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煩悩を無くし絶対有へと至る道

今日はお釈迦様の誕生日。ということで、若かりし頃のジイジとお釈迦さまとの問答を紹介します。

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ジイジ:
ブッダ私に答を下さい。私は今煩悩の流れの中で悩み苦しんでおります。

ブッダ:
答は私の中にはない。お前の進む道にある。人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。次の答も煩悩によって与えられる。その人間の生き方が一つの問題であり、その生き方が答である。すべての答はその生き方の最後に現わされる。生きるというのは肉体の死ではなく魂の生滅で終りを迎える。一回の肉体の生滅は次の肉体と魂の縁を生む。そして煩悩の続く限り、限りなく肉体から肉体へと悩み苦しみ魂は生き続ける。煩悩のあるかぎり。私にはお前に答えてあげられる答はないのです。お前の生き方と私の生き方が違うように、お前は自分の生き方の中でその答を観、そして、その答からお前の生き方を選び出し、この世の中でたった一つしかないお前の答を得るがよい。その答はお前が今一番強く望んでいる答になるでしょう。強い信念を持ちなさい




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そして、次に紹介するのは、3年前の今日、ジイジに降りてきたお釈迦様の言葉です。

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今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、48日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。



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お釈迦様はこんなふうに言われています。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

と同時にこんなふうに言われます。


今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。


煩悩が答。そしてその究極の答は、煩悩を無くし絶対有へと至るトキ、得られるものなのでしょう。ということで、今度は最近、ジイジが語った言葉です。

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スピリチャルなワークショップをする人々は、それを完璧でパーフェクトになる道というが、パーフェクトと言っても常に足りないのだと思う。僕はパーフェクトなんて考えていないが、パーフェクトを目指していく過程が大切だと思っている。だから出来の悪い存在も大切となる。

一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。

これが分かれば分かるほど、人間たちにいかに難しいことかと思う。すごく複雑。ちょっと分かるとすごい感動するけれども、こんなに素晴らしいのですよと言えるかと言ったら、そんな単純なものではない。美しいことを語り、美しいイメージに浸ればいいというものではない。

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お釈迦様がジイジに語った言葉。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

それは煩悩を抱える実態と向き合い、煩悩を超えて、絶対有へと至る道。変化変容を繰り返し時空という神の経路を歩み続ける道なのです。

今日はお釈迦様の誕生日。ということでジイジに降りてきたお釈迦様の言葉を紹介しました(^-^)

先日、木の花ファミリーのみんなと花見に行きました。


自我から湧き出る想いは自分を鍛えてくれる風のようなもの。

今、木の花ファミリーでは、1ヶ月間の真学校が開催されていますが、開講の前に、ジイジは以下のように語っていました。

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木の花ファミリーのメンバーはここで暮らすことの意味を共有し大事にしているから、それにふさわしい景色を毎日出会う出来事から観ている。面白い捉え方として、世界は動いている。それは、この世界が動いて時代を刻んでいるようだが、一人ひとりが出会う出来事から観る景色は時代のほうから見せてくれているのではなく、自分が何を考え、毎日どのような生活をしているのかによって見るものを選択している。それは自分の心のフィルターを通して世界をみている状態で、たとえば怒っている人にとっては世界が怒りの原因をもたらしているように解釈できるわけだ。体の中のバランスを欠いている人は、そのアンバランスは自分の中にある原因に基づいて蓄積されてきたものである。それは世界が歪んでいるのではなく、自らの歪みが蓄積されてきた結果もたらされたものである。だから、人生においてどのような景色をみて、どのような感情を持ち、どのような人生を送るかは、どんな時でも自分次第だ。それは、自分にとって世界は自分自身を知るための鏡であるのだから、本当はこの世界に不満を言ってはいけない。

多くの人はそうやって自分のみる景色を否定していくが、世界はその悟れない人を使って物語を紡いでいる。世界が時代を創っていく時の物語を個人としての立ち位置で理解できれば、それが本当の生きる目的であり、悟るということになる。ところが今、人々は自らの思惑や精神に翻弄されて生きているので、自らが発したものを世界に映し出し、それを自分がみることによって、自分自身に溺れている状態だ。

時代は、サイクルを刻みながら大きな物語を紡いでいて、どのような時代も何かメッセージを表現しようとしている。人間はその大きなメッセージを理解できるような存在でもある。人間以外のものは時代の目的と共に忠実に存在するけれど、時代の目的を理解し、それを共に表現するような意識を持つことはない。それに対し、そろそろ人間は、自分から湧き出る精神に翻弄されるのではなく、自らの精神をコントロールし、そして時代の目的を理解することにより、それを時代と共に表現する時が来ている。それが人間の尊さの証なのである。「時代」は「時の代(シロ)」と書くように、うつろな(ロ)時の示し(シ)。その宇宙創造の根本原理と共に生きていけば、人間の存在する目的が観えてくる。現代のように、人々がお金やものやテクノロジーに溺れてしまい、人間の本当の生きる意味を見失っている状態では、生きることの本来の目的を表現することはできない。そもそも、これほど物質に偏った欲求を表現しなくても、これほど自我に囚われなくても、その情熱を合理的に向ける方向は他にもある。

