかなものですが、そのような暮らしを営んでいるのです。

その暮らしはきっと多くの人にとって未来への希望となると信じています。

木の花ファミリーのみんな@にちわの結婚披露パーティです。

この世界は鏡(かがみ) ‐ 神(かみ)と我(が)が出会う場所

木の花ファミリー通信2018年冬号のテーマは、「死生観第四部・性~すべてのはじまり」です。以下、その一部を引用します。

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私たちの生きる世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されています。この宇宙創造の原理を、性と言います。性という字は、「忄(こころ)」が「生きる」と書きます。「忄(こころ)」は、中心に天から柱が降り、その左右に陰陽の相反するエネルギーが生まれることを表しています。それは、天(宇宙)の心です。そして中心に立つ柱は、この世界を成り立たせている天の法則です。天の柱のもとに、陰陽の対向発生によって現象化が起きる仕組みを、天の心と言います。

そもそも、私たちはなぜ生きているのでしょう。それは、私たちを生み出し存在させているこの世界が、先にあるからです。

現代の多くの人々は、自分の力で生きていると思っています。しかし真実は、この世界があるから自分が存在しているのであり、この世界に存在するありとあらゆる生命、物質、現象、そして私たち人間も、すべてはこの世界を創造する天の法則のもとに生まれ、その法則により維持され、世界が成り立っているのです。その仕組みに沿い、それを柱として生きる生命の本来あるべき姿が、性という文字に示されているのです。

ところが現代の人々は、性を大きく取り違えています。自らを生かしている世界の仕組みに沿うのではなく、内から湧き出す自我の欲望を満たすうちに、人々は法則の存在を忘れ、性をストレス解消や快楽を得る手段ともするようになりました。そのように欲のままに行うことで後ろめたい心が生まれ、性は隠し事となり、歪められ、ついには売春やレイプのように本来の姿からはほど遠いことまで起きるような、真実とはかけ離れたものとなってしまったのです。性という創造のメカニズムが狂うことで、そこから生まれる世界のすべてが狂っている ──── それが現代社会の根本にあり、そのあり方を切り替えない限り、世界が健全になることはあり得ないのです。

私たちは性を通してこの世界に生まれ、性を通して次の時代に命をつないでいきます。それは、私たちが生命として誕生し、世界を維持し、時代をつなげていくために欠かすことのできない命の根本原理であり、神聖なものです。私たちの原点は性にあり、本来、人間に備わっている本能的欲求は、人間の尊厳を高め、生命世界に寄与するためにあるのです。

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この世界は、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」の原理によって創造されていて、この宇宙創造の原理が「性」であり、すべての現象はそこから生まれます。人間の自我もそのような原理の中で生み出されたものであり、それは天と相反するものとして存在します。その存在目的は、天から離れるためではなく、天と共に新たなものを生み出すためにあるのです。ところが、自分で生きていると錯覚した人間は、天の法則を忘れ、自分の都合の良い世界を作ろうとすることで、天から切り離され、孤独となっていったのです。天とはこの世界そのもの。自我にとってすべての存在は本来、「対向発生」を生み出すパートナーであり、この世界で出会う出来事はすべて深遠なる真理へと向かう旅の途上にあるのです。そのことを木の花ファミリー通信2018年冬至号には、以下のように述べられています。

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万物は、パートナーシップの仕組みによって成り立っています。私と宇宙、私と太陽、私と月、私と地球、私と土、私と空気、私と水、私と生命、私と心臓、私と手、私と足、私と動物、私と植物、私と微生物、私と誰か、そして、私とすべて。私たちはいつも、すべての存在と共に生きているのです。それぞれの関係性に、遠い近い、濃い薄いはありますが、どれも欠かすことのできない大切なものであり、それがあるからこそ、今、私たちはここに存在しています。この世界に、単独で存在しているものは何ひとつありません。なぜなら、宇宙の本質はつながることにあるからです。つながるとは、善意であり、私とすべては善意による深い絆で結ばれ、そのつながりの中で生かされているのです。

