そぎ落としにより岩戸成る

そぎ落としにより岩戸成る

岩戸成る時代 2019年元日に新天皇即位という記事を新聞で読みました。新天皇が即位した時、元号は新たなものとなるので、平成は30年で終了することになりそうです。その話題に触れている以下のブログ記事はとても興味深いものです。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 現在の元号である平成は「内外、天地とも平和が達成される」という意味でつけられたとも言いますが、裏にある神の意図では、平成とは「イワト(平=一八十)成る時代」とも言われています。 確かに、昨年2016年夏至をもって「夜明けの晩」は明けて岩戸開きは完成したとも言われ、その翌月にタイミングを見計らったかのような突然の生前退位のリーク、8月には正式に天皇陛下のお言葉発せられましたが、平成とは長い長い1つの大きな仕掛けが完成する最後の元号であったのかもしれません。 天下泰平「2019年より古くて新しい新生日本の始まり」より ☆彡 ☆彡 ☆彡 岩戸開きとは太陽の神様、天照大神(アマテラスオオミカミ)を巡る神話です。高天原にある天の岩戸にアマテラスがお隠れになり、この世は闇に覆われます。その岩戸が開かれ、この世に光が戻ること。それが岩戸開きです。平成=イワト成る時代とは、岩戸開きが成る時代であり、それをもってこの世界に再び光が取り戻される時代と言えます。 平成の始まりの頃を思い出すと、ちょうどバブル経済が終焉を迎えた時期です。その後、山一証券など大手金融機関の経営破たんがあり、最近では東芝の不正会計や巨額損失が話題となっています。平成になって戦後復興から経済成長に至る間に積み上げた歪みが噴き出しています。それは資本主義の行き詰まりを表しており、新しい価値観が必要とされているのです。...

『サピエンス全史』から時代主義へ

『サピエンス全史』から時代主義へ

一昨日放映されたクローズアップ現代「幸福を探して 人類250万年の旅」を観て、『サピエンス全史』の存在とその著者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の存在を知りました。そして、いくつかの書評と著者インタビューを読んでみました。それがとても面白くいろいろな考えが浮かんできました。 僕の理解だとハラリ氏の考えを要約すると以下のようになります。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 現生人類ホモ・サピエンスが他の競合種を圧倒し、現在の繁栄に至った理由は、「虚構(フィクション)を信じる力」にあります。約7万年前の認知革命により、ホモ・サピエンスは「虚構」を使う力を得ました。「気を付けろ!ライオンだ」と言える人類種は多くいましたが、ホモ・サピエンスはこの時「ライオンはわが部族の守護霊だ」という能力を獲得したのです。このように、虚構、架空の事実を物語ることにより、多くの人の共感を得て協力し合うことが可能となりました。人々は共通の目的を持ち大きな組織を創っていきます。 宗教、国家、法律、企業、貨幣など。 これらもすべて人間が生み出した虚構なのですが、これらを信じることで複雑で高度な社会を営むことが出来るようになりました。共通の物語を持つことで人類は統合の道を辿りました。現在社会ではマスコミやインターネットにより世界の情報は瞬時に共有されます。そして、その情報により世界は動いていきます。 この動きの中で人類全体の富、そして力は飛躍的に増大していきます。ですが、一人ひとりの人間に目を向けた時、富を握るのは一握りの存在であり、多く人の暮らしは貧しくなっています。文明の発展は一人ひとりの人間の幸福には繋がっていないのです。 そして、それは個人の持つ知識や能力に関しても同じです。自然の中で自分の力で生きることが求められた狩猟採集時代の人々は現代人よりも多くの知識や能力を持っていました。彼らは、与えられた環境に自分たちを適応させて暮らしていました。それは自分たちの都合のよい世界を創ってきた現代人とは対照的で、これからの時代、人々は狩猟採集民の姿勢を取り入れる必要があります。なぜなら、現代の資本主義は行き詰まりを迎えており、これから大きな変化が起きようとしているからです。その変化に適応していくことが求められます。 ホモ・サピエンスは石器時代から多くの生物を絶滅に追いやっています。その中には、ネアンデルタール人やデニソワ人といった人の仲間も含まれます。社会の近代化や工業化が進む以前から生態系を破壊してきているのです。 このような事実は広い視点から歴史を学ぶことによって見えてきます。歴史を学ぶことにより現在信じられている価値観が虚構であり、それが生み出された過程を知ることが出来ます。そうすることで、虚構を超えたところにある真実に辿りつけるのです。 現代社会を覆っている一番大きな虚構(宗教)は「リベラリズム」です。それは何か重大な問題に直面してとき、個人が自分の内面の声に耳を傾けて判断を下すべきという考え方です。個人が重視されるため政治の問題も選挙で決めていきます。...

