自然で当たり前のことを当たり前にする(2020年)

木の花ファミリーでは元日のお昼はみんなで集まり、一人ひとりが今年の抱負を語ります。「今年の抱負」と聞いてはじめ何も浮かばなかったのですが、そのうち「当たり前のことを当たり前にする」という言葉が浮かび、僕はそんなことを語りました。この言葉を語っているトキ、僕は昨年の7月に書いたこんな文章を思い出していました。

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自然のことを気にせずにやりたい放題をして来た人類の姿勢は、昼夜逆転の生活を送っているようなものとも言えます。その結果、人間社会は自然との繫がりや秩序を失ってきたのです。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

今の人間社会はそのことが出来ていない状態で、その表れとして、鬱や引きこもり、人々の分断や対立、そして自然災害があるのだと思います。

自然で当たり前のことを当たり前にする。

そのことが最善を尽くすこととなり、ヒトとヒトは繋がり、出会う出来事をいただき実力をつけていく基盤となるのです。今まで見てきた景色は、乱れた思考や生活から生み出されたもの。それが未来を作り続けるわけではありません。


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当たり前のことを当たり前にすることは人生の基盤を整えることです。基盤さえ整っていれば、後は天が相応しい流れを与えてくれます。「どうこうしよう」とか「どうこうしたい」と思う必要はなくて、ただ当たり前のことを当たり前に出来るように心掛けていればいい、そんなふうに思っています。

そして、このブログの「当たり前のことを当たり前にする」は美しい響きの言葉を広げていくこと。ということで、木の花ファミリー通信100号からの言葉を引用しますね。

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宇宙生命交響曲の指揮者としての目覚め

地球は宇宙の奇跡です。そもそも宇宙が現象化を起こしたことも、奇跡なのです。それは人間の思考などはるかに及ばぬ、偉大なる意思からのメッセージです。ですから、この星の存在が宇宙的には奇跡であることは当然であり、それは宇宙の神秘と言えるものです。そしてその神秘は、私たちの日常の隅々にまで配置されています。しかし物理的思考に汚染された現代人は、そのことが信じられないのです。そして目の前に既に奇跡があるのに、それを奇跡と理解できないほどの愚かしさに陥っているのです。その愚かしさに気付き、そこにある神秘(神の秘密)を、秘密としてではなく、私たちの日々の生活の中に当然のものとして表現していくことが、この星から矛盾を取り除き、美しくしていく第一歩なのです。

現在地球上で最も繁栄している生命は、人間です。生命とは本来、増えれば増えるほど豊かさを表現できるものです。宇宙の本質が善意と愛と調和であるならば、より多くの存在と共有の世界に生きることで、より多くの存在とつながり支え合う多様で豊かな世界が表現できるのです。しかし、現代の人間たちがつくる世界は、増えれば増えるほど、限りない矛盾を生んでいるのはなぜなのでしょうか。私たちはそのことに気付かねばなりません。

地上天国と聞くと、人は絵に描いた世界のように感じ、不可能だと思うかもしれません。しかし今、視点を変えて観れば、地上に人間が積み上げてきた矛盾への破壊が始まり、既存の社会システムが崩壊し始めたことにより、逆に地上天国が近付いていることが観えてきています。様々な現象を通して地球が発しているメッセージの背後にある意思を感じ取れば、その意思は、人類の誕生以来ずっと夢に描かれてきた理想郷を、私たちにもたらそうとしていることが観えてくるでしょう。そしてその実現は、私たち一人ひとりの目覚めに託されているのです。

近代の人類が陥ってきた自分本位もしくは人間本位の世界観は、私たち自身に大きな矛盾をもたらすだけでなく、私たちの生命としての種がこれから地球上で栄えていくことに、大きな影を落としています。この現実から来るメッセージを私たち人類は今、受け取り、自分本位の生き方から、この宇宙の奇跡である多種多様な生命の兄弟と共に、美しい地球生命生態系を表現していくことが求められています。それは、地球生命の頂点に立つ私たち人類の使命であると言えます。今、2000年を越え、3000年に向けての新たな宇宙時代を迎え、私たちは宇宙視点の元に、宇宙の奇跡であるこの星の生命たちの奏でる宇宙交響曲の指揮者にふさわしい位置に立つ時が来ているのです。

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人間の思考を超えたものがこの世界を創り、そして人間は思考を超えたものに生かされています。その大いなる「はたらき」(傍楽)を最大限に活かすために、当たり前のことを当たり前にすることを心掛け、場を整えていく、それが今年の僕の抱負です。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

木の花ファミリーのみんなです。

かに座満月です(2020年1月11日6時頃撮影)

突破口は気づきにある(認識を更新していく)



我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。

上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。

気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。

人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
突破口は気づきにあるより)

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2019年1月6日午前10時29分、山羊座新月となったトキ、僕は上記の文章(姿勢)を確認しました突破口は気づきにある(2019年山羊座新月を迎えて)参照)そして今日、12月26日14時12分、今年2度目の山羊座新月となるタイミングで改めてこの文章(姿勢)を確認しています。そして今、もう一つ思い出したのが、こんな言葉。これは「人間らしさとは何か?」という質問に対して答えたものです。


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仏陀がすべてが繋がり合うこの世界の中で「天上天下唯我独尊」と語ったのは、自分が消えたら認識が消え去るから。これは認識に価値を置いた言葉で、人間を人間にしている人間らしさは「認識」にあると思っています。

