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人生とは場創りである(2)

今日、5月20日で木の花ファミリーに移住して丸9年となりました。これから10年目の日々を送ります。「10」はカタカムナで統合・悟り、そして「10」は「1+0=1」で新たなる旅の始まりでもあります。木の花ファミリーで暮らした9年間を一つの気づきとして昇華させ、これから一つ次元の上がった旅が始まります。

木の花ファミリーに移住して丸5年となった2014年5月20日、僕はみんなに対して「場創りをしたくない」と宣言をしました(「まなこいから11ヶ月」を参照)。そんな僕が今年の2月、「人生とは場創りである」と語るようになりました。場創りをしなければ生きる意味がないのです。

自分の希望や願望で動くのではなく、場を大切にすることで自分の価値を高めること。そうすると思いもよらない出来事に出会い感動し、当初の願望はどうでもよくなっていきます。それがこの9年で僕が得た気づきです。

これから新たな旅が始まりますが、その前日の夜、木の花ファミリーのみんなと「モアナと伝説の海」を観ました。この映画については以前、「天下泰平ブログ/モアナと伝説の海、そしてスサノヲ」で読んでいて心に残っていました。以下、少し文章を引用します。

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「モアナと伝説の海」は、もともとはポリネシアに伝わる神話をモチーフにしたようですが、その内容はいくつも日本の神話を感じさせる物語であり、特にメインに感じた神様は「スサノヲ」でした。

荒ぶる神、スサノヲ。

国生み神話の神である父神イザナギと母神イザナミ。

イザナギから生まれた三神のうち、アマテラスは高天原を、ツキヨミは滄海原を、そしてスサノヲは大海原を治めることを任されました。

スサノヲ=海の神=ポセイドンでもあり、日本神話にしろギリシャ神話にしろ、インドの神からユダヤの神に至るまで、世界神話には何かしらの共通性があります。

モアナでは、風と海を治める半神半人として「マウイ」という人物が出てきますが、彼はおそらくスサノヲがモデルだと思います。

荒ぶる神であるマウイは、この世界を作った女神の心を盗み、無人島へと1000年間も幽閉されていました。

女神の心がなくなった世界は、闇に覆われ、世界が破滅する危機を迎えます。

この辺りは、アマテラスの岩戸隠れを連想をさせる展開です。

またマウイが神であるためのアイテムとして「釣り針」が登場しますが、これもまたスサノヲの象徴である「剣」を連想させるものであり、やはりマウイ=スサノヲを強く感じさせます。

物語の中で最重要人物(神)となっているのが、この世界を創った女神テ・フィティ

本来の姿は、横たわった女性の島ですが、心をマウイ(スサノヲ)に盗まれたことで、悪魔の神テ・カァへと変貌し、心を探し求めて荒れ狂っています。

まるで、地から溢れるマグマの神。それこそ、ハワイ島のキラウエア火山に鎮座する火の女神ペレそのものであり、おそらくは悪魔の神テ・カァのモデルはペレかと思います。

火の悪魔、火の女神に挑むのが、水の神に選ばれた主人公のモアナ。

クライマックスでは、モアナが海を割るシーンがあり、海の底を歩いていきますが、これは完全に旧約聖書に登場するユダヤ人モーセの姿そのもの。

最終的に水の神と火の神の陰陽統合によって、心を取り戻して本来の創造の女神テ・フィティに戻り、世界も平和を取り戻しますが、水の神セオリツヒメの時代や陰陽統合の時代背景も考えると、かなり奥が深い映画のように感じます。

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5月3日、いさどんがジイジとなった時にハワイ島のキラウエア火山の噴火が始まりました。5月17日にも爆発的噴火が起き、今も被害が広がっています。そのタイミングでこの映画を観ることに意味をみかちゃんの言葉で確認しました。

この物語では、マウイが女神の心を盗むことからこの世の闇が始まりますが、マウイは人間に火を与えた存在でもあり、女神の心も人間の欲望を満たすために盗んだのです。つまり人間が自らの我欲を追い求めることが女神から「心」を奪うこととなり、結果、この世界に闇が広がっているのです。それは現代社会の姿と重なります。

闇が広がる中、モアナは海から選ばれます。それはモアナという存在を超えた大いなる流れ、意志の導きです。モアナは一度、それを放棄しますが、自らの意志で再びそれを選びます。それはマウイも同様で、大いなる意志の導きを自らの意志で選ぶこと。そこに生きることの意味があるように感じました。

この映画を観た後、ジイジは、男神アマテラスやセオリツヒメの復活について語りましたが、それは宇宙の大いなる流れの中にあります。その流れの中でそれぞれに与えられた使命、それを感じ、自らの意志でそれを選ぶことで未来の扉は開かれます。

自らの使命。それはきっと、自らの希望や願望ではなく、場を大切にし自らの価値を高めることで自ずから見えてきます。だから僕は、これからも場創りを大切にしていこうと思っています。

木の花ファミリーのみんな@田楽祭田植え祭り


価値あるものとして自分の想いを表現する

昨日、5152049分に牡牛座新月となり、そして今日、516020分に天王星が牡牛座に移動しました。2011312日から続いた天王星牡羊座時代が今日終わりました。牡羊座は12星座の始まり、自分自身の原点を表す星座です。そこに革命の星、天王星が7年間働き掛けていました。その最終日の昨日は新月、新月はリセットを表します。そのタイミングで僕は自分自身の原点の革命、リセットの確認をしました。それは2015102日の大人ミーティングです。この時の僕は人生最大の課題に翻弄され壊れかけていました。そして疲れて投げやりになり大人ミーティングでコメントを求められてもそれを断っていました。そんな僕に対してジイジ(当時はいさどん)は以下のように語りました。

