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煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない(2)

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない」という文章を先日書きましたが、それは以下のような言葉で締めくくられています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

心を磨くこと、全体性を生きることは、煩悩をなしにすることではないのだと思います。煩悩と向き合うことでそれを全体性の中で生かしていくこと。その努力が自分の望みを全体の望みとし、自分としてはそれがいらなくなるのです。僕はそこへと向かって歩みます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない。

そんな言葉が浮かんできました。それは、

平和のために努力をするけれども平和を求めない。

という姿勢ともなります。

人類は長らく平和を求めて争ってきました。それは求めている平和が、自分都合のものであったからで、平和を求めることが平和のための努力にはならなかったのです。煩悩も同じで、煩悩を求めると、それは自分都合のものとなり、きっとこの世界に争いや分断を生み出します。だけれども、求めることなく煩悩のために努力をすることは、全体の中で実現させることであり、それは全体性、そして平和や調和へと繋がっていきます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない

そんなふうに生きることで、自分オリジナルの生の答を見出していこうと思っています。


☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで煩悩のための努力をするのは誰かと言ったら、煩悩を離れて客観的視点を育んできた自分です。客観的な視点から自らの煩悩を眺め、煩悩を生かしていくのです。僕は煩悩を離れ、価値を積み上がることで、煩悩を抱える自分と価値を積み上げてきた自分という二面性を生み出してきましたが、この二面性も、煩悩を離れた客観的視点によって煩悩を導くことで生かされていきます。そしてきっとこれから僕の二面性は統合されていきます。

マワリテメクル

これは自転公転の二面性を表している言葉ですが、二面性を表す「テ」を経ることで、新しい「メ」が生まれ、自由を維持している(「クル」)というようにも読めます。

二面性ということで言えば、

煩悩をなしにするのでもなく煩悩に囚われるのでもなく

そんな姿勢が大切になると思っていますが、ここでジイジが昨年、流れについて語った言葉を思い出しました。それはこんな感じの言葉です。

☆彡 ☆彡 ☆彡


そこで、僕たちは何をしているのかというと、天の意志を探っている。どういう意向があるのかという流れを観ている。僕がよく皆に言う、頭を使えというのは、ものを偏らずに観て、流れを観ていくということ。何をもって正解として受け入れるかどうかというのはない。現象をもって真実とすべしだから、成ったことを受け入れていく。成ったことで、天の意志を探っていく。

☆彡 ☆彡 ☆彡

大切なのは、流れを観て天の意志を探っていくことです。だから「煩悩のために努力をする」とは、煩悩を満たすための努力ではなく、それが自分のもとにやってきた意味、天の意向を煩悩と向き合う中で見出すことなのです。

今、社会は様々な矛盾や混乱に満ちていますが、それは人間が自らの煩悩を満たそうとしてきた結果とも言えます。それも大きな流れの中にあって、銀河の夜明けという天体の動きにもそれは表されています。ですが、煩悩を満たすことばかりを考えていたら、そのことは見えてきません。煩悩を離れ、煩悩がもたらすものを流れの中で見ていくことで、天の意向を知っていく。その時、人類がこの地上に降ろされた意味を見出せるのだと思います。だから僕は自分一人分、そんなふうに生きていきます。




煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない


ジイジ:
ブッダ私に答を下さい。私は今煩悩の流れの中で悩み苦しんでおります。

ブッダ:
答は私の中にはない。お前の進む道にある。人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。次の答も煩悩によって与えられる。その人間の生き方が一つの問題であり、その生き方が答である。すべての答はその生き方の最後に現わされる。生きるというのは肉体の死ではなく魂の生滅で終りを迎える。一回の肉体の生滅は次の肉体と魂の縁を生む。そして煩悩の続く限り、限りなく肉体から肉体へと悩み苦しみ魂は生き続ける。煩悩のあるかぎり。私にはお前に答えてあげられる答はないのです。お前の生き方と私の生き方が違うように、お前は自分の生き方の中でその答を観、そして、その答からお前の生き方を選び出し、この世の中でたった一つしかないお前の答を得るがよい。その答はお前が今一番強く望んでいる答になるでしょう。強い信念を持ちなさい

☆彡 ☆彡 ☆彡

上記は昔、ジイジとお釈迦様が交わした問答です。僕はここ数年、煩悩を手放そうとし、煩悩を離れて自分の価値を積み上げてきました。その歩みについてはこのブログの様々な投稿に書かれています。ですが、煩悩が完全に消え切ることはなく、その結果、煩悩を抱える自分と価値を積み上げてきた自分という二面性が生まれることになりました。

思えば煩悩は自分の一部です。それを切り捨てることは自分の一部を切り捨てることになります。煩悩を抱える自分を切り捨てるのではなく、価値を積み上げてきた自分と統合すること、それが二面性を乗り越えていくことであり、僕オリジナルの人生の答となる。今はそう思っています。

もし悟りが煩悩を切り捨てることならば、すべてのヒトは同じ状態へと至ることになり、そこにオリジナルな物語がなくなっていきます。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

煩悩により救われ、煩悩が答となる。それはヒトが自らの煩悩と向き合い見通すことで全体の中で生かされていくということであり、そこに個性豊かな人々が繋がる世界が生まれるのだと思います。そこへ至る道筋は3年前の七夕にジイジが語った以下の言葉に表されています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

心を磨くこと、全体性を生きることは、煩悩をなしにすることではないのだと思います。煩悩と向き合うことでそれを全体性の中で生かしていくこと。その努力が自分の望みを全体の望みとし、自分としてはそれがいらなくなるのです。僕はそこへと向かって歩みます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない。

