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余裕がほとばしり出るような徳の積み方(2018)

一緒に暮らす木の花ファミリーのみんなです。


こうやって賑やかにしていると、人の目は表面に顕れる出来事にいきます。ですが、その奥に流れているものがあってそれは常に新しい流れを生み出し続けています。そこに目を向けていないと新しい動きには間に合わなくなっていくものです。

ロータスランドが始まり、私たちの暮らしは特に忙しくなりました。忙しい毎日を送っていると、給料を貰い生活をしている人々ならば、ストレスが溜まってきます。そのためストレスを解消するためにお金や余暇が必要となります。ですが、ここの人達は忙しい毎日を送っても疲れて眠くなるだけです。それはこの暮らしの安心感がもたらすものですが、その余裕、ゆとりのようなものを心磨きに向けていく必要があるのです。

忙しく賑やかな毎日を生み出している奥のもの、そこを緻密に見ることによって、プロセスから学び、それは自分の成長として積み上がっていきます。その成長が天の生み出す新しい流れと呼応していくのです。表面的な賑やかさにかまけて、安心感の中、ぼうっとしていると次の流れには間に合わなくなるのです。



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上記は昨年の7月、お客様で賑わっているロータスランドを眺めながらジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。余裕をもって、日常の奥に流れているものに目を向ける大切さを語っていますが、当時、ジイジは以下のような話をよくしていました。

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この世界は氷山なんだよね。海面から見えるのは氷山の10%だけ。残りの90%は隠れている。それで、世間が言っていることは見える部分で、それを無視するわけにはいかないが、例えば、風が北から南に吹いている時、氷山は別の方向に動くことがある。それはなぜか?奥にある海流が別の方向に流れているからだよね。世間の風はこっちに吹いているのに現実が違う方向に動くことがある。安倍首相がいくらデフレ脱却、実質2%、名目3%の経済成長を目標にし、日銀を利用してマイナス金利まで導入しても、それはうまくいっていない。それは時流を読んだら、今の人間社会の表面に見える人間の欲得の世界ではなくて、時代の動き、宇宙は今、何を人間に与えようとしているのかということを読んだら、安倍首相は逆をやっている。だから表面に見える社会現象をすべてとしそれに乗ることを止めなければならない。たとえ世間からは理解されなくても何か別のものを見て時代にのっていくことが大切。本当の流れは表面からは見えない海流が生み出しているのだから。



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氷山の奥、そして氷山を動かしている海流に目を向けることが大切になりますが、それを可能にするのが、目の前の出来事から自由となる余裕やゆとりだと思います。そして、余裕ということで言えば、3年前の6月、ジイジは僕について以下のように語っています。

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なかのんは真面目で一生懸命やっているが、もう少しそこに余裕があると、あの人は本当に徳を積んでいるねということなんだけど、一生懸命「この道だぁぁぁ」とやっていると、そこに余裕がないと、何とか一生懸命気合いを入れてそこを保っているという状態。

余裕がほとばしり出るような徳の積み方というものがある。



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この言葉を受けて、今思うことは、余裕がないと「道」ですら囚われの対象となるということです。たとえば、「執着をなくそうという志」が「執着があってはいけないという囚われ」となります。結局、「道」とは何か思い描いた理想の境地へと辿り着くことではなく、出会う出来事をそのまま潔くいただくことで変化し続ける過程なのです。宇宙が絶えず変化変容を繰り返すように、この「道」にも終わりはなく、常にプロセスの中にあります。




よゆう

カタカムナで見ると、「混沌、よこしま(よ)が揺らぎ(ゆ)渦(う)となっている」という感じでしょうか。これは一見ネガティブにも見えますが、「よ」は「世」、この世界そのものです。清濁併せ持ったこの世界を表していて、それが揺らいでいます。揺らいでいるということは固定しないということで、それもこの世界の法則そのものです。それが渦になっている状態、それが余裕(よゆう)で、「う」は星雲の渦巻きに見られるように万物発生の基本となっています。