だけれども、人間の認識は自分の身体や経験に縛られていて、そのままではこの世界の真実の姿を観ることが出来ません。だから心を磨いて自我を手放し自分の視点を超えていくことが大切なのだと思っています。


自分の思惑や感情を手放し目の前の出来事に心を開き、そこから学ぶトキ、変化は自ずから起きて、そして自ずから成長していきます。自分の想像を超えた自分と出会うことが出来ます。

多くのヒトが共に暮らすコミュニティは多くの視点が混じり合うことで自分の視点を超えるようにと導いてくれます。その先にあるのは、この世界の実相への認識。それは無限の深みがあるもので、探求しても探求してもきりがなくて、いつも自分の想像を超えてきて、面白く面白くて仕方がないものなのです。


一人ひとりの認識がこの世界を創っている」より


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人間を人間にしている人間らしさは「認識」にありますが、今の人々の「認識」は多くの問題を生み出している現代社会に汚染されています。多くの人は自分の想いを通そうとしますが、その想いは「認識」同様、現代社会に汚染されているので、世界の問題を助長することに繫がっていくのです。平和運動など、世の中を良くしようとする想いが対立を生み出しているのはその一つの表れと言えます。

そんな現代を突破するには、気づきが必要となります。気づきとはこの世界に対する理解。それは出会う出来事に心を開くことで深めていけます。理解を深めていくことで認識を更新していくこと、そのことが世界に変化を生み出していくのです。そんな変化を促すものとして「木の花ファミリー通信2019年冬至号」の文章を一部紹介しますね。

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自我の暴走は、人類のもたらした地球規模のテーマ

人類はもう一度、生命としての原点に立ち返る時が来ています。

視野を再び宇宙へと広げてみましょう。今、私たちはまぎれもなく、宇宙に生きています。宇宙ではすべてが連鎖し、循環し、調和しています。この大宇宙の法のもとに銀河があり、銀河の中に太陽系があり、太陽系の中に地球があり、その地球上に表現された緻密で美しい大生命生態系の中に、私たち人類は存在しています。もしもこの宇宙の法に狂いが生じ、現在のバランスが保たれなくなれば、私たちはたちどころに存在できなくなるでしょう。人間を含めたすべての生命は、この大いなる宇宙の法のもとに生かされているのであり、その大本の法に沿って生きることは、生命として当然のことなのです。

現代人はお金や物など、目の前の形あるものに心を奪われ、物理的な意識がとても強くなっています。ですから環境が汚れればそれを浄化しようと新しい技術を開発し、争いが起きれば互いの利害を調整するために交渉するなど、物理的現象に対し物理的結果を目的とする対処で解決しようとするのです。しかし、宇宙の本質は物理性ではなく、霊性にあります。すべての現象の奥にスピリチュアリティがあり、それが元となってこの物理的世界の秩序が顕れているのです。
そのことに気付いた時、現代の人間たちの営みの奥にある姿勢は、物理性に偏りすぎていることがわかるでしょう。そして今、その偏りが矛盾を生み、現象となって現れてきているのです。それを物理的な行動によって解消しようとする前に、自らの霊的な過ちに気付き、それを正し、宇宙の本質を取り戻した時に、物理的な現象は極めてスムーズなものとなり、矛盾は自ずと解消されていくのです。なぜならば宇宙の本質とは、善意と愛と調和で成っているからです。

現代人は、世界は自分たち地上を生きる人間によって運営され、自分たちの意志が世界を動かしていると思っています。しかし真実は、地球は人類の誕生よりはるか以前に、宇宙の総意によって創られたのであり、長い進化の時を経た今も、宇宙の霊的なはたらきによって導かれ続けているのです。自分を中心にして世界を見ている現代人にとって、それは理解できないことかもしれません。しかしながら、時代が21世紀に入った今、私たち人類は、20世紀までの自己中心的な生き方を続けて淘汰されるのか、それとも30世紀に向けて、宇宙人としての認識のもとに、次の時代への進化のための新たな千年紀を歩み出すかの、大いなる岐路に立っているのです。

産業革命以降、人類の暮らしは飛躍的な発展を遂げましたが、それは人間の能力がどこまで伸びるのかという可能性を試された時代でもありました。自然はその人間の行いを受け入れてきましたが、それは他者の迷惑を顧みず自らの欲望を追求し、全体の秩序を乱すことを許可したのではなく、それをするとどうなるかを、人間が自らの行いから学びとする期間でもあったのです。もしも人間の活動が現在の地球の状況をつくっているということにメスを入れるのなら、私たちは、その人間の代表が自分自身であるということに気付かねばなりません。これは環境問題ではなく、自我の暴走という、全人類に共通のテーマなのです。

それを解決するのは、制度や仕組みを作ることではありません。過去にも、資本主義の問題点を克服しようと、人間は共産主義という新たな仕組みを作りました。ところが共産主義を理想として掲げた人々は、自らの作り出した仕組みに溺れ、資本主義の問題点を克服するどころか、人々を管理する体制によって無個性な社会を創り、その理想は有名無実なものとなっていったのです。そのように、どれだけ新たな仕組みを考え、世界を良くしようと思っても、その問題を生み出す根本にある精神にメスを入れなければ、それは良くしようとするもどきに過ぎないのです。