そのようにこの世界の成り立ちを捉えた時、世界に孤独は存在しないことが観えてきます。今、多くの人々が、自分と世界をつなぐ絆を見失っています。目に見えるものだけが大切になっていく時代の流れの中で、たくさんの存在とのパートナーシップによって生かされていることが観えなくなった人々は、「自分一人の力で生きている」と錯覚するようになり、自分だけの幸せを追い求めるようになりました。その結果、社会に格差をもたらし、優劣の概念を生み、私たちの命を育んできた地球生態系さえ傷付けるようになりました。地球生態系は、今も変わらず私たちの命を育んでいるにもかかわらず、その絆は人間の側から一方的に分断されています。こうして現代は、多くの人々が絆を見失った孤独な人生を生きるようになりました。


しかし真実は、私たちは宇宙根本原理の性という、天の心を顕わす仕組みを通し、それぞれにふさわしい位置と役割を与えられ、他のたくさんの存在たちと共に、この世界へと生み出されました。その無数のパートナーシップが連鎖していくことで世界は成り立っており、最終的には、すべての存在が天との対向発生の中にあるのです。そのことに気付いた時、世界にはもはや、孤独は存在しません。そしてあなたの周りに存在するすべての関係が、宇宙の深遠なる真理へと向かう、深い学びの機会を提供してくれます。良いと思えることも悪いと思えることも、すべてはあなたとのパートナーシップを通し、真実に目覚めさせるための善意の心から発生しているのであり、その対向発生の中心には必ず、天の柱があるのです。

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人間は長らく、自分の都合の良い世界を求めることで、多くのものを封印し、一面的な世界を創って来ました。国常立尊(クニノトコタチ)、瀬織津姫(セオリツヒメ)などの神様はその象徴で、道理や女性性が封印されることで、欲望に基づく物質的豊かさ一辺倒の世界が生まれ、心が蔑ろにされてきました。今、世界各地に起きている自然災害は、そんな人類の姿勢に対する相応しいメッセージであり、気付きを促しているのです。

今、国常立尊(クニノトコタチ)や瀬織津姫(セオリツヒメ)の封印が解かれることで、道理や女性性が復活した世の中が訪れようとしています。神とは物理性であり、この世界の法則そのもの、つまりは天の法則です。天と相反するものとして生み出された人間は、神様を封印することで、天の法則を蔑ろにしてきましたが、これからは天の法則の元、相反するものが互いを生かし合い、新しいものを生み出し続ける時代となっていきます。

神(かみ)の中に我(が)が入ると鏡(かがみ)となります。この世界は、神 - 天の法則と我が出会う場所、鏡なのです。そのことをジイジは以下のように表現しています。

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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。

 ~ 中略 ~

生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。


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この世界は鏡、そこは、神 - 天の法則と我が出会う場所であり、パートナーシップの仕組みの元、すべてが善意による深い絆で結ばれている世界です。そこで人は、我(が)を存分に表現する自由を与えられていますが、それは天の法則から離れるためではなく、天の法則を学び、天との「対向発生」を生み出すためにあります。そこで僕が取る姿勢は、「思い」を表現しながら流れを観ていく姿勢で、ジイジの言葉を借りるとこんな感じとなります。

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そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

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性とは、陰と陽の相反する二つのものが互いを成り立たせ合う「対向発生」により新しいものを生み出すこの宇宙創造の原理のことですが、それを健全なものとし、世界を健全にするために、我を持つ自分と相反する存在である天の意志を探り、天の意志に沿っていくのです。そして「思い」を表現しながら、常にいただいた結果を今の自分の答えとし逞しく生きていきます。




僕と父と木の花ファミリー(2)

僕と父と木の花ファミリーに書いたように、僕はつい最近、自分の中で両親と再会する体験をしました。それはこんな感じです。

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近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

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僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持っていて、そこには共有できるものがありませんでした。そして、僕が大きくなるにつれて、実際の心の距離はどんどん膨らんでいて、そこには冷たい空気が流れていまいした。僕と両親とでは、見ている世界が違っていました。両親の僕への愛着は絶対的でしたが、そういう現実を直視することはなくて、感情の交流という意味では貧しいものでした。そして、それは僕がずっと抱えてきた理屈を超えた愛着にも言えることで、現実の中で他者と共有できる価値のない愛着は彩りがなく貧しいものです。そして、それが僕の人間性の原点となっています。