それを示すために今、生きている。それをこれからの人々が表現できるように、私は今、地球生命として生きている。言葉で伝えるのは難しいから、感じてもらうために、私は今を生きている。内にある想いを人々に伝えるのはとても難しい。それと同じように、時代はその奥にある意思を人間に感じさせようとしている。そして、それが通じた時に、人々に生きることの本当の喜びが発生する。時代の意思が感じられる者として、私はその立ち位置で今、生きている。



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自らを分けると書く「自分」。自我を持ち「自分」という意識を持つ人間は、自らを世界から分けて認識します。そして、多くの人が、そこから湧き出る精神に翻弄されることで、お金やテクノロジーに溺れ、社会に混乱が広がっています。

ならば、自我は害をもたらすだけの余計なものなのか?と言ったら、そんなことはないと思います。闇があるから光を認識出来るように、この世界を認識するためには、そこから離れた自我の存在が必要となるのです。今は多くの人が自我に溺れることで、この世界を動かしている大いなる意思の存在を忘れてしまっていますが、思い出せば、自我も時代の意思と共にあることが出来るのだと思います。

自我から湧き上がる想いは、天を感じようとするトキの妨げとなります。それは自分の中にある抵抗で、悪いもののように感じてきましたが、僕は今、自然界にある「風」の存在を思い出しました。自然界の存在するものは、「風」により揺さぶられますが、それに耐えることで力を育んでいきます。生命は「風」があることにより逞しい身体を創り、逞しく生きていきます。同じように、自我から湧き上がる想いに耐えることで、ヒトの心は鍛えられていくのだと思います。人間以外のものは、天=時代の目的に忠実に存在しますが、そこにはそれらの「意志」が介在しません。人間は自我から湧き上がる想いに耐えることで鍛えられ、天と共に歩む「意志」を育んでいくことが出来るのです。

扱うのが困難な強い衝動に襲われるトキ、自らの未熟や不幸を嘆きたくもなりますが、その衝動は自分を鍛えてくれるものでもあるのです。その衝動から自由になればなるほど、時代と共に歩む意志はとても強固なものとなっていきます。

だから、どんなトキも嘆く必要はなくて、すべてが天へと至る祝福に中にあるのです。

1ヶ月間の真学校の様子です。

余剰のところで遊ばせてもらっている

余剰のところで遊ばせてもらっている

という言葉が浮かんで来ました。そして、立春正月のジイジの挨拶を思い出しました。以下、その言葉を引用します。

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皆さん、明けましておめでとうございます。
先月も明けましておめでとうございますと言いましたが、正月の月が終わり、富士浅間木の花祭りが明けまして、おめでとうございます。そして立春正月が明けまして、おめでとうございます。321日になれば、それは木の花ファミリーの誕生日でもありますが、春分で本当の意味での一年の始まりとなり、農の正月を迎えることになりますから、これもやはり明けましておめでとうございます。
今朝も、夜が明けました。毎日夜が明けます。今朝私は倉庫に行って、「おひさまハウスひまわり」の新しい看板を作っていました。今日は朝からとても暖かく、天気も良く気持ちの良い日で、暦の上の立春という日を感じながら作業をさせていただいていました。
ここで何が言いたいのかというと、毎日毎日、瞬間瞬間、私たちは時と共に生きているということです。

もしもこの世界に時がなかったら、どうなるでしょう。すべてが存在しないことになります。私たちは時の旅人であり、時と共に、こうして存在しています。時と共に生まれ、時と共に死んでいく。そしてまた、その時の中に生まれてくるのです。
それを平面で表せば、円になります。しかし実際に、人生では、いろいろなことを体験し、変化しながら進んでいきますから、それは円ではなく、渦になっています。そのような仕組みの世界のことを、「宇宙」と言います。
「ウチュウ」をカタカムナでひも解くと、渦(ウ)が持続(チ)して、極めて不思議なユラユラとした揺らぎ(ユ)が渦(ウ)になっている。それが宇宙です。私たちは毎日を、その中で生きています。

今日は立春正月祭という祭事が行われました。私たち木の花ファミリーは、「マワリテメクル」、つまり、毎日地球が自転し(マワリテ)、そして一年を通して公転する(メクル)という宇宙の法則を感じながら生きています。毎日朝起きて「おはようございます」と言い、お昼にはご飯を食べ、夜はみんなで集まってミーティングをして、「おやすみなさい」と言って眠ります。それは「マワリテ」という時の流れの中にあるけじめです。そうして四季を迎えながら、「メクル」時の中で季節に応じた祭事を行います。私たちは自然から命をいただき、自然の中で命を巡らせています。自然から食べ物をいただきながら、そのことを意識し、「マワリテメクル」時の中で一つひとつにけじめをつけながら生きているのです。

 ~ 中略 ~

今この瞬間も、留まることなく時が経っていきます。本当は、私たちは常にそのことを実感していなければいけないのです。時が経つ仕組みは、天体の動きによって成り立っています。地球は24時間で自転し、365日で公転しながら、機械のようにきっちりと周っているのではなく、そこには遊びがあります。だから問題ごとが起きるのです。遊びがあるからこそ、思わぬことに出会う。そこで私たちは考える力、生き抜く力を身に付け、たくましくなるのです。
この世界では、問題ごとが起きれば必ずそれに対する答えが出るようになっています。ところが人間は、宇宙の法からではなく、自分の考えで答えを出そうとするようになり、その結果、今のような世の中となったのです。もう一度、私たちは宇宙の法と共にあることに気付かなければなりません。

それでは今、この瞬間に、乾杯しましょう。
改めまして、皆さん、明けましておめでとうございます!

