出会うことをいただいていく。

私たちが「生きている状態」とは、肉体と魂が一体となって生命世界において循環している状態です。それに対して、「死ぬ」ということは、肉体と魂が分かれ、肉体は生態系の構成要素として3次元宇宙の中に、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙に還っていくことです。

このように捉えると、肉体は死を境に消滅してしまうわけではありません。人間や動物、植物といった、ひとつの生命としての一時的な姿が終わるに過ぎないのです。常に変わり続けるもの、それが3次元生命の姿です。

これに対して、3次元生命を生命として束ねているものが魂・霊性です。私たちは魂と肉体の分離を死と呼びますが、それは終わりであると同時に始まりでもあるのです。死によって肉体は生命としての循環の仕組みから解き放たれ、原子の単位となってこの世界へ散らばっていきます。一方、魂は新たな次元において次の旅の準備を始めるのです。


「死生観」という表現は、死を生の側からの視点だけで捉えた言葉であると言えます。しかし、生死を超えた視点から死を捉えると、死生観というように、生の奥に生を支える魂の世界が連綿と続いていることになります。つまり私たちの本来の姿は魂、霊性であり、いわゆる「死後の世界」こそが本来の居場所であることになるのです。つまり、私たちは生死を繰り返すことによって学び、本来のあるべき立ち位置に目覚めていくのです。ですから死とは、その学びの大切な節目なのです。



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魂は生まれてきて自分に相応しい肉体と出会います。そして、両親に出会い、身内に出会い、友や仲間と出会って行きます。その中で感情が育まれていきます。すべては相応しく与えられる出会いであり、その出会いを通して魂は自分を知っていきます。

僕たちの本来の姿は魂です。肉体や感情は相応しく与えられるものであり、それを通して自分を知る材料であり、だからこそコントロールすることが出来、その変化を通して魂も変化していくのです。

この視点に気づいた時、魂はすべての出来事から離れ、自由となり∞(無限)の可能性へと開かれていきます。∞(無限)の世界の中で魂を成長させていく。それが心磨きです。

この視点は完全にニュートラル(中立・中庸)なものです。なぜなら魂の世界は人間社会の善悪や価値観を完全に超えた世界だからです。それらを超えた価値、あらゆる価値観を超えたニュートラルな価値があり、それを積み上げていく。それが魂の成長であり、心磨きです。

僕は今、こんなふうに感じています。

魂の成長。それはこの世界の本質に気付き、自由になっていくことであり、自らの思惑から解放されていくことです。それは今まで自分が身に着けてきた反応パターンのそぎ落としです。一つのパターンがそぎ落とされた時、自分自身の感情、そして出会う現実が変わっていきます。どんなふうに変わるかは変わってみなければ分かりません。だから、これは思惑を超えた世界であり、変化は自ずから起きるもの、変化を起こすのではなく、変化をいただく生き方なのです。

ところで、今年の7月、参議院選挙が行われましたが、その結果を受けていさどんは以下のように語っています。

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今回の参院選では、投票者数を上げるために、18歳以上の若者たちにも選挙権が与えられた。投票前はそれが希望ある話のように捉えられていたが、結果として、まだそこまでの社会的意識が育っていない者たちに何を持って投票意欲を起こさせたのかと言ったら、損得勘定だ。

人間は損得勘定を持つと、意欲が生まれる。本来、意欲というのは、生命力から生まれてこなければならない。それは損得勘定とは違い、自らがこの世界に生まれてきて役割を果たすことの意味が見つかった時に湧き出してくるものだ。
最終的には、自らの生命を完全燃焼させ魂の成長が成された時に、本来の生命としての目的が達成されたかどうかという意味での損得勘定はあるが、生きている間の学びの材料である一つひとつの出来事に囚われて損得勘定をしているようなことでは、人間の創る社会が本来の目的を現せないのは当たり前のことだ。
しかし、欲望の漬物のようになってしまっている今の社会では、損得勘定ですべてが進んでいくのも仕方がない。そうすると、損得勘定が人々の意識の元にあり、その上に社会ができるという非常に貧しい世界ができる。

これは極めて重要なところを突いているのだが、さて、損得勘定が巨大に膨らんでしまった今の世の中で、人々はどこまでその損得勘定の魔の手から離れて目覚めることができるだろうか。現代の人々は、ものの本質を観ようとするのではなく、損得勘定だけで結論を出そうとしている。国民は経済成長を支持したと言うが、そもそも経済とは何であるのかという実態がわかっていない。支持をされる側も、これを言ったら支持されるだろうということが当たっただけのことで、やはり実態がわかっていない。


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損得勘定から生まれる意欲。それは例えば、評価や結果を求める心となって現れますが、何かを目的にし、それに向って努力をする時、その分、自分の中に偏りが生まれます。目指すものの価値が大きくなり、ニュートラルではなくなります。そして、思惑が育っていきます。例えば、世界平和など崇高な目標であったとしても、それが損得勘定から生まれていたら、偏りが生じ思惑が育っていきます。その結果が今の社会です。

多くの人が世界平和を求めながらも、そこにはそれぞれの思惑があります。そのためそれは自分都合の平和となり、相容れない意見とは対立することとなります。対立は時に争いや格差に発展し、戦争や紛争、抑圧やそれに対するテロとなって顕れています。

安全保障関連法案に基づき、南スーダンでの自衛隊による駆け付け警護が閣議決定しましたが、そこにも政府の思惑が働いています。そのため相容れない意見との対立が生まれているのです。

多くの人が平和な世界を築こうと努力した結果が今の社会です。どんなに崇高な想いを持っていても、思惑や損得勘定に染まってしまうと偏りが生じ対立に繋がります。思惑や損得勘定を超えること。それが今、人々に求められることであり、これは精神革命です。それは何かを生み出す努力から、すべてをいただく姿勢への変化であり、その結果、世界平和、すべてが調和した社会が訪れます。