そんな言葉が浮かんできました。それは、

平和のために努力をするけれども平和を求めない。

という姿勢ともなります。

人類は長らく平和を求めて争ってきました。それは求めている平和が、自分都合のものであったからで、平和を求めることが平和のための努力にはならなかったのです。煩悩も同じで、煩悩を求めると、それは自分都合のものとなり、きっとこの世界に争いや分断を生み出します。だけれども、求めることなく煩悩のために努力をすることは、全体の中で実現させることであり、それは全体性、そして平和や調和へと繋がっていきます。

煩悩のために努力をするけれども煩悩を求めない

そんなふうに生きることで、自分オリジナルの生の答を見出していこうと思っています。


12月7日射手座新月の日の太陽です(^-^)


僕と父と木の花ファミリー(2)

僕と父と木の花ファミリーに書いたように、僕はつい最近、自分の中で両親と再会する体験をしました。それはこんな感じです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持っていて、そこには共有できるものがありませんでした。そして、僕が大きくなるにつれて、実際の心の距離はどんどん膨らんでいて、そこには冷たい空気が流れていまいした。僕と両親とでは、見ている世界が違っていました。両親の僕への愛着は絶対的でしたが、そういう現実を直視することはなくて、感情の交流という意味では貧しいものでした。そして、それは僕がずっと抱えてきた理屈を超えた愛着にも言えることで、現実の中で他者と共有できる価値のない愛着は彩りがなく貧しいものです。そして、それが僕の人間性の原点となっています。

僕の中での両親との再会は、僕の人間性との出会いであり、それは痛みを伴いましたが、現代社会の反映でもあり、そこと向き合うことが大切だと思いました。人は、便利な世の中を作ることで、好き勝手に想いを持つことが出来るようになりましたが、その結果、社会には分断と孤立が溢れています。物質的には豊かになりましたが、人々の関心は欲得に集まり、精神的にはとても貧しい世界となっています。自分の願いを叶え、何かを獲得することに価値が置かれ、他者と共有する喜びは蔑ろにされています。そういう世界を反映して自分の人間性があり、だからこそ、自分の人間性にメスを入れることは世界にメスを入れることになるのだと思っています。

木の花ファミリーは、すべてを共有することを心掛けているコミュニティです。すべてを共有した上で調和して暮らすためには、一人ひとりが自分の立場を離れ、みんなで共有できる価値を育む必要があります。そのような心を育むことで、分断や孤立へと繋がる貧しい想いを超えていくことが出来るのです。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

僕を木の花ファミリーに送る道中で、父は僕にそう呟きました。その瞬間、僕らは大事を共有し、心の距離は近づきました。物理的には離れ、それぞれ全く別の道を歩んでいますが、お互いを尊重することで心は近づいているのです。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それはすべてのヒトが共有出来る真理です。そしてそれは「ひとつならりのいのち」を表現していて、この世界の豊かさは循環の中で表現されます。その真理に基づき、みんなが共有できる価値を育んでいこうと思っています。


今朝のお月様。昨日はふたご座満月でした。

僕と父と木の花ファミリー

11月のはじめ、ジイジはこんなことを話していました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

テレビは今の社会情勢を知るには、すごい情報源だよね。ここにいていろいろなところのことが分かるのだから。でもマスメディアは自分たちの都合のよいニュースを流すのでその点は注意をする必要がある。

この前テレビで、インターネットのいろいろな問題について取り上げていたんだけれども、インターネットの世界では、何か一つのある情報が入ると、それに酔ったように人々は反応して、そればかりを検索するようになる。今のインターネットは何かの情報を検索すると、そういう情報が自動的に集まるようになっている。そうすると、そのような情報ばかりに接して、同じような人たちが集まるようになってくる。集まって、「世の中みんな自分と同じ考えだ」というようになって自分が正しいと思うようになる。ある大学の先生はこのようなことを研究して、何か強い意見があるとみんなが集まってそこに偏った集団が出来る危険があると言っている。そういう例としては、ヘイトスピーチやバッシングなどがあるよね。

それで別の研究者は同じ現象を見て、別の危惧をしている。ネット上では、みんながそれぞれ自分の考えを持っていて、例えば人を批評しても反論が来ない。そうすると相手がどのような感情を持っていて、実際がどうなのかも関係なく、自分の感情でどんどんどんどん主張できるから、自分の考えが暴走していくことになる。それで一方的に言う人がどんどん増えてきて、そこに偏った人たちが集まっていく。そうすると逆に、共通の生き方がなくなっていって、万人に共通したモラルや価値観を持って人々を束ねていく。そういうことが出来なくなってバラバラとなっていく。

片一方では、強い意見があると人が集まって偏ってしまうという現象が起きて、その傾向は逆に、本当に信頼すべき正しい意見がなくなり、バラバラの世界となって表れている。矛盾する問題ばかりが起きているのが今のインターネット社会。そのことに対して現状では打つ手がない。だけれども、ささやかだけれどもこういう世界を創ればいいという答え、それを示す必要がある。

研究者の多くは、自分は賢くて、自分は正しいという立場から意見を述べている。けれども、その前提になっているのは、金や社会的評価が絶対の社会、その中で切り捨てられる人間の本質が見えていない。ものが見えているようで、全く見えていない状態と言える。すごい賢い人たちが集まってすごいバカな世界を創っている。

そこでどうしたらいいかと言ったら、自分たちが生きているではなく、生かされているということを知ること。どんなことをしても時間の流れはどうすることも出来ないし、老いていく自分を止めることは出来ない。人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。だから自分が賢くて生きているという錯覚を手放さなければならない。でも今の人間はそれがなかなか出来なくなっている。