ジイジのブログ「毎日が明けましておめでとうございます」より


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僕らが意図しようが意図しまいが、時は流れ続け、僕らはその中で生かされています。大いなる時の流れの中で僕らは自我を与えられていますが、それは宇宙全体から見たら、余剰や余地と言えるもの。遊びと言えます。

僕らは余剰のところで遊ばせてもらっているのです。

そしてその余剰、遊びは僕らに「欲」をもたらします。ここで2年前のマヤ新年の日にジイジが語った言葉を引用します。

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私たち人間は、生きている限り、この地球上で様々な出来事に出会います。人生の中で出会うことは、すべて私たちの生きた証であり、それまでの生き様にふさわしい結果として出会っているのです。今、世の中には、世界的な規模で解決策を見出せないようなたくさんの滞りがあり、それを何とか解決しようと世界のリーダーたちは模索していますが、その動きでは解決できないでしょう。なぜなら、どのような現象も、そこに生きる者たちのそれまでの生き様の結果として与えられたものですから、その現象を変えるには、それをもたらした人々の生き様を変える必要があるのです。その現象に出会った結果、それまでの自らの生き様がどのような結果をもたらすものであったのかを悟り、その生き様を変えていくことによって、自ずと、自動的に、その現象は存在する意味をなくし、消えていくのです。そこで、原因である生き様を変えずに、学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


この自然界、そして宇宙の法則は、すべて因果応報の仕組みで成り立っています。原因があって結果がある。そこでは、その原因にふさわしい現象が起きることが約束されているのです。こんなにありがたいことはありません。なぜなら、その者にふさわしい現象が顕れるからです。そして今、この場に立ち会う人々も、なぜここに集うのかというと、それにふさわしい生き方をしてきたからです。今皆さんは、どのくらいの意識を持って今日この場に集っているのか。その今の意識が、皆さん一人ひとりのこれから先の人生に形として顕れていくと同時に、社会を創っていくのです。それは当然のことなのです。

人類はそろそろ、そのことを知らなければなりません。出来事の表面だけを見て、それが不愉快だと言って解決しようとする時代は終わりました。これからどのような時代を生きていくのかは、その者が自らの人生をどのようにしようとしているのか、そこで何を望んでいるのかによって変わっていきます。つまり、生きることが自らの手の中にあるのです。これまで、なぜそれが人々の手の中になかったのかというと、自らの独りよがりで、この世界から与えられている命の仕組みを無視し、欲のままに生きてきたからです。


3000年に向けて新たな時代を生きる人々へ」より


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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言う。

ジイジはそう語っていますが、これは自我からの視点、余剰にばかりに目が奪われている状態と言えます。表面に表れる現象は、それぞれの自我に相応しく与えられますが、それは自我の視点から見える偏った姿であり、その奥には無限ともいえる命の世界が広がっています。「欲」のままに生きる人たちは、自我から見える余剰ばかりを追い求めていて、大切なものを蔑ろにしています。その結果、宇宙の法から外れ、現象に依存し、生きることが自らの手の中から失われていくのです。

自我を与えられた僕らは余剰の中で遊ばせてもらっています。

その遊びによって僕らは、生命の本質へと至ることも出来れば、「欲」という暗がりに埋没することも出来るのです。それは天が僕らの与えた自由であり愛。そして僕らの姿勢がどうであろうと、時は先へ先へと進み続けていくのです。

僕らは余剰のところで遊ばせてもらっているのです。

木の花ファミリー2月お誕生日会より


変化・変容・変態を繰り返す美しさを表現していく

いさどん(当時のジイジの呼び名)が来るトキに限って失敗する

3年前の大人ミーティングでそんなふうに発言する人がいました。その発言について僕は、「評価を求めて硬くなってしまうからそういうことが起こるのかな?」とジイジに尋ねたことがあります。以下はそんな僕の言葉に対するジイジの回答です。

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僕が行くことで緊張するとかそういうことではなくて、多くの人は自分のやっていることが見えていないのです。そこに僕が行くことによって、見えていなかったことが明らかになるのです。つまり、それまではOKにしていたことが、よく見ることによってOKではなくなるのです。こういう人は普段から失敗をしているのです。

多くの人は自らの欲望のままにそれに翻弄されて生きています。
これは意識が自分にばかり向いている状態です。
この状態では心からの気づきは生まれず、失敗も見えないのです。



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自らの欲望のままに生きるトキ、世界は自分の都合の良いように映ります。失敗など都合の悪い出来事はなかったことにして生きるようにもなります。ありのままにそのトキそのトキのことを語るジイジの存在はそんな人の実態を明らかにします。そういう人にとって明らかになった実態は都合が悪いので、それを受け入れることが出来ず、慌てたり隠そうとしたりすることになるのです。