心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

心を爆発させ個人的感情も吹き飛ばす

今年のテーマは「爆発」です。それを受けて「心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばして(空っぽになって)いく」と書いた時、2年前の10月に書いた「空っぽへのあこがれ」を思い出しました。この記事ではいさどんがお釈迦さまに逆切れをするエピソードを紹介しています。以下、その内容を転載します。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。 お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。 プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。 そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。 普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、 それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。 ところが、僕にはもう一つの目線がありました。 それも強制的に示される目線です。 そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、 僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。...

心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばしていく

心を爆発させ思考の枠を吹き飛ばしていく

あけましておめでとうございます。 木の花ファミリーでは年明けの瞬間はみんなで「ヒトイズム-ヒトという存在の実体は何ものなのか-」を読んでいました。ヒトイズムとは何か?上記のリンク先にはこんな文章があります。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 例えば、医者が病気について「今病気はこのように進んでいて、それをこういう風にすればこうなって良くなりますよ」と言うのは、科学的分析の結果の話であり、人間が理屈で理解して納得できる世界だろう。しかし、この世界は人間の理屈を超えたところで成り立っている。だから科学や理屈で考えて納得できるところを超えた時に、奇跡が起きるんだよ。 宇宙は奇跡の連続だ。なぜなら、もともと人間の思考のキャパを超えたところで成り立っているのだから。だから宇宙を生きるという意識レベルを考えるのならば、科学や理屈を超えたところでものごとを受け取る器を持つことが必要だ。そうでなければ、真実は観えてこない。 それには、人間壊しをすることだ。人間を壊して、ヒトとして存在する。それがヒトイズムだ。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 この世界は人間が誕生する前から存在しています。その法則は人間の思考を超えていて、だから納得を超えた出来事が起こります。思考の枠を壊していく。それがヒトとしてのありかたであり、僕は今年そんなふうに生きていきます。 2017年、木の花ファミリーのテーマは「爆発」です。 心を爆発させ、思考の枠組みを引き飛ばし、空っぽになって、出会う出来事すべてを受け取り、そこから学び成長していくのです。分かっているのは自分がこれからも成長し続けるということだけ。それがどんな姿かは天にお任せしています。...

新鮮な言葉で天の恵みを広げる

新鮮な言葉で天の恵みを広げる

一昨日の大人ミーティングにて、ともちゃんがいさどんの商売についての考えを紹介してくれました。それを僕なりに纏めると以下のようになります。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 今の社会では、みんな収入を得るために必死に仕事をしています。お店ならば、お客を獲得するために一生懸命、商品開発や営業活動を行っています。お客の増減はお店にとっては死活問題なのです。ですが、木の花ファミリーの活動はそれとは違います。私たちは天の恵みである作物をいただき、それを基盤として生活を営んでいます。収益を得ることが死活問題とはなっていません。ですから、私たちの商売は一般とは違うものなのです。同じ基準で考えてはいけません。天の恵みによって暮らす私たちは心に余裕やゆとりがあります。そして、その余裕を心磨きに向けることが天との約束です。商売もその延長にあります。天の恵みの恩恵を世の中に広げていく。それが私たちにとっての商売で、心を伝えること、幸せを循環させることがその本質にあるのです。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 人間は他の存在に生かされることによってはじめて存在することが出来ます。生き物が生き物を生かし支えていく。それが大自然の姿であり、人間も自然の一部です。ということは、生きていること、すなわち天の恵みの表現なのです。 ですが、天は人間に自由意思を与えました。自由意思から自我が生まれ、自我は自分で生きているという錯覚を人間にもたらします。加えて、自我は自分を他者と分け、自分のことを特別視することで、優越感や劣等感、不足感や自惚れなど様々な感情をもたらします。それらの感情や錯覚が人を天の恵みから遠ざけていくのです。 これも人間に与えられた自由、その自由から競争が生まれ、競争から資本主義経済が発達し、その延長で人々は努力をし、様々なサービスを生み出しました。それはそれで世界を豊かにしますが、その豊かさは同時に貧富の格差や環境破壊など様々な問題を人間にもたらしました。 だから今、人間社会には別の努力が必要で、それは自分を手放す努力であり、天へと至る努力です。木の花ファミリーの心磨きはそのような努力であり、それは天の恵みを世界へと広げていくものです。それは自分たちで計画出来るものではなく、天の流れを読み、それに沿っていく取り組みなのです。 自分を超えて、この世界に心を開き、その恵みをいただいていく。そして、いただいた恵みをこの世界に循環させていく。そんなふうに生きていきます。 本当は、「闇からの卒業、そして時代人として」で今年のブログは最後にしようと思っていました。ですが、一昨日の大人ミーティングでそれを読んだ時、自分の中にしっくりくるものがありませんでした。それはなぜかと考えた時、引用の多さに原因があると思いました。...