ではその根本原因、即ち自らの心を振り返り改善する時に、私たちは視点をどこに置くべきなのでしょうか。

それは、私たちが存在する前にまず生態系があり、地球があり、太陽系があり、銀河があり、宇宙があり、その大いなる序列のもとに私たちが存在しているという、この世界の命の仕組みに心を向けるべきなのです。その時に、現代を生きる人々にとって最も難しいのが、自らを基準とし自分の側から世界を見る視点を離れ、自らを生かす世界の側に立って物事を観ることです。自我から湧き出す思考のままに主観で生きてきた人間たちが、自我を超え、大いなる宇宙の意思と共に世界を創造していく側へと舵を切る。それは、人類史上最も大きな方向転換、即ち軌道修正です。そしてその視点は、私たち人間が地球に降ろされた真の意味を知ることにつながっていくのです。

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この言葉が世界中に轟き(とどろき)、人々の認識が更新されていくことを願っています。



木の花ファミリーのみんなです。


泥の中から美しい蓮の花が咲くように(2019年)

たとえばひどいことをしてくる人に出会ったとして、なんてひどいんだと思ったとしても、その人と出会いその反応を引き出しているのは自分です。だから出会う出来事はすべて、自分の鏡、自分自身と言えるのです。

だから甘んじてひどい仕打ちを受け入れるというわけではなくて、その出来事を通してひどい自分を知り、自分が変化していく、そのことが自分の出会う世界を変え、世界全体を変えていくのです。

自然災害や戦争、紛争、そして日々のトラブルなど。現代社会は、失敗や困難で溢れています。そんな中、今の自分のメンツや評価、利益に囚われると、落ち込んだり嫌な気持ちになりますが、過去から未来へと続くプロセスとして見れば、すべての出来事は変化のきっかけ、希望となっていくのです。


ひどい出来事、辛い出来事も心に刻めば、美しい花を咲かせるための糧となります。蓮池に泥があり続けるように、この世界には困難があり続けるのでしょう。ですが、それらを糧にし美しい花を咲かせ続ければ、すべての出来事は恵みとなっていくのです。

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大人ミーティングにて、毎日の生活を美しく生きていくをシェアしたトキ、木の花ファミリーでは、オーロビルのマルティさんをゲストに迎えていました。そして、とても素敵な場が出来上がったので、そこでの話を一部、紹介しますね。

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先日、車を止めてドアを開けた時、ふっと「なんでだろう。どうして人間はこんなに物事をネガティブに捉えるようになってしまったのだろう。」という疑問が湧いてきました。これは明らかに資本主義の影響ですね。資本主義では何か勝ち取ることで成功となります。そのため競争の中で優れていると優越感に浸ることが出来ますが、それは同時に落ちこぼれも生み出しています。そして優れているとされる人たちも、優越感に慣れてしまうと、いつも勝っていなければならない、優れていなければならないという恐怖を抱えることになります。人々が自然と共に生きて来た時代から、お金など物理的な豊かさを求めるようになった時に、自我がどんどん膨らんでいきました。そしてこの膨らんだ自我を常に満たしていないと幸せに感じること出来なくなりました。満たしていくと充分に幸せというふうになるかというとそうではありません。満たしていくと、満たしたものを所有し、それを守ろうとし、もっと満たされたいという欲が生まれて、これが資本主義の際限ない麻薬のような症状となっています。現在の人間は、ある意味、病気になってしまっているのですが、自我でいっぱいのため自分が病気だということが分からなくなってしまっているのです。
僕も現代を生きていますが、宇宙から見た地球の存在する目的という概念を持っています。その視点から見ると、今の人間がこの地球上でやっていることは、この世界が運営されている根本から外れていて、矛盾を発生させているのです。それは、経済、政治、宗教、ありとあらゆるところに蔓延しています。だから今、世界で優れている人として表彰されているノーベル賞受賞者も、それは矛盾の中での評価であり、同じ罪を犯している状態とも言えます。人類は根本から外れた幻の豊かさを見ているのです。本当の豊かさというものは、この生態系にように無限に連鎖していって調和を表現しています。それは、変化はするけれども変わらないものでもあります。何が変わらないかと言ったら、この宇宙の法則や自然生態系の絶対の仕組みを壊さないということです。宇宙に神様がいるとしたら、その意志を沿うこと。絶対に変わらない存在を知った時に、安心して、自由自在に変化変容して進化していける、絶対的に変わらないものを土台に変わっていけるのです。

マルティさん:
1000年前、人々は共に集って暮らしていました。自分たちの持っているものを共有し、地球から本当に必要なものだけ貰って暮らしていました。大地、風、水、火、空気、そのようなものを基盤として暮らしていました。しかし今はそのような姿勢は失われています。ジイジの言うように、今生きているこの世界は本当にネガティブなものです。そして、その責任は資本主義にあります。今やお金や情報が神となってしまっています。今は本当に難しい時代となってしまっています。ですからコミュニティがとても重要となっています。私たちは気候変動や大量絶滅の可能性に直面しています。これから先、私たちが愛する種が生き続けられるか分かりません。だから人々は絶望的になっています。ですが、絶望の反対側には希望があります。それは自分自身の決意によります。コミュニティの暮らしとは自分を超えたものへの決意です。コミュニティで暮らすのは簡単なことではありません。そこで人々は闇の部分と向き合うことになるからです。意識の変容が求められますが、コミュニティでは、そのためにお互いを鏡としていくのです。
健全なコミュニティはいつもひっくり返しをしています。疑問を投げかけ、変化していくのです。それはみんなで共に意識を変容させていくことであり、地球へ影響を与えていきます。だからいつも覚えておいてください。地球は宇宙の中で常に進化しています。そして私たちはいつも宇宙の一部です。
先ほどの文章で、マザーの言葉が紹介されていましたが、マザーはいつも「美しさと完璧さ」ということを言っていました。それは共にあるもので、共に前進させることが出来るのです。