そんな人間の特徴について、木の花ファミリー通信秋分号「21世紀の死生観 第3部 美しいとは」では以下のように表現されています。

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私たちの肉体は、母親の胎内で受精後、わずか1mmにも満たないほどの小さな生命から、魚類、両生類、爬虫類を経て哺乳類へと至る38億年の生命進化の歴史を胎内でたどり、280日でこの世に誕生します。そして日々、地・水・火・風・空という自然の五大要素の循環の中で、細胞レベルでの生死をくり返しながら、赤ん坊から子どもへ、そして大人へと成長していきます。年月とともに肌にはしわが刻まれ、髪は白くなり、やがて寿命を迎えれば、魂の抜けた肉体は原子レベルへ解体し、次の生命を構成する材料となります。死は、それまでの縁から解き放たれて、生態系の循環の中へと還っていく美しい瞬間です。

このように個々の存在は時の流れと共に変化し続け、その個々の集合体である全体もまた、新陳代謝をくり返しながら、常に新しく生まれ変わり続けています。この、淀みなく変化していく姿が、この世界の美しさです。

美しいとは、すべてが淀みなく流れ、未来へ向かって変化しながら、進化していくことです。それは、宇宙の姿そのものです。宇宙は常に未知なる場所へと進みながら、変化・変容・変態をくり返しています。それは宇宙が生命だからです。生命とは留まることなく変化し続けるものであり、私たちの体は、その仕組みをもっとも身近に現しながら、命とは何か、美しいとは何であるかを、教えてくれているのです。

この美しい世界の中で、人間は極めて特殊な能力を与えられました。

すべてがつながり、循環していく仕組みの中で、自我を持った人間は「自分」というものを特別に意識するようになりました。そしてその高い能力を使い、世界の流れに沿って自らを変化させていくよりも、自分を保ち、世界の側を自らに都合のいいように変化させようと考えるようになったのです。その心は、すべてが変化し続ける流れの中に滞りを生み、様々な矛盾を発生させました。ウソ、かけ引き、争い、孤立。それはつながることが基本である宇宙の本質とは、対極にあるものです。

人は誰しも、美しい世界を求めています。ところが現代社会は、人間の都合を優先した、とても美しいとは言えない世界になってしまいました。美しく整備されて見える都市は、その陰で莫大な量のゴミを出し、美しく装った人々の奥には、争いや孤独、病気や犯罪など、自己中心の心が蔓延しています。流れに逆らい、力ずくで世界を思い通りにしようとすれば、たくさんのエネルギーが必要です。人々はもっともっととかき集め、傷付け、奪い合い、多くの無駄を発生させ、地球や、自分たちの命さえ蝕むようになりました。ところが、世界中がこれほどの問題ごとで溢れかえりながら、人々は問題のあることが当たり前になり、それを自らが創り出していることさえわからなくなってしまったのです。


多くの人は目に見える形を見て「美しい」と言います。しかし真の美しさとは、その奥の「心」にあります。どんなに形を美しく取り繕っても、奥にある心が汚れていれば、それは必ず問題となって自らに返ってきます。ところが自分が汚れているという認識がなければ、自らが出会った問題を他人や世の中のせいにするのです。それどころか、その問題をなかったことにしてしまうのです。

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自分の幸せばかり考えて、意識が自分にばかり向くようになると、世界が自分の色に染まり、自らが問題を創り出していることが見えなくなり、自分の失敗も見えなくなります。そんな人間に対して、宇宙は滞りという「愛」を与えてくれているのです。先の文章に続いて木の花ファミリー通信には以下のように書かれています。

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すべてが淀みなく変化していく流れがこの世界の美しさなら、汚れとは、その流れを滞らせ、宇宙の本質から外れる働きです。現代の人々はこれほどの問題を生み出しながら、その問題の元となる自らの心の汚れを見ることを避けてきました。しかし、宇宙の根本は善意です。体の成り立ちを無視して心が暴走し、暴飲暴食をすれば、体は病気になってそのことを教えてくれるように、人々の心が分離し、自分勝手に生きるようになれば、世界は大きな災害を起こして一人では生きられないことを教え、つながることを促します。つながるとは、命を紡ぐことです。

宇宙はいつでも、私たちがこの大いなる流れから外れ、世界に矛盾をもたらせば、再びその流れへと戻るように導いています。その流れに逆らい、同じ場所に留まろうとする限り、宇宙はあなたに問題ごとを与え続けるでしょう。なぜなら、宇宙はあなたを「一緒に新たな世界へ進もう」といざなっているからです。

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今起きている異常気象や日常生活での失敗は宇宙が与えてくれる「愛」です。宇宙が与えてくれる滞りという「愛」は人間に実態を見るように促します。そして実態は、例えば今、失敗を繰り返していたとしても、変化・変容・変態を繰り返しながら未知なる場所へと向かう宇宙の流れの中にあり、大きな視点に心を開いたら、美しい流れの中で変化していくのです。

今を留めようとする心、都合の良い世界を求める心、そんな心を手放せば、実態の尊さに気づき、思いもよらない出来事を楽しめるようになります。それは宇宙、そして自分の実態である変化・変容・変態を繰り返す美しさの表現となります。

今、世界には多くの問題がありますが、それらと向き合うことで自らと世界の実態を知り、儚く潔く美しく、宇宙の法則のままに生きていけば、きっとすべてが繋がり合う調和した世界が実現することでしょう。

そんな世界に向けて日々の変化を楽しみます(^-^)



