今までの人類の感情を生きている

今日、7月26日はマヤ暦(13の月の暦)の新年です。今日から来年の7月24日までは13の月の暦では「赤い宇宙の月」となるようです。以下、天下泰平ブログ・今日は「時間をはずした日」、そして逆行ラッシュの夏休みより引用です。

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2018726日から2019724日までは「赤い宇宙の月」の年となります。

宇宙は「存在」「持ちこたえる」「越える」
赤い月は「普遍的な水」「清める」「流れ」

というキーワードがあるそうです。

自分自身の枠を超えた大いなる力や潜在能力が発揮される時。

これまで出来なかったこと、怖れていたことにもチャレンジすることによって、新たな自分の一面が表に出て活躍することかと思います。

また「赤い月」は、水の流れや浄化を意味することもあり、水の浄化がいろいろな意味で続く可能性がありますが、1人ひとりの「浄化」もまた、大きなテーマとなる1年だそうで、不要なものは次々に手放すこととなりそうです。

その中で、水のように流れる、委ねて進むことも求められます。

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そんな節目の日、木の花ファミリーでは、朝6時に宮ノ下広場に集まり、カタカムナを奏上しました。そして、ジイジから語られる言葉をみんなで聴きました。その話を僕の中で咀嚼しまとめると以下のようになります。

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生きているとこの世界の刺激を味わうことになり、そこから囚われや欲が生まれます。生きることが楽になってきたこの社会の中で、刺激が増大し、そして自我が膨らんでいきました。その自我の不調和な響きが天災となって表れているように思えます。

今年の夏はとても暑い日々が続いていますが、来年の夏はおそらくもっと暑くなります。どんどん生きるのが厳しい時代となっていますが、それは自我のそぎ落としをもたらします。生きるのが精一杯の時代は、みんなで力を合わせ現実と向き合っていました。そこに個人的欲望の発生する余地はありません。今日の天災、そして政治や経済の混乱は、文明の崩壊を意味します。それはネガティブにも思えますが、今の文明によって膨らんだ自我のそぎ落としでもあるのです。

この世界で生きることの基軸は自分ではなく太陽にあります。そして太陽は銀河を基軸にしています。生きることの基軸は銀河にある。そのことが分かると今の世界の混乱も天体の動きと共にあることが見えてきます。

僕らは過去の響きを受け継ぐことで生を受け、その響きを未来へと繋げていきます。今、浮き上がる想いや感情は人類の歴史の中にあり、それを浄化することで、未来に美しい響きを受け渡すことが出来るのです。

自分を離れ、銀河を基軸に自分を導いて生きていく。そんなふうに生きたトキ、自分を誇れてかっこいいなと思えます。そしてそれは確実に未来へと繫がっていきます。

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自分を離れることは今の自分の枠を超えることです。銀河という大いなる基軸に自分を委ね、常に自分の枠を超え続けること。その中で自分の想いや感情を浄化し、それを未来へと繋げていこうと思っています。

ジイジと僕と熊野から来た神代杉(マヤの新年に宮ノ下広場にて)

欲の心を超えて意欲をもって生きる

もうすぐ7月26日、マヤの新年です。木の花ファミリーでは、2014年に太陽マヤ族尊母ナーキン氏を迎えてマヤ新年を祝う祭典を行って以来、毎年この日に地球を祈りのウェーブで包む儀式を行ってきました。以下は昨年の7月26日、この儀式に際してジイジ(当時はいさどん)が語った言葉です。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。



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目の前の現象に目を奪われていると、人は現象を変えようと努力します。それは一生懸命であったとしても「欲」の心から生まれるものであり、独りよがり、自分視点のものとなっていきます。

「よく」

カタカムナで見ると、よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態です。横軸=表に現れる出来事ばかりに目が行き、心に柱や芯(縦軸)がなくなっている状態と言えます。その結果、現象に翻弄されるようになり、生きることが自分の手の中から失われていくのです。現象にばかり目を向けるのではなく、その奥にある自分自身の人間性に目を向けることが大切です。人間性に目を向けることは自分に柱(=縦軸)を通すことであり、人間性を向上させることで現象は自ずと好転していきます。