人間が自然の恩恵に感謝して、真剣に神経を張り巡らせて生きていた時代、そういう時代から、人間は賢くなって、この世界から不都合なものをなくしていって、気軽に言いたいことを言える世の中になっていった。その結果、一番大事なもの、共通の価値、共通の生き方を失っている。今の社会は人間が賢くなった結果、最も愚かしいところに来ている。

共通の価値観の元に集える場所がなくなったしまった今、そういう場所を生み出しているのがこの場と言える。それはささやかな動きだけれどもとても大切なこと。現代のメディアの情報から、その奥を見ると、この暮らしの大切さの確認となる。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここで話は変わって。

最近、自分の中で両親と再会する経験をしました。父親は、「あなたの未熟もみんなに役立つ」にも書いている通り、僕に対してとても強い愛着を持っていました。そして、母親は、表面にはあまり出しませんでしたが、同じように強い愛着を僕に対して持っていました。そんな彼らの気持ちに対して、僕は冷めた視点で眺めていました。彼らは実際の僕を見ているわけではなくて、彼らが創り上げたイメージに愛着していると感じていたからです。それで昔の僕は、実際の自分を見て欲しいと感じていました。

木の花ファミリーに移住する時、両親は大反対をしました。それは木の花の暮らしに対する反対ではなくて、ただただ僕が離れていくことに対する反対でした。それでも僕の意志が固くどうすることも出来ないと分かった時、両親は僕の引っ越しを手伝ってくれました。そして父親は、車に荷物を積んで僕を木の花ファミリーまで送ってくれたのですが、その時、ぽろっと一言、「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」と呟きました。その一言はとても印象に残っています。

近くで暮らしていた頃、僕はずっと「両親は僕が幼児のようであることを望んでいる」と思っていました。そうすれば、僕の世話を思う存分に出来るので。そして、子どもの頃の僕のイメージに固執していると思っていました。僕の世話をしたいという意味で、そういう面は確実にあったと思うのですが、今思うと、彼らの僕への愛着は理屈を超えたもので、だから、僕に対するイメージも特にはなくて、僕がどんな人間でも構わなかったのだろうと思います。そして彼らの僕に対する愛着は彼らの現実で、思うように伝わらないことで苦しんでいたんだろうなとも思います。そういう愛着を誰かに向け、苦しむことは僕にもあって、そう思ったトキ、自分の中で両親と再会したように思えました。

この理屈を超えた愛着は何なんだろうなと思います。現実の姿と関係がないという意味では、これも一つの幻想で、絶対的なものという感覚に酔いしれているのではないか、そんなふうにも思えます。

ここで話は最初に戻って。

インターネット社会では、人々は好みの情報に酔いしれ、偏っていく傾向があるのですが、それは現実と離れた幻想の世界を生み出していきます。一人ひとりが自分の見ている幻想に愛着を持つことで、社会からは、共通の価値観が失われていきます。今、世界には、他者とは共有できない愛着が溢れているように思えます。それは、人間がこの世界から不都合なものをなくしていった結果、好き勝手な思考が出来るようになったためで、その過程で、共通の価値、共通の生き方が蔑ろにされてきたのです。

僕の両親は、僕の想いとは関係なく、僕に愛着を持ち続けていました。そこに共有できる価値はありません。それでもその想いは両親の生きがいでした。理屈を超えた愛着。それは否定するものではありませんが、誰の幸せにも繫がりません。そして、これは愛着であって愛ではないと思っています。

愛とは、客観性であり、共通の価値であり、すべての人を幸せに導くものです。それは、道理に基づき、理に適ったものです。僕を木の花ファミリーへと送った時の父の言葉。僕は、この言葉から初めて父に「真実を見通す目」を感じました。そして、そこに父の僕に対する愛を垣間見ました。そこには共有できる価値観、客観性があります。

今年の2月、祖母がなくなったため、実家に帰って両親や親戚と会ってきました。親戚たちの僕に対する愛着は強く、多くの人が「いつ戻ってくるの?」と尋ねてくるのですが、両親がそんなことを言うことはありません。そして、すでに退職している父は、毎朝、ジョギングをして汗をかき、一人で車に乗っていろいろなところに出掛け、近くに住む妹家族との交流を楽しみながら健康的な生活をしているようでした。そこに僕は必要ないでしょう。

両親の中に僕に対する愛着がなくなったのかどうかは分かりません。ですが、ほとんど会うことがなく別々の人生を生きる今、それを確認する必要はありません。お互いがそれぞれに相応しい道を歩んでいます。

「本当はそういう暮らしが大切なのかもしれないな。今の社会は全然違うけれども。」

父がそんなことを呟いたのは、あれが最初で最後です。それは一瞬の出来事だけれども僕らは大事を共有しました。それは世間一般の暮らしを楽しむ父の、心の奥底に潜む真実の声だと思っています。

人は、宇宙や自然の仕組みの中で生かされている。

それは客観的事実であり、心を開けば、みんなが共有できる事実です。僕は木の花ファミリーのみんなと、客観性の元に共有出来る価値を積み上げていきます。それは僕だけの志ではなく、両親の心の奥底に眠る志であり、きっと目覚めれば、全人類共通の志ともなるものです。

だから僕はそんなふうに生きていく。

それは天との約束、この世界との約束、父や母との約束、木の花のみんなとの約束、そして自分との約束です。

木の花ファミリーのみんな@サツマイモ収穫

世界は、まわりてめくる、想いも・・・

1週間ぐらい前の大人ミーティングにて、僕は「あれから3年、今の僕の到達点(2)」をシェアしました。その時、ジイジはこんな話をしてくれました。

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今、木の花ファミリー憲章の改定作業を進めていますが、木の花ファミリー憲章は守るべき答えではありません。今まで、様々な宗教が経典を答えとしてきていますが、答えとすることで教えとして固定されます。そこには進化(深化)がありません。変化変容がこの世界の法則であり、本来すべてのものは進化(深化)していくものです。だから、どんなものでも教えとして固定してはいけません。