今の「認識」を手放していく

がんって言われた時は、ぽかーんとした。何で俺、元気なのにって。でも知れば知るほど、がんって訳の分からんやつだなあって興味が出てきた。病気というより、人間の生命活動そのものなんです。細胞が自ら死ぬアポトーシス(細胞死)って現象が生命に欠かせないことが分かってきた。ところが何らかの理由でアポトーシスが働かないと、死ぬはずの細胞がどんどん増える。それががんなの。へーって感心しちゃった。面白いよね。

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上記は9月14日の静岡新聞に掲載されていた解説・主張SHIZUOKA「生きる」という記事からの抜粋、膵臓がんと診断されたジャーナリストの北岡和義さんの気づきの言葉です。

生命が健全に生きていくためには死んでいく細胞が必ず必要。

この事実はとても興味深いことです。僕らの「生」は多くの「死」に支えられています。生きていくためには食べ物を頂くことになりますが、それは他の生命の「死」を意味します。そして、自らの身体を見ても、新陳代謝、多くの細胞の「死」によって支えられているのです。

現代社会は「死」を忌み嫌ってきました。「死」を嫌い「生」へと執着しているのが多くの人の生きる姿なのではないでしょうか。死ぬはずの細胞がどんどん増えるのが「がん」ということですが、それは「生」に執着している人々の映し鏡とも言えます。

それで生への執着がどこから生まれるかと言ったら、今の認識への執着から生まれているように思えます。多くの人が死ぬことにより自らの認識がなくなると思っていて、認識がなくなることに恐怖しているのではないかと思います。認識は人間に与えられた最大の恵みです。例えば、それは以下の言葉に表されています。

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遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。


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光と闇、善と悪、陰と陽、相反するものが存在することにより生み出されたこの世界。その原動力は完全なる神による「自己認識」への探求と言えます。

そしてお釈迦様は、すべてが繋がり合って存在しているこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語らましたが、それは自らがなくなると「認識」が無に帰すからであり、この言葉は「認識」の価値を語られた言葉と言えるのです。

このような価値を持つ「認識」だからこそ、それがなくなることに人は恐怖します。ですが、人間は光から最も遠いところへと投げられた存在です。その位置からの「認識」は闇に覆われており、だからこそ人は苦しむことになります。それでもそれが恵みであるため人は自分の「認識」に執着をするのですが、その執着は光へと向かう歩みを止めてしまうのです。

光へと還っていく長い長い道。その道を歩むためには宇宙の本質に沿う必要があります。そして宇宙の本質は変化変容にあり、それは古いものを手放すということであり、「死」を受け入れるということを意味するのです。

自他を区別する人間の自我は、この世界に「自分都合の世界」という闇を生み出しますが、光へと還る道を進むことで、「認識」は常に新たなものとなり、闇はだんだん払われていきます。そしてすべては一つの光から生まれていることが見えてきます。自分=全宇宙=光そのもの。その「認識」に至り、その中で常に「認識」を新たにしていけば、個体としての自分の生に執着する必要はなくなります。なぜなら過去から現在、そして未来へと続いていく全プロセス、そしてこの宇宙の全空間が自分そのものとなるからです。その「認識」の下に、トキの流れの中に従い役割が終われば、自分の生、そして自分の「認識」も手放していけるのです。

みんながそんな境地に立ったトキ、すべての「生」、そして「死」が生かされ、この世界は大いなる調和の下に光輝いていくでしょう。そしてそのトキ、がんは必要なくなっていることでしょう。そんな世界に向けて僕は木の花ファミリーのみんなと日々の暮らしを営んでいます。

木の花ファミリーのみんな(韓国のソナエビレの人たちと)



木の花ファミリーで生きるということは・・・

2年前の9月、僕は木の花ファミリーの暮らしについての記事を書きました。以下、その文章を引用します。

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木の花ファミリーメンバーになるということは自我(エゴ)を超える道を歩むことです。今、多くの人は自我の赴くままに暮らしているので、自我を意識することはあまりありません。ですが自我を「超える」と決めることにより、その人の自我は浮き彫りになります。浮き彫りになることで自分と向き合うことになるのです。

 ~ 中略 ~


それぞれの自我はそれぞれの幻想(都合のよい世界)の中で暮らしています。70億人の人間が70億の幻想を持ち、世界が営まれています。

自我を超えることとはつまり自分や世界の実態に向き合い、真実を探求することです。実態に向き合いそれを知り、宇宙の法の下に自分や社会を位置付けていきます。そうすることで世界と自分が一つとなり、自分が無限の可能性に開かれていくのです。それは一人一人の自我に応じたオリジナルで個性豊かな道であり、何かを獲得していく人生ではなく、自分に相応しい出来事を頂き変化していく人生となります。

血縁を超えて人々が共に暮らす木の花ファミリーの暮らしは人間の実態を浮き彫りにします。人と人が深く関わることで、それぞれの人間性が浮き彫りとなり、向き合うことになるのです。自我の幻想の中で暮らしてきた人間にとって、その過程は確かに苦しみを伴います。思い通りにはならない経験をし、自らが抱える幻想が壊れていくからです。ですが、その苦しみを超えた時に真の喜びに出会えます。それは一人ひとりの本質が光り輝き、真の調和が実現した暮らしへと繋がります。