このように見ていくと、余裕(よゆう)はこの世界のすべてを生み出すもので、余裕がないと新しい何かを生み出すことは出来ず、今あるものに追われるだけとなっていくのです。

混沌、よこしまが揺らぎ渦となっている

この一見ネガティブに見えるものを受け入れ、そこに向き合うことが余裕(よゆう)となり、そこから新しい何かが生まれるのでしょう。

徳積みも余裕がなければ、例えば使命感や義務感のようなものに追われるだけとなります。そうするとこの世界に新しい流れを生むことは出来ず、表面の出来事に右往左往することになるのでしょう。

この世界に本当の流れを生み出しているのは氷山の奥、海流です。余裕があるとその事実が見えてきます。そして、その流れと共にあることで、この世界に新しい流れを生み出すことが出来るのです。

ジイジから余裕を持つように言われてから3年が経ちました。

当時から比べたら、今の僕ははるかに余裕がありますが、これからさらに「混沌が揺らぐ渦・よゆう」と向きあい、余裕がほとばしり出るように徳を積み上げていきます。


出会う出来事を通して逞しく生きていく

昨年の8月1日、大人ミーティングにてジイジは以下のように話をしました。

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人間がお金や物に執着するのは
生きることの本当の意味を失っているからだ。
だから、それは死生観の問題だ。

今の人間は生きることの意味を履き違えている。


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そして、今年の8月1日、大人ミーティングにてジイジの以下の言葉が紹介されました。

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自分の考えで人の話を聴いても、それは自我を育てるだけ。
自分を離れて人の話を聴くトキ、新しいことに出会える。

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自分の考えで人の話を聴かないように。

この言葉は昔からよくジイジに言われていましたが、昔は言われている意味が全然分かりませんでした。ちゃんと理解する必要があると思うから「考えて」聴いているのに、それが違うと言われ、混乱することがありました。ではなぜ、それが違うのかと言ったら「自我を育ててしまう」からです。

出会う出来事に反応し一喜一憂するのが自我です。そこからお金や物への執着も生まれます。自我を育てることは執着をもたらし、それは今の社会の行き詰まりにも繋がっています。

子どもの頃、出会う出来事や人からの話は世界を広げてくれました。新しい知識を得て、知らなかったことを知るようになり、それがそのまま「生きて認識する世界」の広がりに繋がりました。

大人になると、出会う出来事は今までの繰り返しとなり、自分の都合のよい話ばかりを聴くようになります。それは経験によって認識の枠組みが固まっているからであり、自我はその枠組みに基づいて反応し、枠組みを強めていくのです。

人間社会はずっとお互いの自我を育んできました。出来事に一喜一憂しながら、個人個人の幸せを追い求めることで、認識はどんどん凝り固まり、狭くバラバラになっていきました。その結果、お金や物、仕事やレジャー、成功や地位や名誉への執着が生まれ、生きることの本当の意味を失ってしまったのです。

このような中、心身の病や偏った生活習慣などの問題を抱える人が多くなっていますが、木の花ファミリーではそのような人たちに自然療法プログラム(通称:ケア)を提供しています。以下はケアの取り組みの中でジイジが語った言葉です。

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出会う出来事は、環境も影響しますが、1番は本人の姿勢の問題です。親も完璧ではありませんし、親との間には意見の違いもあるものです。そういうことを対立や問題ごととして捉えることもできますが、それはある意味、困難な状況の中で自分を逞しくしてくれる要素でもあるのです。これからも人生の中ではいろいろなことがあると思いますが、それを生かしポジティブに捉えるように努力することが大切なのです。

~ ~ ~


ここで疑似体験をしてその延長で完璧に自信がつくということはありません。このケアの取り組みは70%、自分の今までのいろいろな癖やなぜこうなったのか、その理由に気が付くことです。それが分かって、その上でそれをどうやって改善し、次の新しい旅立ちに繋げるかということは、実際に新しいところへ踏み出してからです。それで力を身に着けることです。ここで出来ていることはここの環境、様々なサポートの中でのこと。本当の実力ではありません。


