一喜一憂している自分を離れて世界を見る。

富士山と太陽です(^-^)


2019年6月22日0時54分、夏至です。

天体の動きを見ると、今回の夏至で銀河の夜明け(2009年夏至から2016年夏至)から3年が経過することになります。銀河の夜明けが持つ意味について、天下泰平ブログ・第1話「宇宙時間」には、以下のように書かれています。

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 新たな時代への潮流の中で大切なことは、(それが一番良い方法だと信じて)全てを自分でやろうとするあり方(誤解)から自分自身を解き放つことだ。自分が望む結果よりも、遥かに偉大な結果へと天が導いてくれるということを信じて委ねられるか。それは、また宇宙時間への回帰の大切さを意味している。』


 ~ 中略 ~

宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。


無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。


『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』


競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。


統合の時代へとシフトする今このとき、宇宙時間の中で、自分の輝きを、自分の中心で、真の女性性を取り戻しながら神の子として蘇る。天と自分の魂との約束を果たす時が今まさにやって来たのです。


自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった


『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』


そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。

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銀河の夜明けを超えて、天体の動きは光、統合へと向っていますが、現実世界は混沌の度合いを増しています。5月26日に北海道佐呂間で39.5度という高温を記憶し、28日には川崎市で、18人が負傷し、加害者を含めた3人が亡くなった痛ましい事件も起きました。この時間は社会に大きな衝撃を与えましたが、事件の数日後、ジイジは子どもたちに以下のように語っています。

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発音が曖昧ということは、言葉が曖昧ということです。言葉が曖昧ということは、意味が曖昧ということです。意味が曖昧ということは、コミュニケーションが曖昧だということです。そうすると、自分の思うことも相手に伝わらず、相手の言うこともわからないまま適当に解釈することになって、曖昧な人間関係をつくることになっていくのです。そのように意識しないうちにすべてのことを曖昧にしていくと、やっていいことと悪いことも曖昧になります。そして、自分の行動に矛盾が発生してもそれをいいとも悪いともはっきりさせないまま、ただ都合のいい豊かさだけを追い求めていくからその豊かさも曖昧になります。そういった一人ひとりの小さな行いを曖昧にしていった結果、地球上にたくさんの矛盾が積み重なっていったのです。そして今、明快な災害が起きるようになりました。
人間関係も同じです。曖昧なまま進んでお互いのことを本当に理解し合わないうちに、人と人との関係にもたくさんの矛盾が発生し、そういった日々の生活の積み重ねが長い間にストレスとなって溜まっていった結果、ある日爆発して、明快な犯罪を犯すことにもつながるのです。

犯罪が起きる時は、とても明快です。今回の犯人も、積もり積もったストレスの結果、「やってやる!」という明快な意志を持ち、包丁を4本も用意して、手袋をはめ、子どもたちがバス停に並ぶ時間を狙って現場に行き、計画を実行したのです。

 ~ 中略 ~

犯人がどのような人物だったのかということは、まだよくわかりません。ただ、今の時点で報道されている情報によると、子どもの頃に孤独だったといいます。両親が離婚し、お父さんにもお母さんにも引き取られず、伯父さんの家に引き取られて育てられたそうです。

 ~ 中略 ~

きっと彼は、昼も夜もゲームをやって、だらしのない生活をしていたのでしょう。ところが、事件を起こした時にはとても明快でした。「やってやる!」と。そして捕まる前に、自らを刺して自殺しました。どんな人でも、死んでしまえば裁かれることはありません。罪を犯した時の最も重い刑罰は死刑ですが、その刑を自らに課したのです。ですからもう、罪を問われることはありません。
何かがおかしいでしょう?彼は死んでしまったから、行った行いについて、もう問われることがない。しかし本当は、なぜそれが起きたのかを明らかにするべきであり、彼が行ったことは、この社会の中で起きたのです。つまり、こういった事件が起きるような人間関係が、今の世の中にたくさんあるのです。一つひとつのことにけじめがなく、曖昧で、それをそのままにして進んでいく。その結果、人と心が通じない。互いを理解し合えず、誤解し、相手はこうだと思い込み、人間関係が悪くなっていく。まるで、日常生活の中に戦争が起きているようなものです。だからこそ、自分の思うことをいつでも正直に出すことが大切なのです。そして相手の思うこともよく聞いて、互いを理解していくのです。

これから、災害はますます増えていくでしょう。だからこそ、そうやってみんながお互いを理解し、助け合わないと、乗り越えられない時代になるのです。災害のない、平和な時代になってほしいと人々は言います。しかし、日本は今のところ戦争はしていませんが、先日トランプ大統領が日本に来た時に、日本の護衛艦を空母にするということを話していました。空母は戦争の道具です。戦争はしていなくても、戦争のための道具に、たくさんのお金を使っているのです。そして戦争はしていなくても、子どもたちが学校へ行こうとしたら、見知らぬ人に包丁で刺される時代になったのです。そんな社会は、平和な社会とは言えません。

家の中では家族でいがみ合い、ケンカをしている。それは、本当にわかり合うための努力をしていないからです。自分の主張ばかりして、相手のことを理解しない。それも、一つひとつにけじめがないということなのです。そういった世の中全体のあり方が、この事件をつくったのです。



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ものごとを曖昧にすることで矛盾が発生し、それが社会に反映されていく。だからこそ一人ひとりの生きる姿勢が大切になります。そして、なぜものごとを曖昧にしてしまうかと言ったら、自分を良いものだと思いたいからであり、自分のやり方(癖・性分)に染まりきっているからなのだと思います。時は遡り昨年の8月、ジイジはこんなふうに語っています。

