本当の空っぽへと至る道

1年前、僕は以下の文章を書きました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

忘我。自分を忘れるほどの熱狂、狂気。
僕の中にはその状態を求める気持ちがあり、
それが時に無理な行動に繋がり、自分を壊していきます。

思考の停止状態。それは空っぽの状態とも言えるかもしれません。
ですが、この空っぽは自分を保ったまま、自分が消耗する空っぽです。

この狂気への憧れの残骸が現れて、ここ3ヶ月、僕は苦しみ消耗しました。
ですが、それももう終わりです。

自我を超えた本当の空っぽは別のところにあります。
それは日々、客観的視点に立ち、自分の感情を眺め、コントロールしていく。
その積み重ねの中で育まれていくものでしょう。

きっとそれは極端とは無縁の世界です。

その本当の空っぽを実現出来た時、生み出される世界。
それは持続可能で人と人が繋がるとっても豊かな世界。
人が集まれば集まるほど豊かで美しくなっていく世界。
その姿は今、いさどんが見せてくれています。

だから僕は一歩ずつそちらに向かって歩んでいきます。(^ー^)


空っぽへのあこがれ」より


☆彡 ☆彡 ☆彡

これは「あなたの未熟もみんなに役立つ」で紹介している僕の課題についての宣言でした。
そしてこれはいさどんがしてくれた以下の話を受けてのものでした。

☆彡 ☆彡 ☆彡

なかのんは、自分の状態は問題だということは言います。
だけれども、駄目なところに情を掛けて執着してしまっているのです。
そこはシビアになって抜け出さないと次の段階に行けません。

そこに情を持って執着していると、言っていることとやっていることが違ってきます。
それは矛盾を創ります。
そんなことをずっとやっていたら霊的には罪を犯すことになります。

問題があると認識しているならば、そのことを認めて改善する意志を明快に示すことです。
そして、常に問題を意識して生きるのです。
毎日を冷静に見ていく。緻密に見ていく。
客観的に自分を離れてみていくことが必要なのです。

 ~ 中略 ~

客観的に見たら、そんな行動を取るのはおかしなことでしょう?
それなのに、なぜそのおかしな行動を取るかといったら、
その未熟な自分に執着しているからです。

それで、僕の話をしますが、僕も昔、同じところを通ってきました。
僕は、お釈迦さま、そして神さまに出会い、道理を伝えられてきました。
お釈迦さまが語られるのは仏道、道なのですよね。
プロセスをずっと見ていく客観視点を育てられます。

そうすると自分の感情が苛立っている状態を観なければいけなくなります。
普通の人は感情が出てくると、感情のままに出して、
それを主張することが自由だったり束縛されていない状態と思ったりしています。
ところが、僕にはもう一つの目線がありました。
それも強制的に示される目線です。
そちらの方から「お前の今の感情はこうだぞ」と言われると、
僕みたいな道理人間、理屈人間は理屈で負けてしまうのです。

それでどうするかというと、僕は理に叶った方に行こうとします。
自分の主張が愚かであっても、そこに執着したい自分がいますが、
理に適った方に行かなければなりません。
そのように、そちらを選べば選ぶ程、情がわいている自分を否定することになります。
理に適った方を選んでは自分を否定していく。
その繰り返しになりますが、その覚悟が出来ていないとだんだん辛くなるのです。

そこで「俺はつらいんだー」となって爆発したことがありました。
そうすると、お釈迦さまは「それなら止めるか?」と尋ねてきました。
「なんてひどい薄情なことをいうの?あなたは」と思いました。

そこでまた道理を考えました。
僕が執着して道を歩むことに辛い想いをしていることに対して、
そのまま執着して進むことは、その道を外れるということになります。
止めるか?という話に乗るのもこの道を外れることになります。
どちらの自分も認めることが出来ません。

道理のところに行くことによってのみ楽になれる。
自分で自分を本当に意味で認めることが出来るのです。

認めたくない自分に執着をしてそのままで行こうとしますが、
それはすごいバカなことをやっているのです。
それでも執着している時はつらいものです。

僕はその想いを怒りに変え、伝えました。

「何を言っているのですか。止めるわけがないではないですか。
これを知らずにいかない人は世の中に沢山いますが、
一度、これを知って行かないものがいるでしょうか?
絶対やめない。見ておれ。やめんから。」

逆切れしたのですよね。

さっきのなかのんの言葉もある意味逆切れですよね。
だけれどもなかのんは自分と向き合わない方向に切れていました。

僕は「絶対にあなた(お釈迦さま)のところにいく」という逆切れ。
同じエネルギーの掛け方でも違う方向に向かっているのです。

僕は辛いから泣きました。でもその涙は自分にとって肯定的です。
そこまでやるんだ。
その想いが自分を強くしてくれます。

なかのんの逆切れは心を強くするものではなく、ある意味逃げています。
そうやって逃げていくと悔やみの心が出てきます。

また自分が否定する、本当はそうではないという方向に行ってしまった

その繰り返しになり、だから定期的にその想いが湧いてくるのです。
自分が嫌いな自分を演じて、自分で苦しんでいる状態です。

※いさどんとお釈迦さまのエピソードは「木の花記~金神さまの巻~」をお読みください。

空っぽへのあこがれ」より


☆彡 ☆彡 ☆彡

自分への執着、それは自分の感情に対する執着とも言えます。
自分の姿がみっともなくとも、自分が感じていることに従いたい。
そんな気持ちを超えることが出来ずにいたのです。