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話すことがないというのはあなたの都合であって、そのあなたの都合が全体にどんなものをもたらすのか?そういうことを自分で感じてコントロールする段階に行かないといけません。今、自分にはまっているからそういうことを言っているわけだけれども、全体性というものを大事に考えていたら、そういうことは言わないはずです。

今のあなたの状態は定期的に起きてくるもの。定期的に起きてくるならば、今はそこのポイントのところに向う良いチャンスだと思うが、それをやらないといつまでも超えることは出来ません。今、何をやれという具体的なことは何も言いません。ですが、あなたのその姿勢では問題です。きちんと向き合い超えていく。それが覚悟というものです。一人一人が自分と向き合ってみんなで場を創っていくのです。そういうことをしないと次のビジョンは実現出来ないのです。

日頃、自分が安定している時に極めていこうという志と、一度何か滞って、自分から見て自分自身の印象が悪い時の開き直り、そして、やる気のなさがあなたの場合、極端になっています。ですが、それは本当は逆なのです。日頃の時ももちろん大事ですが、自分がやる気がなくなった時に自分と向き合う。そこが一番のポイントです。

日頃、一生懸命に積み上げていたものが、その状態だとある瞬間に全部ぶち壊してしまいます。このあなたの本質が変わっていないのは、覚悟を決めてそこに向き合っていないからです。

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こんな話がされている時、みちよちゃんは以下のオーロビルのマザーの言葉を訳していたそうです。

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The Mantras of Bliss and Transformation !

Are you ready to change yourself completely? 
You will have to throw off your ideas,ideals,values,interests,and opinions.
Everything will have to be learnt anew.
If you are ready for all this,then take aplunge;
otherwise don't try to step in.


至福と変容のマントラ

完全にあなたを変化させる準備ができていますか?
あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。
全ては新しいものとして学ぶべきことです。
もしあなたがこうした全てに準備ができていたら、飛び込んで。 
さもなければ、それには踏み込もうとしないことです。

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その言葉はまさに当時の僕に向けられた言葉で、この言葉を受けて、ジイジは以下のように語りました。

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僕があなたに伝えていることは、決してあなたに不愉快を与えるものではありません。どれ程の想いを込めて、そして願って、あなたの追い風になろうとしているか。そういうことが分かったら、今の状態でいる自分が、いかに恥ずかしいことで申し訳ないことであるかに気づくでしょう。

「あなたは自分の考え、理想、価値、興味、意見を捨てるでしょう。」というマザーの言葉。それは自我を捨てて、天のままに生きるということです。僕は昔、それを天のマリオネットと表現しました。でも、その考えは今は変わっています。昔、夜、外に出て上を見て、月が出ていれば月、星が出ていれば星、曇っていたら、その上に星や月を想像して語っていました。

「神さま、私はあなたの意志に沿うものです。」

そうすると、そういうことを語っていた時、その間違いに気付きました。「あなたの意志に沿うものです」ということは、あなたという意志があって、そして、それを受けている自分がいるということです。でもよく考えてみたら、あなたという意志はわたしに表れています。だから、本当のそれが通じた時に、私の意志はあなたそのものなのです。

あなたはわたし、わたしはあなた。

その時、「神さま」とそこに気持ちを向けたり、「あなたの意志」というようにそこに特定を持った時に、すでに自分、自我を成立させているのだと気づいたのです。

まわりてめくる。

すべては新しい出来事として学ぶべきことです。常に新鮮で新しい毎日が来るわけですから。

これを世間の価値観で生きる人たちはなんだろう?と思うかもしれませんが、すべての人が行きつく先はそこなのです。まだ社会がそこまで熟していない時に、我々が先駆けとしてこれをやっています。その構造が分かるならば、本当にそのことの貴重さ、尊さ、有難さを思って、あっさり一目散にそこに向かうでしょう。

なかのんはブログで立派なことを書いています。今の状態でそれを書くことは、偽物を書いて罪を犯しているような話で、それは自分の価値をどんどん落としているのです。でも、だからブログを書くなということではないのです。ブログに相応しいものになるとしたら、そんな状態でいるはずはないのです。

そこは僕のためではなく、あなたの価値を上げるということと、世の中の為にあなたに目覚めて欲しいと僕は願っています。

そして価値あるものとしてあなたのいろいろな思いが表現されていく世界を実現しなければなりません。愚かしいところで、目覚めない状態で自分の願いを叶えるということは、自分にとっても世界にとっても何もいいことはありません。そこを分かるということだと思います。

我々は何をするかというと、僕と同じような話をみんなにしろって言っているのではないのです。「みんなで」という気持ちで暮らし、それを人々に見てもらいたいのです。こんな素晴らしい世界がいっぱいに広がって欲しいから、人々に見て欲しいのですよ。たったそれだけです。

それは日常、みんなが気持ちよく「さーと」心が通っていって、「ああこれだったんだね。これがやりたかったんだね。」そういうことを言葉ではなく空気を感じて、「神さまの目的はこういう世界だったんだ」と理解することです。

これはとても身近にあって、アカデミックでもなんでもありません。哲学とか立派な話でもなんでもありません。

「あぁ、いい空気だね。」
「こういうところに生涯身を置きたいね。」
「こういう生き方を自信を持って、安心の場所でやりたいね。」

そう感じたら誰だって出来るんですよ。

僕はこういう話をしばらく避けてきましたが、みんなが僕の気持ちに共鳴するならば、僕からどんどん発信されて、「そうだね、そうだったね。」となるんだったら、いくらでも話す価値があるなと思うのです。