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僕が今、考えているのは、人というのは自分を良いものだというふうに見せてカモフラージュしている。だから、正直でないことが染み付いていると、わからないことはこういうふうにしていこう、と見せたいものなのだ。自分の許容範囲の中に収めていきたいものなのだ。ところが、実際の人間というものは、日常親しく付き合っていればボロが出てくる。しかし、いちいちそこで問わない人間関係であれば、そんなことは誰も問わない。穏便にいけばいいから。お互いに自分の許す印象が維持されていれば、それでいいわけだから、それに言及しない。

ところが、それでは生きているという意味からしたら、人間は生きることによってただこの世界に役割を果たしているのではなく、自らのカルマというものを浄化するために生きている。だから、人間の生きる目的からは外れている。それをノーチェックでいって、そこに矛盾やエネルギーがたまっていけば、ぶつかったり、悩んだり、中にはうつ病になるものも出てくる。

そこに対して、その行動を理解して果敢に挑戦する気が自分にあるかどうか。そこをごまかして、自分に挑戦しないで、逃げている。それを自分だけの問題だと思っているのだが、それが世界の空気をつくっていく。

ここで難しいのは、自分の癖・性分というものは捨てるものではないということ。癖・性分というものは直すとか捨てるとか、そういうものではない。癖・性分というものは、有効に生かすというところで、初めて変化をもたらすことができる。そうすると、人は癖・性分を有効活用するというところになかなか行かないものだ。だから、同じことを繰り返す。

そこで、癖・性分を有効活用するにはどうしたらいいのか。まずは出来事を癖・性分で受け取っているのだから、出来事を客観的情報として冷静に分析する力を身につけないといけない。しかし、自分から離れて事象を観ることは難しい。それに一喜一憂している自分に対して、自分から離れて、それを観る。しかし、それは簡単にできるわけがない。一生の問題だから。

そのときに、それが可能になるのは真剣に取り組んでいく姿勢。真剣でも、方向が間違っていたら、同じような滞りが繰り返し起き、そのうちに嫌になって、やる気がなくなり、ダメになるというものも出てくる。一生懸命だったって、ただ一生懸命やっていると、ダメになる一生懸命もある。

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ジイジは駄目になる一生懸命もあると語っていますが、今の混乱した社会も人々が一生懸命に生きてきた結果と言えます。元号が令和に変わった2019年5月1日、ジイジは子どもたちに向けてこんなふうに語っています。

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これからますます、世界中で地球規模の矛盾が現象化していくことでしょう。その矛盾とは、人的矛盾、社会的矛盾、そして環境的矛盾です。
人的矛盾と言うのは、人間一人ひとりが良いと思ってやることが間違いを起こし、世の中を悪くしたことです。そして一人ひとりが自分のことしか考えず、魂としてもレベルの低いものになってしまったということです。良いと思って間違いをやるのは矛盾です。ですから、悪いと思ってやる方がまだましかもしれませんが、それはそれでなお問題です。
社会的矛盾とは、例えば良い世の中を作るためにあるはずの教育が、格差を作っています。人々を健康にするための医療が、お金儲けの手段になっています。裁判所では、たくさん勉強をした優秀な人たちが、自分の利益のために罪のある人を無実にしたり、無実の人に罪を着せたりしています。お金を儲けて豊かになろうとする人たちが、何も生産しない仮想経済金融システムや、裏に隠されて表に出てこないアングラマネーの世界を作り、さらに格差を広げています。それらはすべて社会的矛盾であり、そういった現代にはびこる矛盾は数え上げたら切りがありません。
そして、地球温暖化に代表される環境的矛盾があります。太陽の黒点活動により、地球は今プラスエネルギー過剰になっています。人間が「もっともっと」「たくさん欲しい」というのはプラスでしょう?太陽がそれに応えて、エネルギーをどんどん地球に送り込んでいます。そして地球のマグマのエネルギーが強くなり、火山が噴火するようになります。日本では、地殻変動や火山の噴火が近い将来起こると予想されていますが、そういったことを誰が引き起こしているのかと言えば、人間のこれまでの地球上での生き方が、それを引き起こしているのです。

学校でいじめにあったり、社会に通用せず引きこもりになってしまうのは、子どもの問題のようですが、実はその家のお父さんとお母さんの仲が悪くその影響を受けていたりします。ではその両親の仲がなぜうまくいかないのかと言えば、そのまた両親の関係から来ていたりするのです。そういったことを正しく振り返り、いったいどこに問題があるのかを観て、最終的に自分自身に問題があることに気付き、自分をきれいにしていく。そうすると、そこから初めて自分自身の人生も、自分がこれから生み出すであろう子孫も、社会も良くなっていきます。



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長い間、多くの人々が自分の実態と向き合わず、都合の良い結果を求め続けた結果、一生懸命がこの世界に矛盾を生み出してきました。それは自分のやり方(癖・性分)でものごとを改善しようとしてきた結果で、日々の生活の困難、社会の混乱や災害は今までの生の結果と言えます。だからこそ今の状況を正しく振り返り、それを生み出した自分や社会の実態を知り、きれいにしていくことが大切になります。そのことがものごとを明快にし、場を整え美しくしていくのです。そして、そのためには、ものごとに反応し一喜一憂している自分を離れて、自分や世界を見ていく必要があります。

