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広がると同時になくなっていく

ここ最近の大人ミーティングでは、ジイジブログ「今、自らのエリアを超えることが人類に求められている」を共有しています。それはこんな文章で始まります。

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一般的に、人間は生きていると、エリアというものを意識している。つまり、自らの存在が許容範囲の中に入っていることを認められるために、その自らの存在が許容範囲の中にあるような関係を探している。そして、人は誰でもそれをその人流に一生懸命やっているものである。そこで、一生懸命やっているのに事が成らないと、「なぜ、こんなに努力しているのにそれがならないのか」と考えるようになる。しかし、そのエリアという枠の中で生きている限り、努力は自らの枠の中にあるから、その人間性が高まることはない。ところが、本人にしてみれば、一生懸命であり、努力しているつもりなのだ。自らの枠の範疇を超えないで新しい景色には出会えないのだから、当然のことなのだ。それが人間の精神状態の限界をつくっているエリアなのだ。

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僕らはよく「人間性を高める」という表現を使っていますが、自らの枠の中で努力をしていても人間性は高まりません。上記の文章はそのことを明確に表現しています。

例えば、「優しくなろう」とか「真面目に生きよう」とか、そんなふうに思い努力をしたとします。その心掛けは大切なものではありますが、その努力が自らの思考、枠の中でのものだったならば、真の意味で人間性が高まることはないのです。自らの枠の中で努力をしても、自分視点の優しさを提供するだけであり、自分の理解を超えたものに出会ったら、その優しさは有難迷惑となっていくかもしれません。ですが、人には中々その事実が見えないものです。それは人が許容範囲というエリアに縛られているからでしょう。

例えば、人類は長年、平和を願い努力をして来ましたが、そこから争いが生まれてきた現実があります。これも自らの枠の中での努力の結果と言えます。世界は人々の想像を超えた存在です。それなのに許容範囲という枠を持つことで異なるものを排除します。許容範囲を超えることではじめて人々は分かり合い調和が生まれます。

人間性は自分の枠を超えていくことで高まりそれが世界に調和をもたらすのです。

上記の言葉に続いてジイジは以下のように語ります。

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自分がエリアを超え、「いただきます」の精神でものを観るようになると、その自分の許容範囲以外のものが観えてきて、出来事を判断するようになってくる。それで、人は相手が新しいと思うのだが、実は、自分が新しいのだ。対象を常に調整するものと決めていると、自分の解釈の範疇で理解しようとするのだが、調整すべきは自分自身である。自分自身を調整すれば、そこで観える景色は必ず変わる。ところが、自分自身を調整せずに、対象を調整しようと画策していると、「観える景色をいつも同じでありたい」とする考えのもとに、エリアの中にいることになる。

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出会う出来事をそのままいただくことで自分自身を調整していく。そのことにより人間性は高まり観える景色も変わっていくのです。

ところで、知識(ちしき)と知恵(ちえ)という言葉があります。

識別して知ると書いて知識、恵みを知ると書いて知恵となります。

この二つの言葉が共通して持つ「チ」はカタカムナでは、維持しているもの。持続を支えるもの。そして、「シ」は示し、「キ」はトコロ軸における発生の思念。物質や生命の始まり。ということは、知識とは、それぞれの生命や物質の始まりを識別するものなのですが、それだけだとそこで固定してしまうのです。そして、知恵の「エ」は笑み。ゑみわれる。実が熟して裂けること。目に見える形で増えて2つになる思念で、これは陰と陽、相反する2つのものからなるこの世界が、その本質に基づいて発展し続ける姿そのものです。

知識は世界を固定します。固定された世界を目の前にして人は世界を変えようとするのですが、それは自分の範疇の中であり、人は同じ出来事の繰り返しに出会います。

知恵は動きの中にあります。相反するものが生み出すダイナミックな動きをいただくことで広がっていくもの。それが知恵であり、知恵により人間性は高まっていきます。生きることは恵みであり、恵みとは悟り。悟りは差取り。差がなくなって一つになっていく。一つになると自分がなくなります。相反するものが生み出すダイナミックを感じそれを生き抜くと共に自分がなくなっていく。それが知恵であり、広がると同時になくなっていくのです。