いさどんの言う通り、今の社会は損得勘定に染まっています。ニュースを見ても、日本の利益は?私たちの暮らしへの影響は?という感じでその奥には損得勘定があります。国と国との関係も損得勘定により繋がり、決別します。そんな中、上記のような視点で語ってもなかなか理解されないこともあります。そしてお互いの話が平行線となっていきます。そのような時に必要な心構えは?最後にその答えとなるいさどんの言葉を紹介します。

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ある価値観が広まるということは、その時代を生きる多くの人々が、その意識にならなければいけません。たとえその価値観が、大局から捉えれば重要なものであったとしても、それが世の中の主流になるかどうかはまた別の話なのです。
世界を大局で捉えず人智で捉えている人々にとっては、その人智で進めようとしていることが主流になるためには、革命や社会変革運動のように努力して勝ち取らなければならないかのように思えることでしょう。しかし大局で捉えている者にとっては、社会変革は時代の変遷であり、流れなのです。ですから、ただただ今行き着いた精神を日々の中で実践しながら、時が来るのを待つのが、大局で世界を捉えている者の姿勢なのです。

そういった大局的な視点で世界を捉える者たちが現れたということは、次の時代が訪れる予告でもあります。なぜなら社会の動きは時代によって生み出されているからです。ですからあなたの存在が時代の流れと共にあるならば、自らの存在に自信を持ち、信念に基づいた行動をやり続けていけば、息が切れるほど長い時を待たなくとも、現実化することでしょう。それが天意であるならば、何も焦る必要はないのです。

そして天と共にあるかどうかは、行動の結果もたらされる現象が教えてくれます。だからこそ、日常の中で出会う出来事を通して、自らの立ち位置を認識することが求められます。


時の流れを感じ、時代の大局と共にある人々の勇気を讃え、エールを送ります。



今朝の朝日です。太陽も地球も常に宇宙の中を新しいところを進み続けています。

すべてを生かしていく

パリ同時多発テロから1年が経ちました。当時、僕はこの事件からは大きな衝撃を受けました。そして、以下、3つのブログを書いています。

 客観性に基づく大いなる循環の中で祈りを捧げる

 永遠の相の下にプロセスとして見ていく

 みんな神さまでみんな好き

それぞれざっと読み返した時に、いさどんブログ21世紀のいのちの捉え方」から引用した以下の言葉が心に残りました。

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死を迎えることは、人生の区切りをつけ、次のステージに行くことでもあるのですから、亡くなった人を見送る人たちは、死者に対して、「こうだったらよかった」「ああだったらよかった」と考えるだけでも、その人が次のステージに行くための後ろ髪を引くことになるのです。
生死の流れからすると、亡くなった人たちは必ず次へ行かなければいけないのです。ですから、そこでは未練を持つのではなく、その人との出会いから感情を入れずに学ぶことが大切なのです。学ぶことがその人の死を生かすことになるのです。

生きている者からすると、その人の生き様を見せてもらったのですから、「あの人はこう生きてこのような結果を迎えたのだから、自分はこのように生きていこう」と自らの生き方につなげ、学ぶことが、人の死を生かすことになるのです。どんな人の生き様であっても、それが殺人者であろうが、自殺した人でも、一つ一つの事例として残された人に見せてくれているのです。

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この文章は原文ではさらに以下のように続きます。

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よくある話として、余命3ヶ月と宣告されると、「どのようにその期間を過ごしたらいいのでしょうか?」という質問をご家族から受けることがあります。その時に僕が答えるのは、その人が亡くなっても、その人の生き様(人生経験)は残った人たちの中に生かせるということです。ですから、生きている間にその人を観察し、なぜ今のような状態になっているのかを理解した時に、その人の人生を自分も生きたと捉えることができるのです。
わたしたちは自分ひとり分の人生を歩んでいますが、縁の近い人の生き様は身近で赤裸々に見せてもらっているのですから、それを自分も経験したと同じように捉えることができるのです。ですから、そこから学び、自分のこれからの人生に生かすと、死は世代を超えて生き続けることになるのです。
さらに、亡くなった本人自身の学びが不十分だったとしても、残った人たちがその人の生き様から学び、生かしてくれたということになると、本人から悔やみがなくなって次への旅立ちの手助けにもなるのです。
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縁の近い人と言えば、僕は父からは沢山の影響を受けています。「父の課題=僕の課題」と思って受け継いだ性質と向き合っていた時期もあります。(そのことについては「あなた未熟もみんなに役立つ」をお読みください)。父はまだ亡くなってはいませんが、身近な人として赤裸々にその人間性を見せてくれたとても大切な存在であり、父の人生は僕の人生であり、そこからの学びは今の僕に生きています。

僕に強い執着を持っていた父にとって僕が愛を持って離れた場所で暮らすことは父の業(カルマ)の解消に繋がります。事実、僕への執着から自由となった父は穏やかに暮らしています。それは母にとっても同様で、僕がこの場で心を磨くことは親族の業(カルマ)の解消にも繋がっていくのです。だからこそ、僕は父から受け継いだ特徴から自由であり続ける必要があります。

身近な人々がその生き方から人間というものを赤裸々に見せてくれるように、世界中で起きている出来事もその状況に応じた人間というものを見せてくれています。パリ同時多発テロ、そして、その後のフランスによるシリアへの攻撃、それらは人類の歴史の中で起きていて、人類全体の業(カルマ)となっています。それらは痛ましい出来事ですが、僕ら一人ひとりがそれをしっかり認識し、そこから人間というものを学ぶことで悲劇は生かされていきます。

何でも生かしていくことが大切で、そのためには繋がりを見出す必要があります。様々な出来事の奥にある繋がり、人と人、人と自然との繋がり。生と死との繋がり。そこを意識し行動した時、すべての出来事は生かされていくのです。

ですが今、世界は分断の極みにあります。それは人々が表面的な出来事や目先の損得に心を奪われているからであり、そのため立場が変われば意見が変わるバラバラの世の中となっているのです。テロや紛争はそんな人々の姿勢の延長で生まれています。