木の花ファミリー憲章で示しているのは、指針です。心構えと言ってもいいでしょう。大切な指針、心構えを現時点の視点から表現しています。表現は未来にいけば進化(深化)していくことでしょう。だけれども、大切な指針は変わりません。

今、読まれた文章にはみんなが適用できる大切な指針が多く含まれています。こういう文章を然るべきタイミングでシェアし、確認することが大切です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

大切な指針、心構え。

例えば、「あれから3年、今の僕の到達点(2)」では、こんな文章を書いています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

マワリテメクル

カタカムナの5首に含まれる一節ですが、これは自転公転の二面性を表していると言われています。一文字ずつ読み解いていくと、「マ」は自転公転の運動によって区切られた空間でありこの世界そのものと言えます。そして現象が生まれる縁(ふち)が「ワ」であり、そこから離れていく動き「リ」により、二面性「テ」が「メ」ばえ、それが自由「ク」を維持している「ル」ということ。つまりそれは、相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの世界の法則を表しています。

「神さま・・・」と対象を固定し呼びかけることは自我を生むことですが、自我があるからこそ認識が生まれます。神さまが自己認識のために完全なる光から闇を分けたように、人は自らを他者から分けることで自分自身を認識します。分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

自転公転を繰り返しながら、太陽と共に宇宙を旅している地球は螺旋運動を描いています。螺旋運動も二面性を表していて、ループをしているようで常に新しいところへと進んでいます。

自然界を見ると、毎日、日が昇り朝が来て、日が沈み夜が来ます。そして、毎年、春夏秋冬を繰り返しています。それは一見同じことの繰り返しのようにも見えますが、自然界は、毎日、そして毎年違った景色を生み出しています。



成住壊空(じょうじゅうえくう)

誕生・維持・破壊・空

天体を動く宇宙の星々、そして大地を流れる川やそびえる山々、それらすべて生命であり、誕生・維持・破壊・空を繰り返しています。ですが、それは同じことの繰り返しではなく、常に新しいところへと進んでいます。人々の暮らしも同様で、同じことの繰り返しように感じたとしても、そこには必ず新しい要素があり、それを掴むことで人は変化していきます。

そして、分かるためには分ける必要があります。自分の中から湧き上がる想い、浮かんでくる想い、日々、様々な想いに出会いますが、それらを本当の意味で分かるためには分ける必要があります。想いから距離を取って、想いを表現しながらも、離れたところから眺めて、それがどういうもので、何をもたらすかを知っていくのです。その時、想いに対する理解が生まれます。

それがどんな想いであれ、囚われ、それに執着したら、その瞬間に想いは自我の中に閉じ込められます。想いを狭い自我の枠に閉じ込めることで、想いは変化変容を本質とする宇宙の法則から外れ、その本質を失っていくのです。その時、その想いは不調和なものとなっていきます。

すべての想いは元を辿れば一つです。その視点に立てば、すべての想いの中に善意を見出すことが出来ます。善意により繋がり愛が芽生え、調和を生み出す。想いはそんな表現となっていきます。それを邪魔するのは自我の未熟であり、それを超えるために想いから離れ、想いを見通すのです。想いから離れることで想いを理解し、想いを理解することで、世界は一つになります。

それを僕は以下のように表現しました。

分けることは分かることに繋がりますが、認識を深めていくと、すべては一つ、分けられないということが見えてきます。分けることにより分けられないということが見えてきて、すべては自分の認識を超えていること、分からないということが分かるのです。

相反するものの存在により絶えず新しいものが生み出されるこの宇宙。想いを理解した上で表現した時、それはきっとそのような宇宙の表現となっていきます。

世界は、「まわりてめくる」、想いも、「まわりてめくる」のです。



価値あるものとして自分の想いを表現する(2)

憎しみは未熟な人間の愛情表現。

ふと、そんな言葉が浮かんで来ました。そしてすぐに「愛情の反対は憎しみではなく、無関心」という有名な言葉を思い出しました。憎むということは、その対象に関心を持っていて、心の中には対象が居続けることになります。そして何らかの形で対象に関わろうとしているのです。無視をしていても、無視することを通して、相手に影響を及ぼすことを期待するでしょうし、関わらないようにしていても心のどこかで相手が変わる(=相手に影響を与える)ことを期待しています。憎んでいる時は、エネルギーが相手に向かっているのです。

そして、ジイジの言葉を思い出します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

物事の捉え方はたくさんあってね。

善意で捉えようと思ったら、
この世界にある全てのことは、
善意になるんだよ。

ただ、
人にはそれを善意で捉える力がないだけなんだよ。

宇宙は全て善意でできている。

なぜかというと、
宇宙は調和でできているから。

調和は、
悪意では保てない。

調和は、
善意によってしか、
成り立たない。

だから、
物事を善意で捉えられないときには、
自分が未熟だと思わないといけない。

そこを悪意で捉えるということは、
自分を観ないで、
悪意は相手から来ると思っているのだけど、
悪意は、
自らの未熟さから生まれるものなんだよ。

だから、
自分が言っていることは全て、
自分自身を表しているんだよ。




☆彡 ☆彡 ☆彡

自分が言っていることは全て、自分自身を表している。

この世界は鏡とも言われています。悪意に出会うことも、自分の中に悪意が生じることも、自分がそのような響きを発しているからであり、すべては相応しく与えられていることです。そして、悪意を持つことは、対象に関心を持っていることの表れであり、そこに自我の未熟さや反応パターンが反映されているため、悪意となっているのです。そして悪意を持っていると、本来は繋がり合うことを求めているにも関わらず、分断や対立、そして孤立が深まっていきます。それは自我の未熟さが生み出している自己矛盾と言えます。