7月13日11時49分、蟹座の新月を迎えました。今、ちょうど太陽から見て地球と冥王星は同じ角度にあって、太陽-月-地球-冥王星 とほぼ一直線になっています。新月はリセットであり始まりのトキ、そして冥王星は究極の真理。だから僕は今、この宇宙の実相に向けて自分をリセットし、この世界の究極の真理へ向けて自分を解き放ちます。

広がると同時になくなっていく。

僕はそんなふうに生きています。

7月13日の富士山と朝日です。


ただいただいたものを答えとして逞しく生きていく

1年前の今日、僕はジイジ(当時はいさどん)と一緒に夕食を食べました。その日は僕の慰労のための食事会だったのですが、そのトキ、ジイジはこんな話しをしてくれました。

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この暮らしを始める時、自分の持っているものが自分ものでなくなることの喜びがありました。それは最初、お金や私有財産だったりしましたが、それが血縁や身近なものを手放していく喜びに繋がっていきました。ところが、これをやってきて、それが素晴らしいと思えば思うほど、そして究めれば究めるほど世の中とのギャップを感じてきました。そして、たくさんの無理解者と出会ってきました。周りに理解がないと人はくじけるものです。だけれども大事を持っているからこそ、これを続け、くじけそうになったら広い視点から見てその大事を確認してきました。そして歩むことを恐れません。その結果は、思い通りになるということではなく、ただいただいたものを答えとして逞しく生きていくのです。そうやって価値を積み重ねてきました。時代の流れを見るとこれは必要な生き方だから、それを先駆けとして生きていくのは尊いことです。ところが今の評価を欲しがると人は崩れていきます。今の評価と先駆けとしての生き方をどう織り交ぜるか?そんなことが問われ続けます。

そんな中、なかのんは風当りの強いところで役割をこなしてきました。それは定めということもありますが、その定めは僕に寄りそってきたからです。批判の対象は本来、僕。僕の近くにいるからそういう役割をこなしてきたのです。それがここのところ、なかのんは自分で立って、自分の道として、その役割をこなすようになって来ています。それに対して僕は感謝の言葉は掛けません。なぜなら、なかのんが自分で歩んで自分の価値を高めているのだから。ただ、その孤独と辛さを僕は知っています。だからその歩みに対する慰労の気持ちがあって、それでこの場が持たれました。

その位置に立つと誰かに頼ることは出来なくなります。支えになるのは自分自身のこの道に対する覚悟だけです。自分で生き方を確立し、それを自分に伝えていく。自問自答しかないのです。
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あれから1年、僕は1年分、歩みを進めてきました。僕らは今の社会で生きているのだから、今の社会からの評価を完全に無視することは出来ません。ですが、それは欲しがる対象ではなくて生きていくためのただの情報と言えます。

情報として社会からの評価を意識しながら、自らの道を歩んでいます。

評価は外からの刺激であり、それは自他を区別するから生まれます。自他を区別することで優越や劣等の価値基準が生まれ、生きるために一定の評価が必要となります。そして人は評価を求めて一喜一憂することになります。現代社会では、薬物やたばこ、お酒や買い物など様々な依存症が社会問題となっていますが、それらはすべて外からの刺激であり、外からの刺激に依存し自分の中心を見失っていくのが依存症と言えます。今、社会は評価や評判の良し悪しで動いています。それは人々にとって外からの刺激であり、今は社会全体が評価への依存症となっている。そんなふうにも言えると思います。人々は自らの中心を失い、そして社会も同じように中心を失っているのです。

そんな中、自他の区別を超えて一つになっていこうとする木の花ファミリーの暮らしはとても大切な取り組みだと思っています。自他の区別がなければ、毎日の生活はただ必要なことを淡々とこなすだけとなり、そこに喜びと充実があるのです。それは評価や評判に奪われた自分や社会の中心を取り戻す取り組みと言えます。

自らを分けると書く自分。自我を持つ人間は自らを他から際立たせることで、自他の区別を生み出します。それは絶えず起きる心の動きです。だから社会には一定の価値基準があり、一定の評価は当然必要となります。ですが、それが行き過ぎると依存症のような状態となり人は自らの中心を失い、社会も中心を失っていくのです。