一喜一憂している自分を離れて世界を見る。

その姿勢が育まれたトキ、癖・性分に染まっていては、認めることが出来なかった本当の自分に出会い、この世界に流れる大いなる天の導きが見えてくることでしょう。

銀河の夜明けを経て、光が差し込む中で浮き彫りになり続ける混乱は、自我の闇の中で盲目だった人々を実態へと誘うエール、認めたくない自分や感じたくない感情と向き合い、その奥にある本当の自分、本当の世界へと至る道なのです。

2019年6月17日のお月様。射手座満月です(^-^)



うそにならないように・・・

今日、2019年5月20日で、僕は木の花ファミリーで丸10年過ごしたことになります。10周年を前にした5月13日、ジイジと話す時間を持った僕は、「自分のことばかり話しているね」というフィードバックを貰いました。

時は遡り、2009年2月16日。学校事務職員として働いていた僕は、こんな文章を書いています。

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人間の心の顕れがすなわち地球の心の顕れ。 
地球は(自然は)調和的であると共に利己的でもある。 
「種の保存」という言葉はそれを表している。 
それぞれが利己的なんだけれども、生態系という大きなバランスの元、

調和が保たれている。 
それが地球。 
人間は意識を持つことにより、そのバランスを超える力を持った。 
だから利己的な面が際立つようになっている。 
でもこれはそもそも地球が持つ一側面。 
地球の意識が利己的な面を増幅させた。 
それが人間の行動に顕れている。 
でも今、地球は成長しようとしている。 
バランスを超えた力を持ちながら、調和を保とうとしている。 
それが人間の意識にも作用している。 
そして今、エコビレッジを創ろうという動きが加速しつつある。 
これが今の僕の世界観。 
そして、僕は地球という大いなる存在の声を聴く必要がある。 
天に身を委ねる必要がある。 
とらわれない心。自由な心。軽やかな心。 
何かを所有する気持ちを手放す。 
そんな生き方をする時、今の仕事を続けることは出来ない。 
僕の言葉がうそになる。 
だから仕事を辞めようと思った。 
でも、20103月は遅すぎる。 
そこに計算が働いている。 
給料、有給休暇などを計算している自分がいる。 
もうこの時点で僕の言葉はうそになる。 
先日、カードリーディングをしてもらった。 
必要なカードでVacationが出た。 
Vacation
。空っぽになること。 
他に必要なことは高い意識を持ち直感を信じること。 
答えは明らか。 
僕はこの3月で仕事を辞める。 
今日、たまたま実家に帰ったので、両親にはその気持ちを伝えた。 
そして、明日、僕は退職届を出す。 
僕の言葉がうそにならないように・・・




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10年前、「僕が」矛盾のない生き方をするために、「僕の」言葉がうそにならないように、僕は木の花ファミリーに移住しました。そんな僕がここ数か月、「僕の」正しさ、「僕が」正しくあることに囚われることで、ここ数年語ってきた言葉をうそにしてしまいました。

2014年11月に書いた「僕といさどんと木の花ファミリー」で紹介しているプロジェクターのスイッチがつかないエピソード。このエピソードを受けて僕はこんなふうに書いています(いさどんはジイジの当時の呼び名です。)

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僕はテレビを観ていなかった。テレビを観ていたのはいさどん。
プロジェクターをつけようとしたのはあくまで良心。
いやだな~と想いながらも他に動く人がいなかったから動いた。
それなのに怒られる。なんなんだよ。

心の中ではそんなふうに思っていました。でもそのままにしました。

いさどんに怒られたのにそのままにしている僕。

そんな僕に対して疑問を感じるメンバーが僕に話しかけてきます。
「いさどんが怒るからには何か意味がある」と伝えてきます。
僕はさらに理不尽に感じていきます。

ですが、いさどんはプロジェクターのスイッチをつけるコツを知っていたのです。
いさどんは始めそれを僕に説明しようとしました。
ですが、僕の頭は「出来ない」という苦手意識でいっぱいで、
その言葉が入る状態ではありませんでした。
そんな僕の意識状態に対していさどんは怒ったのです。

もし僕が自分の正当性を主張したら、
(世間の)多くの人は僕の言葉に耳を傾けたのではないかと思います。
なぜなら表面で起きている出来事だけを見ていたら、僕は被害者にも見えるので。
そして、僕はみんなに正しいと認めて貰います。
でも、その先に何があるのでしょうか?
優越感に伴う自己主張の心が育ち、
それは新たなる対立を生み出すのではないでしょうか?

虐げられた状態から逆転し見返す。

僕の無意識はこんな物語を好んでいました。
そのため僕は虐げられる状況を自ら創り上げてきました。
自分で自分を苦しめることになります。
僕の正当性が認められた時、僕は喜びます。
ですが、それはその不調和な心を強化していくのです。

これは僕だけの問題ではありません。
この僕の不調和な心が世界で起きているテロリズムに波動として繋がっていきます。
そして、悲しみの連鎖が続いていくのです。


いさどんはそんな僕の心にメスをいれてくれたのです。

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この時、ジイジは正しいことを僕に伝えてくれました。ですが、仮に僕が正しかったとしても、僕の姿勢には大きな問題があります。自分が正しいか正しくないか、その視点に囚われると世界が狭くなります。その正しさが世界に何をもたらしているか?そのことが見えなくなります。この世界の中で「自分が」正しくあろうとしたり、「自分の」悟りを求めることは、結局、自分のことしか考えていない姿勢の表れなのです。