ジイジ:
世界はまったく無駄がなく出来ています。無駄が起きるということは世界の法から外れているということなのです。無駄が起きたら、身体にしろ、社会にしろ、環境にしろ、問題が起きます。それはメッセージなのです。不要なことをしないで道を歩むことが大切です。そうすると、少ないエネルギーで豊かに生きることが出来ます。そぎ落とされて無駄がない、それが美しさなのです。
今の時代は無駄をやることが豊かさだと思っています。不要なことで溢れています。マルティさんがさっき1000年前はもっと自然の中でシンプルに生きていたと話していましたが、1000年前の人々は星々と対話し、自然と共に生きていました。だから無駄がないのです。それは自我を表現するのではなく、命を頂く姿勢です。今の人々は、命どころか、自分の欲まで獲得する姿勢となっています。だから人間はそれだけ霊的には退化しています。ですが、そのことをネガティブに捉える必要はありません。こういう無駄な経験をするということは、その経験の分だけその先に行くということです。1000年前の人たちが優れていたのではなく、あの時代はそうすることしか出来なかったのです。今は無駄をすることを覚えて敢えてそれを乗り越えて次の段階に行く時代です。昔に還るのではなく、進化しているのです。

みかちゃん:
12800年前、ただ美しく優れていたカタカムナの時代から、この闇を経験した後に群れることが出来たら、あの頃よりも進化した群れが絶対に出来ると思います。
今、一人ひとりの器の中は自我でいっぱいに満たされています。だから他者と繋がらずに自分の欲を満たすことが最優先になって、そのためには罪を犯す人まで出てきます。この自我の欲望を満たすことが豊かさ、それが、資本主義が生み出した時代なのだとジイジの話を聴いていて改めて思いました。でも、これから向かう先は、かつてのように器の中の自我はすごく小さくなって、他者のために傍楽(はたらく)ことが生きることの豊かさになる時代に向かっています。そのためにはまず自我がいっぱいに膨らんだ自分を理解することが大切なのだと思いました。
そんなことを思っていたら、「いのちの泉」という歌を思い出しました。こんな歌があったなと。自分が悟ることを求めると、それも自我になります。そうではなく、ただ人のために生きるというような姿勢でつながった時に、そこに神の姿が顕れる。そんなことを歌った歌です。




「いのちの泉」

いのちの泉は何のためにあるの?
いのちの泉はみんなのためにある
このいのちの泉をあなたは誰と飲みますか
ひとりで飲みますか みんなで飲みますか

尽きることのないこの豊かな泉を
みんなで分かち合い 喜び讃え合おう
神がいのちを吹き返す 私たちの中で
いのちの道が開かれる 私たちの中で

私を包み込む穏やかな光
私を貫いていく力強い愛

みんながみんなを見守りながら 
みんなで愛し合う世界が始まる
集い語り合え想い愛し合え 
みんなでひとつになれ
それこそが神の歓び 神の姿

この無限の愛の姿が輪となって
この星の上に広がりますように
この無限の愛の姿が輪となって
この星の上に広がりますように

あなたは私 私はあなた

あなたは私たち 私たちはあなた



毎日の生活を美しく生きていく

時代が令和を迎えた今年の5月、ジイジはこんなふうに語っています。

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これからの時代がどれほど困難であるのかは、行ってみなければわかりません。平成は、その困難な時代の予告編だったのかもしれません。令和になり、いよいよ本番です。ではなぜその本番を与えられたのかというと、その先があるからです。
過去6億年の間に6回大量絶滅を繰り返してきた地球の生命の歴史に照らし合わせてみれば、現代を生きる人類は、次の生命大量絶滅の引き金となるかもしれません。人々は、何かが壊れる前はそれを守ろうとします。そして壊れれば、それを惜しみます。しかし、壊れるからこそ新しいものをそこに表現できるのです。それは、大量絶滅をするたびに進化してきた生命の歴史と同じです。
ですからやはり、壊れなければなりません。そこで、積極的に壊れていくことを喜べる生き方とは、どのようなものでしょうか。それは、使えるものを壊していくということではなく、価値観を変えていくということです。出会ったことをポジティブに捉え、変化することを喜ぶ。その時の変化は、進化になります。
変化は積極的に喜びを持って受け入れるものですが、現状の自分を守ろうとすると、出会ったものを拒絶したくなります。さらに、その自分に執着すると、変化は苦痛になります。それは、地上にいて地獄を生きることとなるです。しかし、それが喜びとなった時、尊いものへと向かう目覚めが始まるのです。

火山が噴火する、地震が起きる、台風もたくさん来る。そういう日本にいて、それが喜びになる。大変なことがあるから、大調和になるのです。それが大和という国であり、その証として、令和という時代がいよいよ始まったのです。

令和は、平成よりも物理的にはさらに厳しい時代となるでしょう。それを、大調和を持って乗り越えなさいということです。その厳しさは、ただ乗り越えるためではなく、大調和することを呼び覚ますためにあるのです。これから、今までに人類が積み上げてきたものがどんどん壊れていく時代が始まります。それを乗り越えるために必要なことは、力を合わせること。そして、壊れた先には、これまでに出会ったことのない新しい世界が待っているのです。そのことを、令和という時代は、私たちに示してくれているのです。