自他の区別を超えていく。

それは表面的な評価を超えてすべてとひとつである本当の自分へと至る道です。

出会う出来事、そしてそこから起きる心の動きはただの情報であると共に今までの自分に対する答え。それらをいただき逞しく生きて、価値を積み上げていこうと思っています。

富士山です。



自分の感情は他者の喜びのためにある

明日7月7日は七夕ですが、昨年の七夕の日、天下泰平さんはこんな文章を書いていました。

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本日は77日の七夕の日です。

すでに過ぎましたが、77日の午前1時頃に天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の3つが最も見頃になる時間帯となっていました。


この七夕の夜(77日午前1時頃)のことを別名で「夜明けの晩」と呼ばれています。


かごめの歌にもある「夜明けの晩」といえば「鶴と亀が滑る(統べる)」


天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」


七夕の夜の陰陽統合といえば、七夕物語に出てくる「織姫(ベガ)」「彦星(アルタイル)」の男女であり、これは日本の引き離されて隠された神を象徴していると言われています。


織姫は「瀬織津姫(セオリツヒメ)」であり、一方の彦星(牽牛星=スサノオ[出雲王])は「饒速日(ニギハヤヒ)」という話です。

この縄文の夫婦神の統合が起こる七夕ですが、どちらかといえば、やはりメインは女性性の時代、女神の象徴である瀬織津姫。


ちなみに77日は「かぐや姫が生まれた日」ということで「竹の日」とされていますが、このかぐや姫が出てくる竹取物語もまた、ミカド(帝)と姫の結ばれない悲しいラブストーリー。

物語の最後、月に帰ったかぐや姫は、置き手紙と不死の薬の入った壺を残していきますが、ミカドは天(月)に一番近い山として、日本でもっとも高い山である富士山(不死山)で手紙と壺を燃やしたとあります。

七夕の日、使い終わった短冊を川に流す方法もあれば、短冊を燃やす方法もあり、これはかぐや姫とも関係していると言われています。

天(鶴)に帰った天女と地球(亀)に残された男性。

富士山といえば、コノハナサクヤの女神が象徴ですが、コノハナサクヤといえば桜がシンボル。


ただ、実はコノハナサクヤは隠された女神である瀬織津姫であり、桜は瀬織津姫のシンボルであります。


月の女神としても知られる瀬織津姫。

~ 中略 ~

この解放と男女の統合・和合が始まっている今、今日の七夕を境にそのエネルギーはもっと加速するように思えます。



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そして、3年前の七夕の日、僕はジイジ(当時はいさどん)からこんな言葉を掛けられています。

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常に意識を全体性に持っていく必要があります。
あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?
それが重要です。
個人的願望が全体性と共通していればいいのです。
例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。
個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、
全体性と個人は本来、共通していることなのです。
ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。
「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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個人的願望と全体性。個人的願望は自我、人智から生まれます。それは地の営み、かごめの歌の「亀」と言えると思います。そして、全体性は天の視点であり、かごめの歌の「鶴」と言えます。個人的願望と全体性との統合、それは天を舞う鶴と地を這う亀の「天地一体・陰陽統合」と言えます。

光だけが存在した時代、神は自らのことを認識出来なかったといいます。認識するためには対比が必要であり、そのために闇が生み出されました。この世界は神の自己認識の旅であり、そこに無限(∞)の深みを生み出しているのが自我という闇なのです。「我」がなくなればすべての認識は無に帰す、だからこそお釈迦様は「天上天下唯我独尊」と宣言したのです(「一人ひとりの認識がこの世界を創っている」参照)。

光を認識し、光を増すために闇は存在します。闇は光のためにある。自我という闇も全体性という光のためにあります。だから、自分の感情は他者の喜びのためにあり、自分の中を出たり入ったりしながら、自らの感情を味わうと同時にただの情報として客観的に見ていく。そしてそれを全体のために生かしていく。そんなふうに過ごすことできっと陰陽統合が実現し、世界は次のステージへと進んでいきます。

そのためには「いらなくなった状態」へと至る必要があります。

個人的願望を持つと同時に何もいらなくなる。

その状態ですべての想いを全体のために生かしていくトキ、この世界はきっととても美しく素敵なものへとなっていきます。それは前人未踏の世界。僕は今、そんな世界を木の花ファミリーのみんなと表現しようと思っています。

木の花ファミリーのみんな@ジャガイモ収穫



改善のために努力しつつも改善を求めない(2)