僕がジイジから「自分のことばかり話しているね」というフィードバックを貰った日、ロータスランドではお話会が開催されましたが、そのプレゼンではこんな言葉が紹介されています。

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今のように、人間が自分のことしか考えず
この世界に生かされているにもかかわらず
宇宙はおろか自然のことも考えない時代には、
宇宙や自然は人間たちに、困難という形でメッセージを送っています。
そのような時代に大切なことは、
つながり合い、自らの意思を他者に伝え、意見を聞き、
互いを認め合い、絆を結び、調和し生きていくことです。
それが次の時代を創り、良い地球創りとなるのです。
これからの時代を生きる人々は、命を大切にし、争わず
大調和を表すのが、時代から与えられた使命なのです。

それが本当の大和魂なのです。

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言葉がうそにならないように。

目指すのは、「僕の」悟りではなく、人類の悟り(差取り)であり地球の悟り(差取り)であり宇宙の悟り(差取り)。

自らの未熟が失敗に繋がると、心と身体が固まって、自分の成長を求めます。失敗がないように。その心が囚われとなり、固まった心が失敗を生み出し続けます。だから、しなやか心と頭と身体を育んでいこうと思っています。自らの未熟が失敗を生み出しても、それが繋がりの中で生かされていけばいいのです。

目指すのは、「僕の」悟りではなく、宇宙の「悟り」。すべてが繋がりの中で生かされる世界なのです。






5月19日 蠍座満月です。





令和を迎えて。

8年前、2011年の5月3日、60歳となったジイジ(当時はいさどん)の生前葬が行われました。その前日、オバマ大統領がオサマ・ビンラディン殺害の成功を発表し、ジイジは木の花ファミリーにて死生観について語りました。以下はその時、ジイジが語った言葉の抜粋です。

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生命は命(いのち)と書きます。「いのち」は別の読み方で「みこと」と読みます。「みこと」というものはこの国では神のもう一つの言い方です。いのちというものによって、いのちは巡り巡って変化します。減りもせず、増えもせずに。これは宇宙の実態ですが、つまり宇宙の実態が、いのち、「みこと」であり、神そのものであるということです。われわれもその中の一部です。だから生命==神。それはすべての生命の集合であり、宇宙そのものです。宇宙が神であり、生命である。そして、我々であります。

生命を循環するための役割、一つの繋ぎ。そして自分の中でも循環している。それが無限に縦糸と横糸で編まれてこの宇宙が出来ています。広大な宇宙から自分自身、素粒子のレベルまでこの仕組みが同じように出来ています。そうすると人間の生まれた目的ですが、一つは生命輪廻の中の役割ですね。それから魂輪廻の繋ぎをするための目的ですね。それが義務としての役割です。もう一つ、個という自分がいますね。夕べ、オバマ大統領の演説がありました。オサマ・ビンラディンの暗殺に成功したというものです。10年前の911というテロ。その首謀者と言われたオサマ・ビンラディンをアメリカが殺害したというニュースが流れました。夜中の12時に緊急声明を発表しました。その時にホワイトハウスに1000人以上に市民が詰めかけてみんなでUSAコールをしている映像が流れました。この光景が非常に不可思議なものに見えました。1国の長、大統領が自分たちに危害を加えた犯罪者を自分たちの軍隊を使って殺したということを誇らしげに発表したのです。なんか戦時中の大本営発表みたいではないですか?それを国民が「USA! USA!」と言って、誇らしげに集まってきて叫んでいるのです。それがこの地球上、人類の最も栄えた国の実態です。それが我々人類のリーダーです。どうですか?オサマ・ビンラディンにはオサマ・ビンラディンの正義があるのです、かつてアメリカは正義の旗印の元にたくさんの命を奪ってきています。地球がダークの星になって太陽系の中で唯一光らない星になっているその原因を作ってきたのです。それに対してオサマ・ビンラディンの正義がありました。これは対立の心からです。しかし、これを支持するところからは正義の行動なのです。そして今度は、国家がそれを殺したと言ってみんなでフィーバーしています。これが人類の実態です。