僕の中での両親との再会は、僕の人間性との出会いであり、それは痛みを伴いましたが、現代社会の反映でもあり、そこと向き合うことが大切だと思いました。人は、便利な世の中を作ることで、好き勝手に想いを持つことが出来るようになりましたが、その結果、社会には分断と孤立が溢れています。物質的には豊かになりましたが、人々の関心は欲得に集まり、精神的にはとても貧しい世界となっています。自分の願いを叶え、何かを獲得することに価値が置かれ、他者と共有する喜びは蔑ろにされています。そういう世界を反映して自分の人間性があり、だからこそ、自分の人間性にメスを入れることは世界にメスを入れることになるのだと思っています。

木の花ファミリーは、すべてを共有することを心掛けているコミュニティです。すべてを共有した上で調和して暮らすためには、一人ひとりが自分の立場を離れ、みんなで共有できる価値を育む必要があります。そのような心を育むことで、分断や孤立へと繋がる貧しい想いを超えていくことが出来るのです。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

僕を木の花ファミリーに送る道中で、父は僕にそう呟きました。その瞬間、僕らは大事を共有し、心の距離は近づきました。物理的には離れ、それぞれ全く別の道を歩んでいますが、お互いを尊重することで心は近づいているのです。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それはすべてのヒトが共有出来る真理です。そしてそれは「ひとつならりのいのち」を表現していて、この世界の豊かさは循環の中で表現されます。その真理に基づき、みんなが共有できる価値を育んでいこうと思っています。


今朝のお月様。昨日はふたご座満月でした。

僕と父と木の花ファミリー

11月のはじめ、ジイジはこんなことを話していました。

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テレビは今の社会情勢を知るには、すごい情報源だよね。ここにいていろいろなところのことが分かるのだから。でもマスメディアは自分たちの都合のよいニュースを流すのでその点は注意をする必要がある。

この前テレビで、インターネットのいろいろな問題について取り上げていたんだけれども、インターネットの世界では、何か一つのある情報が入ると、それに酔ったように人々は反応して、そればかりを検索するようになる。今のインターネットは何かの情報を検索すると、そういう情報が自動的に集まるようになっている。そうすると、そのような情報ばかりに接して、同じような人たちが集まるようになってくる。集まって、「世の中みんな自分と同じ考えだ」というようになって自分が正しいと思うようになる。ある大学の先生はこのようなことを研究して、何か強い意見があるとみんなが集まってそこに偏った集団が出来る危険があると言っている。そういう例としては、ヘイトスピーチやバッシングなどがあるよね。

それで別の研究者は同じ現象を見て、別の危惧をしている。ネット上では、みんながそれぞれ自分の考えを持っていて、例えば人を批評しても反論が来ない。そうすると相手がどのような感情を持っていて、実際がどうなのかも関係なく、自分の感情でどんどんどんどん主張できるから、自分の考えが暴走していくことになる。それで一方的に言う人がどんどん増えてきて、そこに偏った人たちが集まっていく。そうすると逆に、共通の生き方がなくなっていって、万人に共通したモラルや価値観を持って人々を束ねていく。そういうことが出来なくなってバラバラとなっていく。

片一方では、強い意見があると人が集まって偏ってしまうという現象が起きて、その傾向は逆に、本当に信頼すべき正しい意見がなくなり、バラバラの世界となって表れている。矛盾する問題ばかりが起きているのが今のインターネット社会。そのことに対して現状では打つ手がない。だけれども、ささやかだけれどもこういう世界を創ればいいという答え、それを示す必要がある。

研究者の多くは、自分は賢くて、自分は正しいという立場から意見を述べている。けれども、その前提になっているのは、金や社会的評価が絶対の社会、その中で切り捨てられる人間の本質が見えていない。ものが見えているようで、全く見えていない状態と言える。すごい賢い人たちが集まってすごいバカな世界を創っている。

そこでどうしたらいいかと言ったら、自分たちが生きているではなく、生かされているということを知ること。どんなことをしても時間の流れはどうすることも出来ないし、老いていく自分を止めることは出来ない。人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。だから自分が賢くて生きているという錯覚を手放さなければならない。でも今の人間はそれがなかなか出来なくなっている。