人間性は心を磨くことによって向上します。ではどのように心を磨くのか?先の文章の中でジイジは以下のように語っています。

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損得勘定を持って邪な思考で考えたことは、その人だけの思い上がりです。しかし本来私たちは、宇宙の法のもとに顕わされた生命なのです。自らの心が美しければ、宇宙の智恵が自然と降りてきます。自らの心が美しければ、生命の始まりから未来まで、無限なる智恵が自らの中から湧き出します。ですから、自らを磨かなければなりません。どうやって磨くのかというと、今自分が何を思って生きているのかということを、常に観ていくこと。そしてそれは誇れる意識かどうかということを、常に意識して生きること。そして毎日の役割を果たしていくのです。

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自分自身が何を思っているか、誇れる意識で過ごしているか、そのことを常に見ていくのです。それは欲の心に意志を通すことであり、意欲となっていきます。

「いよく」

よこしまや混沌(よ)が自由になっている(く)状態に位置(い)を与えるのです。それが秩序となって自分自身を導くことが出来ます。ここで通す意志が問われますが、今の時代に求められていることは天の意志を通すことです。

話は変わって。

人は生来、被害者の立場に立つ傾向があるから、加害者として自分を意識することでバランスがとれる。

最近こんな言葉を目にしてなるほどなと思いました。例えば、環境破壊や自然災害。これらは人間がもたらしたものですが、自分のどうにもならないところで大変な状況になっていると被害的に感じる傾向があるのではないかと思います。

この世界には本来、被害も加害もないのに自分自身を被害者の立場に置こうとする。それはなぜかな?と考えた時、この世界が自分の想像をはるかに超えたものだからなのだと思いました。想像をはるかに超えた世界に出会い、それを何とかしないといけないと思った時、どうにも出来ない、どうしろっていうんだと被害的になるのではないかと思いました。ですが、世界はどうにかする対象ではなくいただくものです。出来事をいただくことで自分を知り、学びを深めていくのです。このことに気づくと想像をはるかに超えた世界が脅威ではなく恵みとなっていきます。

「何とかしなければならない」という心が「なんとかしたい」という心となり欲となっていきます。これは目の前の現象に心を奪われた浅い発想であり、結果、出来事に翻弄されるようになります。そして「どうにもできない」という無力感や「なんでこうなるの」という被害者意識を強めていきます。思考をまわすことで結果を所有し身動きが取れなくなっていきます。

この世界は未知。

それが宇宙の法則です。だから未知に向けて進むことで結果をいただきます。その結果を味わい学びに繋がるために思考を使っていけば、出来事やそこから生まれる思考はすべて恵みを与えてくれるものとなるのです。

そんなふうに生きるために常に自分を見ていくのです。欲の心に負けずに天を意識し、自分に天の意志を通していくのです。そのトキ、この世界のすべては恵みとなっています。

昨年のマヤの新年の写真です。



出来事に解体され出来事に生み出される(2)

ここ最近、プラスチックゴミに関するニュースが目につくようになりました。ここでそのうちの2つを簡単に紹介してみようと思います。まずは、〈プラスチック危機〉海流入、50年までに魚の総重量超え?という記事。これは、以下のような内容となっています。

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安価で丈夫なプラスチックは多くの製品に用いられ、20世紀半ば以降の暮らしを大きく変えましたが、それが今、大量のごみとなって人々の生活を脅かしています。

インドの首都ニューデリー、不法移民の多い貧困地域タイムール・ナガル地区になる川は、元々は水路だったが、今はビニール袋やストローなどが人の背丈ほども積みあがっています。このごみは雨季になると水に押され、ガンジス川を通ってインド洋へと流れ込みます。

スペイン南東部の岬に打ちあがったマッコウクジラの体内からは29キロものごみが取り出されたが、それは主にプラスチックで、その中には北アフリカで使われるアラビア語で書かれてレジ袋も含まれていました。

今、世界の沿岸部から海に流出するプラスチックは毎年480万~1270万トンと推定され、陸上で適切に処理されなかったごみが主に河川を通じて流れ込み、中国やインドネシア、フィリピン、ベトナムが最大の発生場所になっています(これらの国はごみの輸入国、世界のごみ捨て場と言えます)。