一人ひとりの人間はこの世界の中で様々な立場をとり暮らしています。そしてその立場からこの世界に関わり、善悪の判断をし、何かを求めます。ですが、それは一つの立場からの視点に過ぎず、他の視点を生かすことが出来ません。それを絶対視していると他者と分かり合えず対立や分断に発展していきます。

だからまず人は自らの価値判断を手放す必要があるのです。そして、「自分が・・・」という意識を超えて、すべての出来事をいただく心を育んでいきます。その先に人類の未来が開かれるはずなのです。

それは生命力が切り拓く未来です。生命力についていさどんは「この世界の仕組みに気付き自らの使命に目覚めた時、自然と湧き上がるもの」と表現しています。人はとかく評価を気にしたり、目先の損得を考えますが、その思考の奥には本当の自分がいて、それは世界に生かされ世界と一つなのです。世界と一つ。起きる出来事はすべて自分の顕れ。その心ですべての存在と繋がることですべての出来事は生かされていきます。

だから僕はそんなふうに生きていきます(^-^)


木の花の子どもたち。あっと言う間に集まりみんなで生かしあっています。


全幅の信頼をよせて出発(たびだって)いく。

最新の木の花ファミリーブログには出発(たびだち)プロジェクトのことが掲載されています。ここで言う「出発(たびだち)」とは「死」のことであり、みんなで死生観を深め、共通のものを育むためにアンケートを行っています。そのアンケート冒頭の文章をここでもシェアしておきます。

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私たちは「死」を人生の終わりではなく、新たな旅の始まりととらえています。それは今世の最終章としての卒業式であり、送る側と送られる側が生死の壁を超えた共通の認識を持つセレモニーなのです。

そのため、いわゆる葬式を「出発式(たびだちしき)」と捉え、葬送の儀は「出発人(たびだちびと)」との出会いを通して人生を振り返り、人生の最終章を迎えた者を祝福し見送るものと考えています。

私たちが「生きている状態」とは、肉体と魂が一体となって生命世界において循環している状態です。それに対して、「死ぬ」ということは、肉体と魂が分かれ、肉体は生態系の構成要素として3次元宇宙の中に、魂はそれぞれに相応しい異次元宇宙に還っていくことです。

このように捉えると、肉体は死を境に消滅してしまうわけではありません。人間や動物、植物といった、ひとつの生命としての一時的な姿が終わるに過ぎないのです。常に変わり続けるもの、それが3次元生命の姿です。

これに対して、3次元生命を生命として束ねているものが魂・霊性です。私たちは魂と肉体の分離を死と呼びますが、それは終わりであると同時に始まりでもあるのです。死によって肉体は生命としての循環の仕組みから解き放たれ、原子の単位となってこの世界へ散らばっていきます。一方、魂は新たな次元において次の旅の準備を始めるのです。

「死生観」という表現は、死を生の側からの視点だけで捉えた言葉であると言えます。しかし、生死を超えた視点から死を捉えると、死生観というように、生の奥に生を支える魂の世界が連綿と続いていることになります。つまり私たちの本来の姿は魂、霊性であり、いわゆる「死後の世界」こそが本来の居場所であることになるのです。つまり、私たちは生死を繰り返すことによって学び、本来のあるべき立ち位置に目覚めていくのです。ですから死とは、その学びの大切な節目なのです。

しかし今の社会において、死生観という概念は一人一人違うものです。人それぞれが持っているその人の価値観によって、生きることも死ぬこともその受け取り方が違ってくるわけですから、人の数ほどあることが当然なのです。


そこでアンケートによって個々の意識を確認し、私たちの死生観に対する認識を共通のものとし、ファミリーとしての出発式の様式に反映させたいと思っています。

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出発(たびだち)に関するアンケートは2013年に一度実施しているのですが、その時は個人の気持ちに焦点を当てたものとなっていました。一人ひとりの想いを尊重する。それは今の価値基準では当然に思えるかもしれませんが、それ以上の親しさや豊かさ、深みのある世界があるのです。昨年の12月、いさどんは「出発(たびだち)」について以下のように語っています。

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全幅の信頼があればいい。それはなんでこの生活しているかを突き詰めていけば、そこに行きつく。充分にそこまでいきついていないといろいろな意思表示がでてくる。でもそれが現状ならば、それを踏まえる必要がある。それを共通の目的と照らし合わせる、そしてそれと社会との整合性。ここには社会に対する責任もある。個人の意思木の花全体の目的。その3つを表現していく必要がある。
個人が自分だけのことを考えたら、私が死ぬときは・・・・という発想になる。でも逆に言うと、あなたが自分のことを考えるよりも僕はあなたのことを考えている。そして全体も。ならば、あなたはあなたのことを考える必要があるの?

出発(たびだつ)ときの位置。それを少しでも高くしたい。日頃から自分の発想の元の心を見ることでそのチェックをする。それが自分を高めることになる。

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木の花全体の目的とは、宇宙の意思をこの世界に顕すことです。それは「時代人」としての生き方です。それは個人的な願望や思惑を超え、流れをいただく生き方です。ですが、実際の個人がそこに至っていない場合、それを踏まえる必要があります。一人ひとり、自分の想いを正直に語ることで、それを手放していくのです。それが僕ら木の花ファミリーの日常です。

そして社会です。今の社会はまだ個人の願望や権利を尊重する中で成り立っています。その結果、表面的な違いが際立ち、分断や対立が生まれ混乱が極みに達しています。そんな社会のルールや現状を踏まえ、その中に宇宙に意思を顕していく必要があります。だから僕たちは社会との繋がりを大切に暮らしています。アメリカ大統領選や日印原子力協定、TPPなどの世界情勢を意識し、出会う人々との交流から今の社会を感じ、人間についての学びを深め、その奥にあるこの宇宙の本質を知っていくのです。