人間が自然の恩恵に感謝して、真剣に神経を張り巡らせて生きていた時代、そういう時代から、人間は賢くなって、この世界から不都合なものをなくしていって、気軽に言いたいことを言える世の中になっていった。その結果、一番大事なもの、共通の価値、共通の生き方を失っている。今の社会は人間が賢くなった結果、最も愚かしいところに来ている。

共通の価値観の元に集える場所がなくなったしまった今、そういう場所を生み出しているのがこの場と言える。それはささやかな動きだけれどもとても大切なこと。現代のメディアの情報から、その奥を見ると、この暮らしの大切さの確認となる。

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ここで話は変わって。

最近、自分の中で両親と再会する経験をしました。父親は、「あなたの未熟もみんなに役立つ」にも書いている通り、僕に対してとても強い愛着を持っていました。そして、母親は、表面にはあまり出しませんでしたが、同じように強い愛着を僕に対して持っていました。そんな彼らの気持ちに対して、僕は冷めた視点で眺めていました。彼らは実際の僕を見ているわけではなくて、彼らが創り上げたイメージに愛着していると感じていたからです。それで昔の僕は、実際の自分を見て欲しいと感じていました。

木の花ファミリーに移住する時、両親は大反対をしました。それは木の花の暮らしに対する反対ではなくて、ただただ僕が離れていくことに対する反対でした。それでも僕の意志が固くどうすることも出来ないと分かった時、両親は僕の引っ越しを手伝ってくれました。そして父親は、車に荷物を積んで僕を木の花ファミリーまで送ってくれたのですが、その時、ぽろっと一言、「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」と呟きました。その一言はとても印象に残っています。

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

この理屈を超えた愛着は何なんだろうなと思います。現実の姿と関係がないという意味では、これも一つの幻想で、絶対的なものという感覚に酔いしれているのではないか、そんなふうにも思えます。

ここで話は最初に戻って。

インターネット社会では、人々は好みの情報に酔いしれ、偏っていく傾向があるのですが、それは現実と離れた幻想の世界を生み出していきます。一人ひとりが自分の見ている幻想に愛着を持つことで、社会からは、共通の価値観が失われていきます。今、世界には、他者とは共有できない愛着が溢れているように思えます。それは、人間がこの世界から不都合なものをなくしていった結果、好き勝手な思考が出来るようになったためで、その過程で、共通の価値、共通の生き方が蔑ろにされてきたのです。

僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持ち続けていました。そこに共有できる価値はありません。それでもその想いは両親の生きがいでした。理屈を超えた愛着。それは否定するものではありませんが、誰の幸せにも繫がりません。そして、これは愛着であって愛ではないと思っています。

愛とは、客観性であり、共通の価値であり、すべての人を幸せに導くものです。それは、道理に基づき、理に適ったものです。僕を木の花ファミリーへと送った時の父の言葉。僕は、この言葉から初めて父に「真実を見通す目」を感じました。そして、そこに父の僕に対する愛を垣間見ました。そこには共有できる価値観、客観性があります。

今年の2月、祖母がなくなったため、実家に帰って両親や親戚と会ってきました。親戚たちの僕に対する愛着は強く、多くの人が「いつ戻ってくるの?」と尋ねてくるのですが、両親がそんなことを言うことはありません。そして、すでに退職している父は、毎朝、ジョギングをして汗をかき、一人で車に乗っていろいろなところに出掛け、近くに住む妹家族との交流を楽しみながら健康的な生活をしているようでした。そこに僕は必要ないでしょう。

両親の中に僕に対する愛着がなくなったのかどうかは分かりません。ですが、ほとんど会うことがなく別々の人生を生きる今、それを確認する必要はありません。お互いがそれぞれに相応しい道を歩んでいます。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

父がそんなことを呟いたのは、あれが最初で最後です。それは一瞬の出来事だけれども僕らは大事を共有しました。それは世間一般の暮らしを楽しむ父の、心の奥底に潜む真実の声だと思っています。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それは客観的事実であり、心を開けば、みんなが共有できる事実です。僕は木の花ファミリーのみんなと、客観性の元に共有出来る価値を積み上げていきます。それは僕だけの志ではなく、両親の心の奥底に眠る志であり、きっと目覚めれば、全人類共通の志ともなるものです。