本当の実力は、自分の正直な心を出して、その上で返ってきたいろいろな出来事を通して、それをどう捉えて、どう前向きに進んでいくか、そういう中で本当の実力がつき、逞しい力となっていきます。それが生きるということです。


誰も明日の人生を読み解くことは出来ません。明日起きることが予定通りとは限りません。自分の予想を超えたこと、想像を超えた出来事が起きたトキ、その出来事は新しいコトに対する抵抗力を与えてくれます。そう思えば、その出来事は自分を育ててくれる有難い出来事です。そういうふうに物事を前向きに捉えたら、あれが駄目だった、これがこういう理由で駄目なんだということは思わなくなります。生きていれば難しい出来事に出会いますが、それらは一つ一つ向き合うことで自分の力がついて生きる希望となっていくものです。これがジイジのケアに対する考え方です。


行き詰っている人は、今までやり方が不器用だったから出来ない状態となっていますが、それがちゃんと出来るようになったら、その人流のいい人生を歩むことが出来ます。その人流というのは、今までたくさんの人のサポートをしてきたけれども、同じ人はいないからです。新しい事例を情報としてもらいながら、なんどもケア卒業の機会に出会うたびに、ますますこの大事をやらなければならないなと思っています。


今の世の中は行き詰った人たちをたくさん産んでいます。それは世の中にも原因があります。そして、本人たちは生き方が下手なのですが、そういう人たちの力になって、そして健全に生きてもらいます。その仕組みのからくりを世の中にフィードバックすることで世の中をよくするのです。とても今日は希望が湧いている感じです。


未来は常に未知です。まず一歩進めば、自分の考えていることと違うことが起きます。行く前から考え過ぎず、まずは進むことです。自分がどう生きるかは自分の人生の価値を付けること、自分が納得して人生を終われることが大切です。

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新しく出会う出来事を通して、自分を育み、前向きに進んでいく。

ケアの取り組みでは、そのような姿勢を育むことで行き詰った人々が健全になっていきます。それは生きることの本当の意味を取り戻すことにも繋がります。

自分の利益、自分の立場に固執していると、意見の違いは対立や問題ごとに繋がっていきます。そのような中、人々は苦しみ、世界各地で、紛争や戦争、そして政治上の対立が生まれています。

今年の8月1日、人類は1年間で使える地球資源を使い果たしました。今、自分たちが使っている資源は未来の世代から奪っていることになります。「1年分の資源を使い果たす日」をアース・オーバーシュート・デー」と言いますが、この日は年々早まっています。物質的な利益を求め続けた結果、人類は困難な状況を迎えています。

ですが、困難な状況は自分を逞しくしてくれる要素にもなります。そのために必要な態度が自分を離れることであり、そのトキ、出会う出来事や人からの話が新しい世界へと繋がっていくのです。

変化変容がこの世界の本質です。宇宙の始まりから続く変化変容の物語の中で、人は生を受け、それを次へと繋げていくのです。そういう大きな視点の中で自分自身の価値を付けること、それが生きることの本当の意味です。人々が自分の利益や立場を離れ、困難を通して自分たちを逞しくしていったトキ、表面上の違いを超えた真の調和が訪れ、そのトキはきっと地球とも調和した暮らしを営んでいることでしょう。

そんな歩みを自分一人分、しっかりと刻んでいます。

木の花ファミリーのみんなです。




ただ出会う出来事を楽しんでいく(3)