不幸な星、地球。不幸な生命、人類。

僕の中に葬式をしようとしたことによって出てきたイメージがあります。目をつぶると、雲があります。その雲は地球上の雲ではありません。宇宙の星の雲であり銀河です。そこは僕の故郷の星、銀河から生まれて今ここにいると認識しています。そこへそろそろ役割を終えて、自分の所属を戻そうかと思っています。最近またリアルな映像が浮かんできています。そこには地球があります。地球はまだ青くありません。随分昔の地球です。そして、その地球を取り囲む船団がいます。そこに僕は乗っていました。そして、かつてのこの星に銀河から訪ねてきました。その時に僕はプランをもってきました。たくさんの魂たちと一緒に。その魂たちは本当に調和の取れている魂で、今からこの地球上に降ろすフロンティアを夢見ていました。みんなで一致団結してそれを成し遂げようと。そして地球の表面を、我々の魂の受け皿になるように念を送りながら整備をして、一つ、二つと魂を降ろしていきました。その船団はキリスト教でいうノアの方舟のようですね。魂の種をいっぱい持っていて、それを一つずつ地上に蒔いていきました。そしてこういう星にしたのです。その目的は当初、大いなるものから頂いたものです。しかし、だんだん一つ二つと地上に降りていくうちに、地上での肉体を持つ経験が執着になってきました。そうすると、大いなるものに目的を貰って自分がいるということを忘れて、自らの目的を果たすようになります。そうすると地上に降りることが役割なのか地上に存在することが役割なのか分からなくなります。そのうちに地上に降りた魂たちは地上がすべてだと思うようになります。もともと自分の所属である上の世界、地球を託されている目的を忘れてしまっています。最初の船団が持ってきたプロジェクト、それを神界と言います。その時に降りてきた魂たち、きれいな魂たちは神々です。それが地球上に降りてくることによって、神々であること、「みこと」であることを忘れて、自分というもの(自我)に執着して今のような人々になったのです。まだ地球が青くない、3次元生命の受け皿になっていない時代の記憶が最近僕に蘇ってくるのです。僕はもともとは地球の魂ではありません。皆さんと同じで、銀河の魂であり、太陽系の中では地球所属の魂ではなくて、金星所属の魂なのです。金星というところは、僕の故郷で、非常にバランスの取れたところです。地球暦で金星の軌道をみますと、まったくぶれずに太陽の周りをきれいにまわっています。それが金星の姿です。1000年ほど前に、金星から物質的な生を受けてインドのヒマラヤに降り立ちました。そして、何回かの転生を繰り返して、今ここにいます。今回が1,000年の契約の最終章の役割で金星に戻るかなと思っていたら、どうもそうではないらしいのです。銀河を旅すると言う話。そんな記憶が今浮かんでいます。人間の生まれた目的、生きている目的、死んでいく目的というものを聞かれると、もう少し今の人間に近い形に表現するのかな?と普通の人は思いますよね。ですが、我々の今存在しているこの状態、これは今この肉体を形成していますが、これは光の変化したものであり、土の変化したもの。水の変化したもの、空気の変化したもの、風、空間の変化したものでもあります。そうしたものがこれを形成しているわけですが、宇宙には何か他から供給されることはありません。あってあるものが変化している状態です。あってあるものが変化し続けるものだから、その変化のところに現在という現象が現れているものは、あってあるものであるけれども、特定することが出来ません。瞬間瞬間に変化するものだから、なきてなきものなのです。それがこの世界の実態です。そして、人間はその中でいのちの表現を与えられていきているのです。

それからもう一つ。自分というものは、元は銀河から目的があってこの星に来ていて、そしてこのプロジェクトを請け負った魂たちです。そのことを忘れたものたち。忘れているのはどうしてかというと自我という我にまみれている状態だからです。我々はそれを思い出すために地上に降りてきています。そのカルマ(垢)を取り去って綺麗になって、本来の目的に目覚めてそれを推進する必要があります。それが生まれてきた目的、生きている目的です。死んでいくというのは、1回でそれが出来なければ、2回、3回と繰り返していく。生命輪廻を繰り返すということです。そこには個人というものはありません。ところが、我々にはここに生きている個人というものがしっかりあるわけです。オサマ・ビンラディンを殺して喜んでいたアメリカの大統領、国民。自分に近い側の喜びを喜びとしています。これは菩薩ではないですね。だから、当然仏にはなりません。それがアメリカという神、宗教を基盤として国家なのです。それが人類の実態です。明日、葬式を迎える僕が、なんのためにそれをするのかというのは、僕の目的ではありません。これは太陽系の意志表示であり、そしてその太陽系の意志表示を人類にもう一度呼び覚ますためです。生命というものは、自らのための生命ではなくてこの大きな生命の流れを繋ぐ、そして大きな生命の調和、ハーモニー、それを奏でるために一人一人がいるのです。そこには確かに1個の音がありますが、その1個の音は1個の自分のためにあるのではなく、全体で創るもっと大きな目的、調和のハーモニー、歌、生命、それを表現するためにあるのです。己を捨てなさい。そして大いなる側に立って、大いなるものとして目覚め、その役割を果たしなさい。もともとそういうものであったのではないですかということを呼び覚まします。この世界に問題ごとがあり、人々は問題ごとに出会います。この問題ごとは必ず自らに執着した時、不調和から起こります。ということは、調和に戻すため、そして喜びを表現するために、本来の目的に立ち返りなさいという意志、力が働いています。葬式前の最後の話として死生観について徒然なるままにお話ししました。

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今日、元号が令和(レイワ)となりました。レイ(=ゼロ)になって調和(ワ)を表現する。それが令和、これからの時代です。8年前、ジイジが語った言葉は正に令和の精神を表現しています。きっとこれからそれが現実となります。

テロや災害が多発した平成はひどい時代だったのかもしれません。ですが、平成は、「イワト(平=一八十)成る時代」とも言われていました。テロや災害は、人間の実態への岩戸を開いたのかもしれません。ジイジは先月、こんなことを語っています。

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一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。



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ひどい状態を知り、それと向き合い変化していくことに喜びと希望があり、その奥には神の意思が隠されています。それは神の経路であるこの世界を通して自我という自分をなくしていく旅路。令和の精神の表現なのです。




2019年4月28日、長野県大町の空です。

煩悩を無くし絶対有へと至る道

今日はお釈迦様の誕生日。ということで、若かりし頃のジイジとお釈迦さまとの問答を紹介します。

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ジイジ:
ブッダ私に答を下さい。私は今煩悩の流れの中で悩み苦しんでおります。