でも待ちの姿勢で話を聴いて、良い話だったねとなって後で忘れていくならば、僕もジレンマを感じてしまいます。みんなで良い響きを生み出していく。そんなふうでありたいです。

なので、お願いだから、人の心を調整するような時間をこの場に持ち込まないで下さい。自分の心は自分で調整して下さい。もうそういう段階です。それでも、残念ながら、充分に果たせなかった時に、それを投げやりにならないで、表に出して、みんなにそれを正す方法を請うて下さい。自分に実力がないのですから。

そして、みんなに助けてもらって、心から「ありがとうございます」と言って進んで下さい。そうしたら、あなたの未熟も「良い場創りに役だったね。」ということになります。

みんなが他者のことを思い合う。そういう心の表現に繋がるのですから。

だから未熟でもいいのです。本当にみんなに託していく。そういう場創りが大切です。そしてそういう場はいつでも表現出来るのです。道を難しい道だと思わないでください。


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今思うのは、やる気がなくなった時というのは、自分にとって都合の悪いことが浮上している時であり、そこに向き合うことが変革へと繋がるのです。壊れていく自分を見ていく。そして向き合っていくことで自分の原点にメスを入れ自分を変えていけるのです。

ですが僕はなかなかその作業をすることが出来ませんでした。そんな僕についてジイジは「往生際が悪い、覚悟が出来ていない、自分に執着している」と表現していましたが、まさにその通りで、僕はずっと自分の感情に執着をしていたのです。自分の奥から湧き上がる情動、自分と向き合いながらも最後の最後でそれに従うことを選んできました。ですが、本当の自分は情動の奥にいるのです。情動は自分から自由を奪うものでありその奥へ行くことで初めて目覚めることが出来ます。自分の感情に執着していた当時の僕はそのことに気づいていませんでした。だから努力をしていても最後の最後でその努力をぶち壊してきたのです。今はその構造が見えています。

2015102日、僕は自分自身の感情に翻弄されることで自分の努力をぶち壊しました。それは本当にひどい状態でした。そんな僕にジイジが語る言葉により僕は自らの愚かさに気づきました。それから僕はやる気がなくなった時、壊れていく自分を見てきました。それは自分の原点にメスを入れる作業であり、これからもずっと続けていくことです。

そして天王星は牡牛座に移動しました。牡牛座は五感の美しさ、豊かさを表現する星座です。これからそこに革命を起こしていきます。それは高い志の下、価値あるものとして自分のいろいろな想いを表現することできっと実現します。「みんなで」という気持ちで豊かさを表現していこうと思っています(^-^)


木の花ファミリーのみんな@田楽祭田植え祭り

「定め」とは変化し続けるということ

5月7日の大人ミーティングでは、ジイジブログ「線路は続くよ天までも」がシェアされました。そこでは人間の自由について以下のように表現されています。

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人間は、人生を30%の定めのもとに生まれてきます。そして残る70%は、自由が与えられています。その70%の自由によって、自ら落ちていくものもいます。
30%は、この世界を生きる上で、自分の力ではどうにも変えることのできない宿命です。それはいただくものです。その30%を、徹底して生きればいいのです。ところが人間は、70%の自由にばかり心を奪われ、30%を忘れてしまうのです。そうすると、自らの存在価値すら失い、取り返しのつかないところまで進んでしまうのです。
70%の自由を正しく使えるか、間違って使うかについては、それぞれの個性の違いはありますが、仕組みは皆同じ条件です。正しく使えない者は、それにふさわしい痛みを与えられます。そこでの痛みは、救済です。その救済の手に乗れば、痛みを学習として、正しく進むことができます。一方、70%の自由を正しく使う者は、現象として痛みをもらいません。痛みが伴わないことにより、進んでいる方向の正しさを確認していきます。痛みを伴わないと、人は奢って「これでいいのだ」と自我を増幅させるものですが、どんなに正しい道を歩んでいても、常に「これは天のご意向だ」という心があれば、ずっと痛みや問題ごとなく歩んでいけるのです。

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人生の30%は定め。そのことについて大人ミーティングでジイジは以下のように語りました。

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定めの30%は「1・2・3(ヒフミ)」。人間の基本です。動物ではなく人間として生かされている。人間は水や空気、食べ物がないと生きることが出来ないとても不自由な存在です。いろいろな制約があります。その事実にしっかりと向き合うことが人間を正しい方向へと導き、70%の自由へと生かされていくのです。

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30%の定めは人間の基本、そして「定めはいただくもの」とも述べられています。この「いただく」ということについて別の場所でジイジ(当時はいさどん)は以下のように述べています。

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宇宙は、常に変化することで成り立っています。波動が高いところでどんどんどんどん変化すること ─── それが活性化です。人間が自我を持ち、欲を持つと、変化しないことを求めるようになります。何かに囚われ、現状を守ろうとするのです。しかしその自我の欲が満たされても、人間は成長しません。むしろ、その欲に支配されて、不自由に生きることになるのです。
けれども、人間が自らを手放し、自分から解放することにより、自我の枠から離れることができます。この、自分自身を手放すことを、シヴァのはたらきと言います。シヴァとは、破壊の神の物理性です。宇宙は、この世界をどんどん変化させていきます。それは、無限の宇宙の中で、トキ軸を柱にし、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。

宇宙を生きるとは、どういうことでしょうか。それは、自分を手放すということです。ところが、現状に執着する人にとっては、それは苦痛となります。そして宇宙の流れに逆らってでも、現状を保とうとするのです。そうすると、宇宙はその人に問題ごとを与えます。それは宇宙の法則からのメッセージです。そしてそれが、神様が私たちに与えてくれている、愛です。あなたを捨てなさい。そして私と共にありなさい