先日、木の花ファミリーのみんなとクローズアップ現代「セックス・若者たちの本音~世界のミレニアム世代調査」を観ました。この番組は以下のように紹介されています。

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今、“セックス”の在り方を考えようと、声を上げ、行動を起こす若者たちが増えている。 その背景には、何があるのか?私たちは、世界の公共放送が連携した、ミレニアル世代(1834)の本音に迫るWEB調査「Generation What?(#なにジェネ)を用いて、100万人の若者のセックス観を分析。浮かび上がったのは、セックスに対し、戸惑いや不安を抱える日本の若者の姿だ。 「性的な欲求を持つことに罪悪感を感じて生きてきた」 「何が正解で何が不正解なのか、考えても分からない」 一方、北欧では、ポルノの影響を懸念した公共放送が「普通の人のセックス」の特集を組んだり、行政が若者のセックスの相談を受ける「ユースクリニック」を全国各地に設置するなど、社会を挙げて性教育に取り組んでいることも明らかになった。 勇気を出して声をあげてくれた若い男女の切実な悩みに、徹底的に耳を傾けながら、 「セックスのあり方」、そして「生き方」を考える。

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日本の若者の多くがアダルトビデオから性に関する情報を得ています。その影響があるからか、男性はアダルトビデオの真似をして、それが女性には不快なのに女性は正直にそのことを話せない。番組ではそんな事例も紹介されていました。

番組では一貫して性をオープンにしていくことの大切さを語っていましたが、性の本質には触れられず、表面的な話題に終始していました。こんな番組に対してジイジは概ね以下のように語りました。

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自然界の動物で性教育を受けているものはいません。ですが、立派に子どもを育てます。そして人間社会を見ても、教育が普及していなかった時代がありましたが、今ほど性が乱れてはいませんでした。だからこれは学校で教えないから・・・という問題ではないのです。心が美しければ、美しい性に出会います。心が汚れているから性が乱れていくのです。現代の人々の心はそれだけ汚れてしまっているということです。今の人々にはそのことがまったく見えていないのです。

性は陰陽からなるこの宇宙の根本原理であり、この宇宙のあらゆるところに性はあります。それは本来、神聖なものであり神事です。ですが、人々の欲の心がそれを汚してきたのです。番組では、性の本質には触れずにただ気持ちよさを求める言葉が語られていました。それはよこしまな心から生まれる言葉です。

近年、若者の性離れが報道されていますが、その影響で性産業は衰退しているとも言われています。人口が膨れ上がった今の社会において若者の反応は自然なものとも言えます。ですが、この番組では「気持ちがよいセックス」を語ることで若者の欲を刺激し、性産業を盛り立てようとしているようにも思えます。こんな番組を公共放送が流すのです。それが今の人々の意識を表しています。

ここでは性の本質、その大切が語られ、世の中に発信しています。この番組を見てその大切さを改めて感じました。

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木の花ファミリーで語られている性の大切さは「正しいヒメゴト・命を生み出す宇宙の根本原理~性と宇宙」に表現されていますが、ここではその一部を引用したいと思います。

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「ヒメ」をカタカムナでひも解いてみると、「ヒ=秘か。ものの始まり」「メ=芽。目。まだ見えないところに広がりを持っている」ですから、ヒメとは、秘かに芽が出ていること。節分前のまだ寒い時期に、表面的には何も動いていないように見えても、土の中では秘かに芽が動き出しています。その命の芽吹きのことです。
女性のことをヒメと言います。それは、表面には見えていませんが、現象化するためにもっとも大切な存在だということです。

~ 中略 ~

見えないところで起こっている ──── 男と女が交わって、種を降ろし、命を生み出すのは、見えないところでやるでしょう?それを「ヒメゴト」と言います。
男女の交わりは命を生み出す宇宙の根本原理であり、とても神聖なものです。ところが現代は、それは後ろめたい、忌まわしい、隠さなければいけないものになってしまいました。なぜだかわかりますか?本来の性の意味を履き違え、欲望のままに人々は性を行うことにより、人々の中に、それは悪いものだという心が生まれたからです。ですから、それを隠すようになったのです。