だから僕はそんなふうに生きていく。

それは天との約束、この世界との約束、父や母との約束、木の花のみんなとの約束、そして自分との約束です。

木の花ファミリーのみんな@サツマイモ収穫

五感や情動に「命=ミコト」を吹き込む

この夏、韓国の子どもたちが木の花ファミリーを訪れました。

8月を迎えて、木の花ファミリーではジイジから子どもたちに戦争について話をする時間が持たれました。以下のその一部を引用します。

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皆は、学校の勉強をしていますね。学校の勉強をして、将来大きくなって、大きい会社へ入って、そこで良い製品を作って、それがたくさん売れたら、お金をたくさんもらえますね。その会社が爆弾を作る会社だったら、効率良くたくさんの人を殺す爆弾を作ったら、お金をたくさんもらえるのです。

たとえば、食べ物が安全でないものなのに、皆がたくさん食べたがるようなものをたくさん作るとします。そういう食べ物はコンビニなどでたくさん売られていますね。そうすると、安全でなくても、皆がたくさん食べたがるものを作ったら、会社は儲かって、これを作った人たちは給料をたくさんもらえるのです。だから、体に良いものではなくても、人がたくさん欲しがるものを作れば、お金になるのです。そういった食べ物をいつも食べないといられない人も出てきます。これを中毒と言います。そういった中毒の人がたくさん出てくるような食べ物を作れば、会社は儲かりますね。そして、それを考えた人はお金がたくさんもらえますね。お金がたくさんもらえたら、その人は優れた人になります。頭が良い人ですね。

~ 中略 ~


今日は、戦争の話をしようと思ってこの場に臨んだのですが、戦争のほうがわかりやすいですね。人と人が殺し合って大変なことになるのです。普通の人が「私は戦争なんかしていません。悪いことは何もしていません。お巡りさんにも捕まることはありません」と言いながら、他の生き物をたくさん殺したり、それどころか、「おいしいものを作ったから食べてね」と言って、そこには添加物や毒がたくさん入っていて、そういったものを長い間をかけて食べていると、それが原因で病気になって死ぬこともあるのです。癌が発生するのは、食べ物が原因で起こることが多いのですよ。そうしたら、食べ物を作っている人が癌ができる食べ物を作り、結果、人を殺しているのです。それは、誰がやっているのかといえば、頭が良い人です。学校で勉強ができる人です。


だから、皆は一生懸命勉強して、これからはそういった人にならないように、戦争が起きないように、他の生き物に迷惑をかけないように、地球がどんどん変になっていかないように、そしてそれを直していける人になってもらいたいと思うのです。今までの人間は、結果として悪い世の中にするために生きていたのです。


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ここで話は変わって。

2005年の夏、僕はハワイ島の小田まゆみさんのところで1週間ぐらい過ごしました。そのトキ、自分自身と向き合うツールとしてDakiniカードを紹介され、僕は毎日1枚ずつ引いていました。

「自分の女性性と向き合う」

ハワイ島ではそんなことをテーマに過ごしていたのですが、その中で 48 White Lady / Mother of Pearl というカードを引いたことがとても印象に残っています。

このカードでは、顔の見えない女性が真珠を振りまいているのですが、「顔が見えない」というのは「顔を見せない」ということでもあり、彼女は隠れた状態、行為に責任を持たず、言い逃れが出来る状態を保っています。その状態で真珠を振りまいて人を惹きつけているのです。

最近、このカードをあらためて思い出しました。そして以下のようなことを思いました。

五感や情動に囚われ、五感や情動を求めると、それは欲となっていきます。食欲だったり、性欲だったり。そしてそれは時に過剰になることがあります。だけれども五感や情動の奥、ヒトとしての本質に目覚めれば、すべての行為は生きるための営みとなります。そしてそれは「命=ミコト」としての神聖な表現となっていきます。五感や情動から自由になることで、そこに「命=ミコト」を吹き込むことが出来ます。