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そして、今年の夏、木の花ファミリーのホームページがリニューアルされ、そこに「木の花ファミリーとは」という文章が新しく掲載されました。以下、そこから引用します。

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人間社会は長い間、人々に一律になることを求めてきました。「こういう人生が良い人生だ」というモデルを作ってみんながそれを目指し、その結果、格差や対立を生んできました。けれども、本来この世界は多様性によって成り立っています。それぞれに違うからこそ、その違ったもの同士がつながることで美しいハーモニーとなり、豊かな命の世界が表現されるのです。

空を見上げれば、太陽には太陽の、月には月の役割があり、他の無数の星々もそれぞれにその星独自の役割を果たしながら、宇宙を巡り続けています。それは、壮大なる宇宙交響曲です。無限に多様な存在が連鎖し、互いに響き合いながら、ひとつの壮大なハーモニーを奏でており、その中を地球も共に巡っているからこそ、まるで約束されているかのように毎日地上に朝がきて、夜がきて、四季が巡って時が刻まれていくのです。もしも地球や太陽や他の星々が連携せずバラバラに存在していたら、私たち生命はたちどころに成り立たなくなるでしょう。つまり、宇宙の根本はつながることにあるのです。つながるとは、約束の元にある、愛です。

地球上に存在する870万種もの多種多様な生命の中の、たったひとつの種である人間。同じ種の中で、みんなが同じようなものであれば、きっともっと調和的であったはずなのに、人間は一人ひとりが極めて個性的です。なぜこれほどの多様性を与えられたのかというと、世界は私たちに、宇宙を表現することを託したのです。様々な個性を持つものが、互いに支え合い、活かしあい、つながって生きるように。そしてもっと豊かになるように。それは、宇宙の根本である愛の表現です。

これまでの人間は、互いの違いによって争ってきました。争い、分離し、自分の分が不足しないようにと必死になってかき集め、さらなる争いや矛盾を生んできました。しかし宇宙はもともと、完全なるフリーエネルギーの世界です。地球は秒速30kmという驚くべき速度で宇宙を移動しながら、長い間一度も燃料補給をしていません。太陽も、他の星々も、同じように高速で移動しながら一瞬たりともその光を消すことなく輝き続け、そのエネルギーは尽きることがないのです。この永遠なる調和の仕組みに沿った時、私たちも無限のフリーエネルギーの世界を生きることになるでしょう。

つながることを忘れ、分離して奪い合うエネルギー消費型社会では、人はどんどん傷つき、心が孤独になっていきました。しかし、すべてが調和し美しく循環するフリーエネルギーの世界は、とても穏やかです。穏やかで、心地良く、そこに出会うとやさしい心になれる。それが、私たちの生きる世界の本当の姿なのです。

木の花ファミリーは、私たちの生きるこの世界の本来の姿を表現する場として、誕生しました。それは、肉体を持って地球上に生まれた私たちの本住の地、魂のふるさとの表現です。

ですから、その美しい表現は、木の花ファミリーの生活の場だけでなくともいいのです。それは、地球の本来の姿であり、宇宙の実相です。人類は長い間、その目的地を見失い、歩んできました。長い長い道のりを経て、その歩みの目的地が「ああ、ここだったんだ」と誰もが気付き、自らを「おかえりなさい」を迎えられる場所。その表現が、木の花ファミリーが存在する目的です。

そこでは、真実に目覚めた人々が、一人ひとり他にはない、個性豊かな「個の花」を存分に咲かせることでしょう。そして、その色とりどりの花々がつながり、響き合い、美しい満開の大樹となるでしょう。もしも地球上のすべての存在が響き合い、つながって生きたとしたら、この世界はどれほど美しく、どれほど豊かになるでしょう。私たちはまだ、宇宙の中でも類い稀なる命あふれる星・地球の、本当の尊さを知りません。その大いなる可能性へ向かい、木の花ファミリーは日々、歩み続けているのです。


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木の花ファミリーのメンバーになるということは、自我(エゴ)を超える道を歩むこと、その行きつく先は、宇宙を表現すること、繋がり合うことで生まれる愛の表現です。自我(エゴ)に奔走された苦しみも、自我(エゴ)を超える苦しみも、宇宙の愛に触れることで癒され喜びへと変わっていきます。

自我(エゴ)は自分の都合で世界を体験することで、自分だけの世界、幻を生み出します。そしてその幻を守るために思惑を持ちます。自我(エゴ)を超える道は思惑を超える道とも言えます。思惑があるから思惑通りにいかないことで人は苦しみ傷つきます。それらはすべて自我(エゴ)が生み出す幻です。幻の奥にある自分と宇宙の実態、それは変化変容を繰り返し、常に未知へと進んでいきます。

宇宙を表現する

それは自他の区別を超えて自分が宇宙そのものである境地へと至り囚われがなくなった状態。起きる出来事はすべて自分自身の表れとして今この瞬間でいただくと同時に、大きな視点を持って今に囚われず未来へ向けて歩み続けることです。
自我(エゴ)を与えられた人間は、絶えず自他を区別し、自分だけの幻の世界を生み出します。そして、その視点から物事を比較するようになり、善悪、美醜、大小、多少、長短などの価値判断が生まれ、所有の概念や欠乏感、欲が生まれました。それは多様性の表現であるのですが、人々に苦しみや執着をもたらしています。