昨晩の大人ミーティングでみかちゃんが瞑想やヨガをするとエゴが強まるという記事を読んだと話してくれた。そこでネットを検索すると以下の記事が見つかりました。

瞑想やヨガをするとエゴが強まるという研究結果(ドイツ研究)

この記事では瞑想やヨガの実践者の自己高揚感が高まっているという実験結果を紹介して、そこから上記の可能性を示唆しているのですが、そもそも瞑想やヨガの実践者がやり方を間違えている可能性にも触れています。それはこんなふうに表現されています。

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被験者がヨガや瞑想のやり方を間違っているという可能性だ。

被験者は全員ドイツで募集されたが、多くの学者は西洋人の仏教徒は無我を目指す実践ができていないと考察している。
ヨガや瞑想は本来自我を静める方法をとして意図されたものだったが、非仏教徒の実践者はこうした活動を自己の向上や不安を解消する目的で行なっている。
 
ヨガが自我を弱めるどころか強めるという意見は、ブランド物のスポーツウェアを着込んでヨガに勤しむいかにも聖人ぶった人間に出会ったことがある人にとっては、意外でも何でもないかもしれない。
しかし今回の研究は、仏教の教え自体が自我を拡大させるかどうかまでは調べていない。
ヨガだけでは自我を解消するために十分ではないのかもしれないし、たった1本の心理学の研究で数千年におよぶ仏教の教えと実践を否定できるものでもない。


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ここにはご利益主義の弊害が表現されています。世界には多くの宗教が存在しますが、平和のための宗教が争いを生み出してきた歴史があります。それは多くの人が自らの利益のために信仰することで、利己心を強めてきたからなのだと思います。

自分の宗教が一番。

そういう言葉を耳にすることがありますが、その言葉の奥には傲慢さや利己心が伺えます。そしてそれは宗教の本来の教えとは反することなのだと思います。

どんな立派な教えも、それを聴くものの中に利己心があれば、エゴで汚されていきます。

昨年、私たちに効果のあるがん治療を紹介してくれた方がいました。その方にジイジ(当時はいさどん)は以下のように返信しました。

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素晴らしい存在がいることをシェアしてくれてありがとう。ただ、わたしたちにとっては長生きすることや健康であることが最大の目的ではありません。極端なことを言えば、自分が望むように生きられることが一番の目的ではないのです。たとえ寿命が短くても、病気であっても、それはこの世界の多様性であり、そのことによって何かを失うわけではありません。つまり、病気であることから学び、寿命をもらうことによって学び、そして存在しているのですから、受け入れられないことは何もないのです。それが、この世界の本来の受け取り方です。ですから、学び受け取る姿勢がありさえすれば、すべてはこの世界の実態そのものなのです。それは、何でもいいということです。

その手法が画期的ですばらしいと思うということは、現状を改善したいと思っているからです。僕が常に皆に伝えていることは、そういった「~したい」「~になりたい」という願望を消しなさいということです。そして与えられるがままに存在しなさい、ということです。すべてを受け入れれば、己から解放されます。僕はそのことが伝えたいだけなのです。

今の姿のあなたがすべてではないのですから、いくらでも変化・変容・変態を繰り返すことが可能です。そして、それが宇宙の実相なのです。


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この言葉には僕たちの生きる精神が端的に表現されています。己を手放して、ただ出会う出来事をいただくことで自分の想像をはるかに超えた世界が展開します。そのことを通して自らの枠を超えて、世界と自分についての学びを深めていくトキ、多様性の中ですべての存在が尊重されていくのです。

そこには「こうでなければならない」「こうあって欲しい」という心はありません。なんでも構わない。ということは手法や技法を取り入れてもいいのです。僕たちが問題にしているのは手法や技法そのものではなく、それらがもたらす人の心の動きなのです。ご利益主義に基づいて手法や技法に出会うと、その手法を絶対視したり、それに依存する心が強まっていきます。その時、人の心は目覚めから遠ざかり、自分の成長や不安の解消が世界のすべてとなっていきます。それは利己的な心となり、結果、世界に争いを生み出すかもしれません。ただ淡々と必要なものとして出会った手法や技法を取り入れるならば、それはきっと相応しい恵みを人間に与えてくれるのだと思います。