トランプ大統領は、誕生して以来、様々な国際的な枠組みをぶち壊してきています。パリ協定やイラン核合意、TPPなど。そして今、中距離核戦力廃棄条約も破棄しようとしています。どれも他国や世界を意識したものであり、心を奥底では繋がり合うことを求めているのだと思います。ですが、不信感や支配欲が邪魔をすることにより、それが対立や分断となって表れています。それは今の人類全体の未熟さの表れとも言えます。

日々、いろいろな感情が沸き上がり、それに基づいて行動するのが人間ですが、その感情の出どころを見通すことが大切です。

善意で繫がり、愛が生まれ、調和がもたらされるのがこの世界です。もとの心に至ればすべては一つであり、そこには善意しかありません。すべての生命はその中で生かされています。だから僕はこの世界そのもの、そしてすべては自分自身の顕れだから、自分以外のものに何かを求める必要はないのです。ただただ自分を見通し、世界の流れと共に変化し、すべてをいただいていくだけなのです。

日々の暮らしの中で様々な感情が湧き上がるものですが、それらを上記の視点に照らしてみたら、ほとんどの感情の出どころが、自らの未熟さ、些末なところから生まれていることが見えてきます。だから自分の感情に囚われる必要はないのです。

すべてはひとつ。

その視点から世界を眺めたら、すべての出来事に理解が及び、生まれる感情は、愛と慈しみと感謝。このような善意に基づくもののみとなっていきます。常にその状態を保てるように。ただただ自分を磨いていこうと思っています。

ところで、今日の1時46分、牡牛座満月です。そして、そこに天王星が重なっているそうです。天王星は5月16日に牡牛座に移動しましたが、その前日、5月15日は牡牛座新月でした。そのタイミングで書いた文章が、「価値あるものとして自分の想いを表現する」。そこにはこんなふうに書いていました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

天王星は牡牛座に移動しました。牡牛座は五感の美しさ、豊かさを表現する星座です。これからそこに革命を起こしていきます。それは高い志の下、価値あるものとして自分のいろいろな想いを表現することできっと実現します。「みんなで」という気持ちで豊かさを表現していこうと思っています(^-^)

☆彡 ☆彡 ☆彡

価値あるものとして自分の想いを表現する。

僕は、「すべてはひとつ」という視点から、愛と慈しみと感謝を表現していくことで、そのことを実現していきます(^-^)

木の花ファミリーのみんなです。

「分かる」と「分からない」、そして「わく」

節目を迎え、ロータスランドでご馳走になりました。


先日、大人ミーティングにて、「境界線がなくなっていく」をシェアしました。この文章はバチルス菌について書いたものですが、そこにはこんな表現があります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

Bt毒素は蛾の腸に穴をあけ死に至らしめるのですが、蛾はバチルス菌に害を与えるわけではありません。バチルス菌単体で見たらBt毒素を作る必要性は全くないのです。ですが、バチルス菌は大量のエネルギーを使ってそれをし続けています。ここで考えられるのは、バチルス菌はバチルス菌のためだけに生きているわけではなくて、生態系全体を円滑に循環させるために生きているということです。意味を持たないBt毒素を生み出すバチルス菌の行為は生態系全体で見たら意味を持つのかもしれません。少なくともそれは人間にとっては益となる行為になっています。きっとすべての存在はそのもの単体のために生きているのではなくて、この世界の大いなる循環の中でそれぞれ固有の役割を果たしているのです。自分の存在は他者へと繋がっていきます。そう思うと、この世界から境界はなくなっていきます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章で僕は、分からないものを分かろうとしていますが、そんな僕の姿勢に対して、ジイジは、「分からないものは分からないで置いておく」大切さを語ってくれました。それはこんな感じでした。

☆彡 ☆彡 ☆彡

出会ったことに対しては、それをそのままいただく姿勢が出来ていたとしても、未来に想いを馳せる時、いろいろ想像を巡らす中で分かろうとする心が生じてしまう。分かろうとする心は自我の動きで、人智であり、視野や可能性を狭めることになります。分からない時は分からないで置いておくことが大切で、そうすることで未来に柔軟に対応できるのです。それが究極のいただく姿勢であり、謙虚さです。

分からないことを分からないで置いておく

それは難しいことかもしれません。今の社会は分かろうとすることを評価しています。ですが、それは人間が強くなったからであり、歴史を見ると、強い存在は滅んできたのです。ティラノサウルスをはじめとする恐竜たち、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人などはみんな滅びてきました。そんな中、今の人類、ホモ・サピエンスが生き残ったのは弱かったからであり、弱く助け合う必要があったからです。今、社会が発展し、人間は強い存在となっています。ですが、強さは傲慢さにも繫がり、それが分かろうとする心にも繫がります。

分からないことを分からないで置いておく

それは弱さの自覚であり、謙虚さの顕れであり、とても大切な姿勢なのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「分かる」と「分からない」

カタカムナで見ると、「わ」は空間の縁であり、現象が生じるところです。「分かる」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置を維持していること、それは安定と同時に動きがないことも意味します。「分からない」は、宇宙最極小微粒子である「か」が「わ」の位置で質的転換をし、見えないエネルギーとなっている状態、どんなふうにもなり得る可能性を示しています。