これが僕らの日常、そして出発(たびだち)はその延長にあります。「死」という現実に向き合うことで生じる個人的な想い。それを表現し手放すことで、常に変化し続ける生死の本質へと至り、目覚めていくのです。それをみんなで祝い、そこから学ぶことで、今の社会の中で生死の本質を示していく。出発(たびだち)式はそのような場となっていくのだと思います。それは「死」を恐れ「生」に執着することで混乱が生じている今の社会の中で希望の光となっていくことでしょう。

きっと僕らはそんなふうに生きて、そして出発(たびだって)いくのです。

そんな僕らの生き方が凝縮された祭りが富士浅間木の花祭り次回は2017年1月28日に開催されます。艮の金神の復活、生まれ清まり舞い踊る、うれしたのしの地球のお祭りです。是非、一緒に踊りましょう♪


木の花祭りの登場する金神さまです。



時代がトランプ大統領を生み出した



わたしたちは、「時代人」です。つまり、時間という共通した乗り物に乗って旅する旅人です。この時間という乗り物には地球も乗っています。この世界に存在するものはすべて、時間に乗って旅しています。そして物理的にも、地球は宇宙を旅しているのです。

なぜ、時間は進んでいくのでしょうか。それは、一秒、一分、一時間、一日、一年と人間が時間の基準をつくり、時間を認識しているからです。それは人間社会だけの話のようですが、実はこの世界はサイクルのもとに成り立っています。そのサイクルは、一秒、一分、一時間、一日、一年と人間が便宜上区切っただけではありません。一日は地球の一自転であり、一年は地球の一公転です。春・夏・秋・冬の四季のサイクルの中で植物は芽吹き、栄え、種を残し、しばらく冬眠した後、また春に芽吹いてきます。その繰り返しによって時間が刻まれていくのです。ですから、これは人間がつくったものではありません。そして、人間以外のそういった仕組みを認識しないものもすべて、そのサイクルの中にあるのです。

その大いなるサイクルの中で今、わたしたちは歴史的な転換期を迎えています。皆さんもそのような時代の移り変わりに気付き始めているからこそ、今、このメッセージに出会っているのでしょう。地球環境や世界情勢は今、混乱の極みを迎えています。しかし、時代は常に未来へ向かって進み続けていますから、この混乱もいずれ収まり、この延長線上に世界が進み続けていくことはないでしょう。それは、目先のことや自らの欲望におぼれず、ひとつの物語として時代を読み解いていくことができれば、今の延長にある流れがいずれ行き詰まることは明らかなことが観えてきます。その証として、今、世界中では人類史上稀に見る危機を迎え、わたしたちが自らの姿勢を転換する必要があることを時代が教えてくれています。

そこで、わたしたちはこれからの時代をどのように生きていくべきなのでしょうか。

「時代が生命であり、時代が意志を持って、時代を紡いでいる。」

21世紀は「時代主義」の始まりです。「時代主義」を生きる人々は、自らの願望に翻弄されることなく、世界を自由自在に生きることができる宇宙の旅人(時代人)です。

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上記の文章はいさどんブログ「わたしたちは時代人(じだいびと)です」からの転載です。そして、同じくいさどんブログ「この世界は時代によって動いている」には以下のような文章が掲載されています。

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この世界は、時代によって動いています。ですから、人間が現状に対して問題を感じ、それを改善しようとする必要は本来はないのです。それは人間も含めてすべて、宇宙が世界に現象を引き起こしているからです。

同時に、この世界の現象は人間も含めた物語として紡がれているのですから、本来、わたしたちはそこで何をするべきなのでしょうか。それは、時代の動きや意志を感じ取り、それと連携して生きていくべきなのです。

これまで人々には、「時代が意志を持って動いている」という視点はありませんでした。人々はどこかで、「自分たちが時代を創っている」と思い、画策してきたのです。しかし厳密に言えば、誰一人、時代を動かした者はいないのです。ナポレオンであろうがヒトラーであろうが、キリストであろうが釈迦であろうが、自らの思い通りに生きられた人は誰もいません。なぜならば、世界は常に時代の意志によって運営されているからです。

その意志は思惑を持っていません。常に変化・変容・変態を繰り返し、進化し続ける宇宙の実体が、淡々と世界を紡いでいるだけなのです。

ですから、わたしたちが過去を振り返り、「あの時代はひどい時代だった」と思う必要はありません。それはあくまでも時代のサイクルの中のどこにいたのか、というだけのことなのです。そして今、わたしたちが観ている混乱した時代も、これから真実が明かされていく光の時代からのメッセージでもあるのです。そこでわたしたちは、時代のサイクルにのっとった生き方をすることが求められているのです。そのためには、まずはそのサイクルが観えることが大切です。

そのカラクリが観えている者たちは、今の逆さまの時代を正していく役割も担っていくのですから、たいへんと言えばたいへんです。しかし、時代は自ずとそのように成っていくのですから、その流れに乗ってしまえばたいへんではないとも言えるのです。

そのように進んでいくことが時代の実体であるならば、それを理解し、その流れと共に時代の意志を現象化していくことが、わたしたち地上を生きる者の本来の役割なのです。今、時代はそういった目覚めを人々に求めています。

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アメリカ大統領選は事前の予想に反してトランプ氏の勝利となりました。そして今、そのことに抗議をするデモがアメリカで起きています。自分たちで選んだ大統領を自分たちで拒絶する。アメリカは今、大きな混乱の中にあります。この姿は、今年の6月、国民投票の結果EU離脱を決定した時のイギリスの姿と重なります。いさどんは当時、イギリスのEU離脱について以下のように述べています。

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イギリスがEU離脱を宣言した理由の一つに、雇用の問題がある。豊かな国イギリスにEUという国の垣根を外した制度が入ったことで、イギリスに雇用を求めて貧しい国々の人々が流入し、それによって移民と仕事の内容がバッティングする一部の人たちが職業を奪われたと訴えている。それに対して、EUを離脱すれば5億人の市場を失うことになり、世界の金融センターとしてのイギリスの立場を失うことになると訴えている人たちがいる。
そこで多数決を取った結果、移民によって職を奪われていると主張する労働者階級が人数として勝り、そちらの意見が採択された。どちらの側も、自らの利益のための主張の延長線上にある。そうやって主張していることが自らの心の貧しさを表していることに気付き、振り上げた拳を下ろすということがない。

