叶わない願いがある、だからこそ人生には意味と価値がある。


木の花ファミリーのみんなです。


常に意識を全体性に持っていく必要があります。あなたは今、個人的願望を抱えているわけだけれども、それをどう超えていくのか?それが重要です。個人的願望が全体性と共通していればいいのです。例えば、個人的願望が宇宙の法に基づいていたら、それは理に適っていきます。個人を高めるためというならば、それは全体性を持つことが個人を高めることであり、全体性と個人は本来、共通していることなのです。ですが、個人が抜きん出てしまうと、天が「それは違う」と滞りを与えてくれるのです。

心を磨いた結果出会うことがあります。願いが叶わない状態も自分を高める要素です。「はい!分かりました」と叶うようなことなら、その願いは本当に自分を高めません。

だから何より心を磨き続けることです。

そして、自分を高める努力をしていると、その努力したことでエネルギーが消費され、他のものはいらなくなります。いらなくなった状態をさらに超えた世界。共通の世界で極めていく世界がその次にあるのです。個人で高める努力から「みんなで」とか「一つになる」というところで極める世界があるのです。

それは前人未踏の世界。我々は前人未踏の世界を創らなければならないのです。



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上記は2015年の七夕にジイジから語って貰った言葉で、僕にとって大切な言葉の一つとなっていますが、僕はこの言葉を少し違うふうに捉えていたことに気づきました。

願いが叶わない状況が自分を高めるのは確かなのですが、願いが叶わない=心磨きが足りない、だから、心を磨いて願いを叶えなければならないとなると変な話になっていきます。ここで昨年の秋分の日に僕が書いた文章を紹介します。

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学びのない姿勢のまま、現象を追い求めていることを「欲」と言います


ジイジは「欲」について、上記のように述べていますが、「欲」が生まれるには、生まれる「余地」が必要なのだと思います。「欲」と「余地」。両方とも「よ」がつきますが、カタカムナで見ると、「よ」は「4」であり混沌を表す思念です。「よ」(4)は、「い」(5)の方に進めば、「よい」となるのですが、「み」(3)の方に戻ると、「よみ(黄泉)」となり、死の世界に入っていきます。「よ」はどちらにも転がりえる、混沌の中にあります。「よ」がつく言葉を見ると、喜び、良い、淀み、汚れなど両義的なのはその表れであり、それは「世」、人間の世の中そのものと言えます。
「余地」の「ち」は持続を表す思念であり、「余地」とは混沌が持続している状態、どう転がるか分からない何にでもなり得る状態と言えます。そして「欲」の「く」は自由を表す思念であり、混沌のままに自由に動きまわる状態が「欲」と言えます。

自我を与えられた人間は、自分の思考という「余地」を与えられ、そこから「欲」が生まれます。出発点が「自分の思考」なので、欲深い人は物事が思い通りになることを求めます。そしてそれは思い通りにならないことへの苛立ちや不安となり、時には未来への恐怖となって表れます。思い通りにならないことを恐れるのです。ですが、僕たちが出会う出来事は、自分の生きた証であり、相応しい結果です。ということは、苛立ち、不安となり、未来を恐れることは、自分自身に苛立ち、不安となり、自分自身を恐れることを意味します。

変化変容が本質であるこの世界では、未来は常に未知なるものです。そして、それは自分自身にも言えることです。現象を追い求める「欲」の心は、そのような未来や自分を思い通りにしようとします。その結果、未来や自分の現実が見えなくなり、混沌が深まっていくのです。「欲」の心は、混沌のままに動きまわることで、混沌を深めていきます。


気候変動や自然災害、紛争や戦争、貧困や餓死。今の世界には様々な問題がありますが、ただそれを解決しようとしても、それは現象を追い求める「欲」の心であり、混沌を深めるだけとなります。それらの問題を生み出している元の心、人間一人ひとりの姿勢を明らかにし、それを正していくトキ、今ある問題は自ずと消えていくのです。

今日は秋分の日、秋の真ん中です。収穫の秋は、種まきの結果をいただくトキであり、明らかになることで諦めるトキです。自我という「余地」が与えられたことで人間には自ずから「欲」の心が生まれます。それは絶えず続く心の動きです。だから人は、絶えずその心の動きを諦めることで明らかにし、自分と世界の現実と向き合い正していく必要があるのです。その動きが世界に彩りを生み出すと共に調和というバランスをもたらします。

国連総会が開幕しています。国連総会が毎年秋に行われるのは、「欲」の心を明らかにし諦めることの大切さを表しているようにも思えます。

そして、このブログを立ち上げたのも秋分の日、今日で丸4年となりました。秋分の日に立ち上げたのはたまたまですが、今思うと、このブログを通して表現し、自ら実践することも、「欲」の心を明らかにし諦めることにあります。それは最初に意図したこと(木の花の経済について書く)とは全く違うことですが、物事は自らの意図を超えたところで動いていきます。ブログ4年目、「よ」、混沌、「欲」の年を終えてそのことに気づきました。

今、世界は諦めることで明らかにするトキと迎えています。





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願いは「欲」であり、願いが叶わない状況というのは、自分の思考という「余地」から「欲」が生まれている状況で、それを諦めることで明らかにし、自分を正すことが心磨きであり、自分を高めるのです。要は、天の流れに沿わない願いはすべて、自我の思考が生み出す「余地」であり余計なものなのです。それをそぎ落とす過程が学びであり、自分を高めていくのです。その結果、出会う出来事は変化していくのですが、それは必ずしも願いが叶うことを意味しているわけではありません。

価値あるものは、大切なのは、あらゆる囚われから自由となることであり、現象はなんでもいいのです。

ずっと叶わない願いがある。

それは自分が誰よりも心磨きが出来ていない証なのではないか?
叶わない願いを前にして、それをなしにするのは、逃げなのではないか?

そんな考えが浮かんできたのですが、願いが叶うか叶わないかは現世的な評価で、そんなことはどうでもよくて、願いを持っていてもなくなってもそれもどうでもよくて、ただただ自分の思考や感情が生み出す「余地」を見通し続け、それと向き合い続け、自分を高めていく。ただそれだけなのです。

ずっと叶わない願いがある。

それはそれだけ自分にそぎ落とす要素があるということであり、それだけ学びがあり、自分を高めることが出来るということであり、だからこそ、僕には生きる意味と価値があるのです。

今日はみずかめ座新月です。みずかめ座は客観的視点を司る星座。僕は、自分の願いがこれまで生み出してきた全体の構造を見通し、そして、それを3月7日、僕の44歳の誕生日である魚座新月へと繋げ、世界へと溶かし天へと還していきます。

ずっと叶わない願いがあった。

だからこそ僕の人生には意味と価値があるのです。



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