ご利益主義、結果だけを求める心の弊害がこの世界には溢れています。

先日、サッカーのワールドカップで日本代表は決勝トーナメントへの進出を決めました。グループリーグ最終戦で日本は0-1で負けているのも関わらず、終盤消極的なパスワークで時間稼ぎをしました。それは結果を求めての選択ですが、その行為がこの世界に何をもたらすのか、そういうことに想いが至っていたとは思えません。

結果がすべて。

日本代表の選択はそんなメッセージを世界にもたらしますが、結果だけを求める行為はあの試合のように豊かなものではありません。結果に囚われず一生懸命に戦った心を称えあう。そういう心を育むことが、戦いから平和を生み、挫折者を生まずみんなが尊重される世界に繋がるのだと思います。

どんなに素晴らしい教えも、どんなに素晴らしい技法や手法も、そしてどんな素晴らしい出来事も、ご利益主義や結果主義が貧しいものにしていきます。それが今の人間社会なのだと思います。己を手放してただ出会う出来事をいただくトキ、この世界は豊かな恵みを与えてくれます。僕はそんな日々を木の花ファミリーのみんなと送っています。

合同会社ロータスランドの決算を終えてロータスランドで食事をしました。





光に向かって



6月21日、夏至。木の花ファミリー通信「21世紀の死生観第2部 ある世界とない世界」が発行されました。そこでは永遠の旅を続ける宇宙の命の物語について綴られています。魂の旅は今生を超えてずっと続いていきます。

そして6月23日は沖縄慰霊の日。中学生の相良倫子さんが読み上げた平和の詩「生きる」が胸を打ちました。以下、全文を引用します。

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私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。
 
私は今、生きている。
 
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。
 
私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
 
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。
 
私はこの瞬間を、生きている。
 
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。
 
たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ
私の生きる、この今よ。
 
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
 
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。
 
摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。
 
私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。
 
あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
 
今を一緒に、生きているのだ。
 
だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。
 
私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。
 
大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。
 
これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。
 
摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。
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鎮魂歌が必要なのは、今までの人類の歴史が積み上げてきた悲しい悲劇ためですが、その原因は人々の心の汚れにあります。無念、執着を抱えた魂たちは囚われから天へと昇ることが出来ず、その響きが地上を覆い人々の目覚めを遅らせていきます。そんな現状の中、死を迎えた時どうすればいいか、木の花ファミリー通信では以下のように述べられています。
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では、私たちは死を迎えた時に、どうしたらいいのでしょう。

死を迎え肉体から抜け出した魂は、少し上からその肉体を見ます。そこで自らの命に執着があると、肉体を見続けることになります。つまり下を見ているということです。あるいは、あれが欲しい、これがしたい、と物や予定をたくさん抱えていても、そちらに気を取られて地上を見ることになります。現代は、あれもこれもと自我の欲望をふくらませ、魂を汚していくことが魅力的に思われている時代なのです。
けれども、自らが死んだことを悟ったら、まず上を見てください。すると必ず、光が見えます。そこがあなたの向かうべき方向です。その時に、残していくものについては一切考えず、ただ真っ直ぐに、光へ向かうのです。そうすれば必ず昇天します。そこではお葬式も、お坊さんのお経も必要がありません。囚われを捨て、ただ真っ直ぐに光へ向かう。それだけで本住の地へと還ることができるのです。
これは、地球を霊的に汚さないという意味でも、とても大切なことです。私たち人間は今、地球を目に見える形で汚染しているだけでなく、見えないところでも汚し続けています。そしてそれが、地球のカルマとなっていくのです。ですからどうぞ、このことをいつも心に留めていてください。なぜなら死は、誰もに必ず訪れるものであり、それは明日かもしれないのです。

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生きていれば思い通りにならないことはたくさんあります。生きることは恵みをいただくことであり、思い通りにならないことに学びがあり祝福があるのですが、自我の欲望を膨らますとその事実が見えなくなります。そして自我の欲望は魂を汚し、争いをもたらし、地球を霊的にも汚してきました。

ですが、太陽の光は常に平等に生命に降り注いでいます。心を開けば、いつでも光が自我の闇を取り払ってくれるのです。それは死を迎えた時に限ったことではなりません。自我の欲望は心のモヤやしこりをもたらし、それがこの世界の問題事を生み出していきます。だから生きている時から常に光に向かって心を向けるのです。そうすれば、いつでも光が闇を取り払ってくれます。そしてその清々しい響きを世界に広げていくことができます。