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そしてトキは進み、天皇陛下即位の礼が行われた今年の10月、木の花ファミリーで毎月行われる誕生日会では、「いのちの歌」の合唱が歌われ、感動的な時間が生まれましたが、そこでジイジは以下のように語りました。

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この歌は感動的ですよね。こういう歌が堂々と日常の生活の中にあることを素直に歌って、それがこういう歌に繫がらないといけないと思うのですが、実際に今、世界は汚れてしまっています。それが悲しいとかそういうことをジイジは言っているのではなくて、だからこそ世界を美しくしなければいけないのです。誰が世界を美しくするのですか?うっかりしていると自分も汚す側になりますよ。もう既に汚す側になっているかもしれません。テレビなどいろいろなところで感動的な場面に出会ったとしても、実際のこの世界が汚れていたら、偽物ですよね。それを本物にするために、それを誰がするかといったら、それに気づいた人たちが「これではいけない」と自分の一歩を、きれいにするための一歩を歩まないといけないのではないかと思っています。

ジイジ、爺さんですし、こんなセンチメンタルな話をするのは似合わないかもしれませんが、この爺さん、心は誰よりも美しいつもりです。だからとても真面目に世の中をきれいにしようと思って生きていますが、ただ表面的に感動しているだけではなくて、実際にそういう世界を創るための毎日をみんなが生きないと、みんな偽物になってしまいます。

千葉県はこないだ凄い洪水があったのに、そこにまたたくさんの雨が降りました。今日だけで10月一か月分の雨が降ったと言います。どうしてそんなことになるのでしょう。それは天気が悪いのでしょうか?何かしら人間の在り方が間違えているのだと思うのです。だからこういう歌を歌って、感動したりきれいな場所を創るのもいいのだけれども、大事なのは毎日の生活を美しく生きることです。ここはそういう場所になるのに相応しい、もしかしたら、世界でたった一つの場所かもしれません。爺さんなのに、こんなコメントして恥ずかしいのですが、本当にそんなふうに思っています。

今、世の中のいろいろを想うと、気が変になりそうです。人間たちは変でしょう?だから気づいた人が良い生活をしてその見本を示さなければなりません。みんなにそういうことをお願いして、そしてジイジは絶対にやります。

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毎日の生活を美しく生きること。それこそ令和の時代に求められる大調和の精神です。そして、それは4年前の10月2日、大人ミーティングで紹介されたオーロビルのマザーの言葉、そしてそれを受けたジイジ(当時はいさどん)の言葉に通じるものがあります。以下、まずはマザーの言葉から紹介しますね。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely?
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

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そして、この言葉を受けてジイジは以下のように語ります。

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あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。

僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。
でも、その考えは今は変わっています。

昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、
曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。
「あなたの意志に沿うものです」ということは、
あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。
でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。
だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、
「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、
すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。
常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、
すべての人が行きつく先はそこなのです。
まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。
その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、
あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

~ 中略 ~

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、
「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」
そういうことを言葉ではなく空気を感じて、
「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。
哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、
みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、
僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、
いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、
僕もジレンマを感じてしまいます。

みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。
自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。

それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。
そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。
本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。
そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。
道を難しい道だと思わないでください。



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本当にみんなに託していく。そういう場創りをすることで、一人ひとりの未熟がみんなの中で生かされていきます。毎日の生活をそういう美しいものにしていくことで、これからの厳しい時代を恵み多いものに出来ます。それが僕ら木の花ファミリーが表現していく暮らしです。


ジイジ(真ん中)と木の花ファミリーのみんなです。


牡牛座満月です(2019年11月12日20時20分頃撮影)


軌道修正 ~糊(のり)を使って目覚めていく~

ただそこにはええかっこしいのみがあった。

人々は理想を語る。そして平和を目指し人のためになろうとする。
だけれども、その動機はええかっこしいだけだったから、
行動に魂が入ることは滅多にありませんでした。
そして思うように進まないことで、落ち込んだり怒ったり不貞腐れたり。
そんな心が、対立や争い、混乱を生み出していきました。

そうやって人々は嘘つきになっていくのです。
けれども、人々には嘘をついている自覚がありません。
ええかっこしたいという気持ちは本当だから、
自分は人のためになろうとしていると信じ込んでいるのです。
思うように物事が進まないのは、周りが悪いから。
自分は全く悪くない。自分はよい人間。
そう信じ込んでいるから、全く嘘をついている自覚がないのです。

そうやってよい人間だと思い込んでいる人たちが集まって、
世界に対立と混乱は広がっていきました。

そしてトキは進み・・・・

政治や経済は混乱を極め、気候変動による天災が多発するようになる中、
そんな世界の状態に疑問を持つ人々が表れました。
そして世界をありのままに眺めることで、彼らは気づいたのです。

実態は語る言葉ではなく、出会う現象に中にあることに。

ええかっこしたいならば、まずは自分の実態を把握し、
日々の生活を大切に丁寧に整えていく必要があります。
そうすることで初めて人のため、世界にために生きることが出来るのです。

その事実に気づき彼らは軌道修正をしたのです。


そうして世界は少しずつ変わっていきました。

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2019年、木の花ファミリーのテーマは「軌道修正」です。そのテーマはジイジのこんな言葉から始まりました。