それでも形だけは民主主義だと言って、多数決の理論で自らの主張に支持を集めようとする。では民主主義が、民衆に正しい世の中をもたらすかというと、そうではないことはこれまでの結果を観れば明らかだ。それは今回の日本の参議院選挙でも、イギリスのEU離脱を問う国民投票でも、同じことが言える。損得勘定がベースの民主主義によって得たものが、後にしこりを生み、損得勘定の議論の上にまた議論が積み重なっていくということを延々と繰り返している。


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ここで描かれているイギリス国内での対立はアメリカを初めとする先進諸国で起きている傾向と言えます。個人の自由や権利を尊重してきた民主主義ですが、人々は目先の利益や表面的な出来事に反応して来ました。そのため、立場が変われば意見が変わり分かり合えなくなっています。世界は様々な立場により分断され対立は激しくなっています。ISを初めとするテロ組織もそのような中から生まれてきたものと言えるでしょう。

目先の利益からの損得勘定。それが今の社会を創っています。多くの人が自ら望んでそのように行動しているのでしょうが、その結果として分断や対立、格差や紛争、テロとなって現れています。この結果を人々は望んでいたのでしょうか?

お釈迦さまやキリストを初めとする多くの聖者が「個」を乗り越えることの大切さを語ってきています。そのような中、現代社会は表面的な「個」の願望を尊重して来ました。その結果、浅いレベルでの「違い」が際立ち、分断が進んできたのです。これは当然の帰結とも言えますが、この流れを生み出したのは「時代」でもあるのです。

太陽系は2012年12月21日、銀河の冬至を迎えました。その前後7年間が銀河の夜明けであり、今、太陽系は光へと向かっています。ですが、冬至は闇のピークであり、それまで時代は闇へと向かっていたのです。世界中で起きている分断や対立はその流れの中にあった出来事です。今、時代は光へと向かっていますが、それはまだ僅かな動きです。今は闇へと向かう中で創り上げた歪みが明るみに出ているところなのです。

トランプ大統領はそのような時代の流れから誕生しました。政治経験や軍人経験のないトランプ氏はしがらみがない分、言いたいことを言って来ましたが、実際の政治の中では様々な立場から圧力を受けるでしょう。それを受け取り超えていく力があれば、アメリカ、そして世界はまとまっていくのでしょうが、それだけの人格と力がトランプ氏にあるようには思えません。様々な矛盾に行き当たり社会は混乱していくのではないかと思います。これは一見困った出来事のように思えますが、古い秩序が完全に壊れることで、新しいものが生まれる兆しと見れば、希望となっていきます。今、時代は光の方へと向かっているのです。

今は変革の時代です。そのような中、個人の浅はかな願望、目先の利益に囚われていたら、時代に翻弄され混乱の中で一喜一憂するようになります。ですが、人間の深みは∞(無限)です。掘り下げていけば、一人ひとりの存在は全宇宙と繋がっていくのです。この視点に立った時、宇宙や地球の動きから時代の流れが見えてきます。そこから「時代人」としての歩みが生まれ、「時代主義」が始まるのです。

一人ひとりの人生は本来、時代という大きな流れと共にあります。そのことに目覚めた時、人は大きな流れの一部を担い現象化していくことが出来ます。それは個人の願いを超えた宇宙の願いの実現です。最後にそんな生き方についてのいさどんの言葉を紹介しますね。逆説的ですが、個人の願いを手放せば手放す程、人は世界に開かれ幸せになれるのだと思います。

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この世界は一体です。すべてのものが時代と共に一体となって動いています。それが宇宙の実相です。そのような意識レベルを有した者が地球上に現れたならば、その響きがこの世界に放たれ、それに共鳴した者たちの行動が少しずつこの世界を変えていきます。そしてさらにそれに共鳴した者が行動することによって、その響きがこの世界に放たれていく――、その連鎖が時代を動かしていきます。その響きがこの世界の混乱を鎮め、人類の営みによって傷つけられてきた地球を包み込み、地球を本来の美しい星へといざなっていくのです。

一人ひとりの目覚めがウエーブとなって連鎖し、地球上を巡っていきます。そこには、音もなく、力もいりません。それは、時が刻まれていくときに、時の音がわたしたちの耳には聞こえないのと同じです。地球が自転し公転するときに、その音が聞こえないのと同じことなのです。ですから、時代が動くときに、その音はわたしたちには聞こえないのです。耳をすませてその音を感じてみてください。そのような人類の目覚めの動きが今、地球上に始まっているのです。

今こそ、わたしたちは自らを自我の枠から解き放ち、この無限なる宇宙の中で自由自在に生きる時が来たのです。わたしたちの中から願望や野心が消えた時、宇宙の真理が湧いてくるようになります。そして、人類が誕生した目的にのっとった最もふさわしいポジションにわたしたちは立てるのです。そういった真理に目覚め悟った者は、時代を読み、流れを感じ、今を生きる「時代人」となるのです。

それが、21世紀初頭にあたり、時代がわたしたち人類に伝えているメッセージです。





∞(無限)に開かれていく

僕はいさどんから以下の言葉を貰っています。

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「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。

☆彡 ☆彡 ☆彡

この時、いさどんは僕について
なかのんが自分の担当以外の事を全然考えていない
とも言っています。

・ 心情的には何か残している。

・ 自分の担当以外のことを全然考えていない。

この2つは同じことを言っているのだと思っています。
心情的に何かを残すとは、自分の心情に囚われ、
そこから自由になっていないということです。
そして、「自分の担当以外のことを全然考えない」ということは、
自分の担当という範囲に囚われ、そこから自由になっていないということです。

どちらもテーマは自分自身の解放です。
自分の心情や自分の担当という枠を超えて、自分自身を表現していく。
いさどんの言葉は僕にはもっとそういうことが出来るというエールなのです。

話しは変わって。

昔、人々は神話と共に生きていました。
彼らの居住空間はそのまま宇宙の表現であり、世界と自分たちが繋がっていました。
移動する範囲や見聞する範囲はごくわずかであったとしても人々は宇宙と繋がっていたのです。

今、テレビや新聞、インターネットを通して世界中から様々な情報が入ってきます。

・ イスラム国が住民をモスルに強制移動させて人間の盾にしている。
・ イエメンで政府軍とフーシ派が衝突。
・ シリア学校空爆 子ども22人死亡。
・ 地中海渡る移民の死者、年初から3,800人に達し、通年ペースで過去最多。

こんなふうに沢山の悲惨なニュースが流れて来ますが、
日本での暮らしとの繋がりを意識している人はごくわずかなのではないでしょうか?