大人ミーティングでは「わく(枠・湧く)」という言葉も話題となり、ジイジは以下のように語っています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「わ」は現象が生じる縁、そして「く」は自由。「わ」が自我の「わ」ならば、自我の枠の中で自由気ままに動くことになり、それは狭いものであり、世界に混乱を生み出します。ですが、「わ」が宇宙そのものならば、宇宙の法則の中で自由に動くこと、その時、人の中から湧き上がるものがあり、わくわくするのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

分からないという謙虚な心が、自我の枠を宇宙へと広げていき、わくわくする心へと繋がっていきます。

最近、自分は一つの節目を迎えました。節目を迎えたということは、自我の枠を広げたということであり、それは自我の視点から見たら、より不自由になったということです。僕は昨年の7月、そのことを以下のように表現しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この道は言ってみれば、自己否定の旅だと思っています。それはもっと大きな自分、世界と一つになるための自己否定です。常に否定し続け、それが即、肯定へと変容し続けます。それは自分を手放すことが出来ることへの誇りであり、大いなるものへと自分を委ねる覚悟となります。

この道は山登りに例えられます。山のすそ野は広くどこからも登ることが出来ますが、頂上は一つ。登れば登る程、道は限られていきます。同じように、この道は究めれば究める程、道は狭くなり、今まで良かったことも駄目となり、自らの選択はどんどん限られていきます。

不自由の自由。

一見、不自由に見える心の道ですが、それを進むことが本当の自由への道です。

なんでもいいけど道は一つ。

そんな感じです。

多くの人は自分の想いのままに行動することが自由だと思っています。ですが、思い通りにことが運ぶことはほとんどありません。結果、自らの想いに翻弄され、現実の中で右往左往するのです。平和を求めて争ったり、平和のために核武装したり。人々は自らの想いに翻弄され、それが矛盾に満ちた社会を生み出しているのです。


☆彡 ☆彡 ☆彡

自我の視点から見たら、より不自由になること、それを天の視点から見たら、より確信をもって一つの道を進めるということです。確信をもって進む道は、「分からないことを分からないで置いておく」道です。未来は常に未知なる道で、分からないからこそ、湧き上がるものと出会い、わくわくすることが出来るのです。




探求を継続していく

ジイジ:
私たちの生にまつわる物理的現象の一から十までのプロセスをたどるとしたら、九のあとは十ではなく・・・0ということになる。一二三四五六七八九で、次は次元が変わって0に行く。そうすると、生が一になる。一二三四五六七八九でひとつのサイクルが終わり、0の段階に入って、一二三四五六七八九・・・と捉えられるのではないか。つまり、九に行って死を迎えると、0になる。そうすると、それはリセットで、また始まるという考え方がそこに秘められているのではないだろうか。


ようこ:
日本人の中には輪廻転生の捉え方が自然と組み込まれていて、西洋だと、たとえば近代キリスト教にはその捉え方はない。一回の人生で終わりと考えられている。

みちよちゃん:
それに対して日本人の死生観は、死んだらそこがスタートで、そこから準備をして次の生につながっていく。

ジイジ:
だから、0というのが準備期間と捉えれば、0一二三四五六七八九となる。

ようこ:
0は何もないみたいだけど、そこには大切な何かがある。

ジイジ:
0があるからこそ、一がある。いきなり、一にはならない。一になるまでの準備期間が本来ある。

ようこ:
0と一二三四五六七八九は、潜象界と現象界のような存在?

ジイジ:
それは潜象界と現象界の話ではなく、現象世界にその仕組みがあるということ。それでも、カタカムナで捉えると、カタカムナはヒから始まる。ヒフミヨイ・・・
そうすると、それがひとつずつずれている可能性がある。ヒは秘かで、まだ動きが何もない状態だから、0とも言える。そうすると、ヒが0とも捉えられる。それで、フの段階で初めて動き出すから、フが一となる。だから、九で統合ということになる。そして、また0に戻る。

みちよちゃん:
それは、日本の数え年と同じような概念だね。

ジイジ:
そうだね。ヒは秘かで、ものの始まりだが、何もない状態。フで初めて動き出す。そうすると、フを二つと捉えるかどうかは微妙なところだ。そういう微妙な位置ということなのだろう。

みちよちゃん:
西洋的と言っていいのかはわからないけれど、細胞分裂的に考えると、ヒは秘かで、あるかどうかわからない状態だけれど、フで細胞分裂が二つになっていくと考えると・・・

ジイジ:
それは、おそらく楢崎皐月が西洋的な物理学者だったから、そのようにしたのだろう。明らかに、ヒはまだ何もない、秘かな状態だ。しかし、楢崎はヒフミヨイ・・・を一二三四五六七八九に当てはめたから、そうなったんだよ。


こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。


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上記の文章で、ジイジは「九が統合で九の後、新たな0に戻る」と語っていますが、それは、「くみくら」や「エニアグラム」が1~9の数字で成り立っていることと一致していると思いました。例えば、今年の6月、僕は以下のような文章を書いています。

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123(ひふみ)は人、456(よいむ)は国、789(なやこ)は天地と表します。


上記の図(くみくら)はみかちゃんが教えてくれたものですが、ヒト、個人の言葉(ヒ)と心(フ)が一致(統合)することで行動という実り(ミ)となって表れ、クニの言葉(ヨ)と心(イ)が一致(統合)することでクニに実り(ム)がもたらされ、天地の言葉(ナ)と心(ヤ)が一致(統合)することで天地に実り(コ)がもたらされます。

それは同時にヒトとクニが一致(統合)することでもあり、ヒトとクニの統合により天地に実りがもたらされ弥勒(369)の世が実現するのです。ヒフミヨイムナヤコ、ヒト(ヒフミ)、クニ(ヨイム)、天地(ナヤコ)と進むこと(3×3=9)で真の統合(ト・10)へと至ります。