ブッダ:
答は私の中にはない。お前の進む道にある。人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。次の答も煩悩によって与えられる。その人間の生き方が一つの問題であり、その生き方が答である。すべての答はその生き方の最後に現わされる。生きるというのは肉体の死ではなく魂の生滅で終りを迎える。一回の肉体の生滅は次の肉体と魂の縁を生む。そして煩悩の続く限り、限りなく肉体から肉体へと悩み苦しみ魂は生き続ける。煩悩のあるかぎり。私にはお前に答えてあげられる答はないのです。お前の生き方と私の生き方が違うように、お前は自分の生き方の中でその答を観、そして、その答からお前の生き方を選び出し、この世の中でたった一つしかないお前の答を得るがよい。その答はお前が今一番強く望んでいる答になるでしょう。強い信念を持ちなさい




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そして、次に紹介するのは、3年前の今日、ジイジに降りてきたお釈迦様の言葉です。

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今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、48日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。



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お釈迦様はこんなふうに言われています。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

と同時にこんなふうに言われます。


今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。


煩悩が答。そしてその究極の答は、煩悩を無くし絶対有へと至るトキ、得られるものなのでしょう。ということで、今度は最近、ジイジが語った言葉です。

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スピリチャルなワークショップをする人々は、それを完璧でパーフェクトになる道というが、パーフェクトと言っても常に足りないのだと思う。僕はパーフェクトなんて考えていないが、パーフェクトを目指していく過程が大切だと思っている。だから出来の悪い存在も大切となる。

一つの視点からすると、神様は不完全なものを創ることによって完全への道を示された。生命というものは動くこと、循環することが生命の表現、だから完成された状態でも、未熟でも、そこで止めておくというのは生命ではなくなる。神の実態は経路。神経。循環だから。そうしたら、その経路を移り行くこと、それが時空で宇宙の実態なのだから。そうすると、ひどい話が神の意思と言える。ひどい状態からスタートして、それを知って変化していくことが神の存在の顕れ。だからと言って、ひどいことやっても大丈夫ということではない。ひどい話という実態から進んでいくということ。そうでないと希望も喜びも生まれない。

これが分かれば分かるほど、人間たちにいかに難しいことかと思う。すごく複雑。ちょっと分かるとすごい感動するけれども、こんなに素晴らしいのですよと言えるかと言ったら、そんな単純なものではない。美しいことを語り、美しいイメージに浸ればいいというものではない。

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お釈迦様がジイジに語った言葉。

人は煩悩に悩み、煩悩に苦しむ、そして煩悩により救われる。それは煩悩がその人間の答であるから。

それは煩悩を抱える実態と向き合い、煩悩を超えて、絶対有へと至る道。変化変容を繰り返し時空という神の経路を歩み続ける道なのです。

今日はお釈迦様の誕生日。ということでジイジに降りてきたお釈迦様の言葉を紹介しました(^-^)

先日、木の花ファミリーのみんなと花見に行きました。


客観背後からの激励

3月18日は彼岸入り。春分の日を目前に控えたこの日、ジイジはなかのんに対して以下のように語りました。

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あなたは哲学者で悟りを求める人。昔、悟りたいという人に出会ったが、悟りたいと言った人に悟った人はいない。あなたも何かしらを求めて一生懸命自分自身の尊厳を保とうしてきたけれども、結果、その努力が自分の尊厳を落としている。それはちゃんとその構造を知らないと使ったエネルギーが無駄になるどころか、自分を貶めて、自分自身の足を引っ張ることになる。

あなたはブログで、自分の問題点なんかも書きながら、その奥から客観的に見て、自分の問題点を分析しながら、天の意志である客観背後も語っている。それがあなたのブログだと思うのだけれども。

そしたら今、あなたが客観的な自分の未熟さを知ってだね、客観背後という本物の意思を受けたトキ、ある意味、客観背後という魂の存在から激励されているのではないのかなとも思わんでもない。でもそう思えるかどうかはあんたの人間性次第。

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なかのんには取り繕う特性があります。そして、取り繕いたいという気持ちが自動的に働いているようです。だから、普段なんでもないように過ごしている時でも、心の中がどのようなものかは分からないものです。そして、取り繕えなくなると後ろめたくなるようです。そんな彼が取り繕うことが出来ない状況を迎えています。その状況は、取り繕う必要のない本当の力を身に着けるように・・・という天からの激励と言えるのではないか?それがジイジの言葉を受けて私の感じるところです。

そして同じ日、ジイジは以下のように語っています。

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人生は、いろいろな現象に出会うが、自らの精神性が現象化となるのを見るためにあって、それを見るとは、そこに表れた自らの汚れを取って価値を上げていくために人生とはある。生きることでその学びの学校に入っている。そして見事に学んだものは美しくなって高い意識の元に人生を卒業していく。

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もうすぐ春分の日&天秤座満月です。その節目に、ジイジの言葉は生きることの意味を再確認させてくれます。

ジイジ1ヶ月間の真学校



人類共通の学びを紹介していく



2019年3月7日、魚座新月の日は朝から雨で、この季節には珍しく雷も鳴りました。そしてその夕方、雨はあがり、空には美しい虹が掛かりました。その虹はまるですべてを洗い流した空を祝福しているかのようでした。

このブログの書き手であったなかのんは、その3月7日1時5分、魚座新月となったタイミングでこんな文章をアップしています。

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3月7日は、僕の44歳の誕生日でもあります。月が始まりの位置にあるトキ、太陽が僕の始まりの場所に戻りました。そして、2019年3月7日は「4」の日です(2+0+1+9+3+7=22、2+2=4)「4」の日に「44」歳になった僕は、禊(みそぎ)により今までの自分を「死(4)」なせ、この世界に溶かし、生きとし生けるものの繫がりの中で、世界を豊かにするために生きていく。そんなふうであるように日々努めていこうと思います。