現状のレベルで海へのプラスチックの流入が続いたら、2050年には海のプラスチックごみの重量が魚の総重量を超えると警告されています。

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次の記事は、「世界最大のごみ捨て場」中国の終焉ー日本のプラスチックごみはどこへいくという記事。これは以下のような内容です。

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多くの先進国は長年、環境保護というきれいごとを言いながら、プラスチックごみを途上国へ輸出してきました。その最大の輸出先が中国だったのですが、その中国がごみの受け入れを禁止する方針を打ち出しました。それは中国のゴミ捨て場としてのキャパシティが限界に近づいている証ともいえます。今、べトナムやタイなどがごみを受け入れていますが、それらの国のキャパシティも近く限界に達すると思われます。そのような動きに合わせて各国でプラスチックごみ削減の動きが進んでいます。例えば、スターバックスは全世界の店舗でプラスチック製ストローの使用をやめると発表し、オーストラリアではスーパーなどでプラスチックのレジ袋が廃止されました。このような動きがある中、日本のプラスチックごみに対する意識はとても低い状況にあります。

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世界のプラスチックごみが途上国に集まり、途上国の川から世界中の海洋へと流れていく。そのような流れが出来上がることで、地上にはプラスチックゴミの捨て場がなくなりつつあり、海洋にも大量のプラスチックごみが流出し続けています。

プラスチックは当初、人類に夢をもたらしました。それが今は大量のごみを生み出しています。その姿は核のごみを生み出している原子力の姿と重なります。利便性を追い求めた人類は大量のごみを生み出すことで自らの生活空間を汚染し続けているのです。

ごみということで思い出すのが「あなたの隣もごみマンション!?現役世代に広がる”孤立”」という番組です。この番組を見た後、僕は以下のような文章を書いています。

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この世界に表されることはすべて人間性の表れです。心の中にゴミがあるからこそ「ごみマンション」がその姿を表してくれているのです。そして、今日の大人ミーティングであらためて心に残った言葉は、「自然界にはごみはない」という言葉です。なぜ自然界にごみがないのかと言ったら、すべてが繋がり循環し生かされているからで、人間の世界にごみがあるのは、分断が進むことによって生かされず無駄になるものが発生しているからです。それは心の中も同様で人との繋がりがないまま自分の想いに浸っていると、無駄な思考や感情がたくさん発生し、それが心の中のゴミとなっていくのです。

「自分が・・・」という意識や「自分の・・・」という意識が強まることでこの世界に分断を広げてきましたが、その分断は一人ひとりの内面にも起きていて、自分の嫌な部分、受け入れたくない部分は心のゴミとなり、人生のトラブルとなって表れます。

ごみマンションは今の社会、そして一人ひとりの心を表しています。だからごみマンションの解決に一番大切なのは自分自身と向き合うことなのです。




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生かされず無駄になっているものがごみとなるのですが、もう一つの特徴として「分解されない」ということがあると思います。プラスチックも分解して土に還るならば、それは循環の中で生かされるのですが、そのままの形を留めるところに問題があります。これも心の表れと考えるならば、人々の心の中に凝り固まって分解されないものがあるからプラスチックごみが溢れているということも言えると思います。

先進国はプラスチックごみという都合の悪いものを途上国に押し付けてきました。そして、途上国の人々は目の前の利益を求めて、環境悪化には目をつぶります。

「食べていくのに精いっぱい。環境のことなんて気にしていられない」

これは、ごみの山からペットボトルを探している不法移民が語った言葉ですが、先進国にも当てはまる態度と言えます。それぞれ自分の立場の視点に凝り固まり、目の前の見える世界に利己的に反応しています。

今、必要なのは凝り固まった視点を解体していくことにあるのだと思います。ということで、「出来事に解体され出来事に生み出される」から文章を引用します。

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大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)


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大量のプラスチックごみ。その事実と向き合うことで今までの自分の思考、自分のあり方を解体し、その出来事に沿っていくこと。そのトキ、繫がりの中から新しい自分が生み出され、それが新しい世界を創っていくのだと思います。それは自らが意図して生み出すものでなく、宇宙の意図に沿うことで、出来事から宇宙の意図を知っていく生き方です。