光に向かって心を向けることで、世界に光をもたらすのです。

それが鎮魂歌となると共に美しい響きが未来へと繋がっていきます。

人間の自我が愚かな戦争を生み出してきました。その愚かさが自分の中にもあることを認めつつもいつも心を光へと向けています。それが僕に出来る鎮魂歌。真の平和へ向けての歩みです。






現象の作り手の位置へ行こうとする

ロシアで開催中のワールドカップにて、C・ロナウドはスペイン戦でハットトリックを達成しました。3対3のドローで終わったこのゲームは歴史的な名勝負とも報道され、その中でのロナウドの活躍は多方面から絶賛されています。以下の記事もその中の一つですがとても印象に残りました。

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これまでワールドカップの舞台に立つC・ロナウドは、いつも自己中心的だった。言い換えれば、よくも悪くもC・ロナウドのワンマンチームだったポルトガルでは、彼が自分で何とかするしか手がなかったとも言える。

 だが、この日のC・ロナウドはそうではなかった。印象的だったのは、前半21分のシーンである。

 カウンターから敵陣ペナルティエリア付近に攻め入ったC・ロナウドは、ゴール正面からやや左でパスを受けた。かつての彼なら間違いなく一度ボールを収め、自分でシュートまで持ち込んでいたはずだ。

 しかし、C・ロナウドはあろうことか、中央に走り込んできたFWゴンサロ・ゲデスへワンタッチパス。キャプテンがお膳立てしたチャンスは、結果的に21歳の新鋭FWがふいにしてしまうのだが、C・ロナウドの”変心”を強く印象づけた場面だった。

 もちろん、そこには33歳になったC・ロナウドの衰えもあるだろう。だが、自身の力は落ちているにもかかわらず、過去最多の得点を量産できているのは、彼が”ひとり相撲”を取っていたときに比べ、チームとしての機能性が格段に高まったから。つまり、ポルトガル代表においてC・ロナウドの役割が整理され、いい意味でひとつの駒となってプレーできていることが、数字につながっているように見える。 



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ひとつの駒となることでより輝きが増していく。それは以下の会話でのジイジ(当時はいさどん)の仕事に対する姿勢と通じるものがあります。

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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

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過去3大会で3得点しか挙げていなかったC・ロナウドが第一試合目でいきなりハットトリックを達成しました。その背後に流れる物語を探ることはとても楽しいことです。スポーツ観戦をする時、多くの人が試合結果やパフォーマンスだけでなくこういう物語を楽しんでいるのではないかと思います。ですが、自分のこととなると、損得勘定や思惑が働くことで、多くの人が結果だけに囚われていきます。すると背後に流れる物語は見えなくなり、たとえ成功したとしても人生は貧しいものになってしまいます。これは自分で自分の人生を貧しくしているのです。

スポーツ観戦をする時、人は自分を離れ現象の作り手の位置にいこうとすることが出来ます。そこに働く神の意志を想像することも出来ます。だからそれは豊かで魅力的なものに映ります。ですが、本当は自分自身の人生も同じぐらいダイナミックで魅力的なのです。目の前の出来事や結果に囚われなければ、そんな豊かな世界が見えてきます。だから自分を超えていく心磨きの道はとても魅力的なものなのです。

C・ロナウドは「自分が・・・」という心を手放しチームの中で一つの駒となることで輝きが増しています。それは一人ひとりの人生にも言えて、この世界と一体となって一つの駒として生きることで人生の輝きが増していくのです。

近代以降、一人ひとりが自らの願いを追い求めることが幸せに繋がると信じられてきました。ですが、自らの願いを追求することは「自分が・・・」という心を育て、その結果、人は自分だけの世界を創り、この世界の実相から遠ざかることになります。それはとても不安定な状態で、そのため人々に向けてアピールする必要が生まれ、本来の自分を失っていくのです。

世界と一つになれば、アピールする必要はなくなります。そして淡々と生きることが自分自身の表現となり、それがこの世界の中で生かされ輝きとなっていくのです。

そんな日々を僕は木の花ファミリーのみんなと送っています(^-^)

6月19日の富士山と太陽。もうすぐ夏至ですね。




宇宙のプロセスそのものを生きる

3年前(2015年)の6月、僕はジイジ(当時はいさどん)と以下のような会話をしています。


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いさどんがなかのんと一緒に出張したとき、
以前ここを離れた元メンバーのことが話題になった。