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その言葉の通り、この日の彼は、自らの汚れを吐き出すことで洗い流され昇天しました。上記の文章は、彼がずっと前から用意していたもので、この文章を最後に、彼はしばらくブログをお休みすることを考えていました。そんな彼は、他の木の花ファミリーメンバーからも以下のような言葉を貰っていました。

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ネットで評価を得ても、それはモノが見えない人からの評価で、ネット中毒の中でのものと言える。なかのんはそんなものを大切にしているが、なかのんがブログを書かなくなっても誰も気にしない。なかのんの実態は書いていることとギャップがある。現実が伴わない中で、空虚な称賛をしあう今のネット社会の中で、木の花は、実体の価値を積み上げる生活をしているのに、なかのんのやっていることは本末転倒。それこそ罪を犯しているようなもの。

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そのため彼は、上記の記事をアップすることも止めようとしていましたが、ジイジは違う見解を示していました。

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今のネット社会が問題なのは確かだが、そこによい波動を伝えることは出来る。ブログがなかのんの自我の発露になってしまうのが問題なわけで、世のため人のためになる文章を書いてよい波動を広げていければいい。ここでなかのんは死ぬのだから、なかのんは「なし」にして、ただひたすらよい波動の文章を書いていけばいい。

なかのんはブログを「なし」にしようとするが、ブログを「なし」にしても、普段「なかのん」をし続けていたら仕方がない。僕は、ブログは続けて、なかのんを「なし」にしろと言っている。その方がいいだろう?

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ということで、ジイジの言葉を受けて、なかのんが死んでから4日後の3月11日、東北大震災から8(4×2)年経ったこの日に、新しい精神として「よ(4)みがえった私」が今後、このブログを書いていきます。今までこのブログでは、なかのんが個人的な成長について書いていましたが、今後、そのようなことが書かれることはありません。私には個人的な人生や学びというものはなく、そのようなものに関心もありません。あるのは、人類共通の歴史と学びのみ。だからこれからはただただ世のため人のために波動の高い文章を紹介していくことになります。