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「いただく」ということは、古いものを捨てるということ

定めとは変えることの出来ない宿命。その宿命とは変化し続けるということです。その事実を受け入れること。そして出会う出来事に応じて変幻自在に自分を表現すること。それが本当の自由で、主体は常に「世界」の側にあります。

そして定めの30%は「1・2・3(ヒフミ)」で人間の基本です。その言葉から思い出すのは、「ひふみの法則」。以下、そのことを説明した文章を引用します。

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宇宙には天が意図した「ひふみの法則」というものがあります。
無意識に統合の時代を生きていた時代(ひふみの「ひ」=源)から、我々は「個」の体験を重ねるという分離の時代(ひふみの「ふ」=分離)を過ごしてきました。そして、今、まさに私たちは「生」の本来の目的を想い出そうとしているのです。(ひふみの「み」=意識をもって統合の時代を生きていく)。
『全ての生命(いのち)が響きあう場所で天に導かれて愛を生きる。』
競争やエゴ、自分(たち)さえ良ければ、今さえ良ければ、という世界ではなく、皆がひとつの真実の方向に向かって響き合う、「大いなる循環」の中で自らの輝きを活かしていく時代の到来。
 ~ 中略 ~自分自身を籠の中に閉じ込めているのは、「自分のやり方こそがベストだ」と信じ込んでいる自分自身なのです。その観念を一旦天へと戻して、認めたくない自分やもう二度と感じたくはない感情と再び出逢い、向き合い、その奥に在る、分離の時代には成しえなかった
『自分の中にある本当の想いや愛と繋がりなおす。』

そういうチャレンジを体験することが、閉じ込めた籠の中から輝ける自分自身を解き放つことにつながっているのです。


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こんなふうになって欲しいと世界を選り好みする自分、その自分が本当の自分を籠の中に閉じ込めます。なぜなら世界は自分そのものだから。定めをいただき変化し続ける中で認めたくない自分が浮上することもありますが、そこと向き合う中で本当の自分が解き放たれます。そんなふうに生きることが人間としての基本、僕はそんなふうに生きています。


富士山@2018年田楽祭

自我を天へと導く

5月3日はいさどんの67歳の誕生日。この誕生日を機に『いさどん』は『ジイジ』となりました(「いさどん」から「ジイジ」へ参照)。この大きなターニングポイントの前日の夜、みんなで「八番目の聖者 ~道はひとつ、心はひとつ」を読みました。この話は瞑想中のいさどん(当時)の前に7人の聖者が現れたお話、そして席が一つ空いていて、そこにいさどんが立つように言われたお話です。以下、少し文章を引用します。

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八番目に立つ聖者が、その七人の聖者のようにひとりひとりじゃないんだと。それは、19931228日に小包でいただいた言葉、「尊きものを見つけて、そこに行き、救われることよりも、自らが尊きものとなって、他を救えるものとなれ。これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」その言葉につながっている。

お釈迦様が、「ガンジスの川の砂のごとく衆生はおる。そのすべてに仏性あり」と言われた。「どんな人間の中にも、仏になる種が入っておるぞ」というふうに言われた。それはよくあるお釈迦様の言葉として、世の中にもそれを知っている人は沢山いると思う。

しかし、僕にお釈迦様は、そのあとの言葉を言われた。「ただし、その道を歩んだものにだけな」と。「すべてのものの中に真実の種があり、すべてのものに悟りへ行く道があるんだけれど、その道を歩まないものにはないぞ」と言われた。

そして、「これからは、ひとりびとりがイエスやブッダであるぞ」ひとりびとりが自分の中にある、宇宙の中心からくる神性、真理の種を開花させて、自分の中から光を外にほとばしらせる。そして、人に救われることばかりのもの、亡者として生きるのではなく、自分の中から光を出して他を救えるようなものになる。自分で自分を救えるもの。それが連鎖していけば、誰も救われる必要がない。ひとりひとりが目覚めて、キリストとしてブッダとして人々があったならば、この世界は救うものも救われるものもなく、それこそが理想の世界。地上天国になる。

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この文章はみかちゃんの提案によりみんなにシェアされましたが、提案した理由についてみかちゃんは以下のように語りました。

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八鏡文字

カタカムナで8(ヤ)は飽和安定、ヒフミヨイムナヤ(1・2・3・4・5・6・7・8)まで来て八鏡文字が完成します。八方ふさがりや闇(ヤミ)(8・3)という言葉がありますが、「8」まで来ると安定しますが、それは動きのない状態とも言えます。ですが、それは動き出す準備とも言えて、「9(コ)」で転がり出ることで「10(ト)」の統合、悟りへと至ります。これはヒトの歩む道を示しています。

過去の聖者が7つの席を埋めています。そして8番目の席、そこに一切衆生が座ることにより八鏡文字は完成し、世界は統合、悟り、コミュニティの仏陀へと転(コ)がり出ていきます。その時、人々は個(コ)の花を生き生きと咲かせています。7年前、いさどんの生前葬ではそのことを表現しましたが、現状は不十分です。そこから7年が経った今、本当にこの場でそのことを実現する時が来ています。

みかちゃんによる「八番目の聖者」の説明

冥王星の周期、庶民の目覚め、白陽期の開始は八鏡文字の「8」の場所になっています。

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『いさどん」が『ジイジ』となった大きなターニングポイントを迎え、時代はさらに目覚めへと進んでいます。その時代の流れの中で自分は以下のように思っています。