彼について
いさどんはこう語った。

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彼がまだメンバーだったとき、
交通事故を起こしたでしょ。

その裁判の際、
弁護士を相手にどういうふうに付き合っていくのか。

それから、
弁護士の精神状態だけではなく、
被害者の性質を読み解きながら、
どうやって裁判を進めていくのかという
アドバイスをしていたんだよ。

結論としては、
こちらにとって特別有利に話を進めようとは思っていなかったけれど、
向こうのわがままに乗ってはいけないからね。

そういった正義感も持ちながら、
弁護士がついたからといって向こうの思うままにならないという意味では、
弁護士の精神状態も読みながら話を進めていったんだよ。

最終的にどこに結論が行くのかについては
裁判所が決めることだけどね。

そして、
結果的に当初の話の5%をこちらが勝ち取ったのだけど、
そういったお金の話が一番大切なのではなく、
人と交渉するときの交渉術を大事な学びとして彼には教えてあげたんだよ。

でも、
そういった学びを生かすことなく、
彼はここを離れていった。

結局、
根本の大事を忘れず求めるこころがないとダメだね。

彼は母親に対して、
まったく自己主張ができないのだから。

もし、
学びを生かせていたとしたら、
ここを離れていったときの
あの傲慢な態度はないはずだよ。

結局、
彼からしたらあの裁判は、
単なる数字だけの話になっていたのだろう。

でも場合によってはね、
今ちょっとばかり良い思いをするよりも、
たとえば余分に払ったとしても
それが将来の価値に対する種まきになることもあるんだよ。

つまり、
そういった波動を未来にもたらしているのだからね。

大切なことは、
そこが読み解けるかどうかだよ。

正確に言うと、
読み解くのではなく、
本能みたいなものだよ。

そのときに、
あせってすぐに結論を出そうとすると、
冷静さに欠いているから、
情報を正しく精査できなくなる。

さらに
損得勘定から「損をしてはいけない!」という思惑が働きすぎると、
そういった直観は鈍ってしまうね。

だから、
何かプラスアルファか感じ取れる状態でいることが
大切なんだよ!


そういった学びの位置に立てることすら、
なかなかできないからね。

まずその位置に立って、
その価値を思考することが人にはできないんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

いさどんの話を聞いていたなかのんは、
「本当にそう思います。

人はなかなかそこに行かないですよね。

ついつい、
結果を求める発想になってしまい、
結果がこうだから良かった・悪かったとなってしまうのです。

そのプロセスをしっかりと観ていって、
そこを味わっていき、
そしてそこから学んでいくことが大切ですよね。

当たり前の日常の中に、
たくさんの学びが詰まっているんですよね」と伝えた。

それを受けて、
いさどんはこう続けた。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そこがわかると、
すごくダイナミックだよ!

ほんのちょっとのことが、
すごくダイナミックなんだよ!!

世界はね、
とてつもなく深いんだよ

そこまで心が通じる人は、
なかなかいないね。

だから、
僕はこの道を歩み始めてから、
ずっと孤独だった。

僕はね、
彼が母親と一緒に来てここを離れるときに、
「彼は今、今まで積み上げてきたものを全て崩して、
彼にとって一番大事なものを失おうとしている。
今までのことは彼にとって一体何だったのだろう?」
と思ったんだよ。

彼は、
「僕の人生の目的は悟ることです!」と言っていたのに、
最後、離れるとなったら、
もともと納得してここで暮らしていたはずなのに、
自分たちの主張だけを通して、
そのときに約束したことすら守らなかった。

彼のこころはぐらぐらしながら、
母親に対してさえ、
「お母さん、僕の話なのだからやめてくれよ」と
伝えることもできなかった。

なかのんは、
経理担当として
あのとき立ち会っていたけれど、
こちらの側にいて、
その柱のない人の姿を見せてもらう立場にいた。

この違いは大きいんだよ!