蓮池の写真です。カエルさんがいます。

海そのものとして生きていく

2009年の12月、僕らは木の花ファミリー憲章の制定に向けていろいろ話し合っていました。当時のことを思い出していたら、その頃ジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉に出会いました。

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今朝は、起きた途端にネガティブな想いが湧いてきた。
世の中にはいろいろな人がいる。
フリーな立場にいる人たちが、
ここの活動や発信していることについて
どのように考えるだろう。

最近の僕のブログにしろ、
木の花が発信している情報にしろ、
非常にマニアックだと思っている。
ここの世界の中だけにある、
内弁慶のようなものと取れないこともない。
それに対する外からのブレーキや
メッセージを客観的に検証してみると、
たとえば、以前ここを訪れた方から、
「対外的に発信することは、多少調整して、
出すことと出さないことを
考えるべきなんじゃないだろうか」
というメールがあった。

元メンバーからは、事実を捻じ曲げて、
自分の都合のいいように解釈する手紙が送られてきた。
「結局、いさどんワールドなんだよ。
理想のところに共鳴しようと思ったけれど、
強制が強いから出てきてやった」と。

ここのところ、
体験ツアーの参加者の人数が落ちてきたり、
野菜などの消費者の伸びも落ちてきたりしている。
これも、ここが発信しているものが
影響しているのではないか。

また、ブログに対するコメントが
最近少なくなったことについても、
ここが非常にマニアックな世界に
入っていくことに対して、
ついていけないということの表われではないか。

ここには、沢山の人たちが訪れるけれども、
継続してここに関わるということが定着しにくい。

ここは、今まで人々が歩んできた
価値観を否定する存在である、という見方もできる。

私たちが進めようとしている綾部のプロジェクトも、
とんとん拍子にはいかない。
そういったことも、
私たちが一方的に事を進めていこうとする結果として
起こっているのではないか、
と考えてみる必要がある。

僕がバランスを欠いて、
マニアックなところへ走っていることに対して、
皆を巻き込んですまない、と
皆に伝えるべきかなと。
なぜかというと、ある見方からすれば、
確かに一つ一つの言葉や
ここの在り方について話していることは、
筋道が通っていて、その通りである。

しかし、筋道を通していった時に、
誰もがそれを正しいんだと思ってしまって、
一種のマインドコントロールのような世界になり、
内弁慶のような場をつくってしまうことになる。

今朝、なぜ自分に
いきなりこんな発想が浮かんできたかということを、
客観的に検証してみようとするのだけれど、わからない。
「朝の想いは、神の意志」ということからしたら、
神様の意思であるという見地からものを観る必要もある。

全くここに利害を持たないところから、
ここはどんなふうに見えるんだろうとずっと考えてみた。
超否定的な、非難的なメッセージが、
そこにはありえるなと思う。
では、どうしてそういうことが起きるのかというと、
自分たちがやっていることを一方の方向だけから観て、
他方の方向を観ないから。
一方をいいものにして、
他のところを一切観ない時に、
陥りやすい現象である。

それを追っていった時に、
今朝のこの想いは何だろうと。
未来に対して暗くて孤立したここの景色が観えてくる。
ここの存続が危ぶまれるような状況になっている。
そういう発想にもなってくる。

それをさらに展開させると、
そういう懸念があるからこそ、
それをかき消そうとして、
最近の僕のブログにしろ、
ここから出ているメッセージがあるのだとも思う。
見えない危機を感じて、見えない意識を働かせて、
そういうところに陥っていくのではないか。

私たちはここで、
一般社会とはちょっと違う生き方をしている。
ことによっては、大いに違う生き方をしている。
それは全ての人に否定されるものではないけれど、
一般社会という枠からすると、
なかなかできないことであったり、
アレルギー的に否定されるものである。

それを私たちが、
新しい社会の概念として捉えている。
それはこちらにとって都合のいい勝手な解釈で、
マスターベーションのようなものだ。

今、ここに対して
ネガティブに受け取った場合の表現を全部出してみた。
僕自身としては、
巧みに語ることによって、
皆をそこへ巻き込んで、
もっと悪い言い方をすれば、
皆をマインドコントロールしている。
だから、皆に詫びなきゃいけないという心が湧いてきた。

