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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います。
この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。
人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。
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目の前の現象に目を奪われていると、人は現象を変えようと努力します。それは一生懸命であったとしても「欲」の心から生まれるものであり、独りよがり、自分視点のものとなっていきます。
「よく」
カタカムナで見ると、よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態です。横軸=表に現れる出来事ばかりに目が行き、心に柱や芯(縦軸)がなくなっている状態と言えます。その結果、現象に翻弄されるようになり、生きることが自分の手の中から失われていくのです。現象にばかり目を向けるのではなく、その奥にある自分自身の人間性に目を向けることが大切です。人間性に目を向けることは自分に柱(=縦軸)を通すことであり、人間性を向上させることで現象は自ずと好転していきます。
人間性は心を磨くことによって向上します。ではどのように心を磨くのか?先の文章の中でジイジは以下のように語っています。
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目の前の現象に目を奪われていると、人は現象を変えようと努力します。それは一生懸命であったとしても「欲」の心から生まれるものであり、独りよがり、自分視点のものとなっていきます。
「よく」
カタカムナで見ると、よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態です。横軸=表に現れる出来事ばかりに目が行き、心に柱や芯(縦軸)がなくなっている状態と言えます。その結果、現象に翻弄されるようになり、生きることが自分の手の中から失われていくのです。現象にばかり目を向けるのではなく、その奥にある自分自身の人間性に目を向けることが大切です。人間性に目を向けることは自分に柱(=縦軸)を通すことであり、人間性を向上させることで現象は自ずと好転していきます。
人間性は心を磨くことによって向上します。ではどのように心を磨くのか?先の文章の中でジイジは以下のように語っています。
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損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。
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自分自身が何を思っているか、誇れる意識で過ごしているか、そのことを常に見ていくのです。それは欲の心に意志を通すことであり、意欲となっていきます。
「いよく」
よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態に位置(い)を与えるのです。それが秩序となって自分自身を導くことが出来ます。ここで通す意志が問われますが、今の時代に求められていることは天の意志を通すことです。
話は変わって。
人は生来、被害者の立場に立つ傾向があるから、加害者として自分を意識することでバランスがとれる。
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自分自身が何を思っているか、誇れる意識で過ごしているか、そのことを常に見ていくのです。それは欲の心に意志を通すことであり、意欲となっていきます。
「いよく」
よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態に位置(い)を与えるのです。それが秩序となって自分自身を導くことが出来ます。ここで通す意志が問われますが、今の時代に求められていることは天の意志を通すことです。
話は変わって。
人は生来、被害者の立場に立つ傾向があるから、加害者として自分を意識することでバランスがとれる。
最近こんな言葉を目にしてなるほどなと思いました。例えば、環境破壊や自然災害。これらは人間がもたらしたものですが、自分のどうにもならないところで大変な状況になっていると被害的に感じる傾向があるのではないかと思います。
この世界には本来、被害も加害もないのに自分自身を被害者の立場に置こうとする。それはなぜかな?と考えた時、この世界が自分の想像をはるかに超えたものだからなのだと思いました。想像をはるかに超えた世界に出会い、それを何とかしないといけないと思った時、どうにも出来ない、どうしろっていうんだと被害的になるのではないかと思いました。ですが、世界はどうにかする対象ではなくいただくものです。出来事をいただくことで自分を知り、学びを深めていくのです。このことに気づくと想像をはるかに超えた世界が脅威ではなく恵みとなっていきます。
「何とかしなければならない」という心が「なんとかしたい」という心となり欲となっていきます。これは目の前の現象に心を奪われた浅い発想であり、結果、出来事に翻弄されるようになります。そして「どうにもできない」という無力感や「なんでこうなるの」という被害者意識を強めていきます。思考をまわすことで結果を所有し身動きが取れなくなっていきます。
この世界は未知。
それが宇宙の法則です。だから未知に向けて進むことで結果をいただきます。その結果を味わい学びに繋がるために思考を使っていけば、出来事やそこから生まれる思考はすべて恵みを与えてくれるものとなるのです。
そんなふうに生きるために常に自分を見ていくのです。欲の心に負けずに天を意識し、自分に天の意志を通していくのです。そのトキ、この世界のすべては恵みとなっています。
昨年のマヤの新年の写真です。 |
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