「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語
きょうこちゃんと木の花楽団のみんな |
この物語にはたくさんの印象的なエピソードや文章が散りばめられていますが、今回は以下の文章を引用したいと思います。
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こうちゃんは「覚悟がないと、奇跡を起こそうという今までと同じ欲の延長になっちゃう。でも覚悟があって、いつでもいただきますという精神に至って初めて、奇跡を起こす側の立場になるのかなと昨日から思っていた。自分はどうかな?と思いながら」と言い、いさどんは「自分の想いを行動に移してみると、すべてつぶされていくでしょ(笑)。それでもう一回振り返ってみると、想っても仕方がなかったことがわかる」と言うと、こうちゃんは「輸血のことでも、輸血は1回だけだと言われて、僕としたら当然前回と同量くらい輸血するのだと思っていたら、前回の3分の1の500ccだけで、そこでひとつ外れたなと思ってさ。そうすると、自分の中に『あと1リットルくらい輸血してくれるだろうな』とか『なんでそんな話になったのだろうか』という想いが湧く。それで今日の夜中に500cc以上出血したものだから、どんどん手放していけということだと思った。自分では手放しているつもりでも、想いは湧いてくる。だから、一つ一つ現象が教えてくれている」と言い、わたしは「きょうこちゃんの魂が、きょうこちゃんが言葉では一時『すべてがありがたい』と言っても、『本当にあなたはすべてをありがたいと思っているのですか?』と問うてくれたのだと思った。だから昨日、『何かが違う』と伝えてきた。単に輸血して放射線治療を受けて、物理的に一時安定してそれでよかった、という浅いところではなく、魂の価値のことを教えてくれていた。ありがたいにしても、どんどん深みが増していく」と言った。
きょうこちゃんは「さらに自分の想いを本当になしにしていくというかね。いただいているつもりでも、まだいただいていなかったり、そういうことを日々学んでいると思う」と言い、こうちゃんは「本当に不思議だよな。だからといって、考えなくていいというわけではない」と言うと、いさどんは「それが生きているということだ。だから、生きているということは、あるものとコミュニケーションをとっているということ。この世界にはあるものというものがあるんだよ。秩序として、厳然たる不動のものがね」と言った。
さらにこうちゃんは「数日前から思っていたのは、どこまで行っても深くなる一方だから、どこまで行ったらということはとりあえず肉体を持っている限り、ない。感謝でもいただくでも、どんどん奥がある」と言うと、いさどんは「ということだ!わかったか(笑)。結論は何もわからん」と言い、わたしが「それがこの世界の実体だものね。人間にわかっちゃいけないんだよ」と言うと、こうちゃんは「生まれたときから死ぬときまでぜんぜんわからないことの連続だから」と言い、わたしが「生きているということはわからないことがわかるということ」と言うと、いさどんは「わかるを自分の側に置こうとするからいかんのだ。やはりいただいていく精神だ」と言った。
こうちゃんは「深いね。だって、探求してわかろうと思う想いがなかったら、ここには至らないしさ、けど・・・」と言うと、いさどんは「わかろうと思って、わかったら違うんだよ」と言い、もう言葉では表現できず、どうでもよくなる、という結論に至った。きょうこちゃんも「深いね!」と言い、いさどんは「生きていても死んでいてもいいんだよ。この間ここへ来たときは『死んでいる場合じゃないぞ!』と言ったけど、そんなことはどうでもいいんだよ」と言い、こうちゃんは「もしかしたら次の計画を先に練りだしているかもしれないし(笑)」と言い、いさどんは「『おまえ、こっちで手が足らんから早く来い!』と言われているかもしれない(笑)。それで行ってみたら、なんてことはない、こっちよりももっと親しい人たちがいたりしてな。『あっちに囚われている場合じゃなかった!これがわかっていたら早く来たかった!』ということになるかもしれない」と言い、皆で笑った。
最後にこうちゃんは「なかなか病院で笑っている人たちはいないよ(笑)」と言い、きょうこちゃんは「ほんと、ほんと!死ぬかもわからないけれど、面白い人生をもらっているなと思ってね。だって、この間せっかく血が入ったのに、もう全部出ちゃったもの!」と言うと、みかちゃんが「木花咲耶姫様のモットーは潔く生きて潔く散るということだからね」と言い、いさどんは「その散り際の美しさが木花咲耶姫の個性だ」と言い、皆で病室の窓から雪の王冠をかぶった美しい富士山を見た。きょうこちゃんは「一言では言えないけれど、良い時間だった!どこまで覚悟ができているかはわからないけれど、もう何度もそういう場面が来ているから、ある意味覚悟はできているなと思う。そこまで腹をくくっちゃうと、面白いな。ありがたいとかいただくことの深みを日々学ばせてもらっているな」と言い、いさどんは「ありがたいも深みがあるんだよ。『いただきます』だから、いただき(頂き)・・・頂上まである」と言うと、みかちゃんは「頂き増す!どこまで行っても頂きが増していくんだよ」と言い、こうちゃんは「登山に終わりはないってことだ」と言い、皆で拍手して病院を後にした♪
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「いただきます」は「頂き増す」。出来事をいただけばいただくほど、高みに昇っていく。人生、人の道が登山に例えられるのは当然のことなのだと思いました。
出来事をいただくとは出来事を受け入れることです。自分に起きる出来事はすべて相応しく与えられています。そのことを認め受け入れる時、人は出来事をいただくことが出来るのです。そして、そのことが人を高みへと導きます。
今回、きょうこちゃんは自らの命と向き合うことにより、その境地へと導かれました。それは永遠に続く高みへの旅です。ですが、普段、人はなかなかこのような心境にはなれないものです。それは自我(エゴ)が邪魔をしているためです。出来事に出会った時、多くの人は自分の感情を通してその出来事を捉えます。そこには好き嫌いの感情や損得勘定が働きます。
「こんなはずではない」
「これはなかったことにしよう」
「こうしてやろう」
こんな心が働くことで、現実を認めることが出来ず、出来事をいただくことが出来ないのです。そして変わらない現実が続きます。
「こうなりたい」
「変わりたい」
と思ったとします。ですが、そこには自らの感情が働いています。感情の赴くままに行動している時、人は自らの感情に支配されています。そして、現実を選り好みしていきます。この選り好みがその人の今までのパターンを創り上げているのです。だから、今までのパターンが繰り返されます。ちょっと変わったと思ったとしても、それは今までの「ループ(輪)」の中にあり、また元に戻っていくのです。
本当に変わっていくためには、人は自らの感情を超え、そこにメスを入れていく必要があるのです。感情にメスを入れて、選り好みせずに出会う出来事をいただいていく時、本当の変化が生まれます。それは今までの「ループ(輪)」を超えて、新たな「ループ(輪)」を生み出していくのです。それは自らの思惑を超えた世界です。
変化を求めながら、変化を委ねる。
知りたいと望みながら、知る内容は世界に委ねる。
求めながらもすべてを委ねる。
そんな姿勢で出来事をいただいていくと「頂き」が「増し」ていきます。そして、それは人それぞれに相応しい道が用意されています。それぞれが相応しい出来事に出会いそれをいただいていくことで、みんなで高みへと昇っていけるのです。その先に見える世界をみんなと一緒に見ていこうと思っています(^-^)
Bthemez
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