世界の中に浮かび上がった波としての自分。それが自我。その自我を天に向かって導くこと。それが今生の自分の役割です。長い間、波としての自我を自分と勘違いして来ましたが、それは本来の自分ではなく、愛し導く対象として与えられたものです。自我は反応体で目の前の出来事に独特のパターンで反応しますが、その反応を識別し、調和へと導くこと。それが僕に与えられた使命です。

自我は盲目だから、今までいろいろなトラブルを起こしてきましたが、僕はそれらすべてを刻み込んだ上で許します。なぜならそれらは見えない中で現実に翻弄されながら一生懸命に生きてきた結果だから。ですが、これから先は不調和な振る舞いは許されません。なぜなら、海としての僕が波としての自我を導くからです。もうこれ以上、自我が愚かな行いをすることを許しません。僕の自我は天へと導かれます。

そう、僕は愚かで未熟な自我を抱えていますが本当の自分に目覚めています。それは木の花ファミリーの暮らしの中でいさどんをはじめとするみんなに育まれたから。上記の文章に続いていさどんは以下のように語っています。

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僕は、この世界を救うものとして、この世界に派遣されるような立派なものではない。この世界を救うようなもの、イエスやブッダや他の聖者のような立場に立てるのだろうか。僕の中から、そんなおこがましいと自分をへりくだる心が湧いてきて、どうもしっくりいかない。それをずっと考えてきた。

富士山の頂上で、「その心、これからは、日の本の国全体に説くがよい」と言われた時も、「そんな、私にそんな大それたことができるわけがありません。
私にどうして、そんな能力がありましょうか」と、そうやって言われるたびに、
ずっとその言葉を否定してきた。

でも、最近になって思うのは、人間いさどんがひとりでそれをすることはできない。けれど、このいただいた心を自分の隣の人に伝えることはできる。ちょうど、自然の仕組みが利他であるように、自然は自らが存在することによって、自分が関わる両隣のために生きている。その仕組みが、いのちの仕組みとして、この世界すべてをつなげている。それが、いのちの仕組みであり、神様がこの世界をそれで治めておられる。

そして、この尊い仕組み、尊い心を自分が今もっている。それを両隣の人に伝えることができる。そして、この精神、想いは、人と人、いのちといのちのつながり、ネットワークにひとたび解き放たれれば、それが連鎖して、この世界にすべて行き渡る。そうなった時に、この世界が理想の世界になる。

「その心を日の本の国全体に説け」と言われたこと。そして、「尊きものを見つけ、そこに行き、救われることよりも」という言葉からくる、ひとりびとりがイエスやブッダ、すべての衆生に仏性がある、ということ。それは、この宇宙のもとにある一番のエッセンス。その心にひとりひとりがなれる。

そうして、八番目の聖者というのは、ひとりの人間ではなく、すべての人々の中にある仏性、神としての心。宇宙の根源から分かれてきて今がある。それを思い出した時に、すべての人の中に八番目の聖者たる資格がある。

それに皆が目覚める時代、それが今の時代。自分も八番目の聖者だけれど、すべての人が八番目の聖者である。そういう時代が幕を開けようとしている。そういう時代がこれからの時代なんだ、ということがわかってきた。

その見本とする生活が今ここにある。ベトナムの僧侶、ティク・ナット・ハンが言った言葉、「次のブッダは人間の姿で現れることはないだろう。次のブッダはコミュニティの姿で現れるだろう。それは他者を理解しようと努め、互いを慈しむ優しさを持ち、大事なことを常に意識しながら、人々が暮らすコミュニティである。これこそ地球の命をつなぐために私たちにできる、最も大切なことではないだろうか」という言葉にもつながる。

僕は、瞑想の時代にお釈迦様に問うた。「こうやって私もいつか人々の心の問題に答えながら、人々が集まり、組織ができ、新興宗教の教祖のようになるのでしょうか。」そうしたら、お釈迦さまが言葉を返されて、「これからの時代、組織をつくるのではないぞ。人々が集え。集い語り合え。語り合う中から真理が生まれる時代である。そういった中から世は開かれる」と言われた。

「そのひとりひとりはすべて今の仲間、そして地球にいる仲間たち」、そこに気づくことができた。

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いさどんが尊い心を両隣の人に伝えてきたように、そしてこれからも『ジイジ』としてその実践を続けるように、僕も自我を天へと導くことで育まれた尊い心を伝え続けていこうと思っています。

恵みいただきます

下之坊の藤の花

先日、下之坊へ行ってきれいに咲いている藤の花を見てきました。ここに来ると3年前のこの時期を思い出します。下之坊で僕は「匂いの世界」に入って行きました(「見えない世界、そしてない世界を生きていく」参照)。

当時の僕は視界から自由になりたいと強く思っていました。それが自分の自由を奪っていると感じていたので。その後、しばらくして僕は自らの感情に飲み込まれそして自由を失っていきました。

感情は浮かんでは消える波のようなものです。その奥には海である自分がいて全世界と繋がっているのですが、波に飲み込まれると海である自分を見失い、波(感情)だけの認識に囚われていきます。それは思惑も同様で、常に感情や思惑の奥に行くことを心掛けることが自由への道だと思っています。そこに宇宙と共に変化変容を繰り返す本当の自分、そして本当の認識があります。そこに至った時、本当の自由を得ることが出来て、視界もそこから生まれたものならば、きっと自分に自由をもたらすものとなります。今はそんなふうに思っています。

話しは変わって。

3年前、木の花ファミリーでは月に一度の食事会「恵みいただきます」が開催され、毎回200名前後のお客様をお迎えし、豊かな時間を提供していました。そしてその頃、いさどんは以下のような話をしていたのを思い出しました(「恵みいただきます」は2017年1月を最後に休止しています)。