こういったネガティブな考え方を
心の専門家として見ると、
うつ病の始まりになる。
物事を悪く悪く、
どんどん悲観的に取っていった時に、
心の病気になっていく。

ここ23日、僕は重い夢を見ていた。
それから、ここのところ、
ちょっと疲労が溜まっている。
僕はうつ病を患っている人に
「まずは休みなさい。
環境を変えてフリーな時間を持ちなさい」と
提案するんだけれど、
自分にもそう言えるなと思っていた。

今、湧いてきたネガティブな思考は、
ただネガティブなだけなのか、
それとも、そこのところへ
気づかずに進んでいった結果なのか、
どういう捉え方をしようとも、
いずれにしろ、
ここの状態を否定する考えがずっと出てきた。

大人のメンバーに対しては、
そこへ皆を引っ張ってきた自分がいて、
申し訳ない。
子供たちについては、
皆の未来を極端な強制の中に置いて申し訳ない、
ということを想っていた。

これを、うつ病の始まりとも言えるな、と診断していた。
今、ひとつずつ挙げてきたことを検証していくと、
そうとは言えない。
どれも、「それはこういうものの見方をしたらこうなる」という、
違う解釈ができる。

世の中にはいろいろな人がいて、
人々の受け取り方は自由である。
マイナスな発想は、私たちの中にも常にあるはず。
自分の願いを叶えて、
自分の好きなように生きていきたいという心は、
誰にでもある。

それを、自分の意思で制御して
生きていくことが大事という心も出てくる。
その葛藤はなんだろうと思う。
私たちがどちらを選んだかというと、
自分の中から湧き出てくる葛藤をコントロールして、
自分の中に秩序を持たせようとしてきた。

悪く考えていけば、
うつ病のようになっていくし、
自分の中にある欲望をどんどん叶えていけば、
体のバランスを崩す。
それは、自分の内には心や体の不健康、
外には社会の不健康をもたらすから、
コントロールして生きているのが私たちである。

神様に、この想いは何ですかと問うてみた。
最近、全然心を向けていなかった。
一人で歩んできたなと思って、心を向けてみた。
そうしたら、何も回答がない。
かすかにあるなと思うのは、進んでいけばわかる。
そこには、何も問題はなしともあるとも、何もない。

それを、見捨てられていると捉えることもできれば、
もう十分に託してあるので自分の道を歩め、とも取れる。
「我即神也」である。

ずっと今朝の想いを挙げながら、
常にいい方向いい方向へ誘導しようという心を、
もし一方通行としたならば、
逆の悪い方向へ悪い方向へ、
いろいろと考えてみた。

僕は、そういう一方通行で
皆を誘導しているのではないか。
それこそが、
マインドコントロールなんだというところに行き着いた。

そこから、さて、どうしていくのか。
僕のワールドの押しつけ、
マインドコントロールを皆に問うて、
一人一人にどうしていきたいのか考えてもらう。
それが必要なんだなと。
でも、必要なんだな、と言うと、
必要なということをもう既に押し付けている。

つまり、今の世の中に、右と左があって、
だから真ん中があって、この世界ができている。
いろいろなことが移り変わって、
今の世の中の状況があり、
その中に私たちもいるのだから、
一人一人がそのことに気づいて、歩む道を選択する。
それが大事だと思った。

僕の中には、
さっきの悲観的なものの見方に対する代替案がある。
マイナスだとしたら、
それを打ち消すプラスの考え。
プラスだとしたら、
それを打ち消すマイナスの考えや見方がある。
今までも、そこのところを社会や人の
トラブル、不健康と捉えて、
私たちがどちらの方向へ行くべきか考えて歩んできた。
それが一方通行であるということ。

しかし実際、世の中にはいろいろな考えがあって、
人間がどちらへ行くかは自由である。
そうしたら、自分の進む方向を
一人一人がもう一度、自分で検証して、立つべきだと思う。

それをまた、大事というと、
それもまた方向付けになる。
そこで、一切方向付けをしない。
材料だけを提示する。
敢えて、今は「こちらの方向が大事」という
ポジティブな発想は語らないで、
ネガティブな発想だけを語った。
ずっと今まで、ポジティブなことばかり示して、
「そちらに行くことが大事」と語ってきたから。
敢えて、そちらのほうは全然語らず、
ネガティブな発想だけを語り、
それ自体も自由な選択肢の一つですよ、と。