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2019年のテーマは、「軌道修正」と出た。それは、人類の歩みの方向転換である。そこで何を軌道修正するのか。それは、人間たちの歩んできた一時見た夢が幻であることに気付き、その夢から覚めて、この実相世界の真実に目覚めること。それは、視点を拡大し、世界観が広がらなければ観えないものである。何びとも、この世界に生きるということは、実相世界の時代の波に翻弄されるが、人間以外のものは翻弄されずにその波のままに存在しているだけである。人間たちも、いよいよそのサイクルに戻る時が来ている。今、時代と共に軌道修正の波が来ているにもかかわらず、今までの幻影を追いかけて歩んでいては、時代の波に乗り遅れる。だから、来年のテーマは「軌道修正」と出た。

そして、これからいよいよ群れの時代が始まる。今まで社会は個のパフォーマンスを表現する時代だったが、いよいよ群れの時代の幕開けだ。群れで生きていかなければ、これから生きられない時代が来る。今までの社会は、個人がテーマだったから無駄が多かった。それが群れになって繋がると、無駄はなくなる。これからは無駄をなくさないとこの時代の変わり目に、今までの無駄のツケは乗り越えられない。そういった時代のうねりを敏感に感じる人であることが求められる。つまり、時代のパフォーマンスを感じ取れるセンサーを人間一人ひとりが持たなければ、この変わり目において見当違いな方向にまた進んでしまうことになる。それを正しく見極めなければ、生きることの矛盾や自らの人間性の狭さ・小ささ・低さの実態が明らかになるだろう。だから、広い世界観がいよいよ必要な時代になってくる。


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そしてトキは進み、2019年10月5日、大人ミーティングではこんな文章がシェアされました。

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あの不良品たちがうちにいるだろう。あれを何とかしてください、と言ったら、あれは糊であると天は言うんだよ。我々と何か(道)をくっつける糊であると。それで、糊というものは、そのもの自体は必要としない。しかし、それがあることによって、あるものとあるものがくっついて新しい役割が果たせるものができる。だからとても必要なもの。糊は使ってしまえばその存在は不要になり、存在すら忘れられる。しかし、そのものの働きは、糊によって維持されるわけだよ。だからとても重要なものでもある。
例えば、問題ごとが起き行き詰った状態をどう捉えるかということも、それが問題だと思えばそこからレベルアップするためのきっかけになる。しかし、その現象を通り越してしまえば、問題事があったことすら忘れてしまう。なぜその繰り返しの位置にいるのかといえば、振り返れば、繰り返しの問題ごとがあったからといって、その者はその位置にその性質をもってあり続けている。これはわかりやすい分析で、もっと多彩なメッセージがそこに隠れていると解釈すれば、不要なものは何もないという解釈の延長にある。


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この文章を受けて、ジイジは以下のように語りました。

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どんなものでもこの世界は対向発生、2極で出来ています。そうすると自然界、人間以外のものは、そのどちらかに偏ってものを解釈するということをしません。対象のものがあって自分が存在しているだけであって、自分の存在が対象のものを育てているし、逆に対象のものがあるから自分が発展していっています。そうすると、物事の捉え方、価値判断の位置によって、善い悪いと判断することはありません。ですが人間は、自我に囚われて、囚われている自分の位置に固定することで、有害なものになってしまうのです。つまり対向発生の世界でありながら、そうではない解釈のもとに生きることで、生きることが無効となり繫がりを失っていきます。だけれども、対向発生の位置に立って、自我がそれを認識するというところにいけば、どちらの側にも立たないで、全体を認識することが出来きます。その認識に至ると、どんなに間違えに思えることであっても間違えではなくなります。なぜなら、間違えが生まれるのは正しいという認識があるからであり、もしもこれが正しいという認識をなくしたら、間違えもなくなります。それで間違えという認識をなくしたら、正しいも正しいとは言えなくなります。事実はただそこにあるだけです。

・・・という解釈をして、それでも最終的にはある特定のところにいくのです。それは、大いなる存在である「あなた」のところ。「あなた」という存在は何者なのかと言ったら、世界は対向発生で出来ているのに、「あなた」という存在は、もともと対向発生を超越したところにいたのです。それで自分だけだったから、その状態が限りなく永遠と続いたから、「私は存在しているが、私は何者なのか。私が私だけである限り、私は私の存在が分からない。」という状態でした。それで興味を持ち、そのために自分を割いて遠くへ投げました。そして、遠く離れた向こうからこちらに還ってくる「道」を創りましたが、自らを遠く投げた時点で空間が生まれて、還ってくるという「道」を創ったことで時が生まれて、時空が発生したのです。これが宇宙の始まりです。

だから、不良品という話をここでしていますが、「あなた」自身が元々、不良品だったのです。すべての存在は、「あなた」の生き写し、人間は神の分け御霊だから、不良品なところも分け御霊なのです。ですがヒトには「あなた」へと還る道があります。

もうそろそろ不良品たちは、糊として生きるのではなくて、糊が生み出す次の状態のものとして生きることが求められています。それが宇宙のプロセスです。糊では面白くありませんよね。糊でくっつけて出来上がったものが目的で、糊自体は目的ではありません。モノがくっついていないうちは、糊は重要ですが、くっついてしまえば、糊は忘れられます。だから糊ではなく目的のものにならなければならないのです。あれでは駄目だよな~ということを引き起こして、そこから学習しなければ、そのものは他者が学ぶための糊に過ぎません。ですが自分の行いでも、アホなことをした時、それを見て、次のプロセスに行くネタにしたら、自分を糊として、次の段階のものとして生きることが出来ます。同じ失敗を繰り返す必要はないのです。

