9月のはじめ、僕はある出来事で傷つき怒るということがありました。そして、以下の文章を書きました。
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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。
僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。
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あれからもこの出来事については振り返っていますが、その過程である事実に気づきました。僕は怒った相手に対して自分の状況や気持ちを理解して貰うことを求めていたのです。だから冷静に相手の話を聴くことが出来ず過剰に反応したのです。そしてこのことに気づいたトキ、1年前の10月に書いた文章を思い出しました。以下、その文章を引用します。
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先日、僕はある出来事に出会い傷つき怒るということがありましたが、それは自分が発した「想い」の響きが生み出したものであり、相応しく与えられたものです。そして、傷つき怒ったのは、自分の認識が、自他を区別した「自分視点」になっていて、元の「想い」へと至っていないからです。元の「想い」へと心を向ければ、そこに善意が見えてきます。そして、そこから学ぶことで他者に対する愛が生まれ、調和を表現できるのです。それは絶え間なく続けていく心磨きの道です。例えば、一瞬「善意」が垣間見られたとしても次の瞬間には「自分視点」に戻っていく。それは自我を持つ人間の特徴です。だからそのことを忘れずに元の「想い」へと意識を向け続けるのです。そうすれば、自分の「想い」に翻弄され、傷つき怒ることがだんだんなくなっていくでしょう。
僕の傷つきと怒りは「自分視点」が生み出したものであり、僕の未熟を表していますが、その背後に「想い」を馳せれば、種が見えて、そこに善意を感じることが出来ます。そこから見えてものを心に留めて学びを深めることで、傷と怒りを愛と調和へと変換していこうと思っています。
「傷と怒りを愛と調和に変換していく」より
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あれからもこの出来事については振り返っていますが、その過程である事実に気づきました。僕は怒った相手に対して自分の状況や気持ちを理解して貰うことを求めていたのです。だから冷静に相手の話を聴くことが出来ず過剰に反応したのです。そしてこのことに気づいたトキ、1年前の10月に書いた文章を思い出しました。以下、その文章を引用します。
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我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない。
上記はアインシュタインの有名な言葉ですが、今、直面している問題は自分たちの想いの結果生み出されたものです。自分の想いを通そうとしても、突破できないのは当然と言えます。ですが、人はそれを周囲のせいにすることもあります。自分の考えは正しいのに周りの理解がないから実現出来ない。こんなふうに考え、それに固執し、その結果、停滞していくのですが、それも自分の想いが生み出している現実です。
気づきとはこの世界に対する理解です。それを得るためには世界に起きていることをただの情報として眺める視点が必要となります。感情や思惑が挟まると世界は自分の色に染まっていきます。そして、想いのままに行動することになり、そこに気づきは生まれません。
人は他者からの理解を求めるものです。ですが、その時理解される自分とは今の自分であり、今の自分が現在の問題を作ってきたのです。だから他者からの理解を求めることはないのです。そうではなく、ただ世界や他者を理解していく。そのことに努めた時、自ずと気づきは生まれ、それが新しい動きとなっていきます。
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他者からの理解を求めることはなく、ただ世界や他者を理解していく。
そのように心掛けようと決めていて、そのように実践してきたのですが、あのトキ、僕は自分を理解してもらうことを求めていました。そしてそのことに無自覚で、僕の中には自分をアピールする心もありました。これではいけないと思いました。
理解なんて求めずにただただ相手の話を聴けばいい。
そんなふうに思い、そんなふうに実践しようと決めました。そのためにはより深いところから自分自身を見通す必要があります。
自分の中にアピールする心がある。アピールする心で思い出すのが、5年前の9月にジイジ(当時はいさどん)とした以下の会話です。
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なかのん:
質問があるんだけれども、自分らしく生きていることと自己主張をしていることの境界ってどこにあるのかな?
いさどん:
自己主張は主張でしょ?誰かに何かを主張している。分かって欲しいと求める対象がいる。自分らしく生きることには対象はない。ただただ淡々と生きているだけ。自分らしく生きている姿は美しく気持ちがいいけれども、自己主張は気持ちよくない。正直に生きていても、それが自己主張になってしまっている人がいる。それはアピールして人に分かって欲しいと求める気持があるため。そういう人は気持ちよくない。世界と自分、両方から離れて眺め、自己主張を超えていく必要がある。
なかのん:
何かを分かって欲しい気持ちがあるか?それが一つのチェックポイントになるんだろうね。僕は、自己主張はいろいろなところに入り込むって常々思っているんだ。例えば、一生懸命に働くことの中にも自己主張は入り込む余地がある。「俺はこれだけ仕事をしているんだぞー」みたいに。
いさどん:それは誰にアピールしているの?