1年前、そんな自分を超えると決意しました。
そして、日々を大切に積み上げていきました。
ところが今年の8月、もう一度滞りを経験することになります。

情けない。どうしようもない。

こんな気持ちが生じましたが、これが僕の転機となりました。
この時、僕は自分の中を識別してそぎ落とすことが出来たのです。

情けない、嫌になる、投げ出したい。

そんな自分の感情を離れて、外から自分を眺め、
自分の中のいらない部分(ネガティブな感情や我欲)をそぎ落としました。
そして、自分と向き合う意欲は維持し続けました。
この時、僕は「超えた」と確信することが出来たのです。

滞りはチャンスであり、滞りを通して、僕は自分を変えて行きました。

そして、今の自分がいます。


ところで昨晩の大人ミーティングでは「空気」が話題になりました。
いさどんは「空気」について以下のように語っています。

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なぜ、今、空気はこの状態なのか。それは生命の歴史と連動していて、空気の成分は変化してきている。そうすると、そこにいる生命の存在も変わってきていて、空気も汚染されてきた結果、人間の歴史も変わってきている。つまり、我々は空気だ。
空気は絶対なくてはならないものだが、空気の存在によっては生命は対応できず、絶滅もする。だから、空気の存在は時代が動いていく中で、とても大きな役割を果たしている。空気は何でもなくあるようで、ものすごく大きな存在。気付けば気付くほど、その存在は大きく、あまりにも身近にありすぎて解釈できない。この空気と対話したり、空気の存在を解明したら、何か新しい世界が観えてくるのではないか。

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僕は、冒頭の文章の中で「空っぽ」という言葉を使っています。
空っぽの「空(から)」は「空(そら)」でもあり、「空気」の「空(くう)」でもあり、
色即是空の「空(くう)」でもあります。

空っぽになるとは空気のようになることであり、空(そら)のようになること。
それらは地球上ですべての存在を包み込み、そして見守っています。
その中ですべての存在は相互に関連し合い依存し合っているのです(「空(くう)」)。
つまり、空っぽになるとはすべてのものと関連し合い一体となることなのです。
そのためには「僕」を超えていく必要があります。

数日前、「天を歩く」を大人ミーティングでシェアした時、いさどんは以下のように言いました。

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確かになかのんのブログには「僕」が多く使われています。
それはなかのんが自分を調整する必要がある段階だからで、仕方がないことです。

この文章に関して言えば、今、聴いていて、
8mmフィルムの映像がコマ送りで流れている様子が浮かんできました。

天を歩く。

天とは宇宙であり、地球も宇宙の一部です。
そして地球の反対側の人たちは、僕らが地面と思っている方向を天と呼んでいます。
すると僕らは毎日、天を歩いているのです。

そのことに気づくかどうかです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「僕が多い」という言葉を貰ったということは、その状態を超える時が来たということです。
自分の調整にはエネルギーを使わず、すべてのものと関連し合い一体となる。
それと同時に、空(そら)や空気のようにすべての存在を包み込み、見守るあり方。
それが本当の空っぽであり、そこを目指せというメッセージを今貰っているのです。

「僕」を離れて、空気を読んで必要ならば空気を変える。

そんな気持ちで日々を生きることが、本当の空っぽへと至る道だと思いました。

1年前にした「空っぽ」への決意。

それを新たに、これからもこの道を歩みます(^-^)









天を歩く

あなたの未熟もみんなに役立つ」を大人ミーティングでシェアした時、
場はシーンとしてしまい、「共感できない」というコメントや
「文章に僕が多い(自分が強いという趣旨)」というコメントを貰いました。
もちろん好意的なコメントもあったのですが、
場の雰囲気と先のコメントにより僕は固まってしまいました。
僕のその状態は30分ぐらい続きました。

そこで天の視点に立ってこの出来事を眺めてみることにしました。

先に挙げたコメントは僕のブログに対する評価ですが、
その場ではそんなことはあまり重要ではないのです。
大人ミーティングの流れ、そしてそれを含めた木の花ファミリー全体の流れの中で、
このタイミングでブログをシェアしたことはどうだったのか?
それがここ全体に何をもたらすのか?
大切なのはそういう視点です。
だけれども、ミーティング中固まった僕にはそういう視点はありませんでした。
その場の雰囲気に反応し、自分ごと(ブログの出来不出来)に囚われてしまったのです。

天とは何かを尋ねると・・・」にも書いた通り、自分の意図していないことはすべて天なのです。
ミーティングでのシーンとする反応も天の意志です。
なので、それと対話していくことが大切です。

まず一つ言えることは、ミーティングでの反応は僕の未熟さを浮き彫りにしました。
その場の雰囲気により僕は自分に囚われました。

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自分というものを内からだけ見ていてはいけません。

外から見える自分と内から見える自分というものが、
自由自在に行ったり来たり出来る状態になることが大切です。
ブログを読んでそれが少し出来るようになってきたことを感じました。



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上記は約1ヶ月前のいさどんの言葉です。

自分の内と外を自由に行き来する。

大切なのはそういう姿勢を育むことであり、今回の出来事を通して僕は試されたのです。
試された結果、まだまだの実態が浮き彫りになりました。
ですが、この出来事は僕の心に刻まれ、積み上がっていきます。
目指す先は自由自在な自分です。