たとえば、ライオンがシマウマを食べることは殺戮とも言えます。ある視点からはイメージが悪いことですが、その行為があることでライオンは生かされ、シマウマも数が調整され生かされています。そうするとその行為は循環のための糊と言えます。そしてシマウマはなくなりライオンへと完全に形を変えていきます。同じようにすべての出来事は循環、進化のための糊となり、次の目的のものを生み出していきます。

だから、今、目の前のあることをしっかりとやる。余計な心を持たない。そして、しっかりと稼ぐ(笑)。ここが充実するということは、この精神が世の中に広がるということです。ここが経済的に安定しているということは、ああいうふうに生きると、争わず競争せずに安定して生きられることを示すことになります。不安がない、そういう本来のヒトの在り方、必要とする糊をいっぱい使って目覚めていくプロセスを示すのです。そうやって糊を活かして、目覚めの道を歩んでいくと、ああいう結論になって、世界の根本まで理解できる悟る(差取る)という世界にいくということを示すのです。


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気候変動や異常気象、戦争や紛争など。

今、世界では様々な問題が発生していますが、それらは人間の愚かしさの顕れです。その
愚かしさから道の尊さを実感すると、愚かしさは人間と道をくっつける糊となりますが、愚かしさに価値があるわけではありません。

個がテーマの時代は、自我を思い切り表現することで、自我の愚かしさを表現してきました。そのことを見通すことで、その認識を糊とし、群れとして繋がって生きる。そういう軌道修正が今、必要なのです。その先にある世界は、一人ひとりがヒトとして目覚め、人間を含めた地球生態系を一つの群れとして仕上げた世界です。それがどれほど尊いものかは、今の僕の想像を超えています。ただ、そこに至るように。今、目の前にあることをしっかりとやるのです。

木の花ファミリーのみんな@稲刈り神事です。

希望は思考の奥から湧いてくる

どんなに希望を見出そうとしても思考からは希望は生まれない。希望は思考の奥から湧いてくる。それは自分を生かしているこの世界の法則であり大いなる意思の力。そこから希望は湧いてくる。その力なしでは思考は空虚な空想となっていく。だから、思考は、大いなる意思に沿って展開するといい。そうするときっと、思考は希望の顕れとなり、人生は、人智を超えて無限の可能性に開かれていく。

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上記の言葉が僕に湧いてきたのは、ある日の大人ミーティングでジイジの話を聴いてから。その話はこんな感じの話でした。

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第二次世界大戦。当時の日本人は、全然違う情報を貰って、多少足並みの乱れはあったものの、国中が一丸となって、正しいと信じて、国策として戦争に突入し、その結果、日本中が焼け野原となりました。そしていよいよアメリカ軍が上陸してくるという時、人々はみんな竹やりを作って戦う準備をしていましたが、終戦を迎えて日本は負けました。その後、だんだん分かってきたのは、自分たちが聞いていた情報はまったく嘘だったということです。勝利どころか惨敗で、初めから勝てるわけがなかったのです。それで負けたのだと意気消沈していたところに米兵が上陸してきますが、そうすると日本人は、「男は全部、強制的に去勢される、日本人の種を無くすために。女は、米兵を見たら振り返ってはいけない。振り返ったらOKですよと言っているようなもの。笑うなんて絶対に駄目。もしも米兵が来て自分に近づいてきたら、自分は生理だと言いなさい。」ということがまことしやかに広がったといいます。
実際に米兵が来たらそんなことはなかったのですが、ではその発想はどこから湧いたのかと言ったら、日本人がそういう発想をしていたということです。何も情報がないのにそういう発想が出るということは、自分たちが、米兵が憎くて、「あいつらが来たらこうしてやろう、ああしてやろう」と思っていたからです。自分たちの心がそのような発想を生み出したのです。だから自分が発したことは自分の中にあることです。それを「ああだったから、こうだったから」と理由を話しだしたら、自分と向き合うことにはなりません。

そして、満州からは日本人の引き上げがありましたが、関東軍はソ連兵が満州に侵攻すると、何も言わずに逃げてしまって、残された満蒙開拓団の民間人は、なんか変だと思っていたら、ソ連兵による攻撃を受けて逃げ惑い、中国人は自分たちの田畑を奪いに来るのです。もともと日本人が中国人の田畑を取り上げて開拓に入っていたのだから、奪いに来るのは当然です。それでも中国人は意外に穏やかだったといいますが、ソ連兵は残虐でした。ソ連の精鋭部隊はヨーロッパ戦線に使われていました。そのためシベリアなど東方に向ける軍人が不足し、囚人を使うようになりました。囚人だから秩序が全くありません。もともと犯罪者なのだから、略奪や破壊、殺人、強姦を繰り広げます。満州の日本人はその中を逃げてきました。

人の生き方、死に方にはいろいろありますが、そういうふうに民族全体が狂っていた頃がありました。でもそれは団結することで正義になってきたのです。だから本当に真面目に振り返らなければなりません。戦争で、人類は正義を旗印にどれだけ残虐なことをしてきたか、そういうことを本当の学びとしていくにはどう分析しどう解釈したらいいのか、そういうことをしっかりとやっていかないと、命を懸けて狂った過去の犠牲を蔑ろにすることになります。