自我(エゴ)は多様性をバラバラにすることで苦しみや執着を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。自我(エゴ)を超えるとはその心の動きを見通すことです。そして、自分の想いや感情を他者の想いや感情と同じように扱いすべてを繋げていくのです。

私たち人間は、自然界、そして他者の存在により生かされています。太陽の光や水の流れ、大地や空気、そして風、それらがすべて繋がり合い循環しているからこそ私たちの生は成り立っています。元を辿っていけば、すべての存在は一つなのです。その視点から自分を眺め、世界に解き放ち響き合っていくこと。それが自我(エゴ)を超えるということであり、木の花ファミリーで生きるということです。

木の花ファミリーのみんなです。




太陽の光の下、惑いを学びに変えていく

今、天体を見ると、7月26日から水星が逆行していますが、水星逆行について今日は「時間をはずした日」、そして逆行ラッシュの夏休みには以下のように書かれています。

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水星逆行とは、太陽系の中で一番太陽にも近い水星が地球から見て逆方向に進むように見える目の錯覚の天体現象であり、1年に3回〜4回ほどの頻度で1度に3週間ほど続きます。

西洋占星術の考え方で水星が象徴しているのは、コミュニケーション・通信・連絡 ・知識や知性 ・技術、テクノロジー ・旅行 ・輸送などであり、これらの分野やキーワードが水星逆行中は、大きく乱れたり、上手くいかなかったりする現象が起こりやすいと言われています。


さて、今回の水星逆行は、またいつもよりも逆行っぷりが半端ではないかもしれません。

というのも、水星だけでなく、すでに火星、土星、海王星、冥王星が逆行しており、88日の88ライオンゲートの日からは、さらに天王星も加わって、819日の水星逆行が終了するまでに6つの星が逆行することになるそうです。

夏休み真っ只中、いつも以上にコミュニケーションのすれ違いに注意し、また遠出される時などは、交通機関の乱れも含め、旅行の計画には十分に注意くださいませ。

明日からの3週間は、サイドブレーキをひきながらアクセルを踏むような時期。

時には無理して前に進まず、立ち止まって一息ついたり、身の回りや自分自身を見つめ直すのも良いと思います。


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コミュニケーションのすれ違いを生み出す水星逆行、それに加えて火星、土星、海王星、冥王星が逆行し、昨日、8月8日からはさらに天王星が加わり6つの惑星が逆行していますが、この天王星の動きは特に大きな意味があります。なぜなら天王星は今年の5月16日に牡羊座から牡牛座に移動したばかりだからです。天王星はしばらく逆行し11月7日に一度牡羊座に戻ります。そして来年の1月7日に順行に転じて3月6日に再び牡牛座に戻ってきます。牡牛座は12星座の始まり。天王星のこの動きは始まりの再確認を意味するように思えました。

ちなみにこの惑星の逆行という現象ですが、天下泰平ブログに書かれている通り、地球視点から生まれる目の錯覚であり、視点を太陽系の中心、太陽へともっていけば、すべての惑星は常に順行しているのです。

地球視点とはつまり自分視点。自分からの視点で世界を眺めると、逆行のようにこの世界には多くの惑わすものがあります。それらはすべて自分に相応しく出会うものであり、それらを通して学びを深めていくのですが、その奥を貫く太陽の視点をいつも意識していると学びの奥行は無限に広がっていきます。そして、太陽はすべてを生み出す始まりでもあります。それで今、思い出したのが2年前のジイジ(当時はいさどん)が語った以下の言葉です。

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みんな自分が世直しを託されているとは思っていません。
だけれども、みんな間違えなくこの宇宙の法則の中で生きていて、
人類の70億分の1、この世界を託されているのです。

人は育っていく過程で欲求し、欲求を満たしながら成長していきます。
健全な秩序の中で欲求を満たしていく人もいれば、
秩序なく際限なく欲求を満たし求め続ける人もいます。
そういう経験の中で自分という人間性が出来てきます。

その中で、それぞれが自分の成り立ちを振り返って見ると、
それが宇宙の歴史や地球の成り立ちと一緒だということが見えてきます。
この世界は全部相似形なのです。

小さなところの集合が大きなところを創りだし、
大きなところの法則が小さなところに指針を与えています。

13,000年前のカタカムナの時代。
厳しい自然の中、人類は天然の法則を感知してすり抜けてきました。
ですが、その感覚は時代と共に失われてきました。
その叡智が天とつながることで現代に蘇るのです。

カタカムナの生き方を現代に表現していく。
それは、科学が発展したところに天然の精神を加えることです。
これはまさに新しい時代の生き方で、
木の花ファミリーはそれを表現していくのです。

2012年12月21日。太陽系は銀河の冬至を迎えました。
これからは少しずつ明るくなっていきます。
宇宙的には明るくなる現象が起きて、人間を後押しするのです。

健康に生きることは素晴らしいことです。
ですが、ただ健康になりたいだけで終わってしまったら人生は深まりません。
生きている過程でいただく病気や滞り。
その奥にあるメッセージを理解していくことが大切です。
そこを理解した時に現代人も天然の意識で生きていくことが出来ます。