広範囲からの情報が入るようになりましたが、人々は世界との繋がりを失っているのです。

またまた話は変わって。

木の花ファミリーでは毎年立春前に、富士浅間木の花祭りが開催されますが、
そこでは艮の金神さまの神話が表現されています。





以下、金神さまの神話を少しだけ紹介しますね。

☆彡 ☆彡 ☆彡

宇宙の創造神である七代の神々が世に現れ、
そこから個性豊かな八百万(やおよろず)の神々が次々と生まれた神代の時代。
自由気ままに振る舞おうとする八百万の神々に、
地の大神様は世を乱さぬようにと心の掟を厳しく説かれました。
地の大神様は名を国之常立大神(くにのとこたちのおおかみ)といい、
その厳しさ故に八百万の神々から疎まれておりました。

「こう厳しくされてはかなわん。何とかならないものか。」
相談した八百万の神々は、天の大神様のもとへと向かいました。
「どうかあの神様にご退陣頂けるようお願いくださいませ。」
八百万の神々の懇願を受け、天の大神様は国之常立大神にこう伝えました。
「すまないが、一度この世の表から退いてくだされ。
しかし、いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る。
その時再び現れ、この世界を立て直してくだされ。」

それを受けた国之常立大神は、艮(東北)の方角へと退かれ、
それより後「艮の金神(うしとらのこんじん)」と呼ばれるようになりました。
そしてこの方角は「鬼門」として恐れられ、封印されたのです。


それから、長い時が経ちました。
八百万の神々が好き勝手に振る舞った結果、世の中は荒れ放題。
自分さえ良ければ良いという「我よし」、
力あるものが弱いものをねじ伏せる「力よし」の世となり、
まさしく、かつて天の大神様が
「いつか必ず世が立ち行かなくなる時が来る」
と言われた時代が訪れたのです。




☆彡 ☆彡 ☆彡


今、日々流れる悲惨なニュースを見ると、まさに「我よし」「力よし」の世の中と言えます。
それは八百万の神、その影響を受けた人々が好き勝手に振る舞った結果です。

人類は長い間、自らの願いを叶えることを喜びとして来ました。
願いが叶った時、確かに喜びが生まれますが、
すぐに次の願いが生まれ、欲望は際限なく続きます。

結果、社会は混乱の極みにあります。

願いを叶える。

それは自分主体の姿勢であり、関心が自分に集まり、
人々は世界との繋がりを失っていきました。
思い通りに生きているようで、
実は自らを「願い」という狭い世界に閉じ込めているのです。

金神さま、国之常立神は地の大神であり地球そのものです。
金神さまが復活することにより、
人々は主体を自分から地球という大きなものへと移し、
それは宇宙へと繋がっていきます。

すべての生命を生み出し維持している地球。
それは個々人から見たら∞(無限)の大きさを持つものであり、
過去から未来へとすべての存在を繋いでいきます。

その立ち位置で自分というものを表現していく。
それは出会った出来事から
時代が生み出す大いなる物語を読み解き見ていくということです。

その時大切なのはしっかりと心を把握しコントロールしていくことです。
自分を知り把握出来れば、コントロールする可能性が開かれます。

頭ではばかげていると思っても心情的にはリアルなことがあります。
その時、心情に従っていたら、主体が自分となり変化はありませんが、
心情自体を変えていければ自分と現実は変化していきます。

それが変化変容を本質とする地球や宇宙を主体として生きるということです。

だから何より自分と向き合い続けることです。

そして心を創っていくことです。

僕は心にメスを入れ続け、変幻自在にしていきます(^-^)

心が変わればすべてが変わるのです。

それは思い通りになるということではなく、
大いなるものへと自分自身を解放していくということです。

それが富士浅間木の花祭りを毎年開催している意味であり、
冒頭のいさどんの言葉に含まれている僕へのエールなのです。


ちなみに一昨日の29日、木の花ファミリーでは誕生日会が開かれ、
そこで子どもたちが富士浅間木の花祭りの演目を披露してくれました。
とっても可愛らしかったです(^-^)


富士浅間木の花祭りの演目「花の舞・やち」です







目指す世界を実現するために何も目指さない

「なかのんのブログに書いている事は仕上がってきてはいるが、
実際の心情についてはまだ仕上がっていない」という事でもある。
微妙な所だけど、ブログには「僕にはこの道しかない」となかのんは宣言している。
心情的には何かが残っているんだけど
「僕にはこの道しかないから、辛くても行きます」
というような事になると、目指すものと違う。
目指す所は、「人間を磨いていくと磨くことによって次の次元、
高い意識になって自ずと新しい現象に出会う、
自ずと過去に自分が思ってた事が叶うという事がある」という話だよ。
それは、目指していく事でもなければ、
それが尊い事だからといって我慢していくという事でもない。
それでは目指す所と違う世界になってしまう。

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これは数日前のいさどんの言葉で、僕は心に留めて日々を送っています。

僕は昨日、社労士をしている女性から話を聴く事がありました。
彼女は人事・労務管理の重要性、職場環境を整える重要性を一生懸命に話していました。
そして、こんなエピソードを話して自慢げになっていました。