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「恵み」とは生きることそのもの。人間は何かを貰った時やご利益を得た時に「恵み」と考える傾向がありますが、人は生きることにより物事を認識していきます。その認識こそ「恵み」です。先にこの世界があり、自分という個性が組み合わさります。一人一人個性的な眼鏡でこの世界を認識していきます。人間は他の生命とは違い自由が与えられ、自己実現の願望を持ちます。そして広い視野を持ち尊く生きることも出来るし、狭い視野に陥り地獄を生きることも出来るのです。それらすべてが恵みです。




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「恵み」とは認識。これはお釈迦様の「天上天下唯我独尊」にも繋がる言葉です。

この世界ではすべてが繋がりあって存在して、他が存在しなければ自分は存在しません。ですがそれを認識するのは「我」です。そういう意味では「我」がなければ、無に帰するとも言えます。そのため、「ただ我だけを尊ぶ」という宣言に繋がります。これがお釈迦様の天上天下唯我独尊で、認識に価値を置いた宣言と言えます。

そして別の場面で、いさどんは「いただく」という言葉についてこんなふうに述べています。

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宇宙は、この世界をどんどん変化させていきます。それは、無限の宇宙の中で、トキ軸を柱にし、常に先へ先へと、未知なるところに向かって旅し続けているということです。それが生命の宿命であり、宇宙を生きる上で正常な状態なのです。その中で、私たち人間も、自らの価値観を絶対とするのではなく、宇宙が変化していく流れをいただいていく。「いただく」ということは、古いものを捨てるということです。


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そして「いただきます」は「頂き(いただき)」が「増す(ます)」ということ。これはガンと向き合ったきょうこちゃんといさどんやみかちゃんとの会話の中から出て来た言葉です。

ということで。

「恵みいただきます」とは、出会う出来事を通して古い認識を捨て、新しい認識を得ていくこと。絶えずそれを繰り返すことで「恵み」である認識を広げ「頂き(いただき)」という無限に増していく高みへと昇っていくことなのです。

またはこうも言えると思います。

生きているということは生かされているということでこの世界の恵みをいただいているのです。人間は認識という恵みによってそのことを知ることが出来ます。そしてその恵みはいただく、古いものを捨てることでどんどん増していく、つまりどんどん豊かになっていくということです。

認識という恵み。それを生かすも殺すも僕らの自由。それを生かそうと思うならば、古いものを常に捨て続けることなのだなと思いました。

そして今日、南北朝鮮の首脳会談がはじめて韓国で行われました。そして両国の首脳が軍事境界線を超えて互いの領地に足を踏み入れました。その姿を見て、なぜかとても感動してしまいました。あまりこういう政治パフォーマンスで感動することはないのですが、今回はなぜかとても感動しました。こういう会談にはお互いの思惑があるものですが、思惑があったにしても歴史的な一歩が刻まれました。それは時代というトキの流れに刻まれ、互いの思惑を超えた展開を見せることもあるのではないか。そんなふうにも思えました。まぁ、変に期待し過ぎるのも思惑になってしまいますが。なんにせよ、新しい動きに合わせて古い認識を捨て、新しい世界を見て感じていこうと思いました。

この世界の恵みをいただき、常に認識を新たにしていくこと。それが「恵みいただきます」という言葉が伝えてくれるメッセージです。

ということで。

最後に、以前「恵みいただきます」で提供していた料理を少し紹介しますね。この「恵み」は今、カフェ&ショップ ロータスランドにて生かされています。








出来事に解体され出来事に生み出される

悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つとこの世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
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上記は2年前の4月8日、お釈迦様の誕生日にいさどんに降りてきた言葉です。悟りについて語っていますが、悟りについていさどんは別の時、こんなふうにも語っています。

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カタカムナによると、宇宙は、八つで飽和安定だね。八鏡文字で言えば、円があってそこに宇宙最極小微粒子の「カ」が集まっていって、そして「ヒフミヨイムナヤコト(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)」とエネルギーが集まることによって現象化して、この世界ができる。「コ」で転がり出て「ト」で統合する、その現象化の前の「ヤ」、つまり八の状態は、とても安定した状態だよね。そうすると、そこでは現象化は起きないんだよ。だからそれをわざわざ九まで進めた。八の飽和安定はそのまま止まっている状態だけど、九まで行くと、常に変化変容を繰り返すということ。それは地球の実体であり、宇宙の実体でしょう。飽和安定した世界も、そこを超えると、現象化ができて、それが宇宙の実体なんだよ。
宇宙というのは、本来はないもの。飽和安定の先に、「ある」ということを認識するために九を創ったのだから、その前の飽和安定の状態では「ない」んだよ。だから「ない世界」なんだよ。何もないんだから。

だけど、「アマ」というのは「ある世界」の元を創った。その「ある世界」ができたことによって、この世界はもともと「ない世界」だったけれど今は「ある」んだな、ということが理解できる。そこでトキとトコロが統合して、悟りになるんだよ。統合とは、理解なんだよ。

~ 中略 ~

生きていれば、変遷を見ていくことが出来る。変遷を見るということは、客観的視点で見るということであり、それが悟り




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この文章を見て「変遷を見る」ということはトキの差を取ることだなと思いました。今この瞬間を切り取ってそこだけに反応するのではなく、過去から未来へと続く宇宙の流れを感じることでトキが繋がりひとつになっていくのです。

悟りとは自分と宇宙の差を取ること。それはトキ軸とトコロ軸、両方について言えることで、宇宙の始まりから今に至る歴史、そこから未来へと繋がる時間軸、そしてどこまでも果てしなく広がる空間軸、時空を超えてすべてとひとつとなるのが悟りです。

