現象の作り手の位置へ行こうとする

ロシアで開催中のワールドカップにて、C・ロナウドはスペイン戦でハットトリックを達成しました。3対3のドローで終わったこのゲームは歴史的な名勝負とも報道され、その中でのロナウドの活躍は多方面から絶賛されています。以下の記事もその中の一つですがとても印象に残りました。

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これまでワールドカップの舞台に立つC・ロナウドは、いつも自己中心的だった。言い換えれば、よくも悪くもC・ロナウドのワンマンチームだったポルトガルでは、彼が自分で何とかするしか手がなかったとも言える。

 だが、この日のC・ロナウドはそうではなかった。印象的だったのは、前半21分のシーンである。

 カウンターから敵陣ペナルティエリア付近に攻め入ったC・ロナウドは、ゴール正面からやや左でパスを受けた。かつての彼なら間違いなく一度ボールを収め、自分でシュートまで持ち込んでいたはずだ。

 しかし、C・ロナウドはあろうことか、中央に走り込んできたFWゴンサロ・ゲデスへワンタッチパス。キャプテンがお膳立てしたチャンスは、結果的に21歳の新鋭FWがふいにしてしまうのだが、C・ロナウドの”変心”を強く印象づけた場面だった。

 もちろん、そこには33歳になったC・ロナウドの衰えもあるだろう。だが、自身の力は落ちているにもかかわらず、過去最多の得点を量産できているのは、彼が”ひとり相撲”を取っていたときに比べ、チームとしての機能性が格段に高まったから。つまり、ポルトガル代表においてC・ロナウドの役割が整理され、いい意味でひとつの駒となってプレーできていることが、数字につながっているように見える。 



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ひとつの駒となることでより輝きが増していく。それは以下の会話でのジイジ(当時はいさどん)の仕事に対する姿勢と通じるものがあります。

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なかのん:

質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?

いさどん:

自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。

なかのん:

何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。

いさどん:それは誰にアピールしているの?

なかのん:みんなかな・・・

いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。

なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・

いさどん:

そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。

仕事に関しては、こんなことがあったんだ。今、家を建てているでしょ。その家の壁の漆喰塗りを進めようと思っていて、特に僕の部屋の部分は自分でしたいと思っていた。僕が一番丁寧に出来るし、これからずっと眺めるものだから。でも、普段から養蜂や面談などで忙しく、加えて、蜜蜂がスズメバチに襲われるなんていう突発的に事故が入ったりして、なかなか取り掛かることが出来なかった。そこでまっちゃんりょうちんが仕事を進めることになった。まあこれも流れかなと思っていた。これには良い面もあって、もし僕が漆喰塗りに取り掛かったら、僕が主となってやることになり、まっちゃんやりょうちんには従属する気持ちが生まれてしまう。でも、僕が取り掛かれなかったことで、2人とも主体性を持って伸び伸びと仕事に取り組んでいた。加えて、2人は僕の部屋の部分は後に取っておいてくれたので、時間が出来て僕が塗ることが出来た。僕は漆喰塗りを手放した。手放したらより良い形で僕がやる流れが来た。これは覚悟が出来ているから生まれる流れ。覚悟とは執着のない心。捕らわれない心。潔い心。覚悟が出来ていると、自分がやるべきことと手放すことの冷静な判断が出来て、結果良い流れを生み出す。

人間だから僕も人間的意識で物事を体験し捉える。と同時に上の意識でも物事を捉えている。日常生活の奥には現象を生み出すバイパスがあって、そこから物事を眺めているとすべての出来後が繋がってくる。この世界は一つだから現象の元を辿りバイパスに至ればすべての出来事が繋がっている。一人一人に相応しい現象が生まれるこの世界。生きてそれを味わい自分を知りあらためていく。それは一人一人オリジナルな体験で、いつでもどこでも出来る実践。お金も掛からなければ、誰かに頼る必要もない。日常の現象からただただ自分を知って改善していく。それは最も正攻法で手法もいらない、人生オール心磨きの実践と言える。

なかのん:

日常を眺める視点を頂いたように思える。背景に流れる意図を感じ、そこから眺める。そうすると一本の糸のようにすべての現象が繋がっていくように思えた。その視点を共有したい。

いさどん:

その視点をみんなで共有しようというのが、僕がずっと言ってきたこと。視点の位置は同じでも、みんなが僕の真似をするわけではない。それぞれの個性の応じた景色が見えてくる。独自の視点から流れを捉えることが出来る。それをみんなで共有することでこの場所はもっと豊かな場になっていく。これは現象を味わう身体を頂きながら、現象の作り手の位置へいこうとする道。人間でありながら、人間を超えていく道。

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過去3大会で3得点しか挙げていなかったC・ロナウドが第一試合目でいきなりハットトリックを達成しました。その背後に流れる物語を探ることはとても楽しいことです。スポーツ観戦をする時、多くの人が試合結果やパフォーマンスだけでなくこういう物語を楽しんでいるのではないかと思います。ですが、自分のこととなると、損得勘定や思惑が働くことで、多くの人が結果だけに囚われていきます。すると背後に流れる物語は見えなくなり、たとえ成功したとしても人生は貧しいものになってしまいます。これは自分で自分の人生を貧しくしているのです。

スポーツ観戦をする時、人は自分を離れ現象の作り手の位置にいこうとすることが出来ます。そこに働く神の意志を想像することも出来ます。だからそれは豊かで魅力的なものに映ります。ですが、本当は自分自身の人生も同じぐらいダイナミックで魅力的なのです。目の前の出来事や結果に囚われなければ、そんな豊かな世界が見えてきます。だから自分を超えていく心磨きの道はとても魅力的なものなのです。

C・ロナウドは「自分が・・・」という心を手放しチームの中で一つの駒となることで輝きが増しています。それは一人ひとりの人生にも言えて、この世界と一体となって一つの駒として生きることで人生の輝きが増していくのです。

近代以降、一人ひとりが自らの願いを追い求めることが幸せに繋がると信じられてきました。ですが、自らの願いを追求することは「自分が・・・」という心を育て、その結果、人は自分だけの世界を創り、この世界の実相から遠ざかることになります。それはとても不安定な状態で、そのため人々に向けてアピールする必要が生まれ、本来の自分を失っていくのです。

世界と一つになれば、アピールする必要はなくなります。そして淡々と生きることが自分自身の表現となり、それがこの世界の中で生かされ輝きとなっていくのです。

そんな日々を僕は木の花ファミリーのみんなと送っています(^-^)

6月19日の富士山と太陽。もうすぐ夏至ですね。




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