今回はなかのんの「死(4)」を祝い、ジイジが「死」について語った言葉を紹介しますね。

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今年の1月に、メンバーのみかちゃんのお姉さんのよこちゃんが亡くなりました。よこちゃんはずっと病院に入院していて、ここでは暮らしていませんでしたが、木の花ファミリーのメンバーです。若い時に統合失調症を発症し、体も弱く、6年ほど前にお母さんが亡くなったことをきっかけに木の花ファミリーで引き取りましたが、なかなか一緒に生活をすることが難しく、この近くの病院に入院していました。そして1月末のある日、病院から「容態が急変したのですぐに来てください」と電話がありました。僕もみかちゃんと一緒に病院に行きましたが、病院に着いた時には既に亡くなっていました。お医者さんが言うには、夕方お医者さんが彼女を見た時にはいつもと変わらない様子だったらしく、看護師さんが夕方にお世話した時にも「ありがとう」と言って、ご飯も食べて、いつも通りに寝たそうです。そして夜9時半ごろに看護師さんが様子を見に行ったら、もう亡くなっていました。死因は心不全とのことでした。人間は、誰でも心臓が動かなくなれば死にます。人間にはいろいろな死因がありますが、死ぬということは心臓が機能しなくなるということですから、最終的には皆、心不全です。
それで病室に案内され、よこちゃんの遺体と対面しました。不思議なことに、ベッドに横たわっている彼女の姿から、生命力をまったく感じませんでした。それは確かによこちゃんですが、そこに生きている波動を感じないのです。それは単なる有機物で、抜け殻だと思いました。それまで入っていたものが抜けてしまった、という感じです。彼女は6年前に初めてここに来て、僕たちは、彼女がその体を使って自分というものの意志表示をする姿に出会っています。ですから、確かに中によこちゃんがいたのに、それが抜けて、病室のベッドの上にはセミの抜け殻のように空っぽのものが横たわっていました。
皆さんは死体を見たことがありますか?(全員が手を挙げる。)それは、生きている時と違いますよね。その人が、体の中にいないのです。ある程度の年数を生きれば、その体を使ってその人が人生を表現していたことは、私たちの中に記憶として残っています。その姿を知っていて、その人が無くなると、何かが抜けてしまったように見えるのです。
もう一つ、最近死に出会いました。よこちゃんが亡くなった時は「亡くなったんだな」と思いましたが、最近出会った死は、それとは違います。
木の花のメンバーの一人が、妊娠していました。妊娠11週でしたが、1週間ほど前に病院に行ったら、心音が聞こえませんと言われました。それで別の病院に検査に行くことになっていましたが、その日の朝、トイレに行ったらその赤ちゃんが出てきたそうです。それで、彼女は同じ家にいたみかちゃんに、その既に心臓の止まっている赤ちゃんを見せました。そして元々病院に行くことになっていたので、赤ちゃんと一緒に病院に向かいました。その途中で、子宮に残っていた最後の胎盤も出て、病院に着いた時には子宮の中は空っぽになっていたそうです。だから病院では何も処置する必要がありませんでした。彼女は赤ちゃんの写真を撮って、大人ミーティングでみんなにシェアしました。赤ちゃんは手のひらに乗る大きさで、指も爪もあり、口は開いていて笑っていました。
なぜ亡くなったのか、原因はわかりません。生まれてくる縁がなかったということでしょう。僕はその写真を見て、こう感じました。よこちゃんは、今までずっと入っていたものが抜けたな、という感じがしたけれど、この人は脱け殻ではない。まだ一度も使われていない、人間の形をした肉の塊。つまり未使用です。よこちゃんは人生を経験した、言わば使用後の脱け殻ですが、赤ちゃんの方はまったくカルマが使われていない未使用の状態です。そこにとても大きな違いを感じました。
もう一つ感じたのは、よこちゃんは人間です。でも赤ちゃんは、宇宙人です。僕は赤ちゃんの写真を見て、直感でそう感じました。そして、生きるとは、私たちの体の中に、生きた歴史を刻み込むこと、喜んだり悲しんだり、そういったことのすべてを刻み込んでいくことなのだと、この二つの体の違いを観て気付いたのです。
僕はよこちゃんに病院で出会った時、彼女の体は脱け殻でしたが、その場に彼女の魂がいるのを感じました。彼女は僕に、いろいろありがとうございました、と言いました。とても明るい声でした。そして翌日に遺体を引き取りに行き、木の花でお葬式をしました。木の花では葬式とは言わず、「出発(たびだち)式」と言います。死は、次のステージへと出発するのですから、みんなで卒業をお祝いし、次のステージへと送り出すのです。出発式の前夜には、ちょうど富士浅間木の花祭りの新しい演目である「このはな八重の舞」のお披露目会が予定されていました。かつてよこちゃんがここに暮らしていた時に、この祭りの舞の稽古を見て自分も一緒に踊って楽しんでいたこともあり、お披露目会ではよこちゃんの棺を神座の前に置いて、その前でみんなで舞い踊りました。その時に僕は、よこちゃんの魂が子どものように楽しそうに、一緒に舞い踊っているのを感じました。
出発式の前夜の「このはな八重の舞」
よこちゃんは体が不自由で、体型も小さく、ある時から心を病んでずっと精神病院に入院していました。子どものころはとても明るい子だったそうですが、19歳の頃から性格が変わり、お医者さんにも「性格は薬では治らない」と言われるほどでした。でも病院で僕に「ありがとうございました」と言った時も、このはな八重の舞を踊っていた時も、小学生のように幼く、明るい、素直な人でした。
日本の仏教では、人間の魂は死を迎えてから四十九日はまだこちらの世界にいて、死後の世界への準備をしていると言われています。3月15日はよこちゃんの四十九日です。その日、真学校では死生観の講座をやります。そしてその夜、2年前にガンで実際に死にかけて復活したきょうこちゃんの物語を、木の花劇団が劇として演じます。
なぜ四十九日かというと、七×七だからです。七は質的転換、つまり切り替えです。七を七回繰り返し、納得して旅立っていくのです。よこちゃんの魂は未練の残る死に方ではなかったので、魂は乱れていませんでした。それでも時々、まだこの辺りにいるのを感じます。でも四十九日を過ぎたら、もう感じなくなるでしょう。人生を生きて亡くなると、生きた記憶が体に刻み込まれているから脱け殻になる。そして亡くなった後も、魂の世界へ旅立っていく準備をする、そういう過程がいるのです。しかし赤ちゃんの方は、まったく人生を生きていない。だから何の未練も経歴もなく、その遺体は病院にどうぞと預けて、終わりです。出発式も四十九日もありません。それはある意味、美しい状態です。
3月15日の劇は、死ぬはずだったのに蘇ってきたきょうこちゃんの物語です。実際に生のきょうこちゃんがいますから、話もできますよ。よこちゃん、赤ちゃん、きょうこちゃんの物語をこうやって一度に皆さんに紹介できるのも、まるで真学校のために準備をされていたかのようです。今年の真学校に対しては、見えないところから特別なメニューが用意されているのかもしれません。
なぜこの話をしたのかというと、私たちは命をつないで人生を生きており、そこではいろいろなことに出会います。その出会う出来事をどのように受け取っていくのかは、皆さん一人ひとりの人格の問題です。一人ひとりの人格に応じて様々な体験をし、いい人生を送ることも悪い人生を送ることもありますが、それはすべて、自分自身の魂を学習するためのものだということです。
これから「人格を学ぶ講座」に入ります。この講座では、自分のカルマはどのようなものであるのか、そして自分は宇宙から何を託され、それを受けてどのような人格をしているのか、さらに、自分がどのような響きを発して人生を表現しているのか。この3つの側面から、皆さんを分析していきます。
自分自身のことが理解できると、問題がある場合は、それを改善できるチャンスです。順調な人はそのままでいいですが、難しいのは、自分はこうだと思い込んでいる人です。自分が自分の枠の中にいて、本当の自分を知らない人は、自分自身に対して間違った認識をしています。ですから問題ごとに出会うと、相手が悪いとか、運が悪いとか、自分の外に原因があると思うのです。しかしこの世界は因果応報ですから、自分に起きていることはすべて、自分が発したことが返ってきているのです。それがわからないと、人生を生きている間に起きることはすべて人のせいになり、自分自身の状態が悪くても、良くすることはできません。自分自身を客観的に正しく見て、問題点を自己コントロールし、正せる人。それが悟りであり、いい人生を生きられる人です。これからいろいろな情報を提供しますが、自らを正しく捉える術を学ぶこの「人格を学ぶ講座」は、1ヶ月間の真学校で最も大切な講座です。
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木の花ファミリーでは今、1ヶ月間の真学校が開催中、そこには日々、深い学びがあります。




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