天を歩く。

そんな言葉が浮かんできました。

様々な出来事が僕からいろいろな反応を引き出します。
常にそれを離れた視点から眺めることが大切です。

自分の意図していない出来事はすべて天からの意思です。
それに反応し右往左往していたのでは、天の意図は読み切れません。
自分を離れ、出来事の上を歩いていく。
その位置に立った時、はじめて天の意図を感じていくことが出来るのです。

ミーティングの反応は天からの答えです。
それを受けて、「ならばどうするか?」を考えていくことが大切です。

だから僕はそうしていきます。

人間社会や地球環境に目を向けると人間の意図を超えた出来事が沢山起きています。

戦争や紛争、経済格差や飢餓、異常気象や海面上昇など。

それらに右往左往するのではなく、起きる問題ごとの上を歩いていく。
そして、天のメッセージを感じ取る。

そんな姿勢になった時、今の問題ごとは生かされ、人類は次の時代を迎えるのでしょう。

そんな未来に向けて、まずは日々、自分の日常から学び続けていきます(^-^)

富士山と朝日です。毎日毎日、日は昇るのです。たとえそれが見えなくても。




あなたの未熟もみんなに役立つ

弱さの情報公開


9月29日放映のクローズアップ現代+「生きづらさを抱えるあなたに~障害者殺傷事件が投げ掛けたもの~」を観ました。その内容を要約すると以下のようになります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

相模原市の知的障害者施設で起きた殺傷事件。
その容疑者は「障害者は役に立たない」という供述をしています。
そして、「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。
事件を起こしたのは不幸を減らすため」とも述べています。

そのため多くの障害者が身の危険を感じるようになっています。

この「役に立つ」という言葉。
効率を追求する現代社会を表す言葉で、その言葉が社会から多様性を奪い、
障害者だけでなく、健常者も生きづらさを感じるようになっているのです。

ですが、「障害のある人たちが働ける企業は成長する」し
「多様性こそ人間の繁栄を支えてきた」ということが最新の研究で分かってきました。

偏った価値観を超えて共生社会をいかに実現するかが課題となります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この番組の中で「べてるの家」向谷地生良(むかいやちいくよし)さんは、
弱さの情報公開」というキーワードを挙げていました。

この言葉はとても印象に残りました。

もし社会が人々の多様性を認めるようになれば、
そして一人ひとりが自分と向き合い自らを受け入れたならば、
共有された「弱さ」はみんなに生かされていくのです。

「弱さ」だけではありません。
一人ひとりがしっかりと自分と向き合い受け入れたならば、
すべての特性がみんなの中で生かされていきます。

そんな話を一つ紹介します。

あなたの未熟も場創りに役立つ


1年前の10月2日、大人ミーティングでいさどんはこんなふうに話しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。
「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。
こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。
たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、
「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」
そういうことを言葉ではなく空気を感じて、
「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。
哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

 ~中略~

みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。
自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。

それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、
それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。
自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。
そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。
そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。
本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。
そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。
道を難しい道だと思わないでください。




☆彡 ☆彡 ☆彡

この日のミーティングでは僕の滞りが話題となり、みんなに沢山の時間を掛けてもらいました。
その滞りは僕が長年向き合ってきたテーマであり、人生最大の課題となっていました。
1年前、大きな滞りの中で僕はそのテーマと向き合いました。
そして今、その課題を超えています。

あれから1年が過ぎ、そして今日は新月です。

この節目にそのテーマについて書くことで、自分の歩みをより力強くしていこうと思います。

僕の父さん


僕の父さんは僕に対しとても強い愛着を持っていました。
自分の中心を投げ出し僕に置いていたのです。
僕の行動が気になり、僕の一挙手一投足に一喜一憂する状態でした。

そんな父さんとの間にはいろいろなエピソードがあります。
以下いくつか紹介しますね。

エピソード(1) 体育祭の打ち上げ


僕が高校生の頃、体育祭の打ち上げでクラスのみんなとカラオケに行くことがありました。
カラオケボックスで21時ぐらいまで遊んで家に帰るのは22時過ぎになったのですが、
父さんは家に帰った僕を見るなりいきなり頬っぺたをビンタし怒りだしました。
加えて、僕が家に帰ってくるまでの間に、
心配で心配でクラスの子の家に電話までしていたのです。
これには参りました。
そして挙句の果てには、
「カラオケセットを買うからうちにみんなを呼んで遊べばいいだろ」
とまで言い出しました。
ただ僕を側においておきたいだけで、他の子のことは全然考えていないのですよね。
困ったものです。f(´-`;)ポリポリ
もちろん、こんなナンセンスな言葉に僕は応じませんでしたが。

エピソード(2) 駅に迎えに来る父さん


大学生になって帰りが23時過ぎになった日のことです。
家の最寄り駅で電車を降りると自転車に乗っている父さんと出会いました。
僕のことが心配で心配で様子を見に来たのです。
その姿に僕は不機嫌になるのですが、
そんな僕を見た父さんは「散歩していたんだよ」と言ってそそくさと帰っていきました。

エピソード(3) 今生の別れの杯を交わす


23歳の春、僕は友人とハワイのオワフ島に行くことにしました。
初めての海外旅行です。
それを聞いた父さんはショックを受け大慌てとなります。|゜□゜;|┐ガーン!!