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性の神聖さを人々の「欲」の心が汚してきましたが、それは性に限ったことではありません。性は宇宙の根本原理であり、あらゆるところに遍満しているものです。だからあらゆるものを人間の「欲」の心は汚してきたのです。では「欲」とは何か?ジイジは昨年のマヤの新年の際、以下のように語っています。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


☆彡 ☆彡 ☆彡

近年、多くの人が自らの想いを叶えようと現象を追い求めてきたかと思いますが、その姿勢が世界を汚してきたのです。想いが叶えば、欲の心が膨らみ、想いが叶わなければ、未練を残すことになります。その響きが世界を汚してきたのです。

だから今、必要とされるのは出会う出来事をいただく生き方です。それが人に学びをもたらし、そこから人は成長していきます。性についても、思惑や願望から叶えるのではなく、出会う縁をいただくことで美しい響きのものとなっていくはずです。ここで「はずです」と書くのは、僕自身はそういう縁をいただいていないからです。それでも性は宇宙の本質だから、本質に基づいて語ればいいのだと思っています。

昨日はマヤ暦(13の月の暦)の新年でした。マヤの新年を迎えて僕は「銀河という大いなる基軸に自分を委ねる」と決めました(「今までの人類の感情を生きている」参照)。それに合わせて僕の表現もこれからどんどん変化していくことでしょう。

そして表現したものにふさわしいものであるように。心して生きます。

マヤ(13の月の暦)の新年の朝、木の花ファミリーのみんなと。




今までの人類の感情を生きている

今日、7月26日はマヤ暦(13の月の暦)の新年です。今日から来年の7月24日までは13の月の暦では「赤い宇宙の月」となるようです。以下、天下泰平ブログ・今日は「時間をはずした日」、そして逆行ラッシュの夏休みより引用です。

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2018726日から2019724日までは「赤い宇宙の月」の年となります。

宇宙は「存在」「持ちこたえる」「越える」
赤い月は「普遍的な水」「清める」「流れ」

というキーワードがあるそうです。

自分自身の枠を超えた大いなる力や潜在能力が発揮される時。

これまで出来なかったこと、怖れていたことにもチャレンジすることによって、新たな自分の一面が表に出て活躍することかと思います。

また「赤い月」は、水の流れや浄化を意味することもあり、水の浄化がいろいろな意味で続く可能性がありますが、1人ひとりの「浄化」もまた、大きなテーマとなる1年だそうで、不要なものは次々に手放すこととなりそうです。

その中で、水のように流れる、委ねて進むことも求められます。

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そんな節目の日、木の花ファミリーでは、朝6時に宮ノ下広場に集まり、カタカムナを奏上しました。そして、ジイジから語られる言葉をみんなで聴きました。その話を僕の中で咀嚼しまとめると以下のようになります。

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生きているとこの世界の刺激を味わうことになり、そこから囚われや欲が生まれます。生きることが楽になってきたこの社会の中で、刺激が増大し、そして自我が膨らんでいきました。その自我の不調和な響きが天災となって表れているように思えます。

今年の夏はとても暑い日々が続いていますが、来年の夏はおそらくもっと暑くなります。どんどん生きるのが厳しい時代となっていますが、それは自我のそぎ落としをもたらします。生きるのが精一杯の時代は、みんなで力を合わせ現実と向き合っていました。そこに個人的欲望の発生する余地はありません。今日の天災、そして政治や経済の混乱は、文明の崩壊を意味します。それはネガティブにも思えますが、今の文明によって膨らんだ自我のそぎ落としでもあるのです。

この世界で生きることの基軸は自分ではなく太陽にあります。そして太陽は銀河を基軸にしています。生きることの基軸は銀河にある。そのことが分かると今の世界の混乱も天体の動きと共にあることが見えてきます。

僕らは過去の響きを受け継ぐことで生を受け、その響きを未来へと繋げていきます。今、浮き上がる想いや感情は人類の歴史の中にあり、それを浄化することで、未来に美しい響きを受け渡すことが出来るのです。