カタカムナで見ると、「欲(よく)」とはよこしまや混沌が自由になっている状態です。そして、「命(みこと)」とは満ちて転がり出て統合したものです。

White Ladyが振りまく真珠は人の五感を刺激するものですが、彼女は顔を見せることがありません。それは魂、心の欠落した行為であるため、五感の満足だけがすべてとなり悪くすると五感の虜となっていきます。それは今の広告や宣伝で溢れる消費社会、頭の良い人がお金儲けをしている社会の姿と重なります。そこには欲、よこしまが渦巻いていますが、「命=ミコト」、満ちて転がり出て統合するものが欠けています。「命=ミコト」は常にこの世界を循環しています。みことの「と」、統合(10)は1+0=1で新たな始まりでもあります。新しいものに向かって転がり出る。それが統合で生きとし生けるものの循環を意味しているのです。

「命=ミコト」との繋がりを失った五感や情動はただの欲となり、それは他との繫がりを失い自分本位のものとなっていきます。この状態では一生懸命に努力をしても結果として悪い世の中を生み出すことになるのです。現代の消費社会は、人間をそのような状態へと絶えず誘惑していますが、それは戦争を生み出す心にもなりえます。

顔が見えない女性。それは女性性の封印を表しているのかもしれません。物質主義、効率主義、そして社会的成功を求める男性社会の中で、真の女性性は蔑ろにされ、その個性が封印され顔がなくなっていったのかもしれません。女性が持つ本質は蔑ろにされ、五感や情動の対象となっていく。White Lady はそんな女性性の状況を表現しているのかもしれません。

真の女性性とは

『天の愛を受けとる在り方であり、天に導かれながら生きていくということ。』

滝沢泰平さんはそのように述べていますが、そんな女性性の本質をすべての人々が取り戻すことが今求められています。真の女性性に目覚めたトキ、きっとWhite Ladyの顔が表れます。そのトキはきっと真珠を振りまく必要はなくなっているのではないかと思います。

凛とした美しさ。

天の愛を受け取り、天に導かれて生きるトキ、きっとそんな魂の美しさが表現されます。そのトキ、五感や情動は、「命=ミコト」の神聖なる表現となり、生きとし生けるものの大いなる循環の中に包まれ、善意と愛と調和に満ちた世界の表現となっていくことでしょう。

そのために僕は、自分の五感や情動から自由になります。


ただ出会う出来事を楽しんでいく(3)

先日、木の花ファミリーのみんなとクローズアップ現代「セックス・若者たちの本音~世界のミレニアム世代調査」を観ました。この番組は以下のように紹介されています。

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今、“セックス”の在り方を考えようと、声を上げ、行動を起こす若者たちが増えている。 その背景には、何があるのか?私たちは、世界の公共放送が連携した、ミレニアル世代(1834)の本音に迫るWEB調査「Generation What?(#なにジェネ)を用いて、100万人の若者のセックス観を分析。浮かび上がったのは、セックスに対し、戸惑いや不安を抱える日本の若者の姿だ。 「性的な欲求を持つことに罪悪感を感じて生きてきた」 「何が正解で何が不正解なのか、考えても分からない」 一方、北欧では、ポルノの影響を懸念した公共放送が「普通の人のセックス」の特集を組んだり、行政が若者のセックスの相談を受ける「ユースクリニック」を全国各地に設置するなど、社会を挙げて性教育に取り組んでいることも明らかになった。 勇気を出して声をあげてくれた若い男女の切実な悩みに、徹底的に耳を傾けながら、 「セックスのあり方」、そして「生き方」を考える。

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日本の若者の多くがアダルトビデオから性に関する情報を得ています。その影響があるからか、男性はアダルトビデオの真似をして、それが女性には不快なのに女性は正直にそのことを話せない。番組ではそんな事例も紹介されていました。

番組では一貫して性をオープンにしていくことの大切さを語っていましたが、性の本質には触れられず、表面的な話題に終始していました。こんな番組に対してジイジは概ね以下のように語りました。