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9は天地の実り、ですからそれは「コ」ではなく、真の統合(ト・統合)とも言えます。そして「0」へと戻るのです。

ところで2018年は、「2+0+1+8=11・1+1=2」で2の年です。「2」の年の木の花ファミリーのテーマは再スタートです。「2」が動き出す年となっているのは、相反するものの存在で動きが生まれたこの世界の法則と一致しているのではないかと思います。神さましか存在しない世界「1」には、動きも認識もなかったのです。こんなふうに考えると、それぞれの数字は前の数字の特性を持ち合わせているとも思えます。「1」は単独では何も動きが生まれないということで、「0」の特性を持ち合わせています。そして、「2」は、相反するものの存在で初めて動きが生まれるということで「1」の特性を合わせ持っているのです。

ジイジは、

こういった深い探究は、今までの探究の結果を真理とせず、これからも探究し続けていく姿勢でありたいものだ。

と語っています。だから僕も、ジイジの言葉を正解として固定せずに、それをきっかけとして探求し続けていこうと思っています。

話は変わって。今日はティク・ナット・ハンの誕生日です。ティク・ナット・ハンは誕生日を「継続の日」と表現しています。「ありのままに観て、ありのままに聴く」で紹介したティク・ナット・ハンの姿勢、怒り、恐怖、欲望から自由となり、すべてをありのままに観て、ありのままに聴くこと、僕はその実践を継続し続けます。そして、これからもずっとずっと継続していく宇宙の流れの中で、一つの物語を担っていこうと思っています。




ありのままに観て、ありのままに聴く

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。心情的には何かが残っているんだけど「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」というような事になると、目指すものと違う。

目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。それは、目指していく事でもなければ、それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。それでは目指す所と違う世界になってしまう。


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上記は2年前の10月にジイジ(当時はいさどん)が僕について語った言葉で、当時の僕の学びの段階を示しています。それでは今の僕は?

ここで話は変わって。

今朝、2014年6月に行われたティク・ナット・ハンへのインタビューを目にしてとても感動しました。その文章を転載したいと思います。

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理解の欠如が 私たちを犠牲者にする  The Lack of Understanding Turns Us Into Victims


・ティク・ナット・ハン師。キング牧師によりノーベル平和賞候補に指名された人物。

88
歳。禅師です。16歳で出家しました。ベトナム人でフランス在住です。プラムヴィレッジという仏教コミュニテイをここフランスで開きました。マインドフルな生き方をあらゆる人が学べるリトリートを指導しています。平和か仏教か、どちらか一つだけしか選べないとしたら、私は平和を選びます。

── ベトナムでは戦火のさなか、僧侶たちを連れ、救済活動をされました。
私の命は重要ではありません。 重要なのはあなた方がマインドフルネスを実践すること。私はその助けになりたいのです。

── 黙想から献身へと方向転換されました。あなたは革命家です。
私がそう決断した、と思われるかもしれません。でも現実には決断とはすでに存在しているのです。すべてはいかにありのままに観て、聴くことができるか...にかかっています。

──しかし、あれはやはりあなたの決断でした。
決断の自由とは、マインドフルネス以外からは得られないものです。息を吸うとき、息を吸っていることに気づく。息を吐くとき、息を吐いていることに気づく。あの決断は長い間のこの実践の末にあったものです。

──「自由」ですか?
そうです。怒り、怖れ、欲望からの自由です。それが心に慈しみを授けてくれるのです。

── ベトナム戦争で、人間についての何を知りましたか?
ベトナム戦争には、他の戦争との違いはありませんでした。誤った考えから起きたものです。怖れと怒りに支配されると、私たちは自分たちの苦しみも、敵方の苦しみも理解できなくなってしまうのです。

──人間の宿命ですね。
相手への理解の欠如は、私たちを犠牲者へと変えてしまいます。双方に平和と幸福をもたらす意図があっても、お互いとの意思の疎通ができなくなってしまうのです。

──自分の身を犠牲にした僧侶たちがいます。これは自分自身への暴力です。
私達の苦しみを世界に伝えるには、それ以外に方法がありませんでした。むしろ重要なのはどう行動したかよりも、どのような思いで行動したか、です。

──西洋医学の精神科医なら、自己を犠牲にして自分の身に火を放つことは、気が狂っていると言うでしょう。
それが私が渡米し、キング牧師に訳を話しに行った理由でした。西側諸国の視点からでは、到底理解することは難しかったでしょう。

──キング牧師はあなたをノーベル平和賞候補に指名し、公式にベトナム戦争反対の立場を取りました。
私が渡米したのは、アメリカで実際の状況がほとんど知られていないことを知っていたからでした。でもルーサー・キングとは長い間葉書のやり取りがあったのです。彼もまたあなたと同じように、なぜ僧侶たちが焼身するのかを理解したがっていたのです。

──米連邦政府や、ロバート・マクナマラをはじめとする米国防総省高官たちとも会談されました。
最も手強かったのは、強い怒りを抱えた平和運動の当事者たちでした。長い時間をかけて私は彼らが慈しみの心を持てるように助けました。彼らは私が怒っていないことに対して、激しい怒りを持っていたのです。非常な忍耐をも必要とされました。

──国が禁じる中、どうやって仏教大学を創設することができたのでしょうか。
簡単なことではありませんでした。でもこれはぜひお伝えしたいことですが、あなたにどれだけの才能や力があっても、大事は一人ではやり遂げることはできないということです。私たちはたくさんの理解がおたがいに通い合い、共通の理想を持つコミュニティをつくりました。これが大事をやり遂げるための原動力をつくりだすのです。