誘導は一切なくて、個が自分の道を選んだ結果、
もし共にあるとしたら、結果同じだったね、と。
共通の意識を持つ人が集まったね、ということ。
今もそうなんだけれど、
よりそのことをしっかりと確認したい。
敢えてこんなことはする必要はないのかなとも思うんだけれど、
敢えてする必要があるのかなと。

私たちがどうするべきなのかということには、
もう一つ、尺度があって、
この社会やその中にいる私たちの位置。
それは、心の位置であったり、
具体的な生活の位置であったりする。

この世界ができてきた成り立ち、
人間的な概念を超えた自然や地球、
宇宙というものの見方から、ここを観ることもできる。
この世界は、創られて維持されている。
そこから捉える。
未来についてはわからない。
過去と現在の視点から、これを捉える。

その視点と合わせて、
さらにこのフリーな世界で、
どう私たちが生きていくのか、
考える必要があるなと思う。

この結論は、個々に任せようと思う。
憲章を創る前に、
これを皆に提示しようと思っている。

そうやって、僕の縛りから皆を解き放ちたい。
皆に皆を預けたい。

もしあなたの中に神がおられて、
それを信じたら、行動して下さい。
あなたの意思として、行動して下さい。

決して一つの方向や、
イデオロギー的なことや
宗教的な方向に誘導して、
それに誘導されたものたちが集まって
生きている場所ではない。
独立した個人が、その個人それぞれの思考の中で
大事と思うことを選んで、
選んだ時に共通するものに出会って、
それが集ったものである。

だから、これは特定の誰かワールドではない。


皆ワールドである。


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当時、この言葉はいろいろな人たちの心に響きました。ブログ「ひとりひとりに問う」にはいくつかコメントがついているし、ファミリーメンバーはこの言葉をきっかけにそれぞれがそれぞれの想いを「ひとりごと」として語りました(「皆のひとりごと」参照)。

語ることが道理に適っているから多くの人に影響を与えて、こうやってみんなで暮らす生活が始まったことでみんなの人生にも責任を感じてきたジイジ。そのジイジが向き合ってきたプレッシャーは僕の想像をはるかに超えるものなのだと思っています。そしてそれがそのままジイジという人の大きさを生み出しています。

みんなで共に暮らすトキ、みんなをまとめる心が必要になります。それが一人の人から出続けると、外から見たら、誘導や強制に見えることもあるでしょう。共感できない人が一緒にいたら反発する心も生まれてきます。

僕ら木の花ファミリーの暮らしは、一人一人が自分の自我を超えていく取り組みです。自らを分けると書く「自分」。そこから生まれる自我は、自らを世界から際立たせることで自らの存在を示そうとしています。「違い」を示そうとすることで、時と場合によって違うことを主張したりします。

普段、子どもがうるさいと怒っているのに、他の人が同じように怒っているのを見ると、「そこまで怒ることはないだろう」と感じて止めたくなる。

例えば、そんな感情が芽生えたら、目の前の状況に自我が反応し、自分を際立たせているだけなのかもしれません。自我の反応を超えたら、怒るだけでなく、冷静に伝えたり対話をする道も拓けます。

自我は自らを世界から際立たせます。みんなと一つになることを理想に掲げても、自我は一つになることを拒みます。自我にとって、一つになることは自らの消滅を意味します。

自我は浮かんでは消える波のようなもの。消滅しても次の自我が表れます。その動きを見通すことで海そのものである自らの本質へと至るのですが、自我の視点からは、その事実が見えないものです。

違いを生み出す自我の反応の奥にすべての人が分かり合える視点があります。その視点から見たトキ、自我の動きも全体の中で生かされていくのです。この暮らしはその視点へと至る道ですが、その過程では様々な反応に出会います。誘導や強制だという反発も、過度な称賛も、すべてはそこへと至る過程でそれぞれの自我から生まれるものです。

自我を超えていく。

この道は何かを期待して始めるものではありません。真理は固定したものではなく動きの中で変化し続けるものです。集い語り合うことで常に新しい真理を見出して、それにそっていく心を育んでいくことが生きる目的です。何かを得ることが目的ではなく、自分の心を磨き続けることが目的となります。