飛行機が落ちる

銃で撃たれる。

父さんにとって飛行機は落ちるものであり、海外は銃で撃たれるところなのです。

これはもう理屈ではないのです。

そんな父さんに僕は語りました。

父さんの気持ちは分かりますが、僕は自分の可能性を広げたいし、広げる必要があるのです。
だから海外に行かないという選択肢はありえません。
そう、僕はこの機会に死んでしまうかもしれません。
それでも僕は行くのです。
僕が死んだ時は不幸な息子としてお許しください。

こんなふうに伝えて一緒にお酒を飲みました(^-^)


とまあこんな感じです。
まだまだ例を挙げたらきりがありませんが、とりあえずこんなところで。

自分の中心を投げ出し僕に置き、僕の言動に一喜一憂する。

僕が苦しめられた父さんのこの特性は、僕の心と身体に染み渡り、
そのまま僕自身の特性となり僕の中の爆弾となっていきました。
そして遡ればきっと、これはじいちゃんの特性でもあり時代の中で生み出された歪みなのです。

ここで紹介した父さんの姿はそのまま僕自身であり、時代の一つの現れです。

僕は長い間この特性に向き合いきれずに翻弄されてきました。
そんな中、一番苦しい時期には以下のような状態にもなりました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

10年前の10月、中学校で勤めている時、僕は職員室の自分の机を蹴飛ばし、
そのままドアに向い、ドアを叩きつけて締めて、そのまま学校を離れました。
そして、道路を歩きながら、傘を叩きつけて、傘を壊したら、空から雨が降ってきて、
僕は濡れながら家まで5km歩いて帰りました。

僕はその頃、毎晩泣いていて、
人前でもきっかけがあると涙を止めることが出来ませんでした。


そして窓から飛び降りる衝動に襲われ、マグカップを人に投げつける衝動に襲われ、
心を静めるために一日に何回も屋上に行き、一人で佇んでいました。



空っぽへのあこがれ」より(年数を修正)

☆彡 ☆彡 ☆彡

こんな感じで、この特性は僕の中の爆弾となり、定期的に火がついていたのです。

1年前、僕は再び自分の中心を他者に投げ出し滞りを経験しました。
ですが今、僕はその滞りを克服しています。
それは「物語の終焉、そして始まり」に書いた通りです。

僕は少しずつ天から自分に柱を降ろしてきました。
そして、それは今も続いています。
今、僕の中心は天から僕へと貫く柱となっています。
まだ細い柱ですが、日々の生活を重ねる中でどんどん太くしています。
その柱を意識している限り、僕は自分の中心を他者に投げ出すことはありません。
だからもう二度と再び同じ滞りを経験することはないのです。

自分の中心を他者に投げ出し、他者に依存していく。

僕が向き合い乗り越えた「弱さ」は今、一つの物語として完結しています。
それをみんなと共有することで、僕らは人間に対する認識を深めていけます。
そして、その学びは僕らの人間性を向上し、豊かな世界へと繋がります。

僕の弱さ、未熟はこんなふうに生かされています。
そして、僕を謙虚な気持ちへと導いてくれています。

あなたの未熟もみんなに役立つ。

そう、だからただただ思い切り生きるだけなのです。

思惑は何もいりません。

そして出会うことをいただき学びを深めています(^-^)

みんなが思い切り生きることで個性豊かな多様な場が生み出されます。

それはきっと宇宙の実相へと至るのです。

9月27日朝、人参間引き中の写真です。

揚羽蝶を見つけました。










変化に富んだ物語を紡いでいく

たとえばオリンピックで人を感動させるのは、メダルを取ったという事実だけでなく、
その演技の素晴らしさであったり、そこに至る過程、選手やコーチ、仲間の物語であったりします。

もしメダルを取ったという事実だけが語られるならば、
それは勝った負けただけの世界となり、面白みがなく貧しい世界となってしまうでしょう。

ですが今、多くの人は勝った負けた、もしくは成功失敗という事実に囚われ暮らしています。
そしてそのことが世界を狭くし、貧しくしているのですが、その事実にはなかなか思い至りません。
それは、他者(社会)からの評価という報酬が人々に染み渡っていて、
それが判断や行動の基準となってしまっているからです。

今、社会全体が様々な価値基準に囚われています。
勝ち負け、成功失敗、拡大発展など。
それが人々の世界を狭くし、変化に富んだ物語を描く可能性を奪っているのです。

宇宙は過去から現在、そして未来へ向けて変化し続けています。
変化の中で星々は様々な物語を生み出し続けています。
人間一人ひとりはその中の一部を担い独自の物語を生み出しているのです。
その視点が人々を目の前の出来事から解放し、広い視点へと導きます。

例えば、先日、NHKスペシャル「縮小ニッポンの衝撃」が放映されました。
番組では、北海道夕張市や島根県雲南市など
行政サービスが縮小し、住民が苦労している姿を紹介していますが、
2020年には東京にも人口縮小の波が襲い掛かると予想されています。
その内容は衝撃的で視聴者からは絶望の声が相次いだようです。
 ※NHKスペシャルの縮小ニッポンの衝撃の内容に、絶望の声が相次ぐ