闇からの卒業、そして時代人として

闇からの卒業、そして時代人として

闇からの卒業にあたって 卒業式にあたって、自分の歩む道の方向性をつけるのに、どのような心構えをしたらいいでしょうか、という質問があったので答えます。まず、自分が歩む方向についてですが、自分が思う方向に進めばいいと思います。もし、思う方向が定まらなければ、自分に近い人が教えてくれる方向に進めばいいと思います。その自分が進む方向が決まったら、今度は、それがより健全で正しい道を選ぶことです。この世界にある物事はすべて、必ず善と悪に仕分けることができます。それを比べたときに、必ず片一方が少し劣っており、もう一方が少し優れているというように仕分けられます。それがあまりにも同じようでわからないときには、それを細かく捉えていって観れば、必ずそこでは優劣があるものです。そうしたら、ほんの少しでもいいから優れている方向へ進めばいいわけです。そして、選んでいった結果、最後に残ったところ、それが自分の進むべき道です。 これは「闇からの卒業」であり、「愚かからの卒業」であり、「神様へ進む道」です。 次に、この道を歩む縁をもらったものは、その道には道にふさわしい色々な困難があるものです。そして、それを歩む人には人にふさわしい迷いがあるものですが、この道を歩むものはまず、この道に縁があったことを歓びとして感じていくことが大切です。善いとか悪いとか、そういう判断をするのではなく、この道を歩めることを最大の歓びにすれば、どんなことがあっても、この道を歩むことから外れることはありません。そして、その選び方は、消去法でほんの少しでも光のほうへ、ほんの少しでも善意のほうへ、ほんの少しでも愛のほうへ、ほんの少しでも調和のほうへ、ほんの少しの違いがあってもより尊きほうへ道を歩めば、必ずその道は最後には人の行くべき最終到達地点につながっていることでしょう。 道は、人の目には観えないものですが、心の眼があるものには、その眼が愚かしいを避けて、正しいほうへ導いてくれるでしょう。心の眼を開けるためには、自らの内側にある本当の想いが天のほうへ眼を向けて、天のほうへ向かっていく。まっすぐに向かっていく道を意識したときに、眼はより良く観えるようになります。誰の中にもあるその眼は、全く揺るがないものであるのです。その眼が自らの中にあることを信じ、歩んでいけば、迷うことは全くなくなるのです。そして、過去に自らが迷ったことを思い出して、その迷いの愚かしさ、辛さを思えば、なおさらその真理への道を歩むエネルギーと追い風になってくれるはずです。 迷っているときは、あなたの我が自らをたったひとりにして、まわりのものから遠ざけてしまうものですが、真理への道は必ずまわりのものをしっかりと見出し、助け合い、調和し、歩むように眼を開いてくれます。それは、楽しく希望ある豊かなものになるでしょう。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 今年最後の文章はやっぱりこれを取り上げたいです。この文章は「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語からの引用ですが、この文章を聴いたきょうこちゃんは以下のように話します。 ☆彡 ☆彡...

一喜一憂しながら一つになっていく

一喜一憂しながら一つになっていく

子宮頸がんで10月26日から12月12日まで病院に入院していたきょうこちゃん。そのきょうこちゃんをお見舞いに行ったいさどんとの会話をようこちゃんがまとめた「必死」とは「必ず死ぬ」と書く ~きょうこちゃんの「どこまでもいただきます」物語には沢山の学びが詰まっています。今回は以下の文章を引用します。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 わたしは「今回、奇跡って何だろう?と思ったときに、『奇跡』はその人の『軌跡』・その人の歩いた跡だから、奇跡をその人にとっての最高の境地だとするならば、奇跡とはそこに至るまでのその人の歩みにしかすぎないんだよね」と言い、いさどんは「それはDNAだからね。DNAは体験したことが記憶してある情報にしかすぎない。だから、自分がぶれなくてもいいんだよ。自分を観て、ぶれていたら、揺れている自分がいるなと思うだけだ。そしてそこをどうしていくかという歩みが一つの生きるエネルギー源になっていく。そのままでいいなら、皆あっさりと向こうに行っているはず。そこにもだえ、苦しみ、抵抗し、そこで何かを掴んで人は成長していく。世の中にはもだえ、苦しみ、抵抗しただけで終わり、学びが一切なく、転げ落ちていく者もいるから、いろいろだ。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 そして、僕は先日、いさどんと以下のようなことを話しました。 ☆彡 ☆彡 ☆彡 3次元世界に暮らしながらも人間は物事を2元的に観ている。それは、出会うこととそれに対する自分の反応で物事を見ているから。それで平面的になっていく。だけれども、その奥にはこの世界を動かしている意志がある。出会うこととそれに対する自分の反応、そしてその奥にある意志。それらすべてを意識した時、この世界を立体的に観ることが出来る。...

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