この世界は心と肉体(物質)で出来ています。
まずは心、魂を磨くことが大切です。物質のことは考えなくてもいいのです。
今の世の中はまだ物質的豊かさを求めていますが、そういう世の中はひっくり返ります。

そのようなターニングポイントを今、迎えているのです。

人間の欲が戦争を生み出し、第二次世界大戦で大きな犠牲を出しました。
これは世の中の欲の心が壊れて一度リセットされた状態です。
ですが、戦後の復興は、もう一度、欲の心でなされました
そして、現代の混乱に至っています。

自分の健全、健康を求める心の奥にメッセージがあり、
それを通して自分がどう生きるべきかが見えてきます。
大切なのは、自分が健康に生きることだけではないのです。
自分のことばかり考えることで人間は不健康になっていったのです。
そのからくりを見通すこと。その先に世の中作りがあるのです。

世の中を良くするとみんなが良くなっていくのです。
自分が・・・と考えると住みにくい世の中になっていきます。
自分が・・・という心を超えていく。
それが天と共に生きることです。

~ 中略 ~

ここで健全な場を創り出すことが時代の流れをあらわすことになります。
世界のことを思い、自分を超えていく。
そのことが宇宙の中に光をさすことになるのです。

それを本当に信じて取り組むことです。

時代も神も目には見えません。人間の理解を超えています。
ですが、この世界にはそういう秩序が確実にあるのです。
そこに一人一人の人間が理解を示すことが大切です。

宗教はご利益を求める人により発展しましたが、
本来はそういうものではありません。

信仰とは宇宙の法則性の理解です。

法則性を理解し、自分が・・・という心を超えていく。

そのような本当の信仰心の下、天と共に生きていくのです。
それが世直しであり、この世界に平和をもたらします。


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自分の健全、健康、幸福を求める心は自分視点であり、それらは多くの惑いを生み出します。そこから学び、その心を超えたトキ、この世界の法則性という太陽の視点と出会います。その視点に気づくことがこの世界に光をさすことに繋がります。

天王星は革命、変革の星です。その天王星が始まりの星座、牡羊座にあるトキと銀河の夜明けの期間はほぼ重なります。それは根本の大きな革命を意味します。そして今、天王星は行ったり来たりしながら牡羊座から牡牛座へと移行しつつあります。それは根本で起きた革命を現実化していく流れを表しています。

自分視点の日常が生み出す惑いを、太陽の光の下、学びという豊かさに変換していく。

それがきっと天体が示しているメッセージ。だから僕はそんなふうに生きていこうと思っています。
8月8日の富士山と太陽です(^-^)





自分の感情は他者の喜びのためにある

明日7月7日は七夕ですが、昨年の七夕の日、天下泰平さんはこんな文章を書いていました。

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本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。


この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。


かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」


天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」


七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。


織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。

この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。


ちなみに77日は「かぐや姫が生まれた日」ということで「竹の日」とされていますが、このかぐや姫が出てくる竹取物語もまた、ミカド(帝)と姫の結ばれない悲しいラブストーリー。

物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、置き手紙と不死の薬の入った壺を残していきますが、ミカドは天(月)に一番近い山として、日本でもっとも高い山である富士山(不死山)で手紙と壺を燃やしたとあります。

七夕の日、使い終わった短冊を川に流す方法もあれば、短冊を燃やす方法もあり、これはかぐや姫とも関係していると言われています。

天(鶴)に帰った天女と地球(亀)に残された男性。

富士山といえば、コノハナサクヤの女神が象徴ですが、コノハナサクヤといえば桜がシンボル。


ただ、実はコノハナサクヤは隠された女神である瀬織津姫であり、桜は瀬織津姫のシンボルであります。


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~

この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



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そして、3年前の七夕の日、僕はジイジ(当時はいさどん)からこんな言葉を掛けられています。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望と全体性。個人的願望は自我、人智から生まれます。それは地の営み、かごめの歌の「亀」と言えると思います。そして、全体性は天の視点であり、かごめの歌の「鶴」と言えます。個人的願望と全体性との統合、それは天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」と言えます。

光だけが存在した時代、神は自らのことを認識出来なかったといいます。認識するためには対比が必要であり、そのために闇が生み出されました。この世界は神の自己認識の旅であり、そこに無限(∞)の深みを生み出しているのが自我という闇なのです。「我」がなくなればすべての認識は無に帰す、だからこそお釈迦様は「天上天下唯我独尊」と宣言したのです(「一人ひとりの認識がこの世界を創っている」参照)。

光を認識し、光を増すために闇は存在します。闇は光のためにある。自我という闇も全体性という光のためにあります。だから、自分の感情は他者の喜びのためにあり、自分の中を出たり入ったりしながら、自らの感情を味わうと同時にただの情報として客観的に見ていく。そしてそれを全体のために生かしていく。そんなふうに過ごすことできっと陰陽統合が実現し、世界は次のステージへと進んでいきます。

そのためには「いらなくなった状態」へと至る必要があります。

個人的願望を持つと同時に何もいらなくなる。

その状態ですべての想いを全体のために生かしていくトキ、この世界はきっととても美しく素敵なものへとなっていきます。それは前人未踏の世界。僕は今、そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現しようと思っています。

木の花ファミリーのみんな@ジャガイモ収穫



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