ですが、木の花ファミリーではこの番組を明るい気持ちで観ました。
例えば、番組では、建物が取り壊される姿が描かれていますが、
みかちゃんはその姿を見て「自然に還ることであり、バランスを取り戻している」と感じたそうです。

そしていさどんは番組を観て、以下のように感じたといいます。

☆彡 ☆彡 ☆彡

「大変だ!」と感じるのは現状に執着しているからです。
変化に身を委ねたら、怖れることはありません。
人間は最終的にはみんな死ぬのです。

今は変動の時代です。
天変地異が世界各地で起こっており、テロや紛争も絶えません。
人口減少は混迷を極める現代社会の中の一つの事象に過ぎません。
今、人間社会は行き詰まっていますが、それは時代が変化を求めているということです。

そんな現実に向き合い乗り越えるためには、
一人ひとりが自らと向き合い個性を発揮して繋がっていく必要があります。
そんな人間力を育てているのが木の花ファミリーの暮らしであり、
その暮らしは世界に調和をもたらし豊かな場へと変えていくのです。

この暮らしはこれからの未来の雛形です。

☆彡 ☆彡 ☆彡

今の価値観に囚われていると、番組の内容は絶望的に映ってしまいます。
ですが、そこを離れ、宇宙や地球、人類の物語という視点で見ると、
それはプロセスであり、一時の困難は未来への希望へと繋がっていくのです。

そのような例は他にもあります。

たとえば以下2つのブログによるとアメリカ政府やドイツ政府は、
国民に緊急事態に備えて食料や水を備蓄するように呼び掛けているようです。

 アメリカ政府が、国民一人ひとりに食料、水、武器、金銀、現金の準備を呼びかけ

 天下泰平ブログ:2016年秋から始まる大変革の流れ

この状況について、上記の天下泰平ブログでは以下のように書かれています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ドイツ政府が、国民に対して「備蓄」を呼びかけているというニュースが話題となっています。


主に“テロ”などによる社会情勢の混乱に備えるための準備のように伝えられていますが、最近はイタリアの地震にしろ、イギリスのEU離脱にしろ、自然災害や経済危機などにおいても、ヨーロッパでは今何が起こってもおかしくはない状況となっています。

「この秋に何かが起こる」

各方面において、2016年の秋というのは1つの大変革の節目のタイミングとなることが言われていますが、その中で有名なのはエササニという惑星からの宇宙人「バシャール」の見解です。

 「未来予測などと言うものはありません。不確定だからです。可能性のある現実が、いくつもあるだけです。けれども今、この瞬間の、あなたたちの個人的、集団的エネルギーから感じる可能性は、おそらく変動することなく、三次元的現実に現れるでしょう。2016年の秋、そうした可能性の種は芽吹き始めます。もしくは数年後に起きた変化を振り返った時、その原点となるのが、2016年なのです。」(バシャール)

     ~ 中略 ~

またバシャールは、この秋から現在の金融(経済)システムの変化が起こることも予測しています。

この秋より、再びリーマンショックの後のような経済の低迷が続き、そのままの流れで2020年までに現在の金融システムが破綻するかもしれないと。そして、2025年頃から新たな金融システムによって経済社会も復興を遂げるようです。

そうすると2020年から2025年までの過渡期の間、世界経済は窮地に立たされ、食糧危機などの様々な問題が起こるかもしれません。

一方で、やはり2020年頃までにエネルギー問題も大きく動きがあり、原発が世界各地でメルトダウンを続けて崩壊していくようで、その中で新たな代替エネルギーが台頭するとも予測しています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここでバシャールの語っていることは、破壊と再生であり、新しい世界への予感です。
それは銀河の夜明けを経て光の時代に入った太陽の螺旋運動とも一致しており、
未来への希望の物語となっているのです。

こんなふうに人は一時の困難を未来への希望に繋げることが出来ます。
そのために必要なのが自分を超え続けることであり、
変化に富んだ独自の物語を未来へと紡いでいくことなのです。


太陽。2012年12月21日銀河の冬至を経て、今は銀河を光の方向へと進んでいます。





「苦集滅」を通して枠を広げ「道」となる。


24日夕方に見えた虹です。(ひとみちゃん撮影)

苦集滅道


上記は昨日出会ったお釈迦さまの言葉です。それは以下のように展開されます。

☆彡 ☆彡 ☆彡 


釈迦は「苦集滅道」という人生の原理を説きました。

「苦」とは、人生の中で連続して体験する試練や悩みごと。
「集」とは、人生が苦と感じる原因は、
物質的な価値観にこだわりそれを欲しがり過ぎるからであるという意味。
「滅」とは、苦の原因を滅した境地。

「道」には色々な解釈がありますが、私は「剣道」や「華道」という場合と同じように「人生の道」と解釈したいと思います。すなわち「苦集滅道」とは、苦・集・滅というプロセスを体験する人生の道のことをいいます。




☆彡 ☆彡 ☆彡

今まで悟りについて語る時、「苦集滅」の部分がクローズアップされていたと思うのです。
そして、その結果、例えば「無」のような一律の境地が語られてきました。
ですが「道」に焦点を当てた時、それはプロセスであり、一人ひとりオリジナルなものとなります。
そこを語り合うことがこれからの時代の悟りであり、それはこの世界に豊かさをもたらすのです。