真理は誰から出てもどこから出てもいいのです。それは表面的な形のことで重要なことではありません。例えば、一人の人から真理が出続けるならば、それは全体としての未熟さの表れではありますが、大切なことは形の奥にあります。形は一人一人が成熟することでおのずと整っていきます。ジイジがこの言葉を語ったトキから9年が経っていますが、今は僕や他の人から生まれる真理もあります。それはコミュニティの成熟を表していると思っています。

なんにせよ大切なのは形ではありません。反発や称賛、そして期待や不安。これからも様々な波に出会うと思いますが、常に波の奥を見通して海そのものとして生きていく。そして未来は天に委ねます。

9年前のジイジの言葉に触れてこんなことを思いました。

木の花ファミリーのみんなです。

広がると同時になくなっていく

ここ最近の大人ミーティングでは、ジイジブログ「今、自らのエリアを超えることが人類に求められている」を共有しています。それはこんな文章で始まります。

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一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

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僕らはよく「人間性を高める」という表現を使っていますが、自らの枠の中で努力をしていても人間性は高まりません。上記の文章はそのことを明確に表現しています。

例えば、「優しくなろう」とか「真面目に生きよう」とか、そんなふうに思い努力をしたとします。その心掛けは大切なものではありますが、その努力が自らの思考、枠の中でのものだったならば、真の意味で人間性が高まることはないのです。自らの枠の中で努力をしても、自分視点の優しさを提供するだけであり、自分の理解を超えたものに出会ったら、その優しさは有難迷惑となっていくかもしれません。ですが、人には中々その事実が見えないものです。それは人が許容範囲というエリアに縛られているからでしょう。

例えば、人類は長年、平和を願い努力をして来ましたが、そこから争いが生まれてきた現実があります。これも自らの枠の中での努力の結果と言えます。世界は人々の想像を超えた存在です。それなのに許容範囲という枠を持つことで異なるものを排除します。許容範囲を超えることではじめて人々は分かり合い調和が生まれます。

人間性は自分の枠を超えていくことで高まりそれが世界に調和をもたらすのです。

上記の言葉に続いてジイジは以下のように語ります。

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自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

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出会う出来事をそのままいただくことで自分自身を調整していく。そのことにより人間性は高まり観える景色も変わっていくのです。

ところで、知識(ちしき)と知恵(ちえ)という言葉があります。

識別して知ると書いて知識、恵みを知ると書いて知恵となります。

この二つの言葉が共通して持つ「チ」はカタカムナでは、維持しているもの。持続を支えるもの。そして、「シ」は示し、「キ」はトコロ軸における発生の思念。物質や生命の始まり。ということは、知識とは、それぞれの生命や物質の始まりを識別するものなのですが、それだけだとそこで固定してしまうのです。そして、知恵の「エ」は笑み。ゑみわれる。実が熟して裂けること。目に見える形で増えて2つになる思念で、これは陰と陽、相反する2つのものからなるこの世界が、その本質に基づいて発展し続ける姿そのものです。

知識は世界を固定します。固定された世界を目の前にして人は世界を変えようとするのですが、それは自分の範疇の中であり、人は同じ出来事の繰り返しに出会います。

知恵は動きの中にあります。相反するものが生み出すダイナミックな動きをいただくことで広がっていくもの。それが知恵であり、知恵により人間性は高まっていきます。生きることは恵みであり、恵みとは悟り。悟りは差取り。差がなくなって一つになっていく。一つになると自分がなくなります。相反するものが生み出すダイナミックを感じそれを生き抜くと共に自分がなくなっていく。それが知恵であり、広がると同時になくなっていくのです。

7月13日11時49分、蟹座の新月を迎えました。今、ちょうど太陽から見て地球と冥王星は同じ角度にあって、太陽-月-地球-冥王星 とほぼ一直線になっています。新月はリセットであり始まりのトキ、そして冥王星は究極の真理。だから僕は今、この宇宙の実相に向けて自分をリセットし、この世界の究極の真理へ向けて自分を解き放ちます。

広がると同時になくなっていく。

僕はそんなふうに生きています。

7月13日の富士山と朝日です。


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