こんなふうに壮大な悟りの意識。では悟ったものの日常はというと、ただ与えられた役割をたんたんとこなすだけなのだと思います。悟りとはトキとトコロの統合であり理解。決して万能になるわけではありません。髪の毛は髪の毛のまま。爪は爪のまま。それは身体全体からしたらちっぽけなものかもしれませんが、確かに身体の一部でありそれぞれの役割があります。そしてそれぞれがその役割を確実にこなすことで身体全体が機能しています。人間も同じで、宇宙全体からしたらちっぽけなものですが、確かに宇宙の一部であり、それぞれがその役割を自覚し確実にこなすことで宇宙全体が美しいハーモニーを響かせるようになるのです。このような視点、理解があれば、どんな役割も宇宙全体と繋がり誇りを持って生きることが出来るようになります。それが悟りなのだと思っています。

そしてこれは頭による理解ではなく心による理解です。「自分の役割は○○だ」と決めつけるものでもありません。変化変容を繰り返すのが宇宙の本質です。ならば、それに合わせて自分も変化し、役割も変化していくものです。

出会う出来事によって自分を知り、出会う出来事によって変化していく。それが本来の人の姿で、そこから本来の役割も見えてきます。ですが、人間は自我を持ち、今の自分に囚われこだわることがあります。そうすると本来の自分、そして本来の役割を見失い、変化が阻害され滞りに出会うことになるのです。今は世界全体がそのような状態になっています。

自我は自らの秤を持って世界を図りますが、人間は長らくこの自我の欲望を満たそうとしてきました。その結果、世界は自我の欲望で膨れ上がり、はかりごとに満ちています。それは闇のピーク(2012年12月21日)へ向けての宇宙の流れを受けたものとも言えますが、今、宇宙は銀河の夜明けを超えて光へと向かっています。膨れ上がった欲望をそぎ落とし、きれいにしていくサイクルに入っているのです。

宇宙の流れに沿うこと。それはすべての人に与えられた役割と言えます。

大気汚染や海洋汚染、戦争や紛争、政治の腐敗、経済格差や貧困や飢餓。

今の汚れを生み出しているのは今までの人類一人ひとりの歩みです。変遷を見ることでトキの差を取り、今この瞬間で過去を浄化していく必要があります。起きた出来事は変わりませんが、その意味付けを変えることは出来ます。泥は、土足で入ることで建物を汚すものともなりますが、美しい蓮の花を咲かす土台ともなります。泥は、状況次第でいろいろな影響を与えるものとなります。同じように、今この瞬間に過去が与える影響も、意味付け次第でいろいろなものに変化していくものなのです。

今、星々からのメッセージはそぎ落としです。自らの秤をなしにし、「ない」から「絶対有」へと至る道を辿り続ける必要があります。それは出会う出来事に向けて常に自分を解体していくことなのだと感じています。出来事に心の開き自分を解体し自分をなしにしていく。そうすると出来事が新しい自分を生み出してくれます。その繰り返しの中で余分なものはそぎ落とされていきます。そしてそれは過去にも至り、過去の意味付けも余分なものはそぎ落とされ今この瞬間に活かされるようになっていくことでしょう。

出来事に解体され出来事に生み出される

僕はこれからそんなふうに宇宙の流れを感じながら生きます(^-^)

蜜蜂さんの生き方は見本となります(「蜜蜂のように生きる」をご覧ください)

正義のメッキを剥がして本当の姿を見ていく

4月16日の10時56分に牡羊座新月となりました。今回の新月は天王星と並んで起きています。天王星は2011年3月12日、東北大震災の翌日に牡羊座へと移動し、今年の5月16日には牡牛座へと移動します。そのことについて、かとうゆかさんは以下のように表現しています。

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天王星と牡羊座の新月。

天王星といえば、7年間牡羊座にあったわけですが、来月の中頃に牡牛座に移行し、ここから7年間牡牛座にとどまります。

この新月は、天王星の7年間のサイクルの総仕上げ。私たちは7年間かけて、「自分」というものに革命を起こしてきました。

「自分」の本来の持ち味や、情熱を阻害する全てから脱却しようと取り組んできた7年ではないでしょうか?

何のために生きているのか?

という問いから、

人間関係のリセットを行い、属する分野やカテゴリー、環境などから脱出する決意を持った人も多かったのではないかと思います。

「自分」を偽ったり誤魔化したり制限したりする、あらゆるものを取り壊していく革命を起こすような7年間。

ある人にとっては、間違ったルールで縛りを設ける古い体制の会社や環境に対して、No!を突きつけた実機もあるかもしれません。

しかし、壊すべきは自分。

古い体制の物を壊すのではなく、古い体制のものの中にいとどまり、自ら自由に生きる世界をクリエイションするためのチャレンジができない自分を壊していくことが重要です。

革命という言葉を聞くと、他者や社会に向けて改革を起こしていくイメージを持ちがちですが、自分の生き方が革新的であることでしか、社会を変えることはできません。社会を変えたり、誰かを救うことができる人は、自分を変え、自分を救った人だけです。手を差し伸べ誰かを救うために立ち止まり取り組むのではなく自分が率先して自己改革を進めることによって、同じように自分を救う自立した人への刺激を与えることでしか、人を本当の意味で救うことはできません。

自分でしか自分を救うことはできません。

自分が誰かを救うことはできない。

自分が自分を救う方法を体現して見せることならできる。

そこから目を背け、自分の人生へのチャレンジよりも、誰かの人生に意識が向いてしまうことを本気でリセットし、潔く、言い訳も、回り道もせず、自分の人生に本気で取り組むための決意を固めるのが、今回の天王星と重なる、牡羊座の新月です。