一人ひとりオリジナルな道。

そんな話として最近の僕の話を一つ紹介します。

24日の夕方、僕は祈りを捧げながら1件のメールを出しました。
そしてその後、恵みいただきますの準備のため玄関の掃除をしていました。
その時、富士山の方角に大きな虹が見えたのです。
その虹はとてもきれいで、僕は「これは吉兆だな」と感じました。
ですが、メールを出した相手の反応を見るとぱっとしないものでした。
人生思惑通りにはいかないものです(-_-;)

そして僕は数日前に自分が書いた言葉を思い出しました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この世界は変化し続けています。
僕が納得しようとしまいと関係なく変化し続けています。
ならば、僕の納得なんてどうでもいいのです。
いやむしろ、納得できないことが自分の枠を広げ真実へと誘うのです。

この世界では狭い自分の枠からは納得出来ないことがたくさん生じます。
その時、納得を求めることが執着や不満、現実逃避に繋がり意欲を奪っていくのです。
だから常に自分の納得したい心を超え続けていくことが大切です。
そしてこの世界をただただ探究し、そしてただただ感じて味わっていくのです。
その先に真実が浮かび上がり、それは時と共に変化し続けます。

僕と世界は一つ。

時と共に変化し続けています。

宇宙と一緒に未知な道を旅しています。


自分の納得を超えてこの世界の実相へ」より

※1文字「き」を削除、削除した理由は「僕の未来、そして宇宙へ続く物語」参照

☆彡 ☆彡 ☆彡

ここ最近、ある人の行動は僕の理解を超えていました。
その行動に納得が出来ない僕はとりあえず1通のメールを出しました。
・・・が、その成果はなかったと言っていいと思います。

すっきりしない感情を抱えた僕は、天の視点に立って自分や状況を眺めてみました。
そして、こんなふうに思いました。

相手の特性を考えた時、今回の結果はある程度想定できることでした。
だからまずそのことに一喜一憂することは違うのです。
そして、僕が相手に伝えたこと、伝えた内容はそれでよいと思うのですが、
僕の中には自分の基準で相手のことを裁く心がありました。
それは余分な心であり、自分の思い通りにしたい心にも繋がっていくものです。
こういう心は手放していく必要があります。

理解を超える相手の行動が僕の中から裁く心を引き出しました。
そして、僕はそれを認識し、それを手放しました。
これからはただ淡々と見える景色を伝えるだけです。
そして、相手のことは天にお任せしておけばよいのです。

これは僕の「苦集滅」のプロセスであり、これを通して僕は枠を広げ変化しています。
その変化が僕の「道」となり未来へと続いていくのです。

縛られない自分になって初めて自分をコントロールできる。



上記は24日の大人ミーティングでのいさどんの言葉です。
その趣旨は以下のようになります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

みんな自分に縛られているのです。自分の感情、欲求、カルマ・・・
でも縛られない自分がいて、その位置に立った時、
初めて自分をコントロールできるのです。

☆彡 ☆彡 ☆彡

別の場面でいさどんは、人間について「本来は永遠なるもの」と話しています。

縛られない自分と永遠なるもの

この2つは共通していて、本来の人間が立つ自由な位置です。

その位置に立って、縛られている自分を見る。
そして縛られている自分に修正を加え、解き放っていく。

苦集滅道はこんなふうにも表現できます。

僕は少しの間、自分の他者を裁く心に縛られていました。
そしてその心が僕を不自由にしていました。
そのことに気づき、僕は裁く心から自分を解き放ちました。

それは一つの変化です。

そして僕の変化は世界の変化であり、様々なことに微妙な影響を与えます。

こんなふうに進んでいくと虹はやはり吉兆だったことが分かります。
どんなふうになるかは分かりませんがこれから先が楽しみです(^-^)



僕の未来、そして宇宙へと続く物語

一昨日の大人ミーティングで僕は「自分の納得を超えてこの世界の実相へ」をシェアしました。
その時、いさどんから最後の6行についてのフィードバックがありました。
それはこんな感じで展開します。

☆彡 ☆彡 ☆彡

だから常に自分の納得したい心を超え続けていくことが大切です。
そしてこの世界をただただ探究し、そしてただただ感じて味わっていくのです。
その先に真実が浮かび上がり、それは時と共に変化し続けます。

この文章は自分の意思であると同時に仕組みです。

僕と世界は一つ。

ここで僕が出てくるけれども、これは自分がどうこうすることが出来ない実態です。

時と共に変化し続けています。

これも自分はそこにいるけれども自分はそこでは何も出来ません。前の表現と一緒です。

宇宙と一緒に未知な道を旅していきます。

最後のところで、未知の道を旅して「いきます」となったところで自我が出てきています。
ここで「います」とするともうこれは完全に自らを手放した状態でただこの世界を見ています。

「き」という言葉はエネルギーが湧き出ていることを表しています。
ここではそれが自我となって現れています。
それを取ってリラックスした状態にして、「います」という状態になった時、6行が美しくなります。
「き」が入るだけでぶち壊しになるのです。
これは本当に微妙なところ。たった1個「き」という文字があるだけで境地が全然違うのです。