自分を離れ、銀河を基軸に自分を導いて生きていく。そんなふうに生きたトキ、自分を誇れてかっこいいなと思えます。そしてそれは確実に未来へと繫がっていきます。

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自分を離れることは今の自分の枠を超えることです。銀河という大いなる基軸に自分を委ね、常に自分の枠を超え続けること。その中で自分の想いや感情を浄化し、それを未来へと繋げていこうと思っています。

ジイジと僕と熊野から来た神代杉(マヤの新年に宮ノ下広場にて)

欲の心を超えて意欲をもって生きる

もうすぐ7月26日、マヤの新年です。木の花ファミリーでは、2014年に太陽マヤ族尊母ナーキン氏を迎えてマヤ新年を祝う祭典を行って以来、毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む儀式を行ってきました。以下は昨年の7月26日、この儀式に際してジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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目の前の現象に目を奪われていると、人は現象を変えようと努力します。それは一生懸命であったとしても「欲」の心から生まれるものであり、独りよがり、自分視点のものとなっていきます。

「よく」

カタカムナで見ると、よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態です。横軸=表に現れる出来事ばかりに目が行き、心に柱や芯(縦軸)がなくなっている状態と言えます。その結果、現象に翻弄されるようになり、生きることが自分の手の中から失われていくのです。現象にばかり目を向けるのではなく、その奥にある自分自身の人間性に目を向けることが大切です。人間性に目を向けることは自分に柱(=縦軸)を通すことであり、人間性を向上させることで現象は自ずと好転していきます。

人間性は心を磨くことによって向上します。ではどのように心を磨くのか?先の文章の中でジイジは以下のように語っています。

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損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

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自分自身が何を思っているか、誇れる意識で過ごしているか、そのことを常に見ていくのです。それは欲の心に意志を通すことであり、意欲となっていきます。

「いよく」

よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態に位置(い)を与えるのです。それが秩序となって自分自身を導くことが出来ます。ここで通す意志が問われますが、今の時代に求められていることは天の意志を通すことです。

話は変わって。

人は生来、被害者の立場に立つ傾向があるから、加害者として自分を意識することでバランスがとれる。

最近こんな言葉を目にしてなるほどなと思いました。例えば、環境破壊や自然災害。これらは人間がもたらしたものですが、自分のどうにもならないところで大変な状況になっていると被害的に感じる傾向があるのではないかと思います。

この世界には本来、被害も加害もないのに自分自身を被害者の立場に置こうとする。それはなぜかな?と考えた時、この世界が自分の想像をはるかに超えたものだからなのだと思いました。想像をはるかに超えた世界に出会い、それを何とかしないといけないと思った時、どうにも出来ない、どうしろっていうんだと被害的になるのではないかと思いました。ですが、世界はどうにかする対象ではなくいただくものです。出来事をいただくことで自分を知り、学びを深めていくのです。このことに気づくと想像をはるかに超えた世界が脅威ではなく恵みとなっていきます。

「何とかしなければならない」という心が「なんとかしたい」という心となり欲となっていきます。これは目の前の現象に心を奪われた浅い発想であり、結果、出来事に翻弄されるようになります。そして「どうにもできない」という無力感や「なんでこうなるの」という被害者意識を強めていきます。思考をまわすことで結果を所有し身動きが取れなくなっていきます。

この世界は未知。

それが宇宙の法則です。だから未知に向けて進むことで結果をいただきます。その結果を味わい学びに繋がるために思考を使っていけば、出来事やそこから生まれる思考はすべて恵みを与えてくれるものとなるのです。

そんなふうに生きるために常に自分を見ていくのです。欲の心に負けずに天を意識し、自分に天の意志を通していくのです。そのトキ、この世界のすべては恵みとなっています。

昨年のマヤの新年の写真です。



海そのものとして生きていく

2009年の12月、僕らは木の花ファミリー憲章の制定に向けていろいろ話し合っていました。当時のことを思い出していたら、その頃ジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉に出会いました。