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そんな牡羊座新月の夜、木の花ファミリーではいさどんからここで暮らす意味を再確認する話がされました。その話から僕が感じたエッセンスは以下の通りです。

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生きることの目的は変化変容を繰り返すこの宇宙の流れに沿って生きること。木の花ファミリーの暮らしはその先駆け。一人ひとりの人生の意味は、流れに沿う中で明らかになっていく。そのために出会う出来事に心を開き、今までの自分が生み出したものとしていただいていくこと。環境と響き合って変化していく。そういう心を一人ひとりが創り上げて、みんなでひとつの世界を表現していく。

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変化変容を繰り返すことは今の自分を壊し続けることです。

ちなみに2010年12月、天王星が牡羊座に移動する少し前、僕は以下のような状態にありました。

☆彡 ☆彡 ☆彡 (2010年12月7日に書いた言葉)

メッキがはがれたのだと思う。困難からは逃げて、自分の都合の良いように解釈し、嘘をつき、びくびくして、いつも自分をみんなが忘れてほしいと願う。
自分は生きる資格のない人間で、本来なら死ななければならないけれど、死ぬことも許されない。だからもがき続けるだけ。そんなふうに思って生きてきた自分。
でも、ここ数年そんな思いは忘れていた。でも時々「しくしく泣いちゃう感じ」として出てきた。絶望感と無力感。僕はやり過ごしていた。
自分に別の人格を作り上げることで、最低人間の自分を超えようとしてきた。
そして、超えたと思っていた。でも、今、自分が噴き出してくる。
結局、僕が今までしてきたことはメッキを塗っていただけ。
剥がれてくれば、最低の自分が噴き上がる。
あの苦しみはもう味わいたくない。もうこのままぼーとして無気力に生きていたい。
そんな気持ちが湧き上がる。そうしたい。
でもそれはできない。僕はもうあまりにも木の花のみんなと関わりすぎた。
僕の心はもうすでに僕だけのものではない。
はじめからそうか。世界と僕は一つなんだから。
ここでの暮らしはその事実を分かりやすくみせてくれているだけ。

僕はこの地球に対して自分ひとり分の責任を負っている。だから投げ出さない。

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メッキの奥にある本当の自分にメスを入れ始めた瞬間です。そしてそれが出来たのは木の花のみんながいたから。みんながいたから自分の責任に気づくことが出来ました。みんながいなければ僕は自分が生み出す苦しみに埋没し投げ出していたと思います。

人は出会う出来事を通して自分を知り、出会う出来事を通して変化していきます。

それは自分の思考や思惑、想像を超えたもので、世界が人を生かし、世界が人を変えていくのです。大切なのはその流れに沿っていく意志を持つことです。

あれからほぼ7年。天王星が牡羊座にいる間にそんな意志を育んできました。その意志は生きる上での根本姿勢と言えます。

そして一昨日、陶芸小屋に行った時、興福寺の阿修羅像のチラシを見たことから阿修羅について知りたくなり以下のような文章に出会いました。

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古代インドの神々を統率していた神は帝釈天といい、阿修羅(あしゅら)は統率されていた一神格です。

阿修羅には舎脂(しゃし)という娘があり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていましたが、そうとは知らない帝釈天は舎脂を力ずくで奪い、凌辱しました。怒った阿修羅は帝釈天に戦いを挑みました。

一方、舎脂は、戦の最中にも関わらず、逆に帝釈天を愛してしまい、阿修羅はそのため更に逆上し、争いは天界全体を巻き込む大戦乱となりました。

このため阿修羅は復讐に燃える悪鬼とされてしまい、勝てる筈もなく敗れた阿修羅は天界から追放されてしまったのです。

ところで、阿修羅と帝釈天はどちらが正で、どちらが悪でしょうか。

阿修羅は我が娘を陵辱した相手を懲らしめようとしたのであり、帝釈天は他神の娘を陵辱したのですから、阿修羅は正しく、帝釈天は悪であるはずです。

しかし、阿修羅の娘である舎脂は帝釈天の正式な夫人となっていたにも関わらず、戦いに目を奪われた阿修羅は相手を赦す心を失ってしまったのです。

つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となってしまうという教えを読み取ることができましょう。

仏教では死後に生まれかわる世界を六道世界(天界・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄)と説きますが、天界を追われた阿修羅は、正義を振りかざす妄執の悪鬼として人間界と餓鬼界の間に置かれたとされています。

地獄・餓鬼・畜生よりはましだが、復讐の鬼となっている姿は人間以下だという意味が込められているのでしょう。

興福寺の国宝・阿修羅像は有名ですが、あのお顔はどこか神経質そうな顔をしています。


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たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる

これはとても大切なメッセージだなと思いました。人は正義に側に立つとそれで「善し」にして自分を見なくなります。ですが、その正義は絶対的なものではなくあくまで自分の視点から見た正義です。先日、アメリカ、イギリス、フランスが正義を主張しシリアを攻撃しましたが、ロシアは別の正義を主張しています。お互いが正義を主張した結果争いへと至っています。正義はメッキのようなものです。その奥には汚い心があるため争いへと至るのです。

今、世界は正義のメッキを剥がし本当の姿を見ていく必要があります。そしてそのためには出会う出来事と謙虚と向き合う必要があります。だから僕は一人分その実践をし続けます。それはきっと本当の幸せへと至る道となっていくことでしょう(^-^)

木の花ファミリーの暮らし(ウェルカムコンサート)です。


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