なかのん:みんなかな・・・
いさどん:その時はみんなと自分を分けているんだよ。
なかのん:そうか・・・アピールするってことは分けているってことか・・・
いさどん:
そうだね。僕なんかそんな感じはまったくないよ。僕が淡々と仕事をすることは木の花全体の仕事を進めることで、全体に仕事が進むのは良いことだしね。
「だからひっくり返ることが大切」より
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アピールするのは分けているということ。
ここで思ったのが、自分がアピールをしたくなった相手は普段から身近にいて心の距離が近い人です。肉親でもそうですが、距離が近い相手に対して「より分かってほしい」という気持ちが生まれ、だからこそ、そこに感情が挟まりアピールする気持ちが生まれます。遠くで暮らす他人に「自分を分かってもらおう」なんて気持ちはあまり生まれないものです。
アピールをするのは分けているから。
ということは身近な人ほど自分から分けていることになります。これはどうしてだろう?と思ったトキ、この世界の始まりの話を思い出しました。以下、その話を引用します。
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遥か昔、この世界は、光だけの世界でした。光だけの中にいては、光は見えません。完全なる光そのものである神様は、退屈でした。「完全なる私は、完全であるがゆえに、私を知ることができない。」そこで神様は、完全なるその体を分けられました。光とは何かを分かるために闇を創り、それを自身からもっとも遠いところへと投げたのです。そして、もとの光へと還っていく長い長い道を創られたのです。
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神様は光そのものである自分を知るために完全なる体を分けて闇を創られました。同じように人は、自分を知るために他者を自分から分けるのではないかと思いました。そしてそれは自分の感情が揺れ動く存在に対してより際立ちます。ですが、何のために分けるのかと言ったら、自分を知るためであり、「すべてがひとつである」ことを理解するためです。
多様性が本質であるこの世界では多種多様な違いが存在します。自らを分けると書く「自分」、そこから生まれる自我は、違いを際立たせることで他者を分けていきます。ですが、それは何のためかと言ったら、そのことを通して「すべてがひとつ」ということを理解するためにあるのです。
ここでもう一つ、ジイジの言葉を紹介します。
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生きるとは、自らの魂が生み出す「思い」を表現することです。思いは、それぞれの響きを持っています。私たちが生きて、思いを表現すると、その思いの響きがこの世界の何かしらに当たり、ふさわしい現象となって自らに返ってきます。自分がどのような響きを発するかによって、世界はその響きに正しく応え、ふさわしい出来事を与えてくれるのです。そうすると、人生で出会うすべての出来事は、自分自身を観ていると言えます。つまり、この世界は鏡なのです。
~ 中略 ~
生まれてきて、生きることは、命の仕組みです。それは宇宙の法則の中にあります。人生を生きるといろいろなことに出会いますが、その出会いは、自らの魂が何を発したかによって、それにふさわしい出来事が返ってきたということです。返ってきたものを見て、私たちは自分自身を知るのです。
その時に、返ってきたものを見て、これは私のものじゃない、誰か他の人のせいだ、世の中のせいだ、運が悪かったんだ、という人がいます。それでは、自分に都合の良いものが返ってくるように、お金で買いますか?そんなことはできませんね。それは、返ってきたものを自分のものとして受け取らないということです。
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この世界は鏡、出会う出来事はすべて自分自身の顕れであり、自分のことを教えてくれています。だから理解を求めるのではなく理解をしていくことが大切なのです。そのことを通して「すべてがひとつ」であることが見えてきます。
他者からの理解を求めることはなく、ただ世界や他者を理解していく。
それは世界という鏡を通した自分自身の探求であり、最終的には「すべてはひとつ」という根源へと至ります。だから僕はこんな感じで生きています。
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僕は海。そして浮かんでは消える波として人生を送ります。
波としての自分に焦点を当てれば、それは自分の人生と感じるかもしれませんが、僕は本来、海そのものなのです。だから、波(自我)としての自分は他のすべての波(自我)と同様で、世界の彩りの一つに過ぎず、それはみんなのものなのです。
僕は自分を通してみんなの人生を生きる。
それは僕の人生が僕だけのものではなくみんなのものでもあるということです。
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