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自然界の動物で性教育を受けているものはいません。ですが、立派に子どもを育てます。そして人間社会を見ても、教育が普及していなかった時代がありましたが、今ほど性が乱れてはいませんでした。だからこれは学校で教えないから・・・という問題ではないのです。心が美しければ、美しい性に出会います。心が汚れているから性が乱れていくのです。現代の人々の心はそれだけ汚れてしまっているということです。今の人々にはそのことがまったく見えていないのです。

性は陰陽からなるこの宇宙の根本原理であり、この宇宙のあらゆるところに性はあります。それは本来、神聖なものであり神事です。ですが、人々の欲の心がそれを汚してきたのです。番組では、性の本質には触れずにただ気持ちよさを求める言葉が語られていました。それはよこしまな心から生まれる言葉です。

近年、若者の性離れが報道されていますが、その影響で性産業は衰退しているとも言われています。人口が膨れ上がった今の社会において若者の反応は自然なものとも言えます。ですが、この番組では「気持ちがよいセックス」を語ることで若者の欲を刺激し、性産業を盛り立てようとしているようにも思えます。こんな番組を公共放送が流すのです。それが今の人々の意識を表しています。

ここでは性の本質、その大切が語られ、世の中に発信しています。この番組を見てその大切さを改めて感じました。

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木の花ファミリーで語られている性の大切さは「正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理~性と宇宙」に表現されていますが、ここではその一部を引用したいと思います。

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「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。

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性の神聖さを人々の「欲」の心が汚してきましたが、それは性に限ったことではありません。性は宇宙の根本原理であり、あらゆるところに遍満しているものです。だからあらゆるものを人間の「欲」の心は汚してきたのです。では「欲」とは何か?ジイジは昨年のマヤの新年の際、以下のように語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


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近年、多くの人が自らの想いを叶えようと現象を追い求めてきたかと思いますが、その姿勢が世界を汚してきたのです。想いが叶えば、欲の心が膨らみ、想いが叶わなければ、未練を残すことになります。その響きが世界を汚してきたのです。

だから今、必要とされるのは出会う出来事をいただく生き方です。それが人に学びをもたらし、そこから人は成長していきます。性についても、思惑や願望から叶えるのではなく、出会う縁をいただくことで美しい響きのものとなっていくはずです。ここで「はずです」と書くのは、僕自身はそういう縁をいただいていないからです。それでも性は宇宙の本質だから、本質に基づいて語ればいいのだと思っています。

昨日はマヤ暦(13の月の暦)の新年でした。マヤの新年を迎えて僕は「銀河という大いなる基軸に自分を委ねる」と決めました(「今までの人類の感情を生きている」参照)。それに合わせて僕の表現もこれからどんどん変化していくことでしょう。

そして表現したものにふさわしいものであるように。心して生きます。

マヤ(13の月の暦)の新年の朝、木の花ファミリーのみんなと。




改善のために努力しつつも改善を求めない(2)

昨晩の大人ミーティングでみかちゃんが瞑想やヨガをするとエゴが強まるという記事を読んだと話してくれた。そこでネットを検索すると以下の記事が見つかりました。

瞑想やヨガをするとエゴが強まるという研究結果(ドイツ研究)

この記事では瞑想やヨガの実践者の自己高揚感が高まっているという実験結果を紹介して、そこから上記の可能性を示唆しているのですが、そもそも瞑想やヨガの実践者がやり方を間違えている可能性にも触れています。それはこんなふうに表現されています。

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被験者がヨガや瞑想のやり方を間違っているという可能性だ。

被験者は全員ドイツで募集されたが、多くの学者は西洋人の仏教徒は無我を目指す実践ができていないと考察している。
ヨガや瞑想は本来自我を静める方法をとして意図されたものだったが、非仏教徒の実践者はこうした活動を自己の向上や不安を解消する目的で行なっている。
 
ヨガが自我を弱めるどころか強めるという意見は、ブランド物のスポーツウェアを着込んでヨガに勤しむいかにも聖人ぶった人間に出会ったことがある人にとっては、意外でも何でもないかもしれない。
しかし今回の研究は、仏教の教え自体が自我を拡大させるかどうかまでは調べていない。
ヨガだけでは自我を解消するために十分ではないのかもしれないし、たった1本の心理学の研究で数千年におよぶ仏教の教えと実践を否定できるものでもない。