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今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。

最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。

元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。

ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。

また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。

ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。

ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。

私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。

僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。

しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。

今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。

全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。

それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。

それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。

私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。

それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。

今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。

こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。

ここ23日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。

今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。

大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。

これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。

世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。

それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。

悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。

神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。

それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。

ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。

僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。

そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。

つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。

僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。

しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。

それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。

誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。

私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。

この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。

その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。

この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。

そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。

もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。

決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。

だから、これは特定の誰かワールドではない。


皆ワールドである。


☆彡 ☆彡 ☆彡

当時、この言葉はいろいろな人たちの心に響きました。ブログ「ひとりひとりに問う」にはいくつかコメントがついているし、ファミリーメンバーはこの言葉をきっかけにそれぞれがそれぞれの想いを「ひとりごと」として語りました(「皆のひとりごと」参照)。

語ることが道理に適っているから多くの人に影響を与えて、こうやってみんなで暮らす生活が始まったことでみんなの人生にも責任を感じてきたジイジ。そのジイジが向き合ってきたプレッシャーは僕の想像をはるかに超えるものなのだと思っています。そしてそれがそのままジイジという人の大きさを生み出しています。

みんなで共に暮らすトキ、みんなをまとめる心が必要になります。それが一人の人から出続けると、外から見たら、誘導や強制に見えることもあるでしょう。共感できない人が一緒にいたら反発する心も生まれてきます。

僕ら木の花ファミリーの暮らしは、一人一人が自分の自我を超えていく取り組みです。自らを分けると書く「自分」。そこから生まれる自我は、自らを世界から際立たせることで自らの存在を示そうとしています。「違い」を示そうとすることで、時と場合によって違うことを主張したりします。

普段、子どもがうるさいと怒っているのに、他の人が同じように怒っているのを見ると、「そこまで怒ることはないだろう」と感じて止めたくなる。

例えば、そんな感情が芽生えたら、目の前の状況に自我が反応し、自分を際立たせているだけなのかもしれません。自我の反応を超えたら、怒るだけでなく、冷静に伝えたり対話をする道も拓けます。

自我は自らを世界から際立たせます。みんなと一つになることを理想に掲げても、自我は一つになることを拒みます。自我にとって、一つになることは自らの消滅を意味します。

自我は浮かんでは消える波のようなもの。消滅しても次の自我が表れます。その動きを見通すことで海そのものである自らの本質へと至るのですが、自我の視点からは、その事実が見えないものです。

違いを生み出す自我の反応の奥にすべての人が分かり合える視点があります。その視点から見たトキ、自我の動きも全体の中で生かされていくのです。この暮らしはその視点へと至る道ですが、その過程では様々な反応に出会います。誘導や強制だという反発も、過度な称賛も、すべてはそこへと至る過程でそれぞれの自我から生まれるものです。

自我を超えていく。

この道は何かを期待して始めるものではありません。真理は固定したものではなく動きの中で変化し続けるものです。集い語り合うことで常に新しい真理を見出して、それにそっていく心を育んでいくことが生きる目的です。何かを得ることが目的ではなく、自分の心を磨き続けることが目的となります。

真理は誰から出てもどこから出てもいいのです。それは表面的な形のことで重要なことではありません。例えば、一人の人から真理が出続けるならば、それは全体としての未熟さの表れではありますが、大切なことは形の奥にあります。形は一人一人が成熟することでおのずと整っていきます。ジイジがこの言葉を語ったトキから9年が経っていますが、今は僕や他の人から生まれる真理もあります。それはコミュニティの成熟を表していると思っています。

なんにせよ大切なのは形ではありません。反発や称賛、そして期待や不安。これからも様々な波に出会うと思いますが、常に波の奥を見通して海そのものとして生きていく。そして未来は天に委ねます。

9年前のジイジの言葉に触れてこんなことを思いました。

木の花ファミリーのみんなです。

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