自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく

2019年2月2日に開催された富士浅間木の花祭りを前にして、僕は昔に書いた二つの文章を思い出していました。一つは2010年12月7日、約8年前に書いた以下の文章です。

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メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。僕の心はもうすでに僕だけのものではない。はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

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そしてもう一つが、2016年の木の花祭りの後に書いた以下の文章です。

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鬼はこの世界の道理を伝える存在であり、木の花祭りでは主役となっています。鬼が怒っているのは、相手の心が汚れているからであり、鬼はそれを教えてくれているのです。日々の生活の中で湧き上がる自分優先の心や気持ち、余計な感情。自らが鬼になることによりそれらと向き合い当日を迎えました。

鬼の舞ではアップテンポで舞い踊るシーンがあるのですが、頭を空っぽにして身体の力を抜いて、太鼓や笛の音、みんなの掛け声に身を委ねると楽に動くことが出来ます。それがただただ心地よいのです。


ずっと動き続けることが出来る。


そんなふうに思えました。


ところで、僕は昨日、ある人から以下のメッセージをいただきました。


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この世界に降りてくる前に、神さまはあなたに3つの名前を用意していました。3つの中で真ん中にあったものが「善文」であなたはそれを選んできたのです。それは正解でした。善悪の善。善が先に来ます。だけれども少し間違えると悪にもなります。そのことを心に留めておくことです。そして、あなたは「中野」の性を選んで両親のところに来ました。真ん中の「中」。そして野原の「野」。山ではなく広く広がる野原なのです。

みんなの中の「なかのん」


みんなの真ん中でしっかりと固めていくのです。


中(なか)を守るのです。


でも目立つ必要はないのです。

目立つのではなく深く深く沈みこんでいく。
奥で自分を広げて固めていくのです。

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僕はずっとどちらかというと端っこにいることを好んで来ました。あんまり自分が真ん中にいるという意識を持ったことはありません。その意識を転換させる時が来ているのだなと感じています。

真善美を兼ね備えた人間になっていく。その誓いとして真ん中の字をとって「善(よし)」と付け、そして卯年の守り本尊である文殊菩薩から字をいただき「文(ふみ)」と付ける。(僕は卯年生まれです。)これは僕が勝手に創っていた名前の由来ですが、「善」は真善美の真ん中の字となっているのです。


僕はみんなの真ん中を生きる。


でもそれは目立つことでも際立つことでもなく、みんなの中に溶けていくことなのだと思います。目立とうとすると、きっとすぐに偽悪醜の方へと転げ落ちていくことでしょう。鬼の舞にて、太鼓や笛、みんなの掛け声と溶け合っていったように、日々、みんなの心の中で溶け合っていくことが大切なのだと思います。


溶けていく。その中で天と繋がり柱も立てていく。


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僕の中にはずっと「自分は生きている意味も価値もない人間だ」という想いがあります。それは自分がずっと流れに沿わない天から外れた想いを抱えていて、天から外れた存在だという想いがあるからです。その一方で、僕の中には、精神の高みを目指し、天と一つになろうという気持ちもあります。この両極の想いが絡み合う中で僕の中には日々、様々な感情が生まれています。

2010年12月、自分と向き合うことに疲れた僕は「メッキを塗っていただけ」と表現していますが、そうではありません。最低だと思える僕も、それを超えようとする僕も、全部自分だから、日々の暮らしの中でそのどちらが育っているか、ただそれだけなのだと思います。

天から外れた想いは、それを抱えることを許す神からの愛であり、自由の証ですが、それは自分の中心ではありません。自分の中心は常に天と繋がっています。だから「自分は生きている意味も価値もない」という想いは幻想に過ぎず、僕は、すべての存在と同様、天に生かされているものとしての意味と価値を持つのです。

天から外れた想いは、僕に苦しみや滞りを与えますが、それと向き合うことで僕は謙虚な気持ちを育むことが出来ます。そして、自然から離れた人工的な社会で暮らす今の人間は、それだけ天から離れ、天から外れた自分勝手な想いを抱える存在となっています。自然災害や異常気象、戦争や紛争、人間社会の対立や分断などはその表れで、だから天から外れた想い抱えることは今の人類を象徴しているとも言えるのです。

天から外れた想い。

そこから生まれる苦しみや悲しみ、惨めさや怒り、絶望感や無力感。

僕はそれらすべてを否定せずに自分に相応しく与えられているものとして向き合っていきます。と同時に、その想いが周りにもたらして来た軋轢や痛みにも想いを馳せます。流れに沿わない想いは周りや世界を混乱させます。だから僕は加害者とも言えます。その上で、それらを自分の中心から生まれる喜びや希望、誇りや充実感と混ぜ合わせてみんなの中で溶けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

そうすることで、この世界のすべての想い、ネガティブなものもポジティブなものも、すべてが溶け合い調和の中で活かされる世界が実現するように。そのために必要な天の道理を自分と世界に通すために。僕は鬼となって舞い踊るのです。

ということで以下、今年の富士浅間木の花祭りの様子を紹介しますね。



鬼の面(神寄せの神事にて)
水の御用・お水合わせ
世界各地、日本全国103箇所から集まったご清水が湯釜の中で一つになります。

楽の舞
一の舞
地固め - 扇
山見鬼
山を割り、地中に封印されたエネルギーを噴出させる力強い鬼。
花の舞 - 盆
花の舞 - 扇
「榊鬼」山見鬼が踏み固めた地に天の道理を降ろし、魂を入れる。
(榊鬼と翁の問答はこちらをご覧ください)
三つ舞 - 扇
三つ舞 - 矢剣(やち)
四つ舞 - 矢剣(やち)
女郎囃子
瀬織津姫の舞
瀬織津姫は男神・天照大神の妻神で、封印されてきた水の神様です。
「金神様」封印されてきた地球神、国之常立神です。
(金神様と翁の問答はこちらをご覧ください。)
このはな八重の舞
同じく「このはな八重の舞」
「茂吉鬼」蜂巣(お宝)を落とします。
「湯囃子」湯釜のお湯を場内に振りまき清めていきます。
獅子舞
「火の御用」祭りで使った道具などを燃やし天へと還します。


水の御用・お水送り」湯釜で焚き上げたご清水を地球へと還します。


ところで、今年の木の花祭りでは新しい鬼として、青鬼と赤鬼が生まれました。緑鬼は北欧、赤鬼は北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。僕は赤鬼を演じることになり、より天からの気を身体に通すことが求められましたが、なかなかそれが出来ず「気が通りにくい身体の構造をしている」というフィードバックも貰いました。

天からの気が通らない。

それは天から外れた想いを抱えてきた自分の状況と重なるように思えました。そういう僕が大切な役割を頂くのも何かの巡り合わせで天の意志とも言えます。だからそういう現実と向き合い、気持ちを入れてだけだなと思い、当日を迎え、現時点での精一杯を表現しました。

しっかりと演じることが出来たとは言い切れません。

でもこれが僕の実態で現実。実態は常に天と繋がっていて、そこと向き合い価値を積み上げていくことに生きることの本当の意味があります。そしてその位置に立ったトキ、この世界で起きるすべての出来事は天へと至る祝福となるのです。だから僕はこれからも努力を続けていきます。

自分のすべてと向き合いみんなの中で溶けていく。

それは天へと至る僕オリジナルの旅路、これからもずっと歩み続ける旅路です。

「緑鬼」北欧を代表する鬼です。
「赤鬼」北米(ネイティブ・アメリカン)を代表する鬼です。


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