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契約を結んでいる会社で出社出来なくなっている若い子がいて、
私は個人的にその子をランチに誘ってあげたの。
それも3回。私がランチをおごるのだから2,000円は下らない。
例えば、2,000円のイタリアンのコースにおまけにデザートをつけてあげたりしたの。
そしたらね、その子はまた会社に行ってみようという気になっているの。

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話しを聴きながら、これは良いことなのだろうか?と疑問に思いました。
出会う出来事はその人の人間性の現れであり、
出社出来なくなるからにはそれだけの理由があるはずなのです。
出会った出来事を通して自分を見る機会となるはずなのに、
ご馳走になって元気になるだけなら自分を見る貴重な機会を失うことになります。
結局また同じ状態に陥るだけなのではないかと思いました。

社労士は法律に則り職場環境の改善など、
一人ひとりが働きやすい場創りを考えているのでしょうが、
その視点はどうしても一面的になるのではないかと思いました。

例えば、今の経済システムは地球環境には大きな負荷を掛けています。
そういうことも踏まえて、労働というものを考えていく必要があると思うのですが、
そのような視点はなかなか持てないのではないかと思います。

自分の専門の視点から状況を眺め改善に努めていきます。
それはある部分から観たら改善しているのでしょうが、
全体から観たらそうとは言えないのかもしれません。

先に紹介した社労士の女性は自分が良いことをしていると思っています。
そして自慢げになっています。
ですが、その行動が社会にもたらすものは本当に良いことなのでしょうか?

今の社会は混乱し様々な問題が山積みになっています。

それは人々の思惑が絡み合い出来上がった世界です。
それが正義であろうが善意であろうが、
思惑から結果に対する所有や執着が生まれ、不満や対立が生まれていくのです。

世界をよくしようと思ったとしても、思惑を手放せなければ、
社会の混乱を助長するだけです。

自分ではなく出来事を主役にする。

そんな姿勢が大切なのだと思いました。

自分の意図で何かを生み出そうとするのではなく、
出会う出来事を通して自分を知っていく。
そして出来事の奥に流れる天意を感じていくのです。
そこに生まれる物語は自分だけのものではなく、
出来事を共有するみんなの物語となっていきます。

出来事を主役にすることで、人々が繋がっていきます。
そして、それは過去から現代、そして未来へと繋がっていきます。

ここで冒頭のいさどんの言葉です。

僕らは目指す世界を実現するために何も目指さないのです。
なぜなら何かを目指すことで思惑となるから。
心情的に何かが残っているならば、ただ淡々とそれを見つめ整理するだけです。
そして世界と出会っていく。

主役はこの世界であり、出会う出来事すべて。

僕はその物語の一部です。

僕が出来事を共有している木の花ファミリーのみんなです。

「ここは何だろう・・・あれ?!」という世界

3ヶ月程前、いさどんはこんな言葉を語りました。

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昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。
そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。
それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。


僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

※潜象界とはカタカムナの用語です。
 カタカムナについて1ヶ月間の真学校「4日目カタカムナ」を参照して下さい。

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このとっても不思議でどこか魅力的な言葉を聴いて、
僕は以下のようにいさどんの心を感じ、表現してみました。

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※青字がいさどんの言葉、黒字がそれに対する僕が感じた表現です。

昔、その不可思議な異次元空間が当たり前に身近にあるけれど、
あまりにも身近にありすぎて、
あることが気付かないようなところにあった。

自我を持った人間は、自分の実態から離れ、
幻想の世界で暮らすようになりました。
自我は土台がなく孤立しています。
そのため他人からの承認や評価を必要とするのです。
評価を得て、承認をされることで自分の存在を維持しているのです。

そんな自我の奥には「自分の実態(実体)」が存在しています。

この世界に存在するものはすべて循環の仕組みの中で存在しています。
生き物が生き物を支えることで成り立つ生態系。
そこに存在するものはすべて一つなのです。
自我の奥に存在する「自分の実体(実態)」も
この世界の循環の中で存在しています。
つまり、それはすべての存在と繋がり、
宇宙の法則の下に存在しているのです。

全存在と繋がる「自分の実態(実体)」は、
自我の想像を超える体験をもたらします。
それは自我にとって不可思議な異次元空間のような存在です。
そして、常に自我の一番近いところに存在し続けています。
ですが、自我は幻想の世界に埋没しているため
その存在に気づくことがないのです。

そこに現れるその異次元空間が、新たな時代を創っていく。
それは潜象界のようだ。

人類は長いこと各々の自我の幻想の中で暮らしていました。
一人一人の幻想から共通項を抜き出し共通の幻想を創り上げ、
実態の存在を忘れてきました。
人類は実態を無視した幻想の中で一喜一憂し、毎日の糧を得ていました。
それは各々の欲望を際限なく追及する姿勢に繋がりました。
今、その暮らしが限界を迎えようとしています。
実態を無視し、際限なく己の欲を追求した自我の振る舞いは、
この世界を蝕んできたのです。

自然災害や環境破壊、テロリズムや紛争、貧困、経済格差など。

今起きている様々な問題は社会が生き詰まりを迎えているサインなのです。

今、一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいていく必要があります。
その時、自我の想像を超えた異次元空間が開かれ、
新しい時代が創られていくのです。

今までの社会は物質循環のみで営まれ、天然循環はしていませんでした。
そのため物質のエネルギーは枯渇し、環境破壊が進んでいるのです。
一人ひとりが「自分の実態(実体)」に気づいた時、
天への扉が開かれ、エネルギーは潜象界に返り、天然循環が始まります。
天然循環する暮らしはこの世界に新鮮なエネルギーをもたらします。
そのエネルギーは想像を超えた出来事を人類にもたらし、
今ある問題はすべて解決されるでしょう。

「難しいことを与えておるゆえ、心してゆけ。」
ここまでそれがわかってくると、難しいことの意味がまったく違ってくる。
それは難しいだろう、それはわからないだろう、という話にもなる。