中国が建国70周年の式典で、その豊かさと繁栄を祝いましたが、それを誇るのが兵器、軍事力となっています。軍事力をもって何を誇り、祝うというのでしょうか。ですが、それが今の人間の実態です。日本では憲法9条改正の議論がされています。攻撃は最大の防御と言いますが、その奇妙な恐怖から人間が人間を信頼できなくなり、兵器を持って平和が保たれています。これは本当におかしな状態と言えます。

それで最近気づいたことがあるのです。あることに思考を巡らしている時に、思考と思考の隙間に出会います。あることに思考を巡らして一段落した時、次の思考に行く前に思考の隙間があるのです。その時にぱっと湧いてくるものがあります。それは思考ではありません。思考ではないもの。「だからもう一回、一からやり直そう」という想いです。生きていればいろいろなことに出会います。ドジをすることもあります。だからそれを良く振り返ってしっかり腹に落として次に生かすのだと。そういう想いが湧いてくるようになっています。それが生きているという証です。

そこで何回も同じことを繰り返すということは、生きているということに相応しくない思考をしているということです。生きているということは現象に出会うということ、現象に出会うとは、自分の言葉が具現化するということ、そして自分の行動が具現化し、自分自身が具現化します。具現化したことに対して、それを分析し、「だからこう生きるのだ」と学ぶことでヒトは成長していくのです。その繰り返しの中で、いろいろ振り返って、「だから満足だ、だからいい人生だ」と思えた時に逝く。それが人生を全うすることになるのです。

私たちは生きているのが当たり前になっているから、思考しているということは知っていますが、その思考と思考のつなぎ目の空間に生きていることの意味や癖があるということを知らずにいるのです。僕は最近そのことを発見しました。生きるということはそういうことなのです。生きるということは、一つの出来事が終わって死んで。次の出来事に出会い、誕生する。そして成就して終わって死ぬ。瞬間瞬間、生きる死ぬの繰り返しです。人の一生も魂の輪廻もそれと同じことでサイクルが少しずつ長くなっているだけです。つまりは枠の違いです。そして魂という大きな枠で捉える時、死に方の大切さが分かります。死に方を考えるということは、もっと身近な生き方を考えるということで、そしてもっと身近な瞬間瞬間を考えないといけません。この大事な想いは思考では生まれてきません。思考と思考の隙間の気づきによって生まれてくるのです。

魂の輪廻転生の仕組み:木の花ファミリー通信「ある世界とない世界」より


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思考と思考のつなぎ目の空間にある生きていることの意味や癖

そこに意識を向けることで、僕らは思考を自我から取り戻し健全にしていけるのだと思います。そしてそのことが、大型台風をはじめとする数々の災害に見舞われる現代社会の希望となっていくことでしょう。ということでそんな希望を語っている木の花ファミリー通信第99号「カタカムナ」からの文章を紹介してこの原稿は終わろうと思います。

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全身全霊とは、全身を構成する数十兆の細胞がパラボラアンテナとなり、脳の思考ではなく全身で響きを感受し、その響きを自らの命に染みわたらせ、言葉や姿勢を通して表現することを言います。私たち生命は、この世界を単独で生きているのではありません。まず大宇宙があり、その中に銀河があり、太陽系があり、地球生態系があり、人類がいて、私たち一人ひとりが存在しているという生命の序列のもとに生きているのであり、すべての生命は一番の大本である宇宙の根本原理に基づいて存在しているのです。自然界の動物や植物は自我による汚染がないため、細胞のDNAが純粋に宇宙と呼応しています。ですからその生命活動は、教わらずとも宇宙の仕組みを反映し、美しい表現となるのです。それに対し人間は、進化の過程において唯一、思考を持つ生きものとなりました。そしてその思考を自我によって実現する能力を与えられたことで、自らの欲望を満たす快感の虜となり、自我を肥大させ、自らが宇宙と呼応する存在であることを忘れてしまったのです。そして宇宙の根本原理から外れることで、現代人は今、生命世界を汚染し、破壊する存在にまでなっているのです。
人間が再び宇宙と呼応する存在となるために、私たちはもう一度、思考を自我から取り戻す必要があります。自我に翻弄されるのではなく自我をコントロールする立場に立つことで、思考を宇宙と呼応させるのです。その時に宇宙と対話するアンテナの役割となるのが、全身の細胞の中にあるDNAです。私たちが生命として生きる時、全身の細胞は既にその生命原理を持ち合わせ、女は女のように、男は男のように命を表現し、人生を全うします。それと同じように、宇宙生命の一部である私たちのDNAには、宇宙の始まりから終わりまでの情報が眠っているのです。そこには未来への設計図があり、私たちは生命として生きることで、それを体験という形で、次の時代への英知としてさらにDNAに刻んでいくのです。
その自らを自我の囚われから解放した時、私たちは本当の自由を生きることになります。「クニ」という思念をカタカムナでひも解くと、それは国境で区切られた領土のことではなく、自由「ク」が定着した場「ニ」を示しています。それが、クニ(地球)を生きることの真の意味です。自らを解放し、全身全霊をもって宇宙に語りかけ、全身全霊をもって宇宙からのメッセージを受け取るのです。
その時に、宇宙根源の純粋で美しい響きがあなた自身から発せられ、この世界に響き渡ることでしょう。その響きは、世界の歪みを解き、生命に活力を与え、壊れたものは自ずと修復され、正常に戻っていくことでしょう。それが天然循環の世界であり、カタカムナを生きるということなのです。


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