──ベトナム戦争に従軍した、アメリカの退役軍人たちと協力していますね。
一緒にマインドフルネス・リトリートを行いました。非常に難しいものでもありましたが、真の癒しが生まれていきました。理解をさらに核心へと深めていく必要があります。彼らを戦場に送った側の苦しみもまた、理解されなければならないものです。

──目的のための犠牲やむなし、が彼らの言葉でもですか?
兵士を戦場に送った側も非常に苦しんでいます。マクナマラ国防総省長官は、私との会談後、3ヶ月で辞任しました。マクナマラ氏は心に重荷を背負っていました。この戦争は誤りだと考えていたのです。

──戦争の恐怖は、どうすれば癒やせるのでしょうか。
自分の苦しみを理解し、他の人の苦しみを理解するとき、他の人を助けたい思いにかられます。慈しみの心が生まれるのです。これが、その人自身を癒し始めるのです。ひとつ話をしてもいいでしょうか。

──どうぞ。
元米軍兵のダニエルは戦時、憎悪で心が一杯でした。仲間のほとんどが奇襲によって命を落としていたのです。ダニエルは復讐を望みます。ある村へと出向くと火薬を詰めたサンドイッチでいっぱいの袋を置いたのです….そして5人の子供たちがやってきてそのサンドイッチを食べるのをじっと見ていました。

──子供達が死んでいくのを見ていたのですか?
そうです。母親たちの腕の中で子供たちは死んでいきました。ダニエルは私と出会った頃、拷問を受けるかのように苦悩していました。恐ろしくて誰にもこのことを話せなかったのです。私は、世界で命を落としていく子供たちを救うことに人生を捧げるよう、ダニエルに助言しました。大きな志の力が彼を救ってくれるように。ダニエルはその通りに実行しました。そしてある晩、ダニエルは夢を見たのです。死んでいったあの5人の子供たちがダニエルに向かって微笑んでいる夢でした。ダニエルは健康を取り戻し、イギリス人の歯科医の女性と結婚しました。

──あなたは銀行家やビジネスマンたちが教えを乞う賢者でもあります。
彼らが私たちを訪ねて来るのもまた、苦しむがゆえです。

──彼らのうちの一人でも行動すれば、世界の飢餓問題はあっという間に解決すると思いますが。
彼らも福祉プロジェクトを運営してはいますが、苦しみの解決にはなっていないのです。

──なぜ彼らはそんなに苦しむのでしょうか。
お金があるのにも関わらず幸せではなく、誰のことも愛する時間も無いからです。彼らの心は心配事と怖れ、怒りでいっぱいで楽しむ余裕もないのです。仲間や妻や子供とも心を通わせることがありません。心の通い合いがなければ、幸せにはなれません。よく私は彼らにこう言うのです。『幸せとお金、どちらを選びますか?どちらかひとつしか選べないのですよ。』

──その両方が彼らの望みです。
その通り。でも真剣に実践をすると、彼らは考え方を変えていき、愛を見つけるのです。そして幸せを選び、富は必要ないものだと気づきます。実に興味深いことに。

・疲れを知らない
自国ベトナムでの戦時、ティク・ナット・ハンは、自身の人生を運命付ける決断をする。僧侶たちを率い、戦火の下救済活動を実践。それ以降、平和活動家となる。アメリカ訪問時には米連邦政府・国防総省で停戦を訴えた。マーティン・ルーサー・キング・Jr牧師に申し入れ、キング牧師がベトナム戦争反対の立場を公にしたことで、歴史の流れを変える。戦後、青年社会奉仕学校を設立。村や小さな町、学校、医療施設を再建。最近の米ツアーでは最も影響力を持つ人々と会合。つい最近スペインでのツアーを終える。

Ima Sanchís


Wake Up Internationalウェブサイトより・ビラブド・コミュニティーより和訳を掲載させて頂きました。)

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ありのままに観て、聴くこと。

ティク・ナット・ハンは決断において上記の重要性を述べています。自らの実践により決断は自ずから生まれる、つまりは自らの意思も日々の実践により自ずから生み出されるものと言えます。

ありのままに観て、聴くこと。

そこから慈しみの心が生まれ、そのような意思、決断、行動が生まれます。

自らの怒り、恐れ、欲望。それらは自らの視点に偏りを生み出し、ありのままに観て、聴くことが出来なくなります。そうすると、自らの決断や行動も偏ったものとなりますが、この状態では、自分でその事実に気づくことも困難となります。そうして相手への理解の欠如が生まれ、人は自分を犠牲者のように感じていくのです。

だから大切なのは、何をするかではありません。そして、何を目指すかでもありません。ひたすら自分を見つめ、自らの怒り、恐れ、欲望から自由になることです。

2年前の僕は、この道を歩む決断をしていましたが、心情的に残しているものがありました。自らの欲望から自由ではなかったのです。

そして今は?

あの頃よりははるかに自由になっていると思います。だけれども、怒りや恐れ、欲望は自我の産物。そして自我は浮かんでは消える波のようなものです。これで超えたというものではなく、常にそこから離れて見通す必要があるものです。だから僕は、生きている間、ずっとその実践を続けていきます。

慈しみの心が自ずから生まれるように。

僕は、自らの怒り、恐れ、欲望を見通し、そこから自由となって、ありのままに観て、聴くことが出来る状態を保ちます。これからの僕の意思、決断、行動は、そこから自ずから生まれるもので僕の意図を超えたものです。

そんなふうに未知の道を歩んでいこうと思っています。

ボーシャンファミリー出発の日ボーシャンの言葉も思い出しました。



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