僕は最後に彼に言ったんだよ。

「よく観ているんだよ。
必ず、この目的は達成するからね。」

そしてこころの中で、

「あなたはその船を降りたんだよ。
そのことがよくわかっているか」と想い、
無言の意志を伝えたんだよ。

゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,


「本当にそうですよね!
こちらの側にいて本当に良かったと思います!」となかのん。

そんななかのんに対し、
いさどんはこう伝えた。


゚・:,。゚・:,゚・:,。゚・:,

そんなあなたを観ていると、
うらやましいと思うよ

うらやましいと言ったら変かもしれないし、
一番誇り高い自覚を持っているのは
自分だと思うけどね。

そこに出会っているなかのんは、
普通の人からしたら
『よくぞ、そこに立てたね!』ということでしょ。

だからね、
そろそろ人々は、
そういった個人的なことを優先して生きることをやめるトキが来ている。

結局、
人間が個人的なことを優先し、
それが70億人集まって、
今のような世界を創っているのだから。

それと、
人間の世界の中で
どんなに優劣を競ったところで
たかだか知れているよ。

そのたかだか知れているところで生きても、
いつか自分が霊的な存在になるときに、
自らの価値を突きつけられることになるんだよ。

これから大切なのは、
つないで、
時代を創っていくことなんだよ。

死の向こうまで理解するものたちが生きているからこそ、
死の向こうまで伴える価値を積み上げていくことができる。

それが人生の勝利者であり、
道を目指すものにとって

一番大切なことだと思うんだよ。



☆彡 ☆彡 ☆彡

結果を求めるのではなく、プロセスを味わい学ぶことが大切。

そんなふうに語っていた僕は、この後、結果を求めて滞りをいただくことになります。それは語っていることと実際が違ったということですが、僕自身がそういう段階にあったということで、大きな視点から見れば、その滞り自体がプロセスの中にあります。

僕は滞りを味わい、そしてそこから学びました。

こうでなければならない。

そんなことを言ってもあまり意味はないのかもしれません。結果を求めるなと言ったって結果を求めたい心があれば、やはり結果を求めるだけです。

頭での理解ということで言えば、僕は5年前(2013年)の9月にもジイジと以下のような会話をしています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどん:

人は思考をめぐらすでしょ。思考を巡らして答えを得ようとする。僕は思考を上から持ってくる。目の前の相手に合わせて思考が下りてくるんだよね。例えば精神性を求めている相手には、そういう話が下りてくるし、あんたと話していると哲学的な話になってくる。それは前もって学んだものを話すという感じではなくて、常にその場その場に下りてくる。知恵を上から持ってきて、僕もそれを一緒に聴いていて、なるほどな~と思っている。

なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この文章を読み直して、当時の自分がこんな話に触れていたことにびっくりしました。それぐらい当時の僕は表面的な結果を求めて右往左往していました。それもすべてプロセスの中にあります。その事実をいただくことで、少しずつ都合の良い結果を求める心を弱めていくのです。

目の前の出来事のプロセスを見ていくと同時に自分自身のプロセスも見ていきます。囚われているならば、囚われていることもプロセスの中にあります。

こうでなければならない。

そんなことを言うつもりはありません。だけれども自分自身を天に向けて解放します。起きることはすべて自分自身の表れとして恵みとしていただきます

2017年の立春正月にひっくり返った僕は、今年の立夏を迎えて自我を天へと導くと決めました。

囚われや結果を求める心を生み出してきた僕の感情。今、僕はそれを見切っています。

ということで最後はこんな文章で締めたいと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思惑や感情の奥に本当の自分がいて、その自分はこの宇宙と一体で常に響きあっています。自我が生み出すヒビキを超えることで、世界と響き合っている本当の自分のヒビキを生きることが出来ます。それは円が縁を紡ぐこの世界の中で与えられた自分の位置、誰とも比べることが出来ない自分独自のヒビキです。

自分の中には自我を含めていろいろな層があり、それぞれの層が発しているヒビキがあります。自分の意識がどのヒビキとチューニングしているかによって、そのヒビキに相応しい心の状態となって現実を生み出していきます。だから自分の持つヒビキを見通していこうと思っています。そして、この世界に心を開いて、世界とヒビキあっていこうと思っています。




☆彡 ☆彡 ☆彡

これまでここで紹介したプロセスは僕個人のプロセスです。それはそれで僕にとって重要なものですが、世界に心を開いて、世界とヒビキあっていけば、宇宙のプロセスそのものを生きることが出来ます。もうそろそろそういう段階でありたいなと思っています。

宇宙のプロセスそのものを生きる

そのために僕は生まれては消える波のような自我を手放し続けます。

蓮池の花が咲き始めています

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