とはいえ、こういうことを語れる文章を書くようになったのは随分と・・・
昔、プロジェクターのスイッチにこだわっためんどうくさいなかのんがここまでなったのです。

今、僕は「き」はいらない。つまり自らの意思がいらないと言っていますが、
それはこの文章のレベルになっているからです。
低いレベルの時、口ばかりで実行が伴わない時は、「たい」ではなく「ます」
「やります」と意思を込めることが大切になります。
ですが、それが当たり前になってくると「やります」ではなく「あります」
「いきます」ではなく「います」となるのです。


※プロジェクターのエピソードは「僕といさどんと木の花ファミリー」をお読みください。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙と一緒に未知の道を旅する。

これはその前の文章と同様でこの世界の仕組みであり事実です。
そこに自らの意思は必要ではなくただ仕組みに「気付く」ことが大切なのです。
ここに意思が出てくるところに僕の気負いがあり自我が表れているのですが、
それをこんなふうに教えてくれる人がいて語り合えるのはとても幸せなことです。
いさどんのこの話を聴きながら僕の全細胞が喜びで沸き立っているのを感じました。
これは大きな発見であり、この気づきは僕のこれからの変化を加速させることでしょう。
そしてそれは宇宙の変化でもあるのです。

例えば、この9月について、天下泰平ブログ:すべてを許し、受け入れる「魚座の半影月食」には以下のような記述があります。

☆彡 ☆彡 ☆彡

先月の818日の水瓶座半影月食、830日からの水星逆行、91日の乙女座日蝕、99日の木星天秤座入宮、そして本日917日の魚座半影月食と922日の秋分を通して、宇宙の流れも人々の意識、文明の方向性も大きくシフトする大揺れの期間となり、そして101日の天秤座新月から、いよいよ変革の「2016年秋」に入っていくと思います。

☆彡 ☆彡 ☆彡

もっと長いスパンで見ると、2012年12月21日の「銀河の冬至」を挟んだ前後7年間の”銀河の夜明け”が今年の夏至、6月22日に終了し、本格的に光の時代へと踏み出しました。そして今日は、そこから地球が太陽の周りを90度動いた秋分です。これから光へ向っての動きがさらに加速されていくことでしょう。それは今まで見えなかったことが明らかになっていくということです。

僕は一昨日、「いきます」という言葉の中に自分の自我が隠れていることを知りました。
それと同じように、この世界に隠れている自我を明らかにしていくことが大切です。
自我を明らかにし、それを超えていくことが時代への動きと呼応し光へと向かっていくのです。

例えば、9月20日、オバマ大統領が国連総会で行った演説では、世界全体が進歩したことを賞賛する一方で、平和と繁栄を破壊しようとする危険な武力に対して警告を発し、以下のように述べています。

☆彡 ☆彡 ☆彡

これは、今日の我々の世界を明確に表すパラドックスだ。冷戦終了後の四半世紀、世界は、多くの手段によって、以前よりも暴力が減り、より豊かになった。しかし、我々の社会は、不安と対立に満ちている。制度上では非常に大きく進歩しているにも関わらず、統治はより困難になっている。国家間の緊張状態は、より早く顕在化するようになっている。したがって私は、この瞬間、我々全員が選択を迫られていると確信している。我々は、統合されたより良い世界へと前進するのか、大きく分断し、衝突する世界へと後退するのか、選択することができる


☆彡 ☆彡 ☆彡

この言葉は美しく平和を願っているように聴こえますが、その奥にはオバマ大統領の自我があります。なぜなら、そこで語られた内容は、イランとの核開発交渉やキューバとの国交回復、パリ協定への署名など自らの取り組みを成果として強調し、中国やロシア、トランプ氏など自らと対立する存在を非難するものだからです。

そもそも世界の暴力は減っているのでしょうか?制度上大きく進歩しているのでしょうか?

これはオバマ大統領にとって都合の良い視点から語られているように思えます。
そしてそこにはオバマ大統領の自我が隠れているのです。

近代科学が発展し物質的に繁栄した今の社会は人間が幸せを求めて努力をした結果です。
幸せを求めて努力した結果、大量消費や環境破壊、貧富の格差や飢餓を生み出しています。
それは人類一人ひとりの心に「自分が」という自我が働いていたからです。
「自分が」という気持ちが分断や対立、競争を生み出し、今に至っているのです。

だからいつも「自分が」という自我の働きを明らかにし超えていく必要があります。
その結果「みんなで」という心を育み、世界と一つになっていくのです。

だから常に自分の納得したい心を超え続けていくことが大切です。
そしてこの世界をただただ探究し、そしてただただ感じて味わっていくのです。
その先に真実が浮かび上がり、それは時と共に変化し続けます。

僕と世界は一つ。

時と共に変化し続けています。

宇宙と一緒に未知な道を旅しています。

ちなみにこのブログは2014年の秋分(9月23日)に立ち上がりました。
これで丸2年となります。
ここには僕の心磨きの物語が流れていて、それは未来へと続いています。
そしてそれは宇宙の物語でもあるのです(^-^)

いさどんと富士浅間木の花祭りに登場する金神さまです。


自分の納得を超えてこの世界の実相へ

10日ほど前、僕はいさどんと以下のような会話をしました。

☆彡 ☆彡 ☆彡

いさどん:

最近つくづく思うことだけれども、今年ももう9月、確実に着々と毎日が来ている。
これは実は凄いことで新鮮なことの繰り返しなんだよ。
宇宙的には瞬間瞬間全く未知なところに行っている。
この前お正月だったかと思ったらもう9月。すぐにも次の正月が来るよ。
そして人生はあっと言う間に終わっていく。