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ここにはご利益主義の弊害が表現されています。世界には多くの宗教が存在しますが、平和のための宗教が争いを生み出してきた歴史があります。それは多くの人が自らの利益のために信仰することで、利己心を強めてきたからなのだと思います。

自分の宗教が一番。

そういう言葉を耳にすることがありますが、その言葉の奥には傲慢さや利己心が伺えます。そしてそれは宗教の本来の教えとは反することなのだと思います。

どんな立派な教えも、それを聴くものの中に利己心があれば、エゴで汚されていきます。

昨年、私たちに効果のあるがん治療を紹介してくれた方がいました。その方にジイジ(当時はいさどん)は以下のように返信しました。

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素晴らしい存在がいることをシェアしてくれてありがとう。ただ、わたしたちにとっては長生きすることや健康であることが最大の目的ではありません。極端なことを言えば、自分が望むように生きられることが一番の目的ではないのです。たとえ寿命が短くても、病気であっても、それはこの世界の多様性であり、そのことによって何かを失うわけではありません。つまり、病気であることから学び、寿命をもらうことによって学び、そして存在しているのですから、受け入れられないことは何もないのです。それが、この世界の本来の受け取り方です。ですから、学び受け取る姿勢がありさえすれば、すべてはこの世界の実態そのものなのです。それは、何でもいいということです。

その手法が画期的ですばらしいと思うということは、現状を改善したいと思っているからです。僕が常に皆に伝えていることは、そういった「~したい」「~になりたい」という願望を消しなさいということです。そして与えられるがままに存在しなさい、ということです。すべてを受け入れれば、己から解放されます。僕はそのことが伝えたいだけなのです。

今の姿のあなたがすべてではないのですから、いくらでも変化・変容・変態を繰り返すことが可能です。そして、それが宇宙の実相なのです。


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この言葉には僕たちの生きる精神が端的に表現されています。己を手放して、ただ出会う出来事をいただくことで自分の想像をはるかに超えた世界が展開します。そのことを通して自らの枠を超えて、世界と自分についての学びを深めていくトキ、多様性の中ですべての存在が尊重されていくのです。

そこには「こうでなければならない」「こうあって欲しい」という心はありません。なんでも構わない。ということは手法や技法を取り入れてもいいのです。僕たちが問題にしているのは手法や技法そのものではなく、それらがもたらす人の心の動きなのです。ご利益主義に基づいて手法や技法に出会うと、その手法を絶対視したり、それに依存する心が強まっていきます。その時、人の心は目覚めから遠ざかり、自分の成長や不安の解消が世界のすべてとなっていきます。それは利己的な心となり、結果、世界に争いを生み出すかもしれません。ただ淡々と必要なものとして出会った手法や技法を取り入れるならば、それはきっと相応しい恵みを人間に与えてくれるのだと思います。

ご利益主義、結果だけを求める心の弊害がこの世界には溢れています。

先日、サッカーのワールドカップで日本代表は決勝トーナメントへの進出を決めました。グループリーグ最終戦で日本は0-1で負けているのも関わらず、終盤消極的なパスワークで時間稼ぎをしました。それは結果を求めての選択ですが、その行為がこの世界に何をもたらすのか、そういうことに想いが至っていたとは思えません。

結果がすべて。

日本代表の選択はそんなメッセージを世界にもたらしますが、結果だけを求める行為はあの試合のように豊かなものではありません。結果に囚われず一生懸命に戦った心を称えあう。そういう心を育むことが、戦いから平和を生み、挫折者を生まずみんなが尊重される世界に繋がるのだと思います。

どんなに素晴らしい教えも、どんなに素晴らしい技法や手法も、そしてどんな素晴らしい出来事も、ご利益主義や結果主義が貧しいものにしていきます。それが今の人間社会なのだと思います。己を手放してただ出会う出来事をいただくトキ、この世界は豊かな恵みを与えてくれます。僕はそんな日々を木の花ファミリーのみんなと送っています。

合同会社ロータスランドの決算を終えてロータスランドで食事をしました。





光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

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私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
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鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
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では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

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生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






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