難しいにもいろいろな意味があります。
自分がこの道を貫くことの難しさ。
この道の大切さを世の中に伝えることの難しさ。
どちらも難しいです。
今、この道の大切さは僕の中では明確となり、他に道はありません。
今や、僕がこの道を貫くことは当然のことなのです。
ですが、分かれば分かるほど、
この道は今の社会の常識とは大きな隔たりがあります。
それを人々に伝えることを考えると、
それは難しいだろう、それは分からないだろう、
とそんなふうに思えてくるのです。

それは、「難しいからやっていくぞ!」というものではない。
ともこのように気合を入れて宣言してやるようなものではない。

先にも伝えた通り、僕にとってこの道は明確であり、
もう他には道がありません。
今や「もう他に道はない」という言葉すら必要がなくなっています。
「もう他に道がない」と表現することは、
他の道に対して、それは違うと否定する意味合いも含まれます。
そこには力も入ります。
ですが、もう自分の視野には一本の道しかないのです。
だから、わざわざ「他に道はない」と表明する必要はないのです。
ただ淡々と歩むことであり、気合は必要としないのです。

僕はただ、
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という場を創りたいのだが、皆は何もわかっていない。

みんなが「自分の実態(実体)」に向き合うと、
異次元空間への扉がここかしこに開かれます。
もうそれは自我からしたらわけの分からない世界であり、
大いなる存在へと繋がる世界です。
そんな世界をここに表現した時、訪問者の自我は弱まり
「ここは何だろう・・・あれ?!・・・ここはどこ?・・・」
という体験をします。
この空間自体が訪問者へ
「実態(実体)=異次元空間」への旅を促すようになるのです。

僕はそんな場を創りたいのです。

だけれども、みんなは相変わらず自我に翻弄され続けています。
みんな、自我の下、自分の想定内の毎日を送っています。
そんな暮らしは面白味がありません。
僕はそんな生活には1日だって耐えることは出来ません。
ですが、みんなは平気な顔でそんな毎日を送っています。
それはこの暮らしの価値が分かっていないということなのです。

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まず自分の幸せがあり、その後に他人のことを考える。
それが今の世界の価値観なのではないでしょうか?
多くの人が自我の願望を満たすことを考えていて、
それと現実との間に矛盾が生じた時に調整を加えていきます。
あくまで自我を基準に世界を見て体験しているわけですが、
自我の奥には「思い通りにしたい」心があるのです。

今年のノーベル平和賞にはコロンビアのサントス大統領が選ばれました。
この話題が昨日のNHKニュース深読みに取り上げられ、
番組紹介には以下のように書かれています。

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今年のノーベル平和賞に、南米・コロンビアのサントス大統領が選ばれました。
半世紀にわたり反政府ゲリラ組織との内戦が続き
20万以上の命が失われたコロンビアで、
粘り強く“対話”を続け、
先月和平案の合意にこぎつけたことが評価されました。
この“対話による解決”は、
世界で続く紛争やテロを終結するヒントになると期待されています。
世界の平和を築くためにいま必要なことはなにか?
ノーベル平和賞をきっかけに考えます。

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そして昨年のノーベル平和賞はチュニジア国民対話カルテットであり、
そこでも対話の重要性が強調されました。

※国民対話カルテットについては、六辻さんのブログ
 「チュニジア「国民対話カルテット」のノーベル賞受賞-その軌跡と意味
 がとても参考になりますが、そこにはこんな表現があります。

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選挙や民主主義は、国民の要望を取りまとめるという「統合」の側面があります。
しかし、その一方で、個人や各勢力が自らの意見や利益を表面化し、
競合することにより、そこには宿命的に「分裂」の側面もあります。
民主政で名高い古代ギリシャで、市民権が拡大するにつれ、
富者と貧者の間の階級間闘争が激化し、
最終的に専制君主国家のマケドニアがギリシャ世界を併呑したことは、
民主主義がもたらす社会の分裂の危うさを現代に伝えるものです。

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各自の意見や利益が表面化することで「分裂」していく。
それは現代の民主主義が直面している課題です。
それをいかに「統合」の方へと進めていくか?
そのために対話が重要となるのですが、
それが功を奏するにはそれぞれが自分の立場を超える必要があります。

チュニジアが問題を抱えつつも民主化に成功しているのは、
平和という大きな目的のために、
それぞれの団体が自分の立場を超える努力をし続けているからでしょう。

その一方で、コロンビアの和平案は国民投票により否決されました。
和平案の成立を阻んだのは、それぞれの立場のこだわりなのではないでしょうか?

多様性が分断ではなく統合に進むためには、
一人ひとりが大いなる流れに従う必要があります。

一人ひとり多様な個性を持つ人間ですが、
みんな宇宙、そして太陽や地球に生かされて存在しています。
そのことは共通していて、そこには一つの大いなる流れが存在しています。

自我を離れ、その流れに意識を向けた時、
自分の想像を超えた世界が展開し、流れが人々を一つに繋げていきます。

それが「ここは何だろう・・・あれ?!」という世界であり、
僕らは未熟ながらも日々そこへと意識を向けています。

昨日、開催された恵みいただきます&ロータスカフェは、
そんな僕らの日々の実践から生まれたもので、
「ここは何だろう・・・あれ?!」という世界の一つです。

その様子を写真でお伝えしますね。

お客様に提供した料理です。内容は下の絵を参照して下さい。




会場は様々なで彩られていました。



売店で元気に活躍するえいこばあちゃんです。

当日のスタッフの写真です。全員ではありませんが・・・

まずは大いなる流れを意識して対話をする。
その先には対話もいらない阿吽(あうん)の世界が開かれます。
そんな暮らしを実現し、その幸せが世界に広がるように。
一人ひとりが自らの自我を乗り越えていく。

木の花ファミリーの暮らしはそんな暮らしです(^-^)

現在の価値観の中、それを人々に伝えるのは難しいのかもしれませんが・・・
大切なことはきっと伝わっていきます。
伝えるではなく、伝わる。
そういう気持ちで日々を大切に生きています。


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