こんなふうに宇宙の時間から観ると人生はあっという間に終わる。
時代の流れに個人の人間が関与するのはほんの少しだけ。
ほんの少ししか関与しないけれども、
広く宇宙の端っこから端っこまで観るような思考を持たないと、
ほんの瞬間を見るだけでなにもならない状態で人間の人生は終わってしまう。

こういうことを考えるのだけれども、これは俺の思考回路からしたら当然のことなんだ。
だけれども、普通の人からすると「すごいこと考えているね」ということになる。

なかのん:

そうだね。大抵の人は目の前の暮らしをどう豊かにするかということで頭がいっぱいだから。

いさどん:

そして変わらない毎日を繰り返している。それはむなしくないのだろうか?

肉体を持っていることは不自由なことで限定したところに閉じ込められることになる。
そして、その視点に留まると毎日は単調な繰り返しとなる。
だけれども人間は本来もっと永遠なるものなんだよ。
それがたまたま現象の世界に降りてきたためにすごい閉じ込められている。
肉体を持つことで不自由だらけになっている。
不自由というのは、他の自由を求めているか知っているから不自由と感じる。
人間は本来、自由を知っていて永遠なる存在。
それを語りつくすのが自分の役割だと思っている。

ここまでのことを語るとそうそう共鳴する人はいない。
オバマ大統領にしろ習近平国家主席にしろ安倍首相にしろこういう道理は分からない。
いくら地位が高いと言っても目の前の現実しか見ていない。
それは仕方がなくて、そうするとお友達はほとんどいなくなる。
でも絶対に「そうだったよね」というところ、永遠なる視点がある。

この世界はすごい限定された世界。

人々がそのことに気づきその限定を解除した時に今の矛盾はなくなるはず。
もっとも宇宙的にはそれと同時に新たな矛盾に入るのだけれども。

なかのん:

それがどんな矛盾かは分からない。

いさどん:

それは今は語ってはいけない。これはスケールの問題。

特定の枠をもらい古い枠から新しい枠にいくと発展したように感じるが、
実は継続していくとそれも枠となる。
そしてまた枠を取っていくという作業になっていく。

なかのん:

その繰り返しがダイナミックになっていく。

いさどん:

それはダイナミックというけど、
今、人間が考えているようなジェットコースターに乗っているダイナミックとは違う。
それは多次元間のダイナミックと言える。

そういうことを語っている自分が毎日この肉体に付き合っているんだよね。
そこまで分かったらもういいのにね。

なかのん:

まだ役割があるから天が呼んでいない。

いさどん:

役割があるとしたらこの視点を発信し続けること。
もう今までの時代は終焉を迎えるのだから。
だから理解されようと理解されまいと関係なくこの視点は伝えなければならない。

☆彡 ☆彡 ☆彡

思い返すと僕は矛盾のない生き方を求めて木の花ファミリーのメンバーになりました。

環境破壊と経済格差、先進国で大量に廃棄される食料と途上国での飢餓と貧困。
平和のための軍隊から生み出されるテロと難民。
様々な矛盾に満ちたこの人間社会。
今の社会で何の考えずに生活しているとその動きに絡めとられていきます。
僕はそこから抜け出したかった。
そして矛盾のない木の花ファミリーの暮らしを選びました。

それは自分の納得のいく人生を求めた結果で、僕は納得の行く人生を手に入れました。
そして物理的には矛盾のない暮らしを続ける中で僕は意欲を失っていきました。
当時の僕にとってはただその暮らしを維持していればよく、
それ以上の向上は必要ありませんでした。
僕は自らが定めた到達地点に立っていたのです。
そんな中、大人ミーティングで場創りをするつもりはないと宣言をし、
心磨きをしない僕はオフィス障がい者の認定を受けるようになりました。
 ※詳しくは、「まなこい」から11ヶ月 をお読みください。

そんな僕が今ではいさどんと上記のような会話を楽しんでいます。
心の探求に意欲を持って日々を楽しみ暮らしているのですから人は変わるものです。

矛盾だらけのこの世界で、自分が矛盾のない生き方をすればそれでいいのか?

そんなことはありません。

もしそこに完全に矛盾がないのだとしたら、それは切り取られた世界で、
自分の納得を満たすためだけの思い込みの世界です。

この世界の矛盾は僕の矛盾であり僕は世界の矛盾を生き続けるのです。

この世界は変化し続けています。
僕が納得しようとしまいと関係なく変化し続けています。
ならば、僕の納得なんてどうでもいいのです。
いやむしろ、納得できないことが自分の枠を広げ真実へと誘うのです。

この世界では狭い自分の枠からは納得出来ないことがたくさん生じます。
その時、納得を求めることが執着や不満、現実逃避に繋がり意欲を奪っていくのです。
だから常に自分の納得したい心を超え続けていくことが大切です。
そしてこの世界をただただ探究し、そしてただただ感じて味わっていくのです。
その先に真実が浮かび上がり、それは時と共に変化し続けます。

僕と世界は一つ。

時と共に変化し続けています。

宇宙と一緒に未知な道を旅していきます。

朝の富士山です。その姿は毎日変化し続けています。








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