未知であるからこそ道

6月になりました。昨年、一昨年と6月を起点にしてしばらく「自分の望み」に囚われた苦い思い出があります。それは僕が抱えていた爆弾で、大きな波に飲み込まれたようなものです。

この課題を達成することで壁を超える
この課題を達成することで新しい世界を切り拓く。

当時はそんなふうに思っていて、そこには決心もあったのですが、その奥には「自分の望み」があって、その波に飲み込まれていただけなのです。自分が設定した課題に向って努力をしてはいましたが、それは囚われた思考の下の努力なので、心はどんどん狭くなっていきます。だから当然のように滞りをいただきました。

波に飲み込まれ、罠に引っかかり盲目となった当時の僕。

その痛みは僕を謙虚にしてくれますが、これ以上繰り返す必要はありません。だから今年は違う道を行きます。未知(みち)の場所に行くからこそ道(みち)と言えます。繰り返しは歩みの停滞。僕はもう歩みを止めません。立春正月にひっくり返り、春分を機にただ出会うことを楽しむようになった今年の僕は、今までとは立脚点が違います。

自分の側から世界を見るのではなく、世界の側から自分を見る。自分に湧き上がる想いは満たすためのものではなく、世界に向けて解放するものです。解放することで想いは変化変容を繰り返しこの世界と一つになっていきます。行動や判断の基準は自分の想いではなくこの世界の流れであり、そこに彩りを与え筋道を通すことです。

そんな視点から1年前の今日に書いた以下の文章を見てみます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕は子どもの頃、誘拐される夢を沢山見ました。
それらの夢はとっても怖かったです(-_-;)。

ある日の夢では、僕は両親と妹と自動車に乗っていました。
その時、かぼちゃの顔をした「かぼちゃマン」が走って僕らの車を追いかけてきたのです。
かぼちゃマンはとっても早くて僕らの車に逃げ切ることが出来ません。
そして、かぼちゃマンは高らかに笑っています。
かぼちゃは当時の僕が最も嫌いだった食べ物。
そのかぼちゃが迫ってくるのが本当に怖かったのです。

プロセスワークでは、子どもの頃の夢を「人生の神話」として捉えています。
それは人の人生を貫く大きなテーマとなるのです。

僕は子どもの頃の夢での中で何度も何度も誘拐されました。
それは、血縁の家族や個人的な繋がりではなく、
もっと大いなるものに導かれて生きていくということです。

大いなるものとはこの世界のすべて。
世界は僕で、僕は世界。
この世界が僕を生み出し、僕がこの世界を生み出している。

だからこの世界に起きることすべてに僕は一人分の責任を持ちます。

それで再び「願い」について思います。
そして、以下のような結論に達しました。

それが道の途上にあるものならば必ず実現する。
なぜなら僕は心の道を極めるから。

それは手に入れようとするものではなく、自然となるもの。

これから価値あるものとして僕のいろいろな思いが表現されていきます。

それが天との約束だから。

ちなみにかぼちゃは今、僕の最も好きな食べ物となっています。
かぼちゃはきっと僕にとって天からの使者なのです(^-^)




☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章、だいたいそうだなと思えるのですが、「願い」についての結論でおかしくなります。道は未知だからこそ道と言えます。それなのに、僕は「必ず実現する」と書いています。変化変容を繰り返すのがこの世界の本質で、「願い」も常に変化するものであり、その実現はどうでもいいのです。ただ大いなるものに導かれ生きていくだけです。

そして世界に目を向けると、アメリカのトランプ大統領が「パリ協定」からの離脱を表明し、国際社会、そして人々の分断がさらに際立つようになりました。その分断は、多くの人が今の自分の想いや願いを満たそうとして生まれています。それが変化していくことは考えず、ただただ今の自分の願いや想いに固執し、その結果、違いが際立ち分断が進んでいくのです。そして平和への願いすら、それに固執することで争いや分断を生み出す原因となっています。

人は自らの想いに基づき未来を固定しようとして道を外れて来ました。未知であるからこそ道であり、未来を固定しようとする思惑は滞りへと繋がっていきます。それが今の地球の姿です。未知なる道、未知なる未来に向けて自らの想いを解放する時、思いもよらない出来事をただただ楽しむことが出来ます。それは人智を超えた動きであり、すべてを一つにする動きであり、そこに未来への希望があります。

僕は道を歩みます。それは未知への旅であり、ただ出会うことを楽しむ旅です。

今朝の